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硯水亭歳時記

千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた

 日本人の心の芯へ

2007年07月03日 | エッセイ

 

 

 

 

日本人の心の芯へ

 

 

何故今更民俗学かと申し上げれば 少々長くなるのですが 

今回だけではなく おいおいとお話を進めさせて戴きとう御座います 

実は 私は未だに日本は開発途上の国だと考えています 特に精神的分野で 

尤も私は 昔はよかったなどと言う妄想を 決して持っておりませぬ

多分今の日本が一番いい時期なのでありましょう 

この時代を 皆様と共にご一緒出来る歓びを痛切に感じています

考えて御覧下さい 日本が鎖国を解いてから まだ140年も経っていないのです

ちょんまげ時代から余りにも急速に 死に急ぐように 日本は近代化致しました

事実必然的にはめられたように 戦争を始め そして酷い敗戦を致しました

いえそれらが決して全部が悪いとは思っていないかも知れませんが

必然と結果が 何処かに潜んでいたのでしょう

 

でも欧州各国の民主主義が成熟している多くの国家を観ると 

日本だって500年~1000年掛かっても 全く可笑しくないでしょう

近代国家への道では 日本は焦り過ぎたのです

 

従って様々な矛盾と歪みを生んで来たことも事実で 

多分現在も その多くを内包しているものと思われます

 

いきなりですが 茶道は 武家の美学の頂点でした 

従って侘び寂び数寄の世界だけが 日本の美の代表と殆ど考えにくいです

何故かと言えば 各地に展開するお祭りの大半は 眞逆の美意識のもとにあります

夏祭りで多く行われる飾り物・風流(ふりゅう)系統のお祭りは 

日本人が生んだ紛れもない日本人のそのもののお祭りの美です 

あの極彩色の世界は 何処かの遠い世界のものでしょうか

いいえあれこそが私達の先祖からの伝統と伝承であったでしょう

侘び寂び数寄の世界より 数だけは圧倒していたと思われてなりませぬ

 

つまりこうです 美意識や権力の構造はピラミッド型になっているのです

ピラミッドの頂点においでの方々は 変化の激しい動向を余儀なくされ

殆どの方々は 読み書きが堪能で出来る方々ばかりでした

一方ピラミッドの底辺においては 物凄い多数の方々がいらっしゃっていて

読み書きが難しく 変化することを嫌い習慣・習俗を重んじて生きて来ました

為政者(宗教者や文人もそうでしょう)は 殆どがピラミッドの頂点に立っていて 

底辺にいらっしゃる普通の方々は 永く為政者に支配され続けて参りました

実は そのどちらにも混乱は ずっと続いていたのです 

今始まったことではありません

 

王道を行かないで 姑息な手段の金儲けが絶対的に多く蔓延り

親殺しや子殺しや あってはならない人のせこい犯罪も多い昨今です

どこに信仰心やモラルや公共心が行ってしまったのでしょう

大好きな『鶴瓶の家族に乾杯!』を観ると ほっとするくらいです

 

例えば鬼のことですが 

鬼はピラミッドの頂点にいる方々にとっては 非常に恐れられていました

ところが花祭りや霜月神楽で代表される民間の鬼は

歳の神であり スーパーマンのように強い新鮮な魂を運んで来る鬼です

庶民と為政者の間の美意識の格差は 

安時代以前の御世からあったことで

日本人はずっと混迷を続けて参りました 

あやふやだったかも知れません

 

ところが武家社会が台頭して参りますと 

武家だけの新しい思想信条が当然起きて 武家の美意識が固まりました

一方庶民は 神仏の教えや習慣・習俗を頑なに守って そのモラルと

祭事の決め事が いい意味での信条となって行ったのです

階層・階級に それぞれの歯止めが出来ていたのでしょう

 

儒教の影響もありましたし 朱子学だってありました

元々あった神道や山伏修験の道もあり 佛教の影響は多大だったです

 更に近世では クリスチャンの影響も無視出来ないものになっておりました

様々な影響を受けつつ 日本は独自の文化を構築する為に

各世代によって苦しみ その中でも色鮮やかな文化の華が咲いています

日本人はごちゃ混ぜの中から 新しい価値を見出して行く能力はずば抜けています

それもこれも日本人そのもので その能力はウンと高い人種であります

 

残念ながら 戦後日本人は一切の自信を喪失しました

戦前 戦中の悲惨な状況を見ると 今の北朝鮮を決して笑えません

更に戦後多くのマルキストによって否定された多くの日本文化もあります

まるで明治新政府が推し進めた廃仏棄却のような愚行が目立ってありました

タリバンがバーミアンの遺跡を 一発の爆薬で破壊したようなもので

現実を見ずに イデオロギーに凝り固まった社会・共産主義の主張は 

この地と融合し 根を下ろしたのでありましょうか

 

サッカーの試合では国旗を振り 

卒業式には国旗どころか 国歌さえ歌わないとか

いい大人が先頭に立って 益々混迷の度合いを深めさせていますが 

果たしてそれで平気でいられるのでしょうか 責任があるのでしょうか

 

