あした天気になあれ♪

日々の出来事・私の想いなどを
少しずつゆっくり書いていければと思ってます。

かっこいい人が良いよね。

2006-09-29 18:56:33 | Weblog
今日の天気は

今朝は朝焼けも見ることができたし、

出勤途中で飛行機雲も見て、ちょっとウキウキ気分で出勤。

朝から診療開始前の準備も済み暫く時間があったので、

看護師3人でちょっとおしゃべり・・・。

なぜか院長の話から、Dr(お医者さん)の話に発展。

Iさん  「田舎にはかっこいいお医者さんはいないよね・・・」

私   「この前佐賀の県立病院に掛かったとき、
     先生がね細面でかっこよかったよ
     最近の若い先生はちゃんと説明してくれるし、
     優しいし、顔もかっこいいし、スポーツも出来るし
     言う事なしだよね」
  

Iさん  「ほんと昔の先生は『ハイ大丈夫です』ってだけで
     説明はよくしてくれないもんね」


私    「今は教育が違ってきているんだよね、きっと・・・。
     顔もかっこよくなってきているしね。」

 
Iさん  「きっといい遺伝情報ばかり貰ってきている人が増えてるのかもね。」

私    「本当に県立病院の先生かっこよかったよ。
     こっちの先生はちょっといまいちだったけど・・・。
     お医者さんは腕が一番だけど腕が同じならば
     かっこいいお医者さんに見てもらった方がいいよね。」


Yさん  「かっこいい先生だったら、ばっと服をあけて診察して貰う

とYさんは服を脱ぐ動作をしながら言い

それを見た3人は爆笑し・・・。

私    「それもいいかも・・・。」

と言う話をしたところで仕事開始になりました。

『本当にOPでどうせ痛い思いをするならば、
OPの辛さもおんなじだし佐賀でOPしようかな・・
そうしたら娘もいるし、かっこいい先生もいるし
毎日楽しみがあっていいのかも・・・』


・・・なんて不純な考えをしてしまいました。

家へ帰って娘から電話があったとき

私  『ねえ・・お母さん佐賀でOPしようかな・・・。
   どうせ痛い思いするんだし、
   かっこいい先生がいると楽しみでいいよね』


娘  『そうだよね、県立病院の先生とってもかっこ良かったよね』

と親子でおバカな会話をしてしまいました。

本当に県立病院の先生かっこよかったんです。

私も娘もタイプだよね・・・と言う感じ。

佐賀では3人の先生に診てもらったんだけど、

3人共に優しくかっこいい先生でした。

特に整形外科の先生は本当に超がいくつもつくくらいにかっこよかった。

またご縁があるといいな~。

半分は佐賀でOPしてもいいかな・・・。

なんて本気で思ってしまいました。









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秋・・・朝焼けを見て・・・

2006-09-29 06:37:25 | Weblog
朝弁当を作り終え朝食の準備も済ませ

ちょっと2階の自分の部屋へと階段を上がる時

階段の窓からふと外を眺めたら

そこには秋の雲が朝焼けに染まり

とても綺麗だった・・・。

綺麗な朝ややけの秋の雲・・・。

静かな中に聞こえてくるかすかな船の音・・・。

『う~ん。いい感じ
 この空はきっと私の大切な人たちのところまで続いているだな・・・。』


・・・なんてひと時の幸せを貰った感じがしました。

『私って単純まっいいか・・・今日も一日頑張ろう』
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この世に生を享けて・・・「争い編」

