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硯水亭歳時記

千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた

  田中好子、最期のメッセージ!

2011年04月25日 | エッセイ

 

   高村光太郎作 『乙女の祈り』 十和田湖畔にて

 

 

 

   田中好子、最期のメッセージ!

 

 

 今日、東京・青山葬儀所において、元キャンディーズのアイドル、映画女優として大活躍された田中好子(55歳)さんのご葬儀が御座いました。ご葬儀式典の最後にあたり、ご主人であり、故・夏目雅子(享年27歳)さんの実兄でいらっしゃる小達一雄(56歳)さんからサプライズがありました。何と死の直前にある田中好子さんの肉声テープが発表されたのです。お声のトーンは病魔との、20年にわたる最後の闘いといった風で、さすがに弱々しく聞こえましたが、あのいっぱいの優しさに溢れていました。単なる最期のご挨拶だけではなく、今回の大震災の方々への強いメッセージもちゃんと入っていました。亡くなった後のことも書かれてありましたから、私も胸いっぱいになって仕方がなかったです。ご主人は六本木の、由緒ある徳川家の御典医のお家柄出(薬草園として貰い受けていたため六本木へ=亀甲屋さん)らしく、気丈に涙ひとつ見せることなく、乳癌でこの21日に逝かれた奥さん・スーちゃんの報告を記者会見で淡々とされていました。偉いなぁとテレビを観ながら思っていたものですが、このテープの音声が会場いっぱいに溢れると、彼は天に向けて泣いておられました。夏目雅子ひまわり基金や、エイズストップ財団運営や、国立国際医療センターなどでも大活躍されていらっしゃるご主人です(スーちゃんもご一緒で活動す)。きっと今後、乳癌のことでもご活躍なさることでしょう。出来たらお力を落とされることなく、お元気でいらっしゃられることを、心から希望しています。田中好子さんの映画は『黒い雨』がお薦めです。連ドラの『ちゅらさん』も面白かったです。年下の私でしたから、『年下の男の子』などに憧れ、鼻歌で、今でも歌っています。「もうすぐ春ですねぇ~~」と歌った『春一番』だったですか、あの歌も大好きでした。親友で結婚前に逝ってしまわれた義妹・夏目雅子さんの映画は『鬼龍院花子の生涯』や『瀬戸内少年野球団』などが特にいいですが、私は『時代屋の女房』が好きでした。お二人ともまっすぐで清らかで、そして何よりも笑顔がとってもよくお似合いでしたし、多分我が生涯の中でも忘れえぬ御方となりましょう。ご冥福を心から心からお祈り申し上げます。尚、本日会場に肉声で響いた田中好子さんの最期のメッセージを以下にご掲載申し上げます(動画サイトは検索すると直ぐ見つかりますが、ここでは文面だけに留めます)。

 

 

 今日は、田中好子です。

今日は3月29日、東日本大震災から2週間が経ちました。

被災された皆さまのことを思うと心が破裂するように痛み、

ただただ、亡くなられた方々のご冥福をお祈りするばかりです。

 

 私も一生懸命病気と闘ってきましたが、

もしかすると負けてしまうかもしれません。

でもその時は必ず天国で被災された方のお役に立ちたいと思います。

今日お集まりいただいた皆さまにお礼を伝えたくて、

このテープを託します。

 

 キャンディーズでデビューして以来、本当に長い間お世話になりました。

幸せな幸せな人生でした。心の底から感謝しています。

特に蘭さん、美樹さん、有難う!二人が大好きでした。

映画にもっと出たかった。テレビでもっと演じたかった。

もっともっと女優を続けたかった。

  

 お礼の言葉をいつまでもいつまでも皆さまに伝えたいのですが、

息苦しくなってきました。いつの日か、妹・夏目雅子のように、

支えて下さった皆さまに、社会に、

少しでも恩返しできるように復活したいと思っています。


 かずさんよろしくね。その日までさようなら!

 

 (4月25日、スーちゃんのご本葬にて発表さる。ブルーの字にしたのは

ご出棺の際、お見送りなされたファンの皆さんの投げた紙テープの色が

ブルーであり、キャンディース時代も彼女の象徴の色でしたから)

 


  初めてキミが泣いた日

2011年04月21日 | エッセイ

現在 花盛りの三春の瀧櫻

 

 

初めてキミが泣いた日

 

十三時間をかけてやっとこさ岩手入り。

それから三班に分かれて被災地へ。テレビで見るより遥かに凄まじき瓦礫の山。

塾生と別れて、私一人先に南三陸町のあの子のもとへ。

避難所でも元気いっぱいなあの子の立ち居振る舞い。

ご両親は未だに行方不明で、然も家があった処には何一つないが、

やっと火葬出来た四柱のご遺骨だけが、避難所の目立たぬ場所にそっと置かれていた。

これまで志津川中学の先輩後輩の子たちと炊き出しや、水汲みや、やることだらけで、

殆ど毎日が張り詰めていたのだろう。私が優しくハグすると、やっと涙が溢れたという。

泣きたくたって泣けなかったのかと、私もオイオイと貰い泣きす。

 

後からやってきた塾生に、彼は「ゥン、大丈夫だから」と笑い合って話していた。

そしてご遺骨を役場の方に一時依頼すると、私が説明し、私たちと団体行動を開始す。

日本ユニセフ協会とともに。或いは各自治体のボランティアセンターであなたも!

我が職員を付け、塾生たちはあちこちに散らばり、子供たちと遊ぶボランティア。

お絵描き、サッカーなど、やれる遊びは何でも。小さい子まで混じってきた。

 

二戸の南部美人の酒造元で、岩手で花見をやることを聞きつけ、

陸前高田ではどうかと思っていたら、本堂は流されたが、末寺は無事。

咲き始めた櫻のもとで花見会をやりたいのだがと言う。

ただ残念かな、銘酒酔仙の酒造元が跡形もなく、地元のお酒でと言う声に、

急遽、山形の酒屋さんまで出向き、数本の「酔仙」を調達しお届けする。

成田山金剛寺で、この17日に供養会とともに花見の宴。

被災者の皆さんの賑やかな声がいつまでも耳に残って離れない。

 