犯罪における加害者のみ保護され 被害者のご一族は報道に晒され

死刑制度反対論者は どのように事実を捻じ曲げても 卑劣にも

加害者を徹底保護し どこか可笑しくはないんでしょうか

 

ここで私は突如飛躍致しますが 庶民のお祭りの中に 実に豊富に多彩に 

日本人のアイデンテティが籠められているのではないかと

随分以前から 普通に考えられるようになって参りました

年功序列があり 長男が尊重され 祭りの地域には一定の決りがあり

様々な制約があって 決してすべてがいい訳ではありませんが

それがずっと現在までも機能し続けているのですから 驚きです

きちんとしたお祭りがある地域には犯罪は 圧倒的に少ないです

 

あれやこれやを無視しながら 現在教育改革を模索されていますが 

この政府の施策に 果たして百年の大計はあるのでしょうか

美しい日本とは 何が正体なのでありましょうか

 

為政者をいつまでもアテにしないで ここで我々民間の手でだって 

創造的な新しい日本人像を作って行きたくもなります 

様々な混乱に真っ向から挑み 新しい秩序を模索したいです

改めて日本人の心の拠り所を求め 私の場合民俗学に軸足を置きながら

日本人らしい日本人の為の誇りと自信を回復しつつ 模索したいと思うのです

それが櫻山であってもいい お祭りであってもいい 礼儀作法であってもいい

誇り高き日本人で 充分世界に通じる人達が現れて欲しいと願うのです

日本には 世界に通じるたくさんの文化が多く ここにあるのですから 

単に手をこまねいて見ているだけでは 間に合わないでしょう

新しいモラルや伝統や形式や中身を 真に議論をし尽くして

不要な混乱や排他的なことや差別主義や低俗なことや邪悪なことに対し 

手探りながらも 徹底的に反抗して考えて行きたいものだと常々思っています

 

いいえこれは新国粋主義でもなく 新国学でも何でもありません

普通の日本人の常識の研究とでも申し上げておきましょう

 

 

 

 飛躍が甚だ多く 荒っぽい論理で申し訳御座いませぬ 

言いたいことをあらいざらい書きたくなっただけのことで 

ただ趣旨だけは 何とかお汲み取り願えればと存じます

 


 風の野人 白洲次郎

2007年06月26日 | エッセイ

 

 

 

風の野人・白洲次郎

 

 

 

白洲次郎は テレビでも放送になったので 割合ご存知の方が多いだろう

我が主人が尊敬してやまなかった方で 白洲次郎とは最晩年に逢っている

堂々たる体格で 綺麗な白髪の紳士 風格とはこう言うことかと教えられた

白洲と逢った主人は数日の間 しばらく興奮を抑え切れなかった

 

無論『従順ならざる唯一の日本人』とGHQが評価したり

サンフランシスコ講和条約の際 当時の吉田茂が読み上げるステートメントを

初め英語の草案だったが 何を馬鹿なと一喝し ひと晩で長い巻紙の日本語に

書き改めた経緯も知っているし 吉田茂が戦争と同時に英国大使を辞職したのも

白洲次郎は知っていて 妻正子と共に 我は百姓なりと言って鶴川に引越し

あばら家を購入し そこで戦時中は農家を営んだ白洲も又 戦争を馬鹿なことを

はっきりと反対して 吉田茂などと徒党を組んでいた 戦後吉田に請われ

閣外での大活躍も主人は知っていた 憲法草案の火の出るような裂ぱくの交渉も

堕落の象徴のような商工省を 省横断的に新たに通商産業省に一人踏ん張って

立ち上げたのも よく知っている 影の男・ラスプーチンとか 散々悪口を書かれ

或る時ふぅっと風の如く政治の世界から身を引き 東北電力の会長になったことも

彼の生き様の殆どを主人は知っていた だが主人にはたった一つ白洲を

敬愛した理由がある それは豪放磊落な幾多の業績ではなかった

 

白洲次郎の生き方そのものを 主人は何時も凝視していた

それは白洲がケンブリッジ大学に留学していた頃の様々な事情や友人関係や

愛車ヴィンテージ・ベントレーに颯爽と乗って欧州各国への旅行のこともそうだが

所謂カントリー・ジェントルマンと言う生き方に啓蒙されることが多かったからだ

直訳すれば田舎紳士になるだろうが 決してそう言う意味ではない

都市の中心部に住まないで 山奥にもあらず ちょいと離れた里山に居を構え

いざ鎌倉と言う場面で出掛けたり 少々離れた位置から 魑魅魍魎の政治の

世界をじっと凝視し いつでもきちんと批判的にモノを言える紳士のことで

ケンブリッジ時代の親友ロビンの影響が極めて強かったからであった

ロビンはストラッドフォード伯爵の称号を持っていながら 派手な貴族ではなかった

地味なタイプで いつも控え目で 白洲は本当のスノビズムを彼に学んだ

そのスノビズムこそ 白洲が生涯通したことであり 

主人が敬愛した最も大きな理由でもあった

 