2006-09-27 19:43:03 | 私の事。
今日の天気は時々

昨日はほんのちょぴり落ち込んだりイラついていたけれど、

今日は心も体も調子良かった・・・。

お昼は相変わらずの舅だけど・・・。

『気にしない気にしない気にしてたらいくつ体があってももたないもんね。』

今日は長女に食料品を送り、ちょっとだけ親ばかをしてしまった。

夕食の準備するときに姑から、

地域医療センターへの紹介状を書いて貰うように

掛かりつけの先生にお願いしてきた・・と聞いたので、

私との話の結果、来週火曜日姑の外科診察

そして検査を外科と整形外科の診察日に

あわせて貰えるようにして欲しいと姑に話しました。

まあ色々と大変だけど、

私が動いたほうがもめ事も起きず良いんだろうね。



この世に生を享けて・・・「争い編」

この世に生を享けてわずか6年間で、

父・母・祖父・祖母・・と悲しい別れを経験し、

6歳まで暖かい愛情の中生活してきたことも忘れてしまう・・・。 

それほど辛い思いをし自問自答の思いの中成長していくのですが、

その原因の一番大きなものが親戚が集まると始まる喧嘩なのです。

小学校・中学校を卒業する頃まで続く10数年間・・・

父・母・祖父母の1周期に始まり7回忌13回忌まで、

父方・母方の姉妹(叔父叔母達)から祖父母の姉妹・・

親戚が沢山集まり法要の後、みんなで食事をするのですが

必ず飲むと始まる母の兄(叔父)と父方の兄弟との喧嘩・・・。

原因は財産の事から、私たちの事までだったようでした。

結局母の兄が帰るまで喧嘩は続くのですが、

法事があるたびに必ずあった喧嘩・・・。

それが原因で、母方父方の親戚は仲たがい・・・。

心も身体も本当に小さく小さくなって家の隅に隠れている・・・。

そんな私でした。

酒を飲んでは喧嘩する・・・。

本当に嫌でした。

いつもこんな事があるたびに、

『何故私は生まれてきたのだろう・・・
私なんかうまれてこなければ良かったのに・・・。
私を産まなければ母も父もまだこの世にいたのかもしれないのに・・・
そうすれば姉も兄達も苦労する事なかったのに・・・。
こんなにいがみ合いを見るくらいならば、
死んでしまいたい・・・。』


