随縁記

つれづれなるままに、ものの歴史や、社会に対して思いつくことどもを記す

紙衣 紙衾(かみこ かみふすま)

2006-08-10 10:09:49 | 紙の話し
和紙の歴史


(六)和紙の多彩な用途


紙衣 紙衾(かみこ かみふすま) 

紙はもともと、麻の衣料のボロを原料として漉き始められたことから考えれば、紙を衣料や寝具として利用しても不思議なことではないが、世界でも珍しい紙の応用例である。
平安中期になると、紙の生産量が飛躍的に増加して、紙の生産コストも低下して、紙の需要も増大し日常生活にも浸透し、さまざまの応用も図られた。丈夫な和紙は、揉んで柔らかくして衣料に応用とすると、想像以上に暖かい。さらに、柿渋や寒天やコンニャクノリなどで加工すると一層丈夫になり、耐水性も増す。
紙衣は、カミキヌ、カミコロモと称され、衣服の代用として使用され、紙衾は夜具として利用された。紙衣は、いつの頃かカミコと呼ばれるようになり、紙子と表記されるようになっている。
天明の頃(1780年代)に書かれた伊勢貞丈の『安斉随筆』に、

「布子、刺子、これらの子の字は、訓をかりて用ふるなり。実は子の字に非ず。衣の字なり。コロモを下略してコと云うなり。源平盛衰記、今昔物語等に、紙子をかみきぬと書きたり。きぬは、衣の字なり。」

とある。
 浄土真宗の開祖、親鸞上人(1173~1262)も紙子を着ていたという句碑が、東本願寺の別荘渉成園に建っている。

「勿体なや 祖師は紙子の九十年」

 とある。書写山円教寺を開いた性空上人は、円融、花山の両上皇がたびたび教えを受けに訪れて有名に成ったが、書写山の性空上人が紙子を愛用していたことが、京都の街なかまで知られていたという。書写山のある播磨の国では、早い時代から優れた製紙技術をもって、大量の和紙を生産しており、正倉院文書にもその名がある。武家になくてはならない紙として杉原紙があるが、これも播磨の杉原で漉かれたものである。紙子は、貧者の使用するものとのイメージが強いが、一方で高度な紙漉きの技術と紙の加工技術を必要としていた。
紙衣を作るには、特に粘り強い紙が必要で、「美濃十文字紙」は漉簀を縦方向だけでなく横方向にも揺する、いわゆる十文字漉きで繊維の絡みが強い。さらに紙衣とするには、柿渋を引いては乾かしを数回行ってから、晴天の日に一夜夜露に晒したものを、足で踏んだり手で揉んだりして柔らかくして用いた。 
 また紙子や紙衾は、戦場を駆ける武将や、旅に放浪する俳人たちが愛好したことはよく知られている。松尾芭蕉(1644~1694)の俳句に、

「いくとせの 寝覚め思へる 紙衾」

とあり、元禄二年(1689)に、美濃の大垣に滞在したときに書いた『紙衾ノ記』には、
「出羽の国の最上といふ所にて、ある人のつくり得させたる也。越路の浦々、山館野亭の枕の上には、二千里の外の月をやどし、・・・・昼はたたみて背中に負ひ、三百余里の険難をわたり、終に頭しろくして美濃の国大垣の府にいたる。なをも心のわびをつぎて、貧者の情をやぶる事なかれと、我をしとふ者にうちくれぬ。」

とある。紙衾は、中に綿や藁などを入れたものも作られ、平安中期から江戸時代に至るまで、庶民なかでも概して貧しい人たちに広く用いられた。