スノビズム=スノッブは直訳すれば 俗物と言うことだが 

当時ロビンや白洲達のケンブリッジ大学で流行していたスノッブと言う意味は 

「大学に関係なく大学に自由に出入りする」と言う意味で 靴屋と言う隠語で

貴賎を離れた中に 一本の筋金が通った教養と言うこと指している事でもあった

主人はカントリー・ジェントルマンと言う言葉と響きが大好きであった

人に目立つことは大嫌いで 密かにちゃんとしたことをやるタイプだった

 

白洲を卑近な例で譬えれば 小泉内閣当時の竹中平蔵のような立場で 

それをもっと巨大にして自由裁量で官僚を 各省を横断的に牛耳っていた白洲は 

汲々とした狭量な料簡などでは全くなかった ロビンと生涯に亘る友情関係は

カントリー・ジェントルマンの格好良さと気風の良さを自由に発揮し 国士であった

武士道にも通じる筋目の通ったダンディな男だったのだ

 

主人と白洲は軽井沢ゴルフ倶楽部で逢って 楽しく談笑している

理事長だった白洲は 口煩く様々な逸話を残しているが その口癖が

今日の日本人のゴルフ・マナーを創り上げたと言っても過言ではない

煙草の吸殻を捨てる者があれば 烈火の如く怒り 

誰が自分の大切な庭に吸殻を捨てるのかとガミガミ 

相手が例え誰であろうと 歴代総理は怒鳴られた口であったろう

 

更に白洲は政治・経済の世界を堂々と歩いた人だったにも関わらず

意外にそれらの世界には友人が少なく いつも楽しく談笑出来る方々は

文人墨客が多かったのも 驚きの一つであろう

肩書きなどに納まるような人物では決してなかった

 

現在鶴川の自宅跡は一般公開されている 

蔵と模の間に建てたと言う意味で

白洲の自宅は「無愛想」を引っ掛け『武相荘』と名付けられ 素敵な空間である

白洲次郎の妻は言わずもがな白洲正子で 韋駄天のお正とも呼ばれ

生前何を書くにも 実証を第一にモノ書きに徹した

白洲正子のことは 主人は余り口に出すことはなかったが 主人の趣味と

正子は殆ど近かった所為ではなかろうか そして白洲次郎は妻をこう言う

「ウチの婆さんは偉い 手を抜かずに現地取材をしてから書くから」と

そしていい夫婦でいられるコツはと聞かれ「それは一緒にいないことだよ」と

武相荘には 白洲次郎の遺言書が展示されてある

「葬式無用 戒名不用」 ただそれだけ

 

更に驚くことに 今回から 愛娘の桂子(かつらこ)さん選定によって

白洲賞を始められたことだ 第一回の受賞者は 京都・美山の屋根葺き職人・

中野誠氏である 今後の文化振興の一役になればと 桂子さん頑張れ!

 

 

http://www.buaiso.com/ 武相荘公式ホームページ

 


 摩文仁の風に吹かれて

2007年06月23日 | エッセイ

 

 

 

摩文仁の風に吹かれて

 

沖縄慰霊の日に

 

 

今日は日本人にとって 大変重要な日であります

 戦後62年が経ち あの戦争は最早風化されてしまったのではないでしょうね

世の中挙げて どこもかしこもエロ・グロ・ナンセンスで 平和呆けしている最中

この重要な日を 誰が どんな風に語るのでしょう そして伝えるのでしょうか

沖縄では 全校休校し この記念すべき日を決して忘れようとしていないのに

せめて本土決戦の捨石となり 一坪に四発の爆弾を落とされた沖縄の方々の

壮絶に溢れ来る思いを 日本人の一員として

どうか忘れないで欲しいと言う一念でいっぱいです

 

 昭和20年4月1日 米軍の沖縄本島上陸によって始まった沖縄決戦は

猛烈な爆撃と焦土化させる軍略によって 忽ち沖縄戦線が瓦礫となって崩壊します

最高責任者・第32軍司令官牛島満中将はじめとする司令部の多くが 

この6月23日集団自決致します

従って この日をもって組織的戦闘が終結し 

荒れ果てた沖縄に平和が来たかに見えました

然し中枢部の自決を知らされていない兵士や一般人は 

過酷にも それから二ヶ月余り惨い戦闘が続いたのでした

従って本来 9月7日降伏文書交換の日を持って終結とする方々もおいでです

 

その後 実に29年後の昭和49年に制定された

「沖縄県慰霊の日を定める条例」によって

「我が県が、第二次世界大戦において多くの尊い生命、

財産及び文化的遺産を失つた冷厳な歴史的事実にかんがみ、

これを厳粛に受けとめ、戦争による惨禍が再び起こることのないよう、

人類普遍の願いである恒久の平和を希求するとともに

戦没者の霊を慰めるため(条例第1条)」とされ

6月23日「慰霊の日」と定めるようになって 今日に至っています

 