そんな事ばかり考えてしまう・・・。

自問自答の日々を繰り返して成長していきました。

考えても答えの出る事のない・・・

それでも考えてしまう・・・。

自分が愛されて育った事さえも忘れてしまう・・・

そんな親戚同士のいがみ合いが私の心を蝕んでいきました。

そんないがみ合いも私が30歳になる頃、

兄が財産相続するまで続いたのですが、

私にとっては財産があって幸せだった事はない・・・。

財産があるがために争いがあり・・。

財産があるがために生活保護ももらえない・・・。

それ故に看護師をしながら育ててくれた姉の苦労が始まる・・・。

財産があるがための苦難の道・・・だったように感じます。

だから私は財産よりもお金よりも、

大切な人たちが健康で幸せに暮らせていければそれでいいのです。

争いだけは避けたい・・・

そんな気持ちは子どもの頃の嫌な体験が引きずっているのです。

争うくらいなら自分の心を押し殺した方がいいと思ってしまいます。


話が長くなったので『争い編』はここでおしまい。

つぎは『大切な姉妹編』へつづく














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朝から・・・。

2006-09-26 17:28:31 | 今週の我が家
今日もいつものように起きお弁当を作り朝ごはんの用意をして、

みんなで朝食を済ませ、後片付けをしていたら・・・。

とうとう姑が自分の大腸ファイバーの事について口を割りました。

姑  「明日眼科に行って、内科のほうから紹介状ば書いてもらおうかい!
   っておもといちゃばってん、あんたは今度は何時病院にいくとな!」


私  「何時って決めてないですよ。婆ちゃんの都合に合わせますから・・。」

姑  「そんなら診察の時連れて行ってもらおかい」

私  「診察の時より大腸ファイバーの時にしないと、
   ポリープの大きさや出血の状態で一泊する事になるかもしれないから
   検査当日のほうがよかでしょう」


姑  「そんなら診察の時はバスで酔い止め飲んでいくで・・・。」

其の時バスよいしたことのない私は、

「そうだったのか・・・自分がバス酔いするから診察の時
も検査の時も私に連れて行って欲しかったんだ・・・」


そう思った私は仕方ないかと思い・・・。

私  「帰りは仕事が終わってから迎えに来てもいいですよ」

とつい言ってしまった・・・。

其の一言に姑は『ほっ・・・』としたのか・・・。

私から遠くにはなれ・・・

「そんならば来月に診察にいこばい・・・」

と一人言を言っていた・・・。

『しまった・・・。この人は本当に自分本位の人だった・・・。』

いつも私の優しさにつけ込む姑・・・。

それでなくても最近は舅とのお昼ご飯にストレス感じていたのに・・・。

『何で私はいつもおバカなんだろう・・・。
自分の態度で自分を苦しめて・・・・。
でも心のこもった『ありがとう』の一言があれば
私の心は救われるのに・・・。
舅の口からも姑の口からも聞いた事はない・・・。』


舅とお昼ご飯のストレスも一言がないだけにストレスを感じるのです。

食べ方の行儀の悪さは年齢的なものとして仕方ないとしても、

『いただきます』『ごちそうさま』

の一言もない!ただ食事を用意すると席について、

黙々と食べ始めるだけ・・・。

せっかく栄養を考えて作っているのに・・・。

姑よりもきちんとお昼を用意しているのに・・・。

『美味しかったよ』がなくてもいいから、

ただ『いただきます』と『ごちそうさま』

くらいいって欲しい・・・。

作る張り合いをなくさないためにも・・・。

こういうことの積み重ねで、

本当に今の生活が嫌になるときがあります。

『いつか爆発する・・・きっと爆発する・・・』

今度の日曜日でもストレス解消にランチしに行くかな・・・。











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秋・・・雑草のように・・・。

2006-09-24 14:15:26 | Weblog
今日の天気は

窓を開けると風も心地よく感じられ、

ちょっと早い枯葉舞う様子を眺めながら、

今日は読書日和です。

コーヒーを飲みながら、

本を読み・・・ときには外を眺めては、

このひと時の幸せを感じ

ステキな一日を過ごしています。




ちょっと早い枯葉舞う・・・。

と言うのは、

この前の台風で塩に弱い植物が枯れてしまったためです。

人が作ったものはもちろん(野菜・植木等)

枯れて来ています。

俗に言う『塩害』です。

この前の台風は雨が少なかった分、風が多量の塩を運びました。

その結果草花が枯れてきているのです。

でも雑草はとても丈夫です。

どんな困難があっても生き続けている・・・。

生命力の強さを感じます。

どんなに踏まれてもまた立ち上がる・・・。

そんな雑草のようになれますように

今日も秋を感じながら一日を過ごします。









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この世に生を享けて・・・「永久の別れ!編..part2」

2006-09-22 20:37:06 | 私の事。
秋の気配を感じながら毎日を生活するこの頃、

日本人に生まれて良かったと感じます。

私の周りも少しずつ動き出し、

明日午前中に姉は退院の運びとなりました。

皆様にはご心配かけ、励ましの言葉沢山いただき

本当にありがとうございました。

今度は姑の大腸ファイバーの予定が入ってくると思いますが、

お彼岸の間姑は体力的に忙しくなるので、

本人が切り出さない限り、私はただ何も言わず待っているだけです。

余計なことを言ってしまうとトラブルの元なので、

姑が大腸ファイバーのことを切り出すのを待ちます。

姑は私が地域医療センターに連れて行くのが当然と思っている・・・。

主人は「私が至れり尽くせりする必要はない!

自分で出来ることは自分でするように・・・・」私に言う

姑に対し冷たい主人と姑の板ばさみになるので、

(私と子供たちにはとても優しい人です)

最終的に私が姑のことはすることになるのだが、

争いの火種は極力最小限に留めたいので、

姑が言葉に出すまでは待つしかないですね。

今からのことはあわてず少しずつ対処していきます。



この世に生を享けて・・・「永久の別れ!編・・part2」


両親と死別して祖父母と兄弟6人での生活が続き、

私が5歳になるまでいつもの日常を過ごしていました。

その頃(昭和40年代、病院に余りかかる事のなかった時代)

