冷艶素香

現ES21がいろんな人達から愛されていたり、割れ顎の堅物侍を巡って、藤と金の人外魔境神未満ズが火花を散らしたりしてます。

爪紅

2006年07月23日 | 大奥(赤羽×瀬那)
ビィン、ビビィィィン!

琵琶の張り詰めた豊かな音が夜気を切り裂く。

ビン、ビン、ビィィン!

激しくも美しいその音色はしかし、彼の心を代弁するかのように、どこか虚ろで
あった。

ビィン、ビィン、ビン……

何も憂うことなく、何にも囚われることなく、ただ無心にこの楽器を爪弾けた昔─
「瀬那」を知らなかったあの頃に戻れたなら、どんなにいいだろう?

ビンビンビィィィン……

だが彼に会う前の自分は、本当の意味で「生きて」はいなかった。今更生ける屍
に戻れようか。

小さな両手一杯に摘んできた、自身の化身のように可憐な野の花を、頬を林檎の
ように染めて、おずおずと差し出してくれた「瀬那」。

「御台様は本当にお綺麗ですね」
「御台様の御髪(おぐし)はまるで紅い絹糸みたいだ」
「御台様の紅玉のように美しい双眸を見ていると、いっそ吸い込まれてしまいたい」


この東の都に降嫁する前、まだ故郷の西の都にいた頃、数多の公達から贈られた
教養溢れる和歌や、※室咲き(むろざき)の貴重な花々、秘蔵の香を焚き染めた扇、
雅やかな模様の※綸子(りんず)のように、優雅な求愛では断じて無かった。
無粋極まりない直接的な物言い。
けれど、それまでで一番、心に沁みて嬉しく感じたのもまた事実だった。
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“蛭魔局(ひるまのつぼね)様には及びもないが、せめてなりたや将軍様に”

城下ではこんな諷刺が流行るほど、幕政にまで絶大な影響力を及ぼす大奥総取締、
蛭魔によって、御台所・赤羽宮隼人と「瀬那」の穏やかな日々はある日、唐突に終わ
りを告げた。

「蛭魔様、お待ち下さいませ!御台様は今宵、既に※お静まりと申し上げた筈…!」
「さ、先触れも無しに来る…じゃなくて、いらっしゃるなんてスマートじゃな…洗練されて
ませんよ!」

御台所以外に「瀬那」のことを知っている二人、山里の丸を取り仕切る※老女の職
にある樹理と、※奥小姓の佐々木光太郎が必死で止めるのをものともせず、蛭魔は
遠慮無しに縁側へと続く障子を開いた。

ダン!

「なっ……!!!」
「ひるま、さ……」
驚愕に目を見開く御台所と「瀬那」の二人に冷たい一瞥をくれると、音も無く蛭魔は
平伏して一礼し、居住まいを正して慇懃無礼に言葉の矢を放った。

「上様、ご老中方が何やら火急のご用件とて、お目通りを願うておりまする。急ぎ、
中奥へ……」

上様?蛭魔は何を言っているんだ?

「御台様に於かれましては夜半、お寛ぎのところをお妨げ致しまして誠に相申し訳
御座いませぬ。なれど政(まつりごと)の大事、大奥総取締たるこの蛭魔に一言の
お知らせも無く上様を※御座所(ござしょ)にお招き出来る程にご聡明な御台様には、
必ずやご諒承戴けるものと存じまする」

完全に己の勢力下にある大奥に於いては傍若無人に振舞い、暴言と悪態の限り
を尽くしていると評判の蛭魔も、さすがに主君とその正室、及び別御殿の第三者達
数多いる中では、上辺だけとはいえ、さも恐縮したような声音と表情で御台所の
理解を乞うた。もっとも、言葉に棘と皮肉をたっぷりと効かせるのを決して忘れない
のが、蛭魔の蛭魔たる所以である。

「一体、何を……」

訳が分からない、まったくもって。※お上(おかみ)が一体どこにいると言うんだ?
一度もこの山里の丸をおとのうたことの無い男が?

御台所が柳眉を顰め、端麗な唇から無礼を叱責する言葉を放とうとした時。
傍らから、か細い声がした。

「すぐ、行きます……」

瀬那?一体どうしたというんだ?