  •  昭和六年八月から九月にかけて高村光太郎は三陸沿岸を約一ヶ月かけて歩きまわった。智恵子と一緒になって初の長期出張であったが、智恵子の精神に異常が起きたのは実はこの時期であった。時事新報社からの依頼の旅であり、挿絵も光太郎が描き、美しい三陸の様子が生き生きとして描かれてある。十月三日発行に「一 石巻」が登場し、十月二十七日「十 宮古行」で終わっている紀行文である。智恵子は昭和十三年十月五日でその生涯を終えるまで、一層智恵子に対する深い愛情が交錯していたはず。智恵子の死後、戦争に加担するような詩篇を発表するのだが、終戦の年、東京大空襲によってあらゆる作品を失い、茫然自失となった光太郎は花巻の宮沢賢治をたのみに、花巻に移住する。無論賢治亡き後のことで、実弟清六さんを頼ったものだが、間もなく宮沢家も戦災により消失し、その後酸性土壌でどうしようもない山口に移住し、小さな山荘を建て、最晩年の七年間を独居す。青森県の依頼を受け、十和田湖畔に立つ「乙女の祈り」を完成させる為、友人宅のある東京・高円寺に移り、渾身のパワーを使って完成させ、湖畔で除幕式を行った後、大量の吐血をし亡くなってしまう(正確には二年後)。光太郎と岩手県は切っても切れない関係である。それにしてもあの時描かれた美しい三陸はもう灰燼に帰し、跡形もなく消えてしまったのである。
  •  私は数十人の知り合いを各避難所巡りで見付け、一人一人と個別に戸外に出て話し合った。東北人は辛抱強い方々ばかりだが、こんなに長期に及ぶ集団避難生活に、自分より惨い体験をされている人が多いからと言って、ストレスになるような話や、殆どメランコリーな話は出来ないんだと口々に言っていた。私はただただ聞く一方しか出来なかったが、私のような部外者にはきっと言い易いのだろう。トコトンお話を伺うことに徹した。一人で二時間に及ぶこともあったが、哀しみの内包する中に、真の強さをしたたかに知らされた思いがしたのも確かだ。吐くだけ吐けば、後は故郷への思いの丈と、明日への断固たる決意だけ、ふと見ると倒れ掛けた櫻にも花が咲きかけていた。
  •  今回の災害で最も酷い被害は宮城県であった。死者も行方不明者も他県を圧倒する。俳人・長谷川櫂さんはこの大地震の日から俳句ではなく、何と七々がつく短歌119首を一気に詠まれたと言う。中央公論新社から刊行されるようだが、櫂さんの短歌「かりそめに死者二万人などといふなかれ親あり子ありはらからあるを」を宮城県の方々へお捧げ申し上げたいものだ。五月一日に満開になると言う弘前城の櫻。「人々の嘆きみちみちるみちのくを心してゆけ櫻前線」(長谷川櫂)とも結んでおこう。そう言えば陸奥の高台で今か今かと待っていた櫻たちも今や咲き、どんな思いで人々はこれを見たことだろう。
  •  携えて行ったたった700本の山櫻の苗木は土地土地の子供たちと植樹して歩いた。屈託がないこの子たちが成長した時、山櫻もきっと大きく成長していることだろう。我が塾生のあの子を中心に東太平洋沿岸に、来年の初春から植樹出来るだろうか。あの子の輪(=和)が皆それを真剣に願っている。

 

瀧櫻アップ 樹齢千年の江戸彼岸の枝垂れ 町には他にも有名な櫻の数々が!

 

震災地でのボランティアは始まったばかりで、これからが本番。

長く遠い道のりとなるだろう。ボランティアの仕事はどんなこともある。私たちも又行くだろう。

18日に、四重苦で苦しんでいる福島県へ全員集合。三春の瀧櫻を鑑賞し帰参す。

満開は日曜日頃だろうか。風評被害のダメージが酷い福島県よ、この花とともにあれ!

たったの一週間で終え、夜中眠れずヘトヘトになった私たちは、皆でしばしお休み!

自治体の皆さまの疲れは恐らくピークでしょう。是非又お邪魔させて下さりたく。

 

たった一本だけ残った高田の松原の松 (復興へのシンボルか)

毎年海水浴客で賑わう陸前高田の2キロにわたる美しい松原の海岸 無残!

この松ノ木のように辛抱強くお元気な皆さまでも きっと多くのストレスが!!

 


  あの日に帰りたい!

2011年04月11日 | エッセイ

がんばっぺぇと 笑顔で叫ぶ赤沼ヨシ(93歳)さん

 

 

あの日に帰りたい!

 

宮古・田老地区はギネスブックに記載されているように、

10メートルを超える高い防潮堤を、二重三重にしていたのに、

軽々と大津波は飛び越えて、田老地区も大被災地となった。

その避難所に、赤沼ヨシ(93歳)がいる。

こういう非常時には、お年寄りは確かで頼り甲斐がある。

ややもすると不潔で陰惨になりがちな集団避難所で、

このヨシさん一人が周囲の人々に明るい笑顔を届け、笑かし、

人一倍元気なようだ。アタマが下がる。

 

「あの日に帰りたい」と、お思いの方々がきっと多いことだろう。

今日から始まった塾。帰ってきた子たちは、今日の2時46分の、

一ヶ月黙祷の時間を待たずに、どうしてもボランティアに行きたいと口々に言う。

私たち職員はきっとそう言うに違いないと、密かにしっかり準備を進めていた。

明日から、被災した仲間がいる南三陸町を始め、

宮古と陸前高田の三班に分かれ、ボランティアに出て行く。

無論自己完結型だから、約一週間の予定。

私も皆と一緒に、バスに同乗して行く。

 

私たちはモノを渡す為だけではなく、手と手を繋ぎあってくるだろう。

何かしなければいられない、我が塾生を誇らしく頼もしく思う。

今夕も激しい余震があったが、譬え高速道路は駄目であっても、

どんなことをしてでも、何時間掛かろうが、明朝7時出発!

優しさに溢れ、愛すべき東北魂のあなた方のもとに、

元気が取り柄の私たちが、遅まきながらも行くからね。

 

硯水亭歳時記

 

 


  うす緑の中に櫻満開

2011年04月06日 | エッセイ

 

我が家の庭 櫻満開へ

 

 

   うす緑の中に櫻満開

 

 3;11以降、被災された方々を思う時、どうしても落ち込んでしまいました。痛くて哀しくて悔しくて、どうすることも出来ません。今日、都内に避難された方々のお子さんが、都の小学校に編入され、喜びの顔に満ちていたお顔に、やっとほっとし安堵せずにはいられませんでした。このところ肉親が未だに大勢行方不明であっても、根っから辛抱強いのか、東北の方々に漸く笑顔が見られます。アタマが下がります。妻が行方不明であっても気丈に頑張る市長さんもおられます。防災スピーカーが使えなくなり、一人の老消防団員が大津波が来る知らせる為、火の見櫓にしがみつき半鐘を乱打、濁流に流される瞬間まで打ち続けられたようで、ご遺族はそれが誇りだと胸をはっておられました。消防士のお父さんは責任感が強かったと述壊し、父の死の涙から、僕も将来は消防署に入るんだと言っていた中学生もいました。厳しい気候、やせた土壌、複雑な地形、災害銀座とも言える環境、そんなどんな苦難にも耐え、お互いに助け合い、明るく優しくして頑張っていらっしゃることを強かに知り、都会ではすっかり忘れ去られていた倫理や情感を刻々とテレビで伝えてくれています。東北・関東の方々は古きよき日本人の伝統や心情をたっぷりと伝えて下さって余りあります。

 本日の東京はとてもよいお天気で、一気に櫻が満開になったようです。赤坂サカスの直ぐ脇にある福島・三春産の枝垂れ櫻は既に満開を過ぎ葉櫻になりつつありますが、六本木ヒルズの櫻も、アークヒルズ裏手の櫻坂やスペイン坂の櫻も満開です。飛鳥山も、隅田川の櫻も、外濠公園も三の丸公園の櫻も、日比谷公園も、目黒川櫻並木もほぼ満開です。今朝早く妻と子供たちを自家用車に乗せ、凄いスピードで車窓から見て参りました。久しぶりのドライブに家族は大はしゃぎ。上野恩賜公園では櫻祭りが開催されないようで、静かな散策が行われることを期待しています。千鳥ヶ淵でもライトアップされないようで、都内のどこでも静かな花見になるでしょう。明日、私たち家族はワワンたちをお留守番にして、東大付属小石川植物園で、手作りお弁当を広げ、静かにお花見をしようと存じます。温室前の太白(たいはく)の花はまだでしょうか。