田舎には富山の薬売りの方が数ヶ月に一度

訪ねてきては、紙風船などのおもちゃを子供にあげて帰る・・・。

私は子供ながらにとても薬売りの方が来るのを楽しみにしていました。

そしてその日も薬売りの方が訪問し

祖父と楽しくお茶を飲みながら会話が弾んだそうです。

薬売りの人が帰ったその後・・・夕方の事です。

祖父はいつものように食卓に座っていたのですが、

突然吐血をしかえらぬ人となりました。

たぶん大動脈瘤の破裂によるショック死だったと思われます。

祖父の突然の死・・・。

とてもショックな出来事で親戚中ドタバタと大変でした。

(薬売りの人も祖父が亡くなるその前まで話をしていたので

 大変驚かれたと・・・後で聞きました。)

祖父の突然の死に一番打撃を受けたのはもちろん祖母です。

愛する人の死・・・息子・嫁・・・そして今度は自分の夫・・・。

本当に頼る人を次々と亡くしどうしたらいいか途方にくれた事でしょう・・・。

その証拠に祖母は少しずつボケ症状が出てきていました。

精神的ショックがあまりにも大きく祖母も祖父が亡くなり

1年もしないうちに祖父の後を追うようにこの世を去っていきました。

祖母の葬儀には、人の死 を受け入れる事ができていたので

きちんと葬儀に参列し、埋葬するまで祖母のそばを離れることなく

お別れの言葉を心で何回も繰り返していた事を覚えています。

『婆ちゃんかわいがってくれてありがとう!
 婆ちゃんの事は忘れないよ、見守っててね・・・』


祖母が亡くなったのは私が6歳の時、

小さいながらに色々な事を受け入れていたのだと思います。

祖母が亡くなった頃、10歳はなれた2番目の姉(戸籍上では3番目)