それ以前の昭和37年から この日には毎年 沖縄県が主催する

沖縄全戦没者慰霊祭が 摩文仁の丘で行なわれ 

23万人以上の沖縄戦犠牲者の遺族やその子孫などが集まり

式典中の正午には 黙祷が捧げられます

 

その沖縄決戦の後 広島・長崎へ投下された原爆のことは

当然日本人であれば 誰もがご存知であろうと思われます

昨年でしたか NHKで偶々放送された番組を観て愕然としたことがあります

原爆を作った一科学者が 広島平和記念公園に来て 被爆者の遺族と逢いました

その時 アメリカ人として原爆投下について罪悪感がないかを遺族が訊ねました

「罪悪感は全くありません 日本が早く降服しなかったのがいけなかった」と

私はそれを見て 愕然とし 戦争とはこんなものかと改めて仰天致しました

 

沖縄は 日本全土のたった0,6%の土地しかありませんが

米軍の75%は 実にこの沖縄に集中しています 沖縄の方々には

未だに大きな犠牲を強い 私達の現在の日本が成り立っているのです

そう言う意味から申し上げても 果たして本当に

日本は独立国家になり得たのでしょうか 沖縄を日本に取り戻せたのでしょうか

沖縄の方々と その多くの苦しみに 果たして連帯しているのでしょうか

もしやどこか余所の国のお話じゃないかと思ってはおりませんでしょうか

 

武器商人と石油の巨大利権が暗黙のうちに 政府を牛耳っているアメリカは

本当に民主国家なのか 歴史の浅いアメリカに黙って追随していいのだろうか

筆者は甚だ疑問に思うところが大なのです さりとて私は左翼ではありません

 

又 涼やかに風が吹く平和の礎(いしじ)がある摩文仁の丘には 

沖縄決戦の象徴的なひめゆりの塔もあります

師範学校現役の若い女性が従軍看護婦として駆り出され そして玉砕致しました

以下の文章は 『ひめゆりの塔の記』に記載されている文言です

 

ひめゆりの塔の記

 
 昭和二十年 三月二十四日島尻郡玉城村港川方面へ米軍の艦砲射撃が始まった。

沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の職員生徒二百九十七名は、

軍命によって看護要員としてただちに南風原陸軍病院の勤務についた。

 
   
 戦闘がはげしくなるにつれて、前線から運ばれる負傷兵の数は激増し病院の壕は

たちまち超満員になり、南風原村一日橋・玉城村糸数にも分室が設けられた。

看護婦・生徒たちは夜昼となく力のかぎりをつくして傷病兵の看護をつづけた。

 

 日本軍の首里撤退もせまった五月二十五日の夜南風原陸軍病院は重傷患者は

壕に残し歩ける患者だけをつれて、手を引き肩をかし砲弾をくぐり、

包帯をちぎって道しるべとしてここ摩文仁村に移動した。

 

 南にくだった後は病院は本部・第一外科・糸数分室・第二外科・第三外科に

分かれて業務を続けた。第三外科は現在のひめゆりの塔の壕にあった。

 

 六月十八日いよいよ米軍がま近にせまり、看護隊は陸軍病院から解散を命ぜられた。

翌十九日第三外科の壕は敵襲を受けガス弾を投げ込まれ地獄絵図と化し、

奇跡的に生き残った五名をのぞき職員生徒四十名は岩に枕を並べた。

軍医・兵・看護婦・炊事婦等二十九名、民間人六名も運命をともにした。

その他の壕にいた職員生徒たちは壕脱出後弾雨の中をさまよい

沖縄最南端の断崖に追い詰められて多く消息をたった。

南風原陸軍病院に勤務した看護要員の全生徒の三分の二がこうして最期をとげたのである。


              
戦争がすんで二人の娘の行方をたずねていた金城和信夫妻によって

第三外科壕がさがしあてられた。真和志村民の協力により昭和二十年四月 七日

最初のひめゆりの塔が建ち、次第に整備された。

ここに沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の職員十六名、

生徒二百八名の戦没者を合祀して白百合のかおりをほこったみ霊の心をうけ、平和の原点とする。

 

乙女らは涙と血とを流してえた体験を地下に埋めたくないと

平和へのさけびを岩肌に刻みながらついに永遠に黙した。

 

口絵写真は 摩文仁の丘に立つ平和の礎(いしじ)です

梅雨も明け 今日も何事もなかったように 爽やかな風が吹いていることでしょう

 

 http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/okinawaireinohi.htm 沖縄慰霊の日・詳細

 

どうか本日正午 せめて黙祷の一つをよろしくお願いしたく!