 櫻塾の子供たちは来週やって来ます。高校に入学した子や、農林系の大学に入った子もいます。居心地がいいらしく、このまま寮にいて通学してもいいかと許可を取りにきましたが、無論いいと応えました。ご家庭の事情や自宅から通学希望者が若干出ましたので、寮には約18人の空きが出ました。被災地からしばらく帰って来ない子に、ここに来たい子がいたら、親御さんの正式なお許しを得てお連れしてもいいよと言ってあります。他の被災者の子たちにも同様に告げています。岐阜山中で、杉の木を伐採していた今冬に、地元にいたいと言って林業や農業に従事したいと申し述べた子たちは総勢17名。山形の東根にある拠点(日本海地方への櫻の出荷のため)にも15名ほど、彼らは果樹園も手伝うようですが。そんな事情で半数もの子たちが寮にいなくなりました。でも大半が辞めたわけではありません。進学したい子を阻止する理由がありませんもの。そうして空いた部屋に、今度の震災で孤児になってしまわれた子たちを皆で歓迎したいと活動を始めました

 大震災直後から出張させている職員から嬉しいニュースが入って来ました。三陸地方・宮城県・福島浜通り・茨城県や千葉県には約6,000件もの民俗芸能があるのですが、中間報告として壊滅的な打撃を受けた民俗は殆ど少ないと言うことでした。この調査は四月いっぱい続きます。多分液状化するような埋立地や新興地には祭事が少ないからでもありましょう。堀山(ほりやま=掘削したり埋め立てた土地)は完全に元の固い土壌になるまで、一億数千年も掛かるわけですから、古い行事は地山(じやま=基本的には切土で、盛土していない場所)の地域が多いからでしょう。それでも三陸のどこかにあった貞観11年(西暦869年)の大津波に記念石塔があったようです。千百年前にも同じような大津波があった証拠で、その石碑の写真を撮ったそうです。いみじくも石碑は、今回の津波でも到達しない小高いところにあったとの報告。そう言えば「日本三代実録」に、三陸沖~宮城~福島~茨城に至る長さ推定400キロに及ぶ甚大な被害が暗示され記載されています。本日の新聞では考古学上、縄文時代にも同じようなこの地に大災害があったと書かれてありました。千年に一度はやって来るのでしょうか。それにしてもあの阪神・淡路大地震の、約2,000倍のエネルギーが働いたというのですから、恐ろしいものです。歴史上チリ津波があった時のマグネチュードは9,5で、史上最大マグニチュードだったとか。アラスカやカムチャッカなどで起きた地震も凄いもので、まだ記憶に新しいスマトラ島沖地震では9,1~7,0マグネチュードの大地震が頻発しています。太平洋沿岸部やインド洋沿岸部に多く、原発の本家でもあるフランスでは殆ど地震の記録がありません。そう言えば貞観大津波の5年前の、貞観6年には富士山に大噴火があったようです。大震災の直前には必ず何らかの予兆があるのでしょう。高千穂山系の新燃岳で起きた大噴火はトカラ列島の島々の噴火活動にも多大な影響を及ぼしました。昨年の猛暑、豪雨、そしてこの冬の豪雪はその予兆だったのかも知れません。

 

大好きなスミレの花が咲いているよ 被災地にもきっと咲くことでしょう

 

 今年の櫻はどこか哀しげで、心から浮かれておられません。きっと櫻の花たちは未だに見つかっておられない多くのご遺体にささやかな鎮魂の思いをお届けすることでしょう。今も続く余震で、最近は土浦沖や銚子沖など次第に関東に近くなっています。しかも直下型で、真下からドスンと響いて参ります。けれど妻はどうしてでしょう、あんなに冷静なのは。娘も妻に似ているようですが、私は今もって船に揺られているような気分がしてなりません。そんなわけですから震源地近くの方は未だにきっと物凄い怖い思いをされていることでしょう。

 櫻の花が満開になった機に、私たちは現地の方々や、今日多くあった入学式の子供たちに元気を戴きました。子供たちは天才です。肉親を亡くされたとしても、精一杯笑顔を絶やしていません。そんな光景に、私たちはどんなにいっぱいの元気を貰ったことでしょう。上野恩賜公園内ではパンダが公開されました。私の子供たちも見ることを楽しみにしています。被災者には無料開放しているようで、嬉しい限りです。

 大地震・大津波・大火災、目の前で見る惨状と恐怖はいかばかりであったでしょう。そこと原発によって原子物質の飛散によって、避難された方々はまた格別な問題を抱えています。まさに四重苦でありましょう。20キロから30キロ範囲の老夫婦を訪ねた自衛隊の映像がありました。寝たきりのご主人を置いて、どこにも行きたくないと執拗に語っていた老婦人が特に印象に残っています。見えない敵とご自身で戦っているのでしょうか、或いは諦めなのでしょうか。自主的避難などと中途半端な政府の判断は多くの方々を混乱におとしめました。酪農の方々は愛する牛を放って逃げられません。捨てるしかない原乳、でも毎日搾乳し続けなければならず、心痛思いやられます。

 今日、何故一言も断りなしに豊饒の海へ、強い濃度の放射性物質が入った水を垂れ流したのかと、東電側の勝俣会長に全漁協連から直接猛抗議がありました。そこで枝野官房長官は補償すると即座に記者会見で応えました。農産物に対してもそうですが、果たして本当に仮払い金まで支払えるのでしょうか。具体的なことには一切触れられておりません。いいことづくめ、口から出任せで、言いたい放題言っておいて、いざと言う時にハシゴを外しはしないのでしょうか。鹿野農水大臣も風評被害者に対し補償すると断言していました。どこまで出来るのでしょう、どこからそんな潤沢な財源が出てくるのでしょう。いいチャンスですから、この際バラマキ型(ホラフキ)予算は断じて止めるべきです。そうすれば野党も一緒になれるのですから。官邸にいる友人から毎日連絡が入っています。菅さんは辺り構わず当たり散らしていると。人の上に立つ人は感情的であったりしてはいけません。昔からイラ菅の評判は消えていないのですし、宰相の器ではありません。イラ菅のもと、過去どれだけ多くの秘書が不本意な辞め方をしたのでしょう。私はこんな内閣と心中するわけにはいかないのです。

