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硯水亭歳時記

千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた

    櫻かざしつ花の折枝

2012年04月29日 | 

 

三春の瀧櫻 雨にうたれて泣いておりました (パソコン画)

瀧櫻 裏正面から描いたもの

 

 

 

櫻かざしつ花の折枝

 

 

瀧櫻は一日中、雨にうたれて泣いておりました。

去年は他県から殆ど観る客もなく、今年も例年通りではありません。

朝昼晩と、一日中花を見詰めていましたが、傘をさした人もまばら。

広大な駐車場はガラガラ、櫻狂いの私にとっては幸いで、

夜、ライトアップの中、私は櫻の詩の中で最も美しい詩を、

何遍も何遍も、真言のように繰り返し唱えておりました。

 

   「さくら」

   ことしも生きて
   さくらを見ています
   ひとは生涯に
   何回ぐらいさくらをみるのかしら
   ものごころつくのが十歳ぐらいなら
   どんなに多くても七十回ぐらい
   三十回 四十回のひともざら
   なんという少なさだろう
   もっともっと多く見るような気がするのは
   祖先の視覚も
   まぎれこみ重なりあい霞(かすみ)立つせいでしょう
   あでやかとも妖しとも不気味とも
   捉えかねる花のいろ
   さくらふぶきの下を ふららと歩けば
   一瞬
   名僧のごとくにわかるのです
   死こそ常態
   生はいとしき蜃気楼と

 

            茨木のり子の詩 60歳代の作品)

 

茨木のり子は生涯清冽な人生をおくりました。

15歳で戦争にまきこまれ、19歳で敗戦の屈辱をうけます。

彼女の詩「わたしが一番きれいだったとき」が出発点だったかも。

2006年、ご自宅で脳動脈瘤破裂で孤独死。

すっぱりと生きることだけ心掛けていた彼女らしく、

「私の意志で、葬儀・お別れ会は何もいたしません。

この家も当分の間、無人となりますゆえ、

弔慰の品はお花を含め、一切お送り下さいませんように。

返送の無礼を重ねるだけと存じますので。

“あの人も逝ったかと”一瞬、たったの一瞬思い出して下されば

それで十分でございます」との遺書。享年79歳の大往生でした。

 

この詩の最後の五行が、私の胸をいつも強かにうつのです。

茨木のり子の真実観(シンシビリティ)の凄さ。

 

三春は5,000余の世帯数なれど、櫻の多いこと、圧倒される。

柳沼ハナさんと言うお婆ちゃん、全国に瀧櫻の子を三万本贈ったという。

種から産んだピンピンの実生の瀧櫻を。本当に優しい人。

どんなに古樹の櫻の花びらも、真新しく生まれた花と全く変りなし、

その嬉しさと、古樹の凛々しさと、強さと新鮮さ。

 

保科正之を慕って、今日は会津。会津五櫻を観んと。

石部櫻の見事さ、薄墨櫻や、会津・坂下(ばんげ)の杉の糸櫻を見学。

会津の奥座敷・芦ノ牧温泉に投宿す。連休なのに満室ではなく、

風評被害の深刻さと酷さ。されど会津・鶴ヶ城の櫻はほぼ満開。

まこと北国の櫻は開花してから満開になるまでの早さ、驚くべき。

会津の放射能は0.11μSv/h。三春は0.22μSv/h の低さ。

 

宿の櫻の一枝を取り、トックリに入れ観つつ、真夜中、未だ飲酒中。

 

岩彩にて悪戯描きす「石部櫻」 田の中、一つの根から8本の幹 堂々の江戸彼岸

 

 三春在住・玄宥宗久住職の「三春の櫻」のお話!

 


   「染井吉野」と「中国紅」

2012年04月18日 | 

 我が家の染井吉野の古樹 曽祖父が植樹してから今年で105歳になる

 

 

    「染井吉野」と「中国紅」

 

 実は我が家に百歳を超えた染井吉野の古樹がある。曽祖父が植えたものだが、関東大震災にも耐え、あの東京大空襲にも耐えて生き永らえている。ただ実際は相当な打撃を受け、樹の大半は朽ちかけ、何とかその生命を維持しているだけだ。櫻の全体をお見せするのに、やや憚られしのびない。常日頃染井吉野の悪口雑言を放っている私だが、今や日本の櫻の八割が染井吉野であることはどうしようもない事実で、花は白痴美的であっても愛されてやまない花が実態なのだろう。別に私は何が何でも駄目だと