 

残念なことに 新聞各社は 本日この記事を殆ど書いておりません 

ただ一紙 『琉球新報』のみが 熱く書いておりました 無念です 

午前1130から始まる平和式典に 安倍総理が始めて出席することと 

同時に日本軍が一般民衆の集団自決をさせた事実を認めよと

 


花のさだめにをりふしの

2007年06月18日 | エッセイ

 

 

 

花のさだめにをりふしの

 

本日『海外移住の日』に思うこと

 

 

今日は海外移住の日 何のこっちゃと笑われてしまいそうですが

1908年(明治41年)6月18日 神戸港を出発しブラジルへ

最初の移住者がいらっしゃった記念の日が 今日であると言うことです

158家族 総勢781名がその移民元年の人達で 約2ヵ月後サントス港に到着

以降 どれだけの辛酸を舐め尽くして 生きて来られたのでしょうか

 

明治維新が1868年とすれば 今年2007年で

未だ140年にもなっていないのです つい先日まで丁髷の時代でした

 近代化に 余りにも急ぎすぎ 早く駆け抜けた所為で 

先の戦争のような 国内外で悲惨な悲劇も 数知れず生まれました

明治の先駆者達の時代は 今と正反対で農村には余剰人員が溢れていました

多くの移住政策は その対策が主な原因で ただそれだけのこと

 

ご維新の時から 政治・経済・文化あらゆるものを吸収する必要があって

主に欧州を中心に 海外渡航或いは留学は 明治元年とともに始まりましたが

これはこれでいいのです 凄い迫力で学問も画家も音楽でさえ吸収致しました

 

 一方民間人は 政府の施策で 移民するのは日常茶飯事のことだったのです 

主に南米各地が多く ペルー・チリなど 更にハワイにも多く移住しました

政府に 新天地の甘い夢を煽られ 皆希望に燃えて故国を離れたのでしたが

既に 今や三~四代目の時代になっている現状 

祖国を失くした人々を思い遣るにつけ 

彼等に 労苦の一端を 何一つねぎらうこともなく 

ただ今 私達の日本は平和呆けの真っ最中であります

 

ハワイに移住したり アメリカ本土に移住した人々は 太平洋戦争のただ中

アメリカ政府の施策によって 数箇所の集団収容所に強制収容され 

「ジャップ」と蔑まされ どんなに苦しめられたことでしょうか

 

行き来出来る方はまだいいのですが 行ったきり 帰って来れない方々は

故郷の村祭りのお囃子や花や山や川や海を思い出しながら 死んで行ったのです

私達は どれだけの多くの方々の真面目な労苦の上に成り立っているのでしょうか

 

政府は あの移住元年の方々を記念して 1966年(昭和41年)に

総理府の発案によって 国際協力事業団が制定されました

先人達の汗と涙を この記念日思い起こし 更にグローバルに平和を追求し

宗教も民族も 習慣・習俗も 肌の色さえ しっかりと乗り越え 

すべての方々と がっちり手を携えて行かなければならないのでしょう

そう言う希求こそ 先人の御遺徳に報いる手立てだと思えてなりませぬ

 

 

先人の墓参にかえて せめて届けや日本の花 日光のズミが満開!

薔薇科リンゴ属 ズミの花(酸実とも書く)

 

 


 父の日とユリノキの花

2007年06月17日 | エッセイ

 

 

 

父の日とユリノキの花

 

 

父の日だからと言って 特別なことは何もないけれど・・・・

今父は 自分の妹(叔母)と自宅で何不自由なく 悠々と暮らしている

 

昨日京都から所用でやって来た彼女と彼女の母親と三人で

今朝一番広尾の実家に逢いに行って来た 

いつもそうだが 父は矢鱈と相好を崩し 

彼女達に丁重に挨拶し 逆に恐縮している兄妹

 

どうあっても父も叔母も 私より 彼女に気遣っている

或いは好いてくれているのか 私には一向に構わないで 

朝のお接待をせっせとする二人 

兄妹だから 息もぴったり

 

母がお嫁に来た時に植えたユリノキ

お父さん いつまでも元気でね こっちには未だ早いわよ

今は盛りと咲いていた

 

シャトー・ラトゥール83と 新国立美術館で買ったタイと

頑固でダンディーな父にそれとなく渡す 

そしてもう一人の父 花嫁になるはずの父に

彼女がそれを抱え 9時の新幹線に乗り込む母子

やはりカラ梅雨か 真夏のように ジリジリと照る太陽が真上にある

 


 大回顧展 モネ

2007年06月16日 | エッセイ

 

 

 

大回顧展 モネ

 

 

 

運よく開館前に 新国立美術館の『モネ』展を観に行って参りました

或る協賛会社のお偉方からのお誘いがあったからで

長い行列を作って待つ方々に眞に申し訳ないのですが ズルを致しました

あっちの方にもこっちの方にも 御免なさい 御蔭で静寂の中で観れました

 

モネは 『印象・日の出』から 印象派の立ち上げに絶対的な功績がありました

でも全くそのことは触れず仕舞いで 先を急ぎ 描きたくて仕方がなかったのでしょう

四十を過ぎて ジヴェルニーの庭に立て籠もり 好きなモチーフをトコトン描きました

それから 最晩年に 最期政府との約束で オランジェリーの大壁画に

すべての光を描きました 朝の睡蓮 夕刻の睡蓮 そのオランジャリー美術館が

永いこと改装終えて 現在は漸く再開館しておりますが 

改修に時間が掛かり パリっ子達もその事情はよく知らなかったようです 

オランジェリー美術館の回廊に描かれた睡蓮は 高さ2㍍ 長さ90㍍の大作です

このモネの睡蓮の部屋に入って しばらく静謐なモネの筆致に魅了される筈です

死の直前まで絵筆を離さなかったモネは 果たして本当に幸せだったのでしょうか

 