 どの政党になっても、財政再建を常に目指し、その強いメッセージ性を発していかなかったら、日本の国債の信用はがた落ちになります。ということは日本沈没を意味します。実際に財政再建を目指す政治家でなかったら、今後無用の長物の諸君となりましょう。現状も将来もです。1986年、精錬潔癖な土光敏光さんが臨時行政改革推進審議会の会長を務め行政改革の先頭に立たれました。謹厳実直な人柄と余人の追随を許さない抜群の行動力で、時の中曽根官房長官ですらタジタジでした。あの時赤字国債はたった40兆円台だったはずです。今は桁違いに膨らんでいるのです。たかが300万円程度の議員歳費を一時的にカットしただけでは全く不十分です。ああだこうだと理由をつけ、一議員で歳費を億単位を取っている仕組みは健全ですし、そこに胡坐をかく政治家は消えて欲しいと思っているからです。危機管理能力のない政治家や安全保障意識の薄い政治家は政治家ではありません。今回の地方自治体選挙で、私たちはそうした点に留意し厳選したいものだと思っています。

 

被災者の方々の、気高い魂のような根性スミレと根性ハナニラ 見つけたり

 


 一朶(いちだ)の雲をめざして

2011年04月04日 | エッセイ

 福島原発3号機 破壊された悲惨な状況 豊饒の梅へ 高い放射線が流され続く

 

 

 

   一朶(いちだ)の雲をめざして

 

  •  東日本大震災では地震や津波は想定外のことであったが、原発の問題こそ想定外であった。この事故は単に一国だけの問題にとどまらない。私は原発の専門知識を持っていないが、日々報道によって次第にその全容が見えつつある。でも未だに政府の対応は後手後手となって不信感がつのる。そして戦慄さえおぼえてくるのである。原発について詳細なコメントは差し控えたいが、この問題は明らかに人災である。元設計者に伺ったところ、想定外の地震や津波に対応する設計はそもそもが難しいと、むべに否定された。設計者として何が問題だったのかと問えば、口を汚して多くは語らない。私も建築設計に携わる者の一人として、こんな時は殆どが予算の問題が多く圧し掛かる。原発を推進してきた政府の予算か東電の予算かは判然とはしないが、凡そそんなところであろう。想定を超えてくるのが災害であるはずで、津波の対応は5m、震度はマグニチュード7クラスの設計だというから驚く。如何に貧困で軽薄な設計であったか、悔やんでも悔やみきれない。推進派の産業・事業者や政治家などが中心の施策で、設置される土地の方々や利用者すべて、ひいては人類に対する本意の対応では決してなかった。受け入れた福島県や周辺の市町村は、子孫に禍根を残し、現在どれだけ苦しんでいることだろう。然も永く永く続くのである。
  •  されどエネルギー問題は地球温暖化問題とリンクし、原発の代換え案が必ずしもあるわけではない。経済発展と完全にリンクし、今や経済発展途上国においても原発設置は欠かせない要件の一つとなっている。こんなに人類の科学が目覚しく発展しているのに、安全な原発がないとすれば由々しき問題で、オールジャパンではなく、人類の叡智を結集した事故の収束が待たれるところだろう。東電はヤレユケソレユケで一般家庭にもオール電化を推進してきたが、どんな安全性の裏づけがあってそうしてきたのだろうか。東電は民間企業だけれど、まるで官僚機構のような体質であり、’07年に起きた中越地震における対応の遅れから、当時東電の社長だった勝俣恒久社長は引責辞任せざるを得なかった。ところが今回最後の記者会見に出てきたのは他でもなく、あの時去ったはずの御仁で、役職は会長としてであった。財界では著名な勝俣三兄弟だが、その意味は会長職にあって、院政を執り、東電の経営体質は依然として旧態已然であると如実に表現しているのだろう。民間企業で縦割りの弊害があるなんて信じられないことである。
  •  だが原発で必死になって作業している方々には大いに賞賛し激励申し上げたい。ご家族と水杯を交わして仕事についている。世界から固唾を飲んでみられている。日本の真骨頂を示す絶好機でもある。あの小惑星イトカワ探査機「はやぶさ」の時のように、一進一退しつつ是非とも「とめる」、「ひやす」、「とじこめる」の三原則すべてを成功して戴きたいと祈る気持ちでいっぱいだ。気なるのは東電の下請け・孫受けの方々だけが犠牲にならないことで、戦時中の特攻隊ではあるまいし、逐次被曝の数値を管理しつつ安全確認に留意されお願いしたいものである。既に生成されたプルトニウム(尚3号機はプルトニウム型発電方式)が本体から流れている現状では早くしてというのは過酷なことであるが、冷静になって粛々と作業し、任務を遂行して戴きたいという祈りのみで心は満ちている。でも作業員が休むスペースもままならないことや粗末な食事しか出ない状況は早く改善されて然るべきで、ぜひともご健闘を心から祈りたい。
  •  東京消防庁・横浜消防局・警視庁・海上保安庁・陸海空自衛隊の皆さまにも同様で、そのご苦労を心底から労いたいものだ。永くなるはずで、冷却するだけでも数年は掛かるだろう。あの勝俣会長が廃炉せざるを得ないと偉そうに語った時、廃炉するのに数年どころか、最低50年は掛かることを承知しての会見だったのだろうか。叡智もそうだが、本当に永い身体的闘いが始まったのである。チェルノブイリ原発事故があってから25年が経過したが、廃炉するのに、未だに3,800人もの職員がそこで働いているのである。有名な「石棺」と言われた閉じ込め方法にも多数の亀裂が入って補修に次ぐ補修の連続で、ウクライナ国民の痛みは今更ながら痛感して余りある。
  •  原子炉建屋が水蒸気爆発により顕になった画像を見ると、影響が甚大であるはずで、オバマ政権の原発推進論のもと、海兵隊CBIRF(シーバーフ)全隊員450名のうち、155名の放射能等対処専門部隊がわが国に派遣された。フランスのサルコジ大統領が突如やってきて、一緒に来たのは世界唯一の民間原子力総合企業アレバ社(設計・設置・運営・燃料供給・解体・再処理などすべて一環して運営されている)のCEOアンネ・トベルジョン女史であった。原発反対運動で揺れるドイツからはロボットなどが準備されている。中国から高さ62mもの放水車が活躍している。タイからはガスタービン発電機2基が東電に贈られた。更に震災時の救助隊として韓国や、巨大地震があったばかりのニュージーランドからもやって来た。ケニアでは数少ない豆の支援が申し出られたが、さすがにお断りしたようだ。モルディブでは24時間支援放送をしたと。モンテネグロのJapan(ヤパン)の村では字が同じだと言うだけで、日本への支援金114万円を寄贈するそうである。更にモンゴルでは、孤児院が自分たちの一ヶ月の生活保護費を贈りたいとし、国会議員の歳費から義援金が払われると言う。何と言う友情の輪なのだろうか。中国・広州でもCDの売り上げを義援金にすると言う。香港ではあのジャッキー・チェン氏が中心となって、宮沢賢治の「雨にも負けない」を100名以上のアーティストたちが支援のために歌っていた。ガガやシンディー・ローパーなど著名な歌手や芸能人たちも逸早く支援に乗り出した。無論国内でも況やおやである。まさに驚くべきことばっかりで、こうして世界が一体となり、わが国の国難・非常事態に応援してくれているのである。各国からの支援の輪や、様々な援助の輪は、やっぱり日本がコツコツとODAを率先してやってきた結果なのだろうか。改めてODAの大切さを思い知らされた。
  •  10万6千余人の自衛隊の活躍は話題になっていないが、自衛隊があってよかったとつくづく痛感している。中でも第22普通科連隊は宮城県にあって、災害をモロに受けた部隊だった。隊員には被災者もあったけれど、逸早く航路を復旧し、私たち連隊は郷土の誇りとし、自分のことは二の次、遺体発見に努められた。2回3回で見つからなくても、4~5回捜索すればきっと見つかるかも知れないと言っていた隊員の言葉が印象的である。今回三日間に及んだ「トモダチ作戦」で、自衛隊と米軍によって、358名のご遺体が発見された。海上自衛隊の合言葉は「行こう、待っている人がいる」だと言う。日陰になって大活躍しているのが自衛隊である。
  •  我が家のペットの子犬たちは震災の直前に変な動作をしていた。動物は事前に察知するのだろうか。直後から娘の愛犬トイプードルや息子の愛犬コーギー犬の両方とも震えが三日間止まらなかった。ホッカイロをタオルに包んでやっとこさ震えを止めた。その上その後食欲不振で、下痢もしたりで随分心配したものだった。ペットと言えば家族の一員である。先日海上保安庁の巡視艇によって漂流していたメスの雑種の犬が救われたが、今日飼い主が現れて抱っこされていた。名前はバンと名づけられていた犬だと言うし、その犬の表情のよかったこと、素晴らしい。猫も戻ってきた僅かなニュースもあった。全国からペットに対する援助などによってペットたちは飼い主が現れるのを元気よく待っていることだろう。
  •  東京だって今回の災害に無縁ではない。計画停電で、荒川区と足立区が計画停電区域となった。あの時は我が家の棚も、書斎も大きな打撃を受けた。スーパーに買い物に行っても牛乳や納豆や、最も大切なヨーグルトが買えなくなっている(ヨーグルトは現在自家製にしている)。これでも首都は一時大混乱したものの、このところ漸く落ち着いてきた。我が家では今もテレビは一台だけつけ、灯火も殆どつけていない。待機電源はほぼ消している。そしてこの辺り一帯は計画停電の範囲に入っていないが、被災地を思えば節電に徹底して努力している。寒空の中、避難している方々のことを想像すれば至極当然なことである。更に当家所有のマンションにはジェネレーター(自家発電装置=ガスタービンによる無停電装置~10時間対応)が各ビル地下深くに装置してあり、今日の停電に備えたもので、予算は大変に掛かったものだった。だが今は僅かだけれど1,800世帯分の電気を東電側に供給している。かのNTTはどの局も停電8時間に対応しているが、J・COMの無停電対応は48時間というべらぼうなものだ。ジュピター・テレコムとタイタスが合併して出来た今日のJ・COMは、以前タイタスの初代CEOであるクレイグ・トンプソン氏から相談を受けた時、彼の非常事態時の対応感覚には驚かされたものである。やれば出来ると言うことであろう。荒川区は東京で三本の指に入る税収の多い区であるが、何故計画停電になったか理解出来ない。一人か二人でやっている零細でも優秀で重要な企業が多いのである。心痛にたえない。だからと言う訳ではないが、もし電気がないことだって偶にはいいことで、父や叔母や、家族みんなが近くなったような気がしている。通いつめた岐阜で、和蝋燭をたくさん買い集めていたことが、何かホッとし幅が広がった気がして嬉しい。
  •  やっぱり民主党は危機能力が欠如し不足していた。約半数の党員はみな新人で、いざという時、どうしたらいいか分からないのではないか。人材がまるで不足している。管総理は東電を潰すぞとどやしつけたと言うが、イラ管ではなく、完全にキレてしまったのだろう。彼のあらゆる行動は震災さえ政権延命のパフォーマンスと捉えているようで情けない。カリスマ司令塔がいないのだ。会議や新しい機関だけゴチャゴチャ作って議論だけ先行しているようだが、スピード感がまるきりない。枝野官房長官の「しっかりやる」と日常語は、少なくとも県外移設と声高に言っていた鳩ぽっぽ総理のトラウマが全国民に失せてはいないから、信用に甚だ乏しい。大連立もよしとするが、自民党はどう変わるのか、この際はっきりとさせたほうがよろしいのではないか。復興庁を新設し、復興予算を大幅に作ると言うが、中身が心配である。日銀に吸い込ませるだけ吸い込ませる文言は日本国国債の下落を暗示させ、デフレからインフレへの懸念がここに来て増大している。需要と供給のバランスをどうしたらいいか、全容と全貌が見えていない。またぞろ普天間問題の二の次になるのだろうかと懸念が深まる。この時こそ内需拡大の絶好のチャンスで、円高に輸出中心の企業がどこまで持ち堪えられるか問題であるが、この際徹底して内需拡大を考えるべきである。国債の価値が下落したら、それこそ日本国が破綻しかねない大問題なのであるのだから。
  •  JR西日本も今日から便数を減らしている。福島や茨城に部品工場が散在し、車輌の部品調達に支障をきたしているからで、愈々全国区の災害となったようである。自動車・家電メーカーも支障が出て、十分な生産が出来ていない。東北は首都や大企業の下支えや犠牲になって生きていたことが如何にも分かろうというべきである。それにしても被災者から感謝の声が聞けても、聞くに堪えないような苦情は少ない。世界各国から心配のメールや手紙を、私は約千通も頂戴したが、「日本人の気高さや規律」をほめる文言が多かった。これは東北の方々の、辛抱強さや思い遣りの心に負うところが非常に大きいようだ。このことは、今後日本人がかくあるべきだと暗示しているかのようでもある。中国にも負けない独特の日本人の文化の発信力がそうしているのである。経済活動のキーポイントは日本人しか出来ない精神文化に裏打ちされた優秀な製品を作ることが肝要であるということだ。聊か不謹慎だが、今回の大震災の件で、それを糧として日本は雄雄しく乗り越えて行くことであろう。