は近所の病院で看護師として働いていました。

それから姉妹で暮らしていくのですが、

暫くは両親・祖父母の死により法事が多くなり

色々と大変になり・・・。

その事はまた今度・・・『争い』編へつづく
















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秋の気配。

2006-09-20 16:54:53 | Weblog
今日から彼岸の入りです。

あちらこちらに秋の気配を感じます。

植物はちゃんと季節を知っていて、

この時期になるとちゃんと彼岸花が花開きます。

風が涼しく感じられるようになります。

雲が秋の雲へと変化してきます。

少しずつ山の色も色付きススキも顔を出し・・・

季節が移り変わってきます。

わが町は秋の季節が長くとても過ごしやすく気候的にはいい町です。

こうして季節を感じられる事に感謝をし、

秋の夜長を楽しみたいですね。

心安らかに「秋の気配」を感じながら

時間を大切にしたいと思います。








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「あなたの「癒し」は何ですか?」

2006-09-19 20:18:38 | Weblog
すろぅ らいふさんに刺激されて、久々のトラックバック練習版:に挑戦。

第一は、やっぱり自分の時間を少しでも作る事。

   趣味をしたり、ブログ書いたり、何も考えず「ぼ~」とする時間も 
  
   「癒し」です。

第2は、家族の笑顔。
  
   子ども達の笑顔があり、陽だまりのような日々を過ごせればそれが

   「癒し」です。
   
大切な人と同じ時間を過ごすことが出来ればいいですね。

それが一番の「癒し」なのかな。

出来れば年に2回ほど短時間の自由な時間でなく、

2・3日長いお休みが欲しいです。

旅行にでもいければいいな


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この世に生を享けて・・・『周りの愛情・・編』 

2006-09-18 07:20:15 | 私の事。
やっと台風も過ぎ静かな朝がやってきました。

って・・・家はまだ雨戸をしているので暗闇です。

わが町は大した被害もなかったようで一安心です。

昨日の私と言えば一日中料理三昧でした。

朝食を済ませるとパン作りを開始

出来上がるまで3時間ほど・・・。

いつものように発酵の合間に家事一般をこなし、

昨日のパンは具入りパン・アンパン・ピザパン計20個

それにあんこが残ったので、ぜんざいまで作りました。

『太るもとを沢山・・・きっと太る・・・』

そんな思いでしたが、子ども達と主人が喜んで食べてくれたのでいい事にします。

その後にもらった栗を栗ご飯にしようと・・・

栗の皮むきに1時間・・・疲れました。

夕食の準備も普通にし、本当に料理三昧の一日でした。





この世に生を享けて・・・『周りの愛情!編』

前回の『祖父の厳しさ・・祖母の優しさ』で書いたように

私は祖父といつもの様に山の畑に

リヤカーの荷台で揺られながらあまりの気持ちのよさに眠りの世界へ・・

そこに突然の激痛で目を覚ましたと同時におお泣きしている私がいました。

祖父は私の鳴き声に驚きあわてて車輪から左足をはずしてくれました。

そんな事があって暫く私は立つことも歩くことも出来ずにいて・・・。

「きっと甘えてるだけだよ」

と祖父は自責の念を抑えるように言っていたようです。

それでも一向にたつ事もできない私を見かね・・。

長女のお舅さんが

「立つ事も歩く事もできないのはおかしいから・・・」

と言って病院へ連れて行ってくれました。

そこで左足骨折がわかり治療へと・・・。

暫くそのままにしていたのでお医者様も大変で

骨を元通りにするのに痛くておお泣きしたことを覚えています。    

私の生家から病院へ通うのは大変だと言う事もあり、

暫く姉嫁ぎ先にご厄介になる事になりました。

当時姉のお舅さんは市議会議員を務めていて

とても世話好きの優しい人でした。

私をいつも病院に連れて行ってくれたのも

途中でギブスを切り足浴可能になったら、

毎日温かいお湯に私の足をいれ丁寧にマッサージをしてくれていたのも

姉のお舅さんでした。

優しいお舅さん・おおらかなお姑さん・

当時姉のところには義兄の姉妹もいて本当に大変な中

姉の家族に大切にして貰った事を覚えています。

その後も姉のお舅さんとは縁が深く、

(私たちを育ててくれた2番目の姉は義兄の弟・・次男と結婚)

最後の時を見取った事を覚えています。

とても優しくいろんな方から慕われた人でした。

今私が普通に歩く事ができたのも姉のお舅さんがいたからこそなんです。

『本当にありがとうございました。』

このことを忘れない事が恩返しですね。

その後足も全快し生家に戻っては、

いつものように祖父に怒られ、祖母にかばわれ・・・

の毎日を過ごしていきました。

そんな陽だまりの日常も長く続く事もなく・・・・。

祖父母との別れが来るのですが・・・

それはまた今度『永久の別れ編』パート2へつづく









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立ち止まった先には・・・。

2006-09-16 19:21:44 | Weblog
今日お昼2:00頃になり姉の様子を見に病院へ

今日から一般病棟に移った姉の病室へ行く途中、

新生児室のカーテンが空けてあり、

そこには2人の赤ちゃんが・・・。

男の子と女の子を、ガラス越しに見ることが出来ました。

新生児の家族のための面会時間だったのでしょうね。

姉の様子を見に行くことも忘れ、

立ち止まる事十数分

『赤ちゃんって・・・いいな~。
 もう一人ぐらい産んでもいいかな・・・。
 宝くじでも当たったら挑戦するけどな・・・』


と思いながら赤ちゃんを見ていました。

暫く見ていると姉の部屋のシーツ交換のようだったので、

姉のところへいき、姉を廊下のソファーまで移動するのに付き添い、

(今日からバルーンカテーテルも外れたので歩行可能になりました。)

姉をソファーに座らせたら、

またまた新生児室の前へ・・・・。

シーツ交換が済むまで赤ちゃんを見て・・・。

シーツ交換が終わると姉をベットまで連れて行き、

暫く話をし姉の回復が順調なのを確認して

そしてまたまた新生児室をのぞいて帰路に着きました。


赤ちゃんを見ているだけで癒され・・・。

この手にもう一度赤ちゃんを抱いてみたいな~と思ってしまいました。

まだ産めない歳ではないけれど・・・。

今度はやっぱり孫・・・と言う事になるのかな?

