随縁記

つれづれなるままに、ものの歴史や、社会に対して思いつくことどもを記す

儒教の影響

2005-10-10 10:16:47 | 歴史
李氏朝鮮では、十四世紀末の建国後ほどなく儒教を国教とし仏教を排斥した。
李氏朝鮮では、清を「天朝」と呼び、文明の中心(中華)として敬い、自らは小中華をもって任じ、儒教という文明国であることが誇りでもあった。 
李氏朝鮮は、儒教による身分制秩序の維持と、保守的・権威主義的思想で、五百二十年もの長い命脈を保った。

儒教思想の中心は、礼による社会秩序の維持であり、保守的・権威主義的な家族主義である。家族主義では、長幼の序にうるさく、長老が絶対的権威であり、目上の人が居る前では、許しがなければ物を言うことも許されなかった。
儒教は形式を重んじ、ときには形式そのものでもあった。

親への仕え方、祖先への祭祀、血族の序列や尊卑貴賤という、身分制度を固守すること。そのための形式こそ大切であった。特に李氏朝鮮では、中国よりもこの形式に厳格で、つねに他を論難しつねに自他を正すことが重要であった。
「礼は国の幹なり」で、人倫の秩序を守るための基本であり、上下の差別を重んじ、自他の差を服装や儀礼で装飾化することであった。
すべての行動規範は、先例主義であり保守主義であるから、新しい合理的な言動は許されなかった。 

儒教思想のもたらした保守的権威主義思想は、合理主義と相反する思想であり、儒教的社会秩序の維持は、中国大陸と朝鮮半島に実に長い停滞をもたらす原因となった。
中国や朝鮮半島では、科挙制度で儒教が思想の中心として二十世紀に至るまで支配的な思想でありつづけ、儒教思想か生活に染み込んでいる。

268年続いた清朝の後、近代化を目指した中国では、儒教との戦いが必要だった。
家族主義では、合理的な近代化ができず、毛沢東も孫文も儒教と戦った。それでも、厳然と儒教思想は残っており、儒教抜きには中国人や朝鮮人は語れない。
さて、儒教の日本に於ける影響についてである。
日本での儒教は、宋学(朱子学)として平安・鎌倉時代に輸入されている。
中国大陸や朝鮮半島では、知識階級は貴族と科挙制度による高級官僚のみであった。
しかし、日本では支配者が武士であったこと、仏教の影響カが強かったことなどにより、儒教の影響は限られたものになった。

戦国時代は、実力の世界であり、下克上の世界であり、実力で天下を統一していった織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など、儒教的貴種ではない人々は、儒教などの復古主義、形式主義、礼による社会秩序の維持や保守的・権威主義とは全く無縁であった。
日本は、中華思想で言えば辺境の蕃国であり、儒教の劣等生でもあった。

江戸時代に入って、朱子学はやっと幕府の官学となった。
孔子の思想は、何よりも社会秩序の回復と維持が基本にあり、幕府にとっては都合のよい思想だったのである。
しかし、日本の支配階級で有る武士は人口の一割程度に過ぎず、その他は農工商の庶民であっが、長男以外は家督を継ぐことができず、外に出る必要から読み書き算盤を始め寺子屋で、文字を習い書物を読んだ。
中国や朝鮮では、ごく一部の貴族のみが知識階級であり、残りは無学文盲の民であったのと異なっている。

もっとも数の多い農民の直接管理者は、武士では無く名主、庄家等であったが、彼らは国学の徒で有った。国学(こくがく)は、日本の江戸時代中期に勃興した学問である。
国学は、それまでの「四書五経」をはじめとする、儒教の古典や仏典の研究を中心とする学問傾向を批判し、日本独自の文化・思想、精神世界を、日本の古典や古代史のなかに見出していこうとする学問である。

このように日本では、中国や朝鮮のように、儒教を官学として支配的な思想でありつづけたことがなく、儒教思想が末端まで浸透はしなかった。
このため、儒教のもたらす停滞と縁が薄く、明治維新後の近代化を容易に受け入れることができた。
ただ皮肉なことに、江戸幕府が朱子学を官学にしたことで、明治維新の成立に、朱子学が役立っているといえる。

宋学(朱子学)は、過度に尊皇を説き、大義名分論という色メガネで歴史を観、また理非を超えた宗教的な性格があり、異民族を攘(はらう)という情熱に高い価値をおいたイデオロギーであった。江戸時代末期の朱子学は、尊皇攘夷という単純明快なスローガンによって、国論が統一したことである。そのことによって欧米の植民地になることから免れたのである。

日本に於ける朱子学の最大の効用は、脱藩した勤王志士たちが、かつての藩主という主人を否定するという倫理的な負い目を持たずに済んだことである。
また、諸大名による革命勢力が、将軍を否定することにも、倫理的な負い目を持たずに済んだことであった。
本来、臣たるものが主人を否定するなど、不忠の極みなのだが、「朱子学的尊皇」という超越的価値によって藩主や将軍を否定できたのである。

さらには、幕末に広く唱えられた「一君万民思想」が、維新後の近代化を容易にした。
十二世紀末の宋学(朱子学)が、遙かに時代を超え場所を越えて、十九世紀の日本の近代革命に、その思想が影響を与え、功を示したといえる。
三百年近くも続いた封建制度の徳川幕藩体制を打ち壊し、近代民主主義の国家を作る思想的なエルネギーとなった。

ただ、「一君万民思想」の反面の罪は、昭和期に入り軍部や右翼勢力に利用され、結果として亡国の思想となったことである。
朱子学は、理非を超えた宗教的な空論的正確がつよく、宋に於いて皇帝は、絶対独裁という存在であった。
昭和軍閥が、脾弱な国力を激情的な空論でごまかし、さらに空論で自己肥大させ、やがて
天皇を日本史上空前絶後の絶対独裁的立場に奉り上げた。
さらに軍部は、「統帥権」なるものを振り回して軍部独裁に走り、亡国の道をひた走ったのである。



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