 構内で作業するメンバー 頑張れFukushima 50!

(実際の内部の作業員は580~640人)

 

 


  雪花(せっか)と土筆(つくし)と、

2011年03月30日 | エッセイ

 約30年前 当時16歳であった私が 高校の文集に特選された処女作の一部を掲載す

 

 

 

  雪花(愛しき人の死)と土筆(再生)と、

 

 私の16歳は、A高校で過ごしているが、ここは都内で指折りの名門私立校と言われている。中学部の時、突然母を失い、その後父をどんなに恨んだことだろう。八つ当たりしていたのである。年と共にイケナイことをしていたと反省するばかりだが、父はそれをじっと耐え、黙して、父なりの生き方を模索していたのだろう。そんな父の、淋しげな背中をみるにつけ、今度は私自身が独立して、キチンと自我を持たなければならないと痛感していた。得意だった数学を生かして理数系、しかも建築学に進むことになるのだが、 高校二年生の、と或る冬の日、国文の教師から、友人を喪失した現在の心境を書いてみないかと言われ、嫌々ながら書いたことのない私小説めいたアヤフヤな作文を書いたことがあった。現在もその創作が恥ずかしながら校誌に残っている。そんな訳で、母や祖母や友人や、私の十代は生命の喪失感で溢れていた。けれどもそれらをバッサリ振り切り、前向きに生きようと、亡き主人宅へ書生になる為に家を出た。無論学生時代からだったが、それから休むことを一切せず、主人が亡くなるまで必死に走り続けた。今は少々余裕があると言えば嘘になるが、結婚し子供に恵まれ、父と叔母の住む実家に帰って来れた。ささやかだが、望外の幸せと言うべきであろう。下記に、その私小説の冒頭部分を掲載することにする。 