でも自分の子どもと孫は違うのよね。

『すべての赤ちゃんに幸多からんことを願って・・・
 いい世の中になりますように』
  

















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お礼とご報告。

2006-09-14 13:25:05 | Weblog
昨日夕方4:20分頃無事にOPが終了しました。

思ったよりも順調にOPが済み一安心でした。

皆さまにはご心配励ましの言葉沢山頂きありがとうございました。

昨日から朝まで姉に付き添い、

普段どおり家の事も済ませ、

仕事も休む事が出来なかったのできちんとこなしてきました。

今日も今から姉の所へ行き状態を見て

今日の付き添いが必要か判断してきます。

『本当にありがとうございました。もう少し頑張ります。』

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この世に生を享けて・・・『祖父の厳しさ・祖母の優しさ・・編』

2006-09-12 16:25:03 | Weblog
昨日夕方、早めに食事の用意をし食事もそこそこに・・・。

姉のOP前の説明を聞きに行きました。

Drも色々と忙しく、帰ってきたのは夜7:30分過ぎ

それからお風呂に入ったり、お洗濯ものをしたり・・・。

ちょっと疲れ早目の就寝でした。

でもこんな時は、夜間数度起きてしまうのよね




明日はいよいよ姉のOPです。

お昼過ぎに行きOPが終わるのは夕方になるでしょう。

それまで待機室で何があってもいい様に待っていなければいけません。

それから姉の様子次第で、付き添いへ・・・。

明日からは仕事姉の事で忙しくなります。

3・4日は皆さまの所へもお邪魔できそうもありません。  

連休に入り落ち着いたらまたお邪魔したいと思います。



この世に生を享けて・・・・「祖父の厳しさ・祖母の優しさ編」

養女事件もあっけなく終わり生家に帰ってきた私は、

祖父母がなくなるまでのほんの2・3年ではありましたが、

祖父母から「無条件の愛」を貰って育ちました。

私は毎日祖父に連れられて山の畑へ・・。

いつもそばに祖父の姿がありました。

そんなある日いつものように祖父が引くリヤカーの荷台に乗り

いつものように山の畑へ・・・。

昔は道路も土であっちこっちごつごつしていて、

リヤカーの荷台はまるでゆりかごのようでした。

あまりの気持ちのよさに舟をこぐ私・・・。

眠りも深くなろうとした頃、

あまりの激痛で泣き出す私がいました。 

そうです、眠りこけているうちにリヤカーの車輪に左足が絡んでいたのです。

それで、左足骨折 

その事はまた・・・「周りの愛情編にて」

そんな事にもめげず、私の小さい頃はいたずら大好きなおてんばでした。

いつもいたずらしては、祖父に怒られる毎日・・・。

そしてそれをいつも抱いてかばってくれていたのが祖母です。

祖父は私が寂しがり家で甘えん坊のあまりいたずらするのを知っていました。

それでも、

「親のいないこは・・・。」

と世間様から言われないように躾けをきちんとしてくれていたのだと思います。

いつも「親がいないから」・・と言われたくないと

自分の名前・数字・・などまだ4歳前後の私に勉強するように、

ノートと鉛筆を買い与えてくれていました。

とても厳しいけれど無償の愛をくれていた祖父がいつもそばにいました。




いつも祖父のお叱りから守ってくれた祖母・・・。

私は毎日祖母の布団に入っては冷たい足を祖母の足で暖めて貰いながら

祖母の昔話を聞きながら眠るのが大好きでした。

でも祖母の話はなぜか怪談話が多かったような気なします。

今になってもその理由はわかりません。

どんな時も優しかった祖母・・・とても大好きでした。

祖父母の無償の愛で私は愛情豊かな人になれたのだと・・・。



私は、今でも人一倍寂しがりやの甘えん坊である事は変わりません。