取り合えず簡単明瞭に 展示順で書かせて戴きたいのです

一章 近代生活に 妻カミーユの絵や日傘の女性がありました

二章 印象・光に 大好きな土地アルジャントゥイユやヴェトゥイユがありました

二章 印象・階調に 冬の景色『かささぎ』がありました 鳥の腹の色に驚きました

二章 印象・色彩に 庭のカミーユと子供があったり パリ万博の祝祭がありました

更にジヴェルニーの庭に アイリスの花が咲き乱れていました

三章 構図・簡素に まるでゴッホの絵のようなアントンの町の絵がありました

三章 構図・ジャポニズムに 浮世絵の影響が見られエトルダの日没は凄かったです

三章 構図・平面的構成の中に ジヴェルニーの草原がありました

同じく三章に 構図・反射映像として ボートや川面の水の揺らぎを感じました

四章 連作・リズムに ポプラ並木の晴天がありました 素晴らしかったです

更にここでは ポプラ並木の刻々変化する光の分析が見事にありました

四章 連作・形態では 積み藁が最高の贈り物でした 素晴らしいのひと言です

四章 連作の変化では ルーアン大聖堂の時間的移ろいがありました

四章 連作・移ろいでは サン・ラザールの汽車の絵やイギリス国会議事堂の絵が

そしてウォーター橋の連作や 時間の移ろいと共に光り輝いていました

五章 睡蓮/庭・筆触では 愈々睡蓮の連作や黄色いアイリスの花が

最も印象的だったのは 荒々しいタッチで描かれた藤の絵で 凄いのひと言です

五章 睡蓮/庭・総合では 完成度の差は別にして 睡蓮のオンパレードでした

今日の口絵は 筆使いが一目瞭然と分かる一枚の睡蓮の絵を出しています

 

展示法が雑駁な会場を出ると 更にモネに影響された画家達の声も聞こえました

最も多く仕事をしたモネはモネらしく 大願を成就し それで逝ったのですから

画業では幸せな画家でしたが 一切係累を失くした画家は事の他哀れでなりませぬ

最初の妻・カミーユの軌跡も 後妻のアリスも 子供に恵まられながら

その後たった独りの跡継ぎもいないのですから 驚嘆に値するでしょう

絵だけが独り歩きをし 世界に感動を与え続けているのでしょうが

絵にはどこか哀しみを抱えているように思えてなりません 何故でしょう

 

その点ゴッホの場合は 弟テオの存在と彼の奥さんの存在が非常に大きく

死後 二人によって取り交わされた膨大な書簡は テオの奥さんから発表され 

今日のゴッホ美術館の大きな原点となり ゴッホが世に出る契機になっています

 

そんな意味で ゴッホとは対照的な巨人だと感じざるを得ませんでしたが

すべての係累に先立たれた思いを モネはどう感じていたのでしょう

やるだけはやったさぁと格好よく ツゥイードの服でも楽に着こなして 

自身が何度も生き帰って来ると確信しているモネがいたような気がしてなりません

特にフランス国家が 彼の死後 手厚く庇護したのではないでしょうか

 

展示方法に やや難があったように思われます あれだけの観客数です

狭い場所に よくぞここまでごしゃごしゃと展示してくれたもので

電車で言うなら満員電車の中で 必死になって観なければならないでしょう

大勢の一般客の方々が楽に観られるように 絵と絵の間隔を大きく取るべきだと

ワンサカ押し寄せる観客の為に 私にはそう思えてなりませんでした

 

 

http://outouro-hananoen.spaces.live.com/blog/cns!BA05963D8EB5CC5!1520.entry 

櫻灯路『二人のカミーユ』 最初の妻カミーユのことが書かれてあります

 

http://sakura-nokishita.spaces.live.com/blog/cns!6CB04EFFB064FA79!486.entry?_c=BlogPart

上記『あづさ弓』は硯水亭個人blogでした 最期のページにゴッホの記事があります

 

 http://sakura-nokishita.spaces.live.com/blog/cns!6CB04EFFB064FA79!438.entry?_c=BlogPart 

『モネの庭 日本版』 同じくあづさ弓に掲載

http://sakura-nokishita.spaces.live.com/blog/cns!6CB04EFFB064FA79!330.entry

『エトルダの海岸にて』 モネのモチーフの一つ 同じくあづさ弓に掲載

 

 


 追悼 坂井泉水さん

2007年05月29日 | エッセイ

 

 

 

追悼 坂井泉水さん

 

 

 

どんなに仕事がきつくても 泣き言一つ言わずに頑張って生きた亡き主人

バブルの時 銀行からの強烈な誘惑にも負けず 自社資金でしか新しいことは

決してするべきではない これに乗ったところでいい思いなど絵空事だと

常に先を見て 何事にも一切の妥協がなく 自ら清貧に甘んじる生活を過ごし

事あるごとに 社員の為・社会の為と 私心を捨てて 早く逝ってしまった主人

 