 

  「雪花 (せっか)」 (満16歳の拙い創作)

  冬枯れのからからした東京にめずらしく雪が降った。冬休みに入った許りの十二月二十六日のことで、白い確かな雪に、仄かにも紅色を帯びた庭の山茶花が、暗闇に吸い込まれて行く頃、一通の電報が届いた。小諸のサナトリウムで療養する紀一の所から、急性肺炎の併発で危篤であるという知らせであった。

 夜半の松本行きの電車に乗った。車内の大半は折りしも志賀高原や白馬にでも行くのであろうか、艶やかなセーターを着た楽しそうなスキー客で占められていた。私は、それらの人と一緒になれない気分で、人のいない戸口の一番端の席に座った。また車内には十分な暖房があったのに、どこかの隙間から、冷え冷えとした風が吹き込んで来るのを感じていた。

 私は流れ行く遠くの灯火を眺めながら、夜通し眠れなかった。―――蓼科の私の山荘と、元々小諸の人である紀一の山荘がお隣さんであったことから、二人は小学以来の友人であったが、紀一は私と同じ高校で学びたいと、本校に入って来た。彼の下宿先も当家から程近く、時折わざわざ銭湯まででかけ、学校生活はどんなに楽しいものになっていただろうか。当家に下宿したらどうかと何度も勧めたが、東京に出てきたのは独りになりたかったからだと言い、どうしても同居することを嫌がった。紀一のピュアな精神がそうさせているのだろうと思われた。可笑しなことに、信州訛りの「づら」に苦しんでいる風で、他の級友には容易に口を開こうとしなかった。尤も本校の気風は自由であったから、誰にも虐められることはなかったし、私のように近所出身の同級生は少なかった。多くの級友は関東は無論全国からやって来る。紀一は子供の頃からシェリーやキーツを愛し、驚くほど語学堪能で、イギリス文学には通じていた。いつも何処か不平不満があるような顔をして、私と一緒でない時はオスカー・ワイルドなどを心行くまで堪能しのめり込んでいた。―――そんな彼を、私は息の掛かった暗闇の窓の、小さな数々の灯が流れてゆくのをじっと見詰めながら、寂しい気になってやしないか気掛かりで仕方がなかった。

 東雲時、小淵沢に着いた。南に赤石の山容、そして北より西の方の稜線が伸びているのが八ガ岳で、すっぽり雪に囲まれていた。然しそれらの山々は氷雨に翳んで、茫漠と、おどろおどろとしたモンスターにしか見えなかった。

 この駅で日本一の標高を誇る小海線に乗り換えた。甲斐路から信濃路へ。一路小諸を目指して5両編成の列車は喘いだ。清里を過ぎると一層乗客のいなくなった。車内の客はまばらで、この車外は冷え冷えとして、氷雨に苦しむ荒涼たる原野が続いて見えていた。

 野辺山から一人の若い男が、私の近くの席にポトンと座った。その男はどうしたことか、黒い毛糸のスキー帽を顔までかぶせてうつむいていた。佐久に近くなった頃、左手に僅かにそびえて見える蓼科山の山頂付近をすりつぶすように、その帽子共々顔をこすりつけ、突然咽び泣き始めた。

   曠野行く 小海の汽車よ急げかし 前の男の涙気になる

 その男は間もなく我に帰り、辺り構わず流した涙が恥ずかしかったのか、或いはそこが彼の安住の地なのか、佐久から程近い野沢で降りてしまった。外の氷雨はまだ降り止まなかった。

 浅間も過ぎた。この小海線の車列は、のろのろしながら、激しく氷雨降る小諸の町に着いた。

 

 以上、私が始めて書いた初の私小説「雪花」の書き出しの部分であるが、この後友人の死に立ち会うことになり、何故このような悲惨な出来事が起きたのか、長い回想部分をはさみ、通夜と簡単な葬儀をすることに。そして粛々と亡き友人を穏亡(おんぼ=火葬場にいる火葬管理人)に預け、煙突から見える煙を漠々として見納めている。最後に、友人の母親との別れと、空しい人生の実体験に驚く。年若い私が再び東京へ帰る場面で終わる。全文若き日の私が、一気呵成に書き上げた様子がありありと文章に読み取れ、懐かしいけれど、とっても恥ずかしい。その後このような作文をした経験が全くない。

 愛する人の死は予期せぬ哀しみを増大させる。夕刊を見ると、大震災や、想定外の大津波で亡くなられた方々の人数が書き改められている。たった独りの人の死だって、後年甚大な影響を与えるものなのに、余りにも悲惨な今回の災害は筆舌に尽くし難い。このところ毎日、放映される東日本大地震・大津波災害のニュースと、その事後処理と、驚くべき原発関連ニュースを見て、屈強であるはずの私の心情は爆発しそうになる。多分大方の日本人の心は被災者と同じぐらいに、心痛いことだろう。

 電柱に登って助かった男性は妹の手を離したが故に、愛する妹を激しい濁流に流され亡くしたと自分を責めている。車で逃げる途中、偶々シートベルトが外れず、でも奥さまが脱出できて助かり、ご主人は車ごと、黒い恐ろしい濁流に流され、津波の引き波にも呑まれて逝ってしまったと告白する初老のご婦人。生死の境を分けたその一瞬、溢れるようなそれらたくさんのニュースによって、生と死の境はまさに紙一重だということがまざまざと理解出来る。ドラマ以上の現実がそこにはいっぱい満ちている。そして多くの方々の死亡数を読み、最低でもその数以上の、それぞれのストーリーで紡がれる多くの哀しみがあるはずだろうことを想う。南の沖縄まで、日本人すべてが大きな喪失感と、或いはパニック症候群になりそうな状況ではないだろうか。火葬出来た方は未だ幸いかも知れない。が、ご遺族に確認されることもなく、多くのご遺体が土葬され続けている。

 それでも何とか明るいニュースがない訳ではない。残された者だけで、溢れる涙を堪え、被災者も一緒になって催された幾多の子供たちの卒業式がホッとするニュースである。子供の笑顔は実にいい。釜石市立鵜住居(うのすまい)小学校は全校で350人。最も海岸に近い小学校で、日ごろから津波が来る想定をし訓練していた。合言葉は「おはしも」。「お」は「押さない」の「お」。「は」は「走らない」の「は」。「し」は「喋らない」の「し」。「も」は「戻らない」の「も」。学校の時計は3時20分で止まっていたが、地震と同時に粛々と訓練通りに整然と実行されていた。見事にたった一人の犠牲者も出さずに済んでいる。それでも、高台の避難場所に行って、足許にも津波が押し寄せ、子供たちは臨機応変に対応、更に高い場所へ移動したから全員助かったとのだいう。子供たちの肉親やお身内が犠牲になっているはずなのに、何と言う達成感と明るさなのだろう。何と言うサプライズなのだろう。朝から晩まで暗いニュースだけで絶望しかねないこの頃、この日本沈没の国家存亡の危機に際し、未来を托せるのは、こんな子供たちでしかないかも知れない。「心まで流されないで!」。そういうセンテンスが現在の避難所の合言葉だという。