ただ上手に甘える事は苦手・・・。

きっとこの頃からだったのでしょうね。

だから甘えさせてくれる大きな心の持ち主が私の理想なのでしょう。

ただいつも大切な人にそばにいて欲しい。

それが私の小さい頃からの願いなのかもしれませんね。


今日も長くなったのでこのへんでお終い。

つぎは「周りの愛情」へつづく
















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この世に生を享けて・・・『幼い記憶!編』

2006-09-10 13:59:52 | 私の事。
今日は、13日のために体力温存。

昨日大量にカレー作ったので、食事もあと少し添えるだけでいいし・・。

ちょっと今日はずるけます。

【この世に生を享けて】・・・「幼い記憶!編」

母が亡くなり、その後の本当に幼い私の記憶です。

母の死もこれから書く事の記憶も動物的本能で感じていた幼い頃の記憶です。


母がなくなったとき長女(一番上の姉とは17歳違います。)は、

すでに結婚し子どもも出産していました。

その姉が家族で実家に帰り、姉妹の面倒を見ようか?

と持ちかけてくれたそうです。

でも、遠い将来財産の事でもめるのを嫌がった祖父母は

義兄の申し出をきっちりと断ったそうです。

まだまだ小さい私を抱え祖父母は私のためにどの道がいいのか・・・。

真剣に考え、私を養女に出す決心をしました。

養女に出す先は、父の妹夫婦(叔母夫婦)・・・。

叔母夫婦は子どもに恵まれず、私を引き取る事を希望していました。

そんな話しが進んでいるのも私は知らず、

ある日の朝、船に乗り姉夫婦とともに叔母夫婦の家へと・・・。

はじめは遊びに連れて行くから・・・。

とだまし、私に悟られないように・・・

私をおいて暫くしたら私に見つからないように帰って行きました。

でも、私は船に乗っているとき気づいていたんです。

多分私は貰われていくんだろう・・・と!

とても不安な気持ちで一杯だった事を覚えています。

夕方になり、やっぱり自分の不安は本物となったのだと気づき・・・。

その日一晩中叔母の家で・・・。

「婆ちゃん、姉ちゃんの所へ帰る・・・」

と泣きわめいていました。

あまり泣き続ける私を見て一晩で

叔母夫婦は私を引き取る事を断念しました。

誰だってこんな時は泣くのは当然ですね。

子犬だって親と話されれば不安で暫くは泣き続けますもんね。

でも泣けたって事は2・3日もすれば、

きっと落ち着き叔母夫婦の子どもになれたと思います。

その時泣く事もできず、そのまま叔母夫婦と暮らしていたら・・・。

きっと心に傷をつけたまま・・・そして育てて貰った恩を感じ・・・。

自分の人生を選択することはできなかったでしょう。

結局泣く私を見て叔母夫婦の子どもを育てる・・・

という覚悟が足りなかったのだと、

実際私も親になってみて初めて思いました。

あっけなく・・養女事件は終わって・・・。

生家へ戻り祖父母と姉妹で暮らしていくのですが・・・。

続きは「祖父の厳しさ・・祖母の優しさ」へ続く・・・。









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この世に生を享けて・・・『永久の別れ!編』

2006-09-08 21:51:30 | 私の事。
ここ数日あまり無理をせず過ごしたおかげで、

膝の調子もよくなりやっと普通に歩けるようになりました。

階段の上り下りはまだちょっと辛いけれど、

本当に後一歩と言ったところまで回復しました。

そして姉のほうも心が落ち着き、

OPへ向って体調を万全に整えている所です。

私も、姉のOPに向けて体調を万全に整えていかなければいけません。

姉は明日から3日間貧血改善のための処置が取られます。

ちょっと体調か崩れるかもしれないのでお昼から姉の所へ

日曜日は私の休養日。(一日お留守番です)