「では私はこれにて……」
裾裁きも鮮やかに、悠々と退出する蛭魔。その衣擦れの音さえもが勝ち誇っている
ようで憎らしい。だが今はそれよりもまず、瀬那だ。
瀬那が……お上だって?
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「御台様は上様がお嫌いですか?」
「ああ、嫌いだ」
「どうして?」
「もとを正せば先代※公方(くぼう)の山ほどいた庶子の一人に過ぎず、しかも
これといって見るべき所があったとも聞いていない。生母は町医の娘が行儀見習い
のために、患者であった貧乏※御家人を仮親として大奥奉公に上がったのを、先代
が一夜の戯れに伽を命じ、その後は一顧だにしなかったというじゃないか。蛭魔の
後押しが無ければ一生冷飯食いだっただろうし、あれに目をつけられたのは御しや
すいと思われたからだ。下賎な町方の血筋に加えての非力と無能、僕の音楽性と
は一点たりとも交わる所が無い。」

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過ぎし日のやりとりを思い出し、項垂れた瀬那をじっと見つめると、途切れ途切れに
彼は事情を語り始めた。

「嘘をついていてごめんなさい……でも、本当のことを言ったらきっと嫌がられると
思って……婚儀の日に初めてあなたを見て、何て綺麗な人だろうって……こんな
綺麗な人が僕の御台所になってくれるなんて、信じられなかった……でも、すごく
嬉しくて……だけど、あなたがっ、この結婚をっ、とても嫌がってるって……っ、知って
からは……っ。それに、僕は蛭魔、さん……のっ、おかげで、将軍になれた……
から、蛭魔さんから、朝廷を勢いづかせてはいけないってっ、言われて、逆らえ、
なくて……っ」

所々に嗚咽の混じった聞き取り辛い言葉。感情が昂っているせいで、天下人の威厳
など欠片も感じられない。悲嘆のあまり、自分が敬語を使ってしまっていることにすら
気付いていない。この弱々しさこそが、恐らく彼の本質なのだろう─先代の御世には
やんごとなき血筋を引く者、或いは大奥高職者を後見に持つ者、才知秀でた者、武芸
の腕優れた者、容貌麗しき者など、光り輝く兄弟姉妹をよそに、もともと小柄なその体
を更に小さく縮こまらせ、広大な城の片隅に、ひっそりと忘れ去られていたであろう筈
の。

胸中の驚きは冷めやらぬも、御台所は泣きじゃくる相手に─彼がこの世に於ける至高
の存在とは未だに信じられなかったが─静かに問うた。

「では、何故……?」
何故、その真の身分と名を伏せてまで、自分を訪ねてきてくれたのかと。

「最初はっ、せめて一目だけでもっ、お近くで、お姿を拝することが出来たらって
……っ、まさか、お声をかけていただけるなんて思わ、なかった、からっ……」

飾り物の将軍。政治上の決裁はすべて蛭魔が行い、自分は裁可の御墨付を与える
だけ。それすらも日中のごく限られた時間のみのことであり、ましてや夜半、中奥の
寝所に入った後は、自分を気にかける者など誰もいない。隣室に控える宿直の者に
さえ気付かれなければ、軽やかな身のこなしと俊足を活かして畳の下の秘密の抜け
道から外へ抜け出て、夢にまで見た美しき人の住居に容易く忍び込めたのだと、彼
は語った。

「………」
目の前で幼子のように泣きじゃくるこの瀬那が、あれほど疎み蔑んでいた夫だった
とは!考えてみれば婚儀の日には目に映るものすべてが厭わしく、隣には一切視線
を向けようとはしなかった。飾り物と陰で侮られる夫には、その手綱をしっかりと握る
蛭魔局のあてがう東の※鄙つ女(ひなつめ)が似合いよと、さっさと大奥を引き払い、
この静かな山里の丸に引き籠った。どうせ飾り物の御台所など、飾り物の将軍以上
に、いてもいなくても同じであろうと。

だが今は違う。この胸を確かな甘い悦びが突き抜ける。

いつものようにつれづれに琵琶を爪弾いていたある日の夜、庭の築山に隠れていた、
寝間着姿の奇妙な童(わらべ)。無聊を託つ身には彼が何者であるかなどはどうでも
よく、森の仔狐はたまた仔狸が変化の術の修行に人里へ降りてきたのかと、戯れに
声をかけてみれば、最初こそ飛び上がって驚いていたものの、自分が言葉を重ねる
度に警戒心が解けてきたのか、そろそろと近寄ってきた。

「瀬那」と名乗るこの小さな妖との出会いは、正しく天恵だった。それからというもの
毎夜、瀬那の語るたわいもない話に耳を傾け、彼の持ってくるささやかな贈り物に
微笑し、彼の望むままに琵琶の音を聞かせてやり、気が付けば夜を心待ちにして
いる自分がいた。