貴方が苦しくきつい時 いつも口ずさんでいたZARDの坂井泉水さんが

5月27日未明 入院先の慶応義塾大学付属病院で 貴方の世界へ参りました

何と言う哀しみでしょう 万人にパワーを下さった貴女が逝くなんて

貴方がいつも声高に歌っていた歌は 『負けないで』 

貴殿がいつも高歌放吟出来るように 歌詞を書いておきましたからね 

ねぇ どんなに僕達は彼女の歌に助けられ励まされたことでしょうね

来年の『櫻忌』にお入れ致しましょう 万感胸に痞えて果てしなき

 

 

 

     負けないで

                      作詞 坂井泉水
                      作曲 織田哲郎
                                 歌 ZARD

 

 

 ふとした瞬間に 視線がぶつかる
 幸運のときめき覚えているでしょ
 パステルカラーの季節に恋した
 あの日のように輝いている あなたでいてね



 負けないで もう少し最後まで走り抜けて
 どんなに離れてても 心はそばにいるわ
 追いかけて 遥かな夢を



 何が起きたって ヘッチャラな顔して
 どうにかなるサと おどけてみせるの
 今宵は私と一緒に踊りましょ
 今もそんなあなたが好きよ 忘れないで



 負けないで ほらそこに ゴールは近づいてる
 どんなに離れてても 心はそばにいるわ
 感じてね 見つめる瞳



 負けないで もう少し最後まで走り抜けて
 どんなに離れてても 心はそばにいるわ
 追いかけて 遥かな夢を



 どんなに離れてても 心はそばにいるわ
 感じてね 見つめる瞳

 

 

 

折りしも 松岡大臣 自殺の訃報が

こんな大切な時期に 農林及び水産関連の公的仕事が山積している中

何と言う馬鹿なことをされたのか 万人に不信感を与えて 逝けるものなのか

でももう言うまい 故人の冥福を祈るだけ

 

 

 

http://www.wezard.net/ ZARD Official Web Site  ZARD/坂井泉水さんを偲ぶ会のお知らせが

 


 ブログということ

2007年05月20日 | エッセイ

 

 

 

ブログということ

 

 

以前亡き主人が始めたブログで『櫻灯路』というのがあります

http://outouro-hananoen.spaces.live.com/

開設したのは主人でしたが 隠れ家としての私が書いた『あづさ弓』があります

http://sakura-nokishita.spaces.live.com/

 

両方とも 主人を静かにしてあげなくてはと ほぼ同時期に中断させて戴きました

櫻灯路を止めて 今日でちょうど三ヶ月になると言うのに

アクセスは一向に引きもきらないで 有難いことと考えるべきでありましょう

先日二十五万件を遥かに超え 二十六万件に迫ろうと言う勢いです 

止めた時は二十万件で 僅か三ヶ月で六万件近く増えたことになりましょう

歳時記・芸術を主題にして地味なのですが 折々の出来事を 

自由にご検索なされて 多くの皆さんがお入りになられているようであります

2005・4・11から始め 2006・7・16の暑中見舞いまで 主人が書いた分です

あの忌まわしい2006・7・28の『ご通知』 主人が亡くなった日ですが

その後 主人が書かれた社報やパソコンに残された多くの原稿を 意地になって 

私 庵の軒下として 引き続きブログに書かせさせて戴いた次第でした

考えて見ますと 全部で二十三ヶ月のことで 途中中断もありましたから

実質たった二十ヶ月の期間であったのでしょう

主人が亡くなってから半年間 実は何度止めようと思ったか分かりません

今日になってみると あんなに地味なブログにも関わらず 

既に私達の手から遠く離れ 独立してしまったように思え

ずっとこのままでいた方がいいのではと思っております 如何なものでしょうか

(但し読みづらい部分や個人的な部分もあって手直しが必要でありましょう)

 

一方 あづさ弓は 私が好きなように書かせて戴いていたのですが

僅か五ヶ月の短い期間でした 止めた時は三万のアクセスでしたが

現在は四万を越し 徐々に五万に向かっております 

記事が圧倒的に少ないので当然でありましょう

こちらの方はいずれ始めろと言うお声がたくさん来ておりますから 

どうしようかなぁと 現在模索中で迷っております

 

ところでこのGooブログはよく分かりません

どなたがお越しになられたか さっぱり分からないからです

御礼の言いようもありませんが 一日平均で200前後 IPで70前後でしょうか

ブログ・ランキングなるものもあるらしいのですが 私には全く興味がありません

従って昔大勢いらっしゃった方々を カスタム・リストに殆ど入れず

好きなように 好きな方々と 気ままに書いて行ければと

心底から そう望んでいます

平穏なブログであれば それだけで充分に有難いことです

 

 

口絵写真は 奈良・吉野山の吉水神社の絵馬の写真です

 