 以前何度も行ったことのある陸前高田の海岸べりに、高田の松原があった。美しい風景であった。あの松原も全部根こそぎ津波でやられ、但したった一本の松だけは気高く残されているらしい。何かの救いなのであろうか。日々集まってくる瓦礫の中にあった写真や貴重品など、大切な思い出であるはずで、愛するあなたが生きた証。どうにか生きて残ったご遺族の元に帰って欲しいと念じてやまない。一瞬にして何もかもが夢・幻になってしまう、大津波の恐ろしさは津軽・太棹三味線の名手、生前の高橋竹山師から伺っていたが、何もかも想定外のことばかりで、想定外であるからこそ、「天災」と言われる所以なのだろう。

 今回の被災地へ行き、日々読経して放浪していたい衝動を必死に抑えながら、我が家の仏壇や神棚に祈ることしか出来ない悔しさ。特に原発から20キロ圏内の被災地ではご遺体の収容もままなないと言う。何と言う哀しみだろう。書いても書いても書き尽くせないが、私はいずれ私が出来うることをしたいと念じている。どうか被災地の皆さま方、子供たちの笑顔をみて、きっと頑張って下さりませ。東京から、小さな春を!我が家の庭にヒョイと芽を出した土筆の写真を貼り付けましょう。

 広大無辺な日本の神仏に対し、千年にわたる悠久の時間に、いっぱい掛け算して紡いだ愛で溢れて欲しいと祈り、尚一層のご辛抱と、粘り強さと優しさに溢れた東北魂へ、御加護と御智慧が授かりますようにとお祈りを深めたいと存じ上げます。それが、私たち生きているすべての人に、人生の意味を確かに与えてくれることだろうし、亡き愛しき方々もきっと望まれておいでのことであろう。

 

いとしきあなたへ 土筆!


 今年も櫻の花は咲いたけど

2011年03月28日 | エッセイ

小さな雪ダルマ (2011・1・16撮影 我が家で)

 

 

   今年も櫻の花は咲いたけど

 

 東京では本日午前11時、染井吉野の開花が気象庁によって確認され発表されました。靖国神社にある標準木に、五六輪の櫻の花が咲いたのでしょう。平年並みの開花です。我が家の江戸彼岸の花は既に散ろうとしていますが、今年の櫻ほど、浮かれては見られない櫻はございません。

 櫻っ子たちは今月18日から春休みになっていました。お彼岸を前にご実家に帰ってもらって、偶の休暇を存分に楽しんで戴く予定でした。お正月明けから休みなく、勉強に、岐阜山中の人工杉林の伐採に、3年モノの山櫻や江戸彼岸の出荷や、植樹や、選定や接木に、息をもつけないほどの忙しさでありました。残った櫻のお仕事は裏日本地域や東北・北海道地方への搬送だけだったのです。この11日午後2時46分、あの恐ろしい地震がありました。私は彼らの殆どと安行の苗場におりましたが、地面に立っていられないほどの長い長い地震と余震でパニック状態となり、恐怖でいっぱいでした。さっさと作業を止め、三台のバスで宿舎まで帰る途中、更に巨大な津波が襲来したとの驚愕の報に触れ、数人の櫻っ子は慌ててそれぞれの自宅に連絡を取ろうとしましたが、普段携帯電話を持つことを許しておらず、寮(中も棚から落ちたもので散乱していました)に帰着と同時に銘々が電話したのですが、時既に遅く、大抵は通話出来なくて、皆が宿舎で茫然自失となり、更にトーンは拡大して大騒ぎとなりました。この時ほど携帯を持たせるべきだと反省したことがありません。そして時々刻々と入るテレビからの詳細な情報に驚くばかり、どうやら被災地出身の櫻っ子は11名ほど。それらの子たちは慌てて帰ろうとしましたが、1名に付き、一人の職員を同行させ、帰宅ルートの確認と探査をし、満タンにした車でそれぞれの現地に向かわせました。この時の判断は極めて難しいものでありました。大いなる心配と迷いがあったからです。

 大よそ二週間以上経った本日、お陰さまで一名を残して、無事に十名が帰って参りました。家族や親族が亡くなられたのは、結局そのうちの四名でありましたが、南三陸町出身の子だけは、ここに帰って参りません。ご両親・ご兄弟、そして隣地に住んでおられたご曽祖父さま、合計六名の尊い御方々さまたちが、同時に巨大津波に流されたようで、彼の他、ご一家全滅になってしまったようなのです。ご遺体があがったのは一週間ほどして、それはそのうちの四名だけで、彼のご両親さまは未だに行方不明のままです。

 数日経ってから我が職員と彼から詳細な連絡がありました。私は、職員とは詳しく話すことが出来たのですが、彼に代わってからは、ホンの少々だけしか話せませんでした。普段から無口な子で、男子三人兄弟の末っ子、近海漁業を生業にしているお宅の子です。去年の秋に私と話した時に、三陸地方には案外山櫻が少ないから山櫻を植えたいんだぁと、珍しく無邪気に話していた子でした。電話の向こうから、今にもキレそうな小さな声で、でも必死に哀しみを堪えながらだろうか、「今は友達の家族と一緒に小学校の体育館で避難しています。しばらくそちらに帰れませんが、お許しください」と、十六歳の、素直で小さな春。雪や霙が降ったり、まだまだ厳しい北風の中、我が職員は彼に付き切りで一緒になって、それこそちっこいボランティア活動をしていました。もしもあの子がここにいたら、私はしっかり抱きしめてあげたい衝動が尽きません。

 千人単位で死亡者が続いて発表される日がありますが、考えてみますと、その町の総人口から死亡者数と行方不明者数を差し引いてみましても、その倍ぐらいの人がいることは確かなようです。それを「安否不明者」というのですが、独居家庭や、警察署に届出がなく近親者の少ないご家庭など、多分その範疇に入るのでしょう。更に旅行者や外国人などを含めると、まだ全体が把握出来ていないはずです。恐ろしいことです。我が家の子犬たちでさえ三日間は震えが止まりませんでした。無論書庫の本や壁掛けなどにも影響が出ましたが、余震が来ると、子供たちも未だに子犬同様震えています。いつ果てるともないこの甚大な被害に対し、東北の人々は辛抱強く、元来心根の優しい方が多いのです。80歳を過ぎた老女が避難先で、先ず「有難い」と口にし、決して自ら主張することが少ないです。「ただで貰えて勿体ない」と。

 阪神・淡路大地震の際、私たち主従は真っ先にボランティアに駆けつけました。その反省もあり、今回は真っ先に駆けつけることを致しませんでした。あの震災で私たちは、福井県から越前水仙を数多くお届けした記憶が主体たるもので、自己完結(寝る食べる移動するなど自前で出来て初めてボランティアが成立する)出来ないままには迂闊には現地に行けないのです。ボランティアでやってきた人々のお世話や、全国からダンボールにゴチャ混ぜに入った好意の品々を仕分けして過ごした記憶が中心です。多分長く掛かるであろう今回の復旧・復興に対し、私たちは何が出来るかを現在は真摯に考えています。無論、日本赤十字社に個人的にもグループとしても義援金を些少ですが、お贈り申し上げたのですが、まだまだ全く不十分極まりないはずです。いつかは自分自身に降りかかるお話なのですから、お互い様です。あのユニセフから日本の子供たちに学用資金として援助金が出されるのは47年ぶりだそうです。