可愛い瀬那。
愛しい瀬那。
この子をいとおしむのに、もはや誰をも憚る必要は無いのだ。
何故なら瀬那は、僕の、※背の君なのだから……。

瀬那を抱きしめようとゆっくりと手を伸ばしたが、僕は失念していた。
驚きが、未だに僕の表情を凍てつかせたままであったということに。

「本当にごめんなさい……もう、二度と煩わせたりはしませんからっ……!!!」

平手打ちをされると怯えた瀬那は、謝罪の言葉を口にすると同時に、目にも止まら
ぬ速さで夜の庭を駆け抜けて行った。

待ってくれ!違う、違うんだ!
伸ばした手が虚しく空を切る。喉がひりついて声が出ない。
感情を素直に表せぬ己のつまらぬ矜恃をあれほど呪わしく思ったことは無かった。
激情のままに行動するなど愚か者のすることと軽蔑していた自分こそが真の愚か
者であったと思い知らされた瞬間だった。
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樹理と光太郎の話によればあの後、僕は気を失って倒れたらしい。その後もしばらく
は床から起き上がることが出来なかった。ようやく床上げをしても、鏡を見れば憔悴し
きった惨めな顔。

瀬那が美しいと言ってくれた髪が、樹理にどれほど梳かせても、艶を失ってゆく。
瀬那が綺麗だと言ってくれた瞳が、紅玉のそれから死んだ魚の目のようになってゆく。
瀬那が好きだと言ってくれた曲を奏でようにも、指が思うように動かない。

当たり前だ、彼が来てくれないのだから。

今なら分かる。将軍を口を極めて悪し様に罵ったあの時、何故、彼が悲しげに瞳を
伏せたのか。

我が身を流れる血は皇統に連なり、学問の素養と諸芸の嗜み─とりわけ琵琶の
腕前は千年来の伝統と格式を受け継ぐものと、徒に思い上がっていた己の驕慢さ
が呪わしい。

「たとえお上と言えど、恐らくは風流も解せぬだろうそのような男と閨を共にする
など、考えるだにおぞましい。叶うことなら一生、この山里の丸をおとのうてほし
くないね。僕には瀬那がいる。夜毎、月明かりの下、瀬那の為に楽を奏で、瀬那
の捧げてくれた花の香に酔う。もはや武蔵野の露として消え果てるのを待つだけ
と思うていたこの身に、よもやこんな安らぎが訪れようとは……」


伸ばした指先に触れた滑らかな頬の感触が忘れられない。

「……たら良かったのに」

ポツリと彼が呟いた一言は、風の音に掻き消されてよく聞こえなかった。
「どうかしたかい?」
「いいえ、何でもないです」


次の瞬間にはニコリと笑い、「今夜はどんな曲を聞かせて下さるんですか?」と、
僕の肩に頭を摺り寄せて甘えてきた彼。

きっとあれが、「幸福」と呼ばれるものだったのだ。
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瀬那が将軍と判明したあの一件の後、御台所である僕が倒れたのをこれ幸いと
ばかり、蛭魔は自分の選んだ者たちを幾人か、「瀬那」─将軍に薦めた。その中
でも幕府開闢(かいびゃく)以前からの家臣であったとして、旗本の中でも相当の
家柄に属する進氏の者が、その精悍な容貌、深い教養に裏打ちされた凛とした
物腰、そして抜きん出た武芸の腕前で、第一の寵愛を得ていると聞く。
その他にも、すらりとした長身で、紺碧の海の色をした鋭気溢れる目が印象的な
※御右筆(ごゆうひつ)や、大奥の各局部屋の飼猫達の世話を一手に引き受けて
いる、眩い金色の髪をした、これまた大柄な※お半下(おはした)─氏素性はとも
かく、その身体頑健さとこぼれんばかりの愛嬌を買われたらしい─が、近々異例
の※お付け替えと昇格で、将軍付き中臈になるとの噂も耳に届いている。
とにかく蛭魔は手段を問わず、何としても将軍に正室のことを忘れさせたいようだ。
近頃では、それほどに西の都の貴種が良いのならと、公家・武者小路家の一粒種
に目を付け、側室としての下向を願う交渉すら始めたらしい。

そしてこれまでの無関心からは一転して、山里の丸に対する蛭魔の監視は厳しく
なった。

瀬那の心の中に僕という存在は、最早一片たりとも残ってはいないのだろうか?
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そして、今。
静寂な夜の庭を見つめながら、僕はぼんやりと琵琶を掻き鳴らしている。
諦めの悪いことだと、自分でも苦笑を禁じ得ない。
もしかしたら瀬那が、ひょっこりと庭の茂みから姿を現すのではないかと、一縷の
望みを捨て切れないでいるのだ。