月曜日火曜日は姉の所へ行き様子を見たり、

OP前の説明を義兄の変わりに姉と一緒にDrからの説明を聞きます。

そして13日がOP予定日・・・。

どうかOPが何事もなく無事に終わりますように




【この世に生を享けて】・・・「永久の別れ!編part1」

私がこの世に生を享けて5ヵ月後秋のことです。

その日は町の秋祭り・・・。

父は朝から山の畑にお仕事に出かけ

数時間後気分が悪いと帰宅したそうです。

そうこうしているうちに家の庭先で倒れ・・・

帰らぬ人となりました。

祭り好きの父・・・。

祭りに参加する予定だった父・・・。

死んでもなお祭りを観にあっちこっちへと観に行っていたようです。

  
   父が亡くなったと知らなかった人から

    あっちこっちで父を見たよ!と数人の人がいたほどです。

突然の父の死・・・。

母のショックは大きかったことでしょう。

今の世であれば家を出て子ども達と暮らす・・・・

そんな選択も出来たかもしれませんが、

昭和30年代では叶わぬ事だったに違いありません。

父の突然の死!幼い子ども達を抱え、嫁ぎ先での苦労・・・。

もともと肝機能が悪かった母は、

入退院を繰り返し私が3歳の時帰らぬ人となりました。

母の葬儀の記憶が私の最初の記憶・・・。

棺おけに入れられる母を見て本能で最後の別れを悟った私は

「いや~。かあちゃんをいれないで・・!私も一緒に入る・・。」

と泣きわめいた事を覚えています。

あまりに泣く私を叔母が抱き近所を回ってくれ、

泣き止んだ頃家へ帰るともうそこに母の姿はなかった・・・。

とても悲しい記憶だけれど、とても大切な記憶です。

『人の死』

小さいながらに感じ取った瞬間でした。

これが私の両親との永久の別れです。



長くなったので『永久の別れ・・part1』はここでおしまい。

次は『幼い記憶』へつづく・・・。













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この世に生を享けて・・・「誕生編」

2006-09-06 19:56:13 | 私の事。
今日の天気はのち

ここ数日すっきりとしない日が続いています。

今日はちょっと仕事で疲れ、

ここ2日程あまり眠れていなかったので

ちょっとお昼はダウン・・・

でもこんなときは横になり体を休めても寝付くことも出来ず

ただ体力の回復・心の回復を心がけ何も考えず・・・といった感じです。

ようやく今になりちょっと回復してきたので、

こうやってブログとにらめっこです。

最近私を含め周りが色々とばたばたしていたので、

ブログもその事ばかりでちょっと疲れ気味・・・。

そんな重い記事にも負けす、

本当に皆様には暖かい励ましの言葉を沢山貰い

感謝の心でいっぱいです。

今回の膝の怪我で職場の皆さんからも患者さんからも

優しい言葉をかけてもらい毎日が感謝の連続でした。

おかげさまで、膝の状態もだいぶよくなりました。

本当に皆様ありがとうございました。



【この世に生を享けて】

私がブログを始めようと思ったきっかけ・・・。

少しでも誰かのために・・・・。

そんな心からの事だったように思います。

まあ愚痴ばっかりのブログなのですが、

愚痴をみても、同じような事があるんだな・・・。

と思って頂ければそれでよし!

そう思っているんですが、反対に励ましていただき、

私のほうが感謝しっぱなしですね。

そんな私ですが、この世に生を享けて・・・。

ずーーと、私自身の存在意義を考えながら生きてきました。

ここに来てくださるほとんどの方は、

私の生い立ちはご存知だと思うのですが、

これから私の生い立ちについて、そして私が考えてきた事

これからの事を暫く残していきたいと思います。

まずは、パート1と題して

【誕生編】

ある田舎町のある農家(本家)に6番目の子供として

私は生まれてきました。

上から、女・女(3歳のとき他界)・女・女・男・そして私です。

母は、私を生む前から肝機能が悪く

もう子供を生む事はやめるように言われていましたが、

どうしてもあと一人、男の子が欲しかった両親は

私を生む決心をし自分の命とと引き換えにでも・・・。

という思いで生んでくれました。

しかし、残念な事に生まれたのは女の子・・・。

それでも母と父は最後の子供という事で、

とても可愛がってくれたようです

今まで自分の子供を抱く事のなかった父が私だけは抱いてくれた・・・。

そう聞かされて私は育ちました。

この事だけでも

『生んでくれてありがとう』

と心から言えますね。

ほんとに心から今は亡き両親へ『ありがとう』と感謝の気持ちでいっぱいです。


長くなったので今日はここまで、次は『永久の別れ』・・へ続く・・・。


コメント (10)
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