 「陸前浜の法印神楽」や、獅子踊りや、民俗芸能の宝庫になっている一帯なのですが、どこまで被害を受けられたのか、全く把握出来ていません。10年前に亡くなられた本田安次先生を通して知り合いになった方々も大変に多くいらっしゃる地域です。差し控えて、ご連絡申し上げることは未だにしておりませんが、居ても立ってもいられない気がして堪らなくなって参ります。柳田國男先生の遠野も近いものですから、山伏神樂や番樂の行方も気掛かりです。そして松島の瑞巌寺さんの被害は数箇所の壁にヒビが入った程度らしいですが、詳細はどうなっているのでしょう。数多くの有形・無形の文化財が気になって仕方ありませぬ。本来この20日に、18年ぶりに見られたエクストラ・スーパームーンの素晴らしい大きな満月に祈りたくてなりませんでした。

 櫻の繁忙期につき、長く更新をしておりませんでしたが、今回の世界的な未曾有のわが国の災害に対して申し上げたいことが余りにも多くございます。書きなぐりで恐縮ですが、久方ぶりに更新申し上げましたのは、他でもなく今日東京に櫻の開花宣言が出されたからでもあります。そしてどなたとなくご覧戴いている方々への、このブログのささやかなメッセージでもあります。多少なりと希望に満ちた光が見えますようにと心から祈念し、今年の櫻は鎮魂の花となりますように。櫻の花はまさしく再生の花に他なりませんから。

 

 

我が家の庭に咲いたクロッカスとオオイヌフグリ 春は近いのか 未だ寒し

 

 


 打たぬ心の打たるるはなし

2010年12月28日 | エッセイ

 

一陽来復 (来年はきっといいこと ありさふであんす)

 

 

 

 

 打たぬ心の打たるるはなし

 

 

 若い櫻っ子たちはウキウキして帰省しました。後姿を追い、若いっていいなぁと心底思います。櫻塾の彼らには、入塾当初より遥かに夢が生まれてきたように想われてなりませぬ。アレもコレも閉塞感が漂う中、これはこれでいいのではないかと確信しています。英語力が思いの他付いているようです。同時に国語の読解力も上向き中です。毎月どこかの山林に行くバス旅行も楽しみの一つになっています。これは実地訓練の一つなのですが、それら山林を運営していらっしゃる各地の名人たちの皆さん、彼らの御歳が聊か取っていてもまだまだお元気なご様子、然もちっとも絶望していらっしゃらないご様子で、逆に元気付けられています。お山を孫子の代まで、渡せないような御仁もおいでなのですが、それでも山仕事を楽しんで続けてなされていらっしゃる方が存外多いことは、私たちにとって、大いなる励みになっています。

 塾生は普段の英会話が出来るようになりましたので、来年から計画している世界各地の林業を勉強に行ってもらう予定が御座います。アラスカ、シベリア、フィンランド、ニュージーランド、ブラジル、北米、アイルランドなどその他、各地へ我が職員を引率者にして、少グループごと、原則ホーム・ステイをしながら勉強するものです。無論日本各地への林業の現状把握も怠りなく励んで参りたいと存じています。現在ただ一人の脱落者もなく、彼らは青春真っ只中で元気です。櫻山は禿山に植林すればいいというものではありません。林業全体の問題として、或いは日本人が永い期間、樹々に精霊を祈った日本人のアイデンティテイーとして解釈しておりますから、やることが広大で奥深いものになっています。

 漸く昨日、松飾を終えました。本日は餅つきです。と、言っても、餅っ子にお世話になったり、足りない分は麻布十番のお団子屋さんに搗き立てのお餅を取りに行くだけなのですが、それからが大変、我が家自慢のお手製の蒲鉾造りから色々と。家内も明日からは勉強を休んでくれるみたいで、チビたちにとっては安心なことでしょう。お正月二日目から連日年始客がやって来るようです。父の証言から50人分くらいは必要らしく、家人五人と一緒に、大量に御節料理の手造りが始まりました。今朝も築地市場での買いつけがありましたが、続々と現地調達の直送品も集まり始め、普段は整理整頓が行き届いている我が家の厨房も、俄かに活気づきお祭騒ぎになっています。

 皆さまもきっとお忙しくなることでしょう。特に雪国の方々にはお見舞い申し上げるとともに、どうぞ好い新年をお迎え下さるように、心からお祈り申し上げます。私事、今年は詰まらないことに、ウンザリしながら気遣いましたが、これ以降一切諍いは無用なれば、お他人さまへの批判は控えたいと決めています。新しき年になれば、新しき歳神さまが宿ることでしょう。皆さまにとりましても、どうぞ好いお年をお迎え下さりたく、心底からお祈り申し上げます。有り難う御座いました。尚『櫻灯路』と、本ブログと、『硯水亭歳時記 Ⅱ』の三つのブログで、162万度数のアクセスを頂戴致しました。検索して入られる多くの皆さまにも末尾ではありますが、心から御礼申し上げます。だんだん!!

 

 

忙しくなる折、適当に食べて貰いたく造ったら、

子供たちの顔はクワンクワンの顔になっておりました(笑)

 

 


かくも永き不在に!

2010年10月12日 | エッセイ




(欅の紅葉とキンエノコロ)





 三年以上も、かくも永き不在にも関わらず、

数多くのお方様がこのブログを続けて読んでくださいました。

何と申し上げたらよいのでしょう。心から心から感謝申し上げます。

その間ほとんどMSNのブログで多くの記事を書かせて頂きましたが、

今般あちらさまのリニューアルが根源から変貌するものであり、

個人としてデザインなど、自由に利用することが適わず、

次第にGooブログが懐かしくなってきた次第でした。

元よりこのブログを止める気はなかったのですが、

我が愛する妻のことや、結婚や、二人の子供に恵まれたことなぞ、

実家に帰ったこと、以前の会社を辞し、新たに社団法人にて、

活動の場を広げさせて戴いたこと、様々なことが御座いまして、

まさに今でも駆け足の最中です。

ふつつかな者ですが、どうかご理解を賜り、

今後ともよろしくご指導のほどを御願い申し上げます。



硯水亭歳時記 主人





 ご機嫌よう!

2007年07月13日 | エッセイ

 

 

 

白洲次郎の遺言書

 

 

憧れの白洲次郎の遺言書です

彼のように きっぱりとした潔いい生き方をしたいと存じます

何時か皆様と 新しい櫻山でお逢いすることを楽しみに お約束をして

それでは皆様 ご機嫌よう!

 

 

硯水亭主人

 

 

 

今回が最終稿で 今後このブログは このままとさせて戴きますが

コメント・トラバはすべて事前承認とし コメントは直ぐには表記されませぬ

悪しからずご了承を賜りますよう 御願い申し上げます