風に乗って聞こえてくる噂を、まったく意に介していない言えば嘘になる。
むしろ本当は、今にも自分のつまらない矜恃をかなぐり捨てて嫉妬に身を任せ、
喚き散らしながら、部屋中の物を破壊しかねないくらいだ。
だがそんな振舞いは、僕の音楽性に著しく反する。そしてその音楽性は僕に、
大奥へ出向き、背の君たる「お上」の寵を伏して乞うことを絶対に許さない。
しかしこのままの状態が続けば、昔読んだあの、平安期を代表する大長編小説
にしばしば出てくるような生霊(いきすだま)を、もしかすると僕も飛ばして
しまうかもしれない。

「フー………」
皮肉なものだ。葵の上と六条御息所の気持ちが同時に理解出来るようになると
は……。
思わず吐息が零れる。
だが……。

御台所の空虚であった瞳に、突如として小さな焔が点り、揺らめき始める。

天が下(あめがした)、瀬那の隣に座する正当な権利を有するのは、この僕だけだ。
誰であろうと許さない、僕から瀬那を奪おうとする者。
誰にも頭(こうべ)を垂れたりしない。誰の袖にも縋ったりしない。
たとえ瀬那に対しても。
引かぬ、負けぬ。
僕は僕のやり方で、必ずこの腕の中にもう一度、瀬那を取り戻してみせる。

「僕こそが瀬那の正統な配偶者だ……」

決意と共に握り締めた拳に※義甲(ぎこう)が食い込み、流れ出た真紅の血がそれ
を鮮やかに染めた。不吉とも言える色に染まった義甲を外し、御台所は琵琶を弾く
ための作り物の爪の下に隠された本来の爪に、一時だけ見入る。
瀬那がいつぞや摘んできてくれた鳳仙花で染めた、優しい自然の色合い。
華麗な美貌にはやや不釣合いな淡紅色の爪を愛おしげに一撫ですると、御台所は
再び、妖美な義甲を嵌めた。瞳の中の焔が勢いを増し、燃え上がる。

「樹理、降嫁の際に禁裏から祝いの品として下賜された、地が緋色の金襴緞子が
あっただろう?ずっと放っておいたが……あれで新しい※お掻取(おかいどり)を
作る。針女たちには特に念入りに仕立てさせてくれ。出来上がり次第、それに合わ
せた香や扇を決めるが、いつも以上に良い品々を用意しておいてほしい。何なら
長崎にまで舶来品を求めに使者を遣わせ。それと光太郎、お前は大奥の蛭魔に、
来たる※看楓の宴、今年は参加の旨、伝えてこい」

一時は最早回復の見込み無しかと絶望的に思われた主の声に生気が甦り、以前と
同様、※氷輪のように冴え冴えと美しく響くのを聞いた樹理と光太郎は、顔を見合わ
せるも、ようやっと気分転換でもする気になったかと安堵し、己の職務を果たそうと、
いそいそと動き始める。だが、彼らを振り返らなかった御台所の、口元に浮かんだ
凄艶な笑みを一目見たらば、善良で忠実な二人の側近は恐ろしさのあまり、とても
動くどころではなかっただろう。

ビィィィィィン!!!
あまりに強く弾かれたために、琵琶の絃が一本切れる。

紅い月が妖しく輝く今宵、一匹の麗しき夜叉がこの世に産声を上げた……。

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※注釈
室咲き…温室栽培
綸子…絹織物の一種
静まる…寝静まる
老女…侍女頭。年齢は関係無い。
御座所…貴人の居室
お上…上様に同じ。関東と関西で呼称が異なる。
公方…将軍に同じ。
御家人…将軍直属の家臣だが、旗本と違って将軍に直接会うことは出来ない。
鄙つ女…田舎娘
背の君…夫の尊敬語
御右筆…大奥の文書、記録、書簡を司る。能筆でなければならない。
お半下…雑役女中。お末(おすえ)とも。
お付け替え…大奥に於いて、勤める部署の変わること。
お掻取…打掛
看楓の宴…紅葉観賞の宴
義甲…琴や琵琶などの絃楽器を演奏する時、指先に嵌めて絃を弾くのに使う
    爪状の道具。琵琶は日本では撥を用いて演奏されるのが主流で、義甲
    を用いるのは中国や西アジアに多い。
氷輪…月の異称。凍ったように冷たい美しさに満ちたものを指す。

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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2006-07-26 00:21:08
爪紅。すごく好きなんですが・・・続きが楽しみですとか言っても良いですか|ω・)コソ
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