 沖縄本土復帰記念日ほか

2007年05月15日 | エッセイ

 

 

 

沖縄本土復帰記念日ほか

 

 

戦後27年経った5月15日 唯一本土決戦を余儀なくされた沖縄が

日本に返還され復帰した日で その少し前の戦前には5,15事件がありました

悠久の昔から 譬え途切れたことがあっても 葵祭りがある日でもあります

同じ日に何の脈絡もないような このような事実が

同一の日に行われている現実を知るべき良い日でもあるのです

 

昭和7年 5・15事件が起こりました 時の総理・犬飼毅が海軍将校らによって

テロを受け 話せば分かると制止したにも関わらず 問答無用と殺害したのでした

処罰を受けるはずの彼らは 国民の圧倒的多数の支持のもとに直ぐに釈放されます

その数年後にも 2・26事件が起こりました 青年将校が決起したのでしたが

儚くも鎮圧され 処罰は受けますが その後軍部は狂信的な独走状況になり

図らずも太平洋戦争に突入致します 今を思えばどんなに愚考な戦争だったでしょう

戦勝はたった半年足らずで 後の3年以上は敗戦の道をひた走ったのです

 

無論広島・長崎の原爆の犠牲者は痛ましく可哀想です 

でも沖縄であった民間の死傷者も 半端ではありませんでした

だって未だに遺骨収集が終わっていないのですから 全く可笑しなことです

 

白洲次郎が心配した憲法は 米国の思いのままに発布されました

今回憲法改正の動きがありますが いい機会じゃありませんか

憲法改正を 護憲と称してただ反対しても結構ですが

 自国の憲法を 自らの手で改正する権利を 私達には有するのです

どっちつかずに融通無碍に来た曖昧さが 現状の日本ではないんでしょうか

左翼の方に気を使い過ぎた面は否定出来ません 

教育が特に最も酷いのではありませんでしょうか

 

我が社のように海外で仕事をしている企業では

一国平和主義は絶対存在し得ないことが はっきりとよく分かる

国家の経済状態によって 応分の国際社会での貢献が求められている

 

国連に拠出している我が国の負担金は トップ米国の次で断然高額であり

安保理理事国のイギリス・フランス・ロシア・中国を凌駕しているにも関わらず

ドイツと同様に 未だに敗戦国扱いで悔しい思いしか残らない

 

それを思えば尚更社会状況の変化に応じて 憲法の中身も

当然議論するのが 自然な流れなのでしょう

 

まぁそんなこんながありますが 途中何度も中断をしながら 

葵祭りが 悠久の昔から続いて来たのでして

五穀豊穣を祈り 天皇の願い=万民の平穏を祈る行事が

営々と続いて来たのです 凄いことです

それを私達は 国際的にも単純に誇り高く思うべきです

祓いと清め ただそれだけです 又それで充分です

 

と 色々考えることが多い今日の5月15日の一日でした

何事も中途半端にはせず 徹底的に真っ直ぐに腹を括って話し合い

子孫のためにもちゃんとした指標を出して行きたいものだと信じております

 

 

 

口絵は斎王代の後ろ姿です

 


 紫陽花の花

2007年05月09日 | エッセイ

 

 

 

紫陽花の花

 

 

当家はマンションだが ペントハウスだから 僅かながら庭がある

畳で10畳ほど 狭いながらも 野の花さまにでもお願いしたら 

さぞや美しくコーディネイトして 花々を飾って戴けるかも知れない

ただ何せ独り身で 海外出張やら 自宅に帰れない場合が多かったから

雑然としていて 何の手も加えていず 如何にも恥ずかしい限りだ

 

去年花屋で 幾鉢か買った紫陽花が開花していたようで 

未だ淡い色彩の花を 今朝しみじみと眺めた

櫻前線を追い掛ける旅をして 行き成り帰京すると 

全くのウラシマ太郎状態であり

何と言う暑さであろうか 夏もいいところではないか 

寒さの中で 咲き始めの蝦夷山櫻を眺めていたのは

夢か幻か そんな感慨が深い ほろっと胸が詰まった

 

冷蔵庫をすっかり空にしてから出掛けたので 何もない

日頃の勉強の疲れからか 安心したのか 彼女は未だ熟睡している

それをいいことに 築地に少しだけ買出しに行き 朝食の準備をし終えた

メニューは五穀米入り御飯とアサリの味噌汁と春菊の胡桃和え

浅葱入りの納豆と櫻海老入りの出汁巻き卵 そんな程度である

 

夕べもそうであったが 外食するしかなかった

二人でタクシーに乗り ワンメーター 近所の高輪まで出掛け 

おばんざいを出す小料理屋で食べて飲んだ

自分の手で創って食べさせたかったが 叶わず無念 

それでも彼女は 私が傍にいるだけで安心するらしい

何時ものように特別な会話はないが それが逆に濃密な時間をくれる

 

さて部屋と言う部屋すべての窓を開け放って からりとした外気と入れ替え

そろそろ遅い朝食とするか 彼女の寝顔は子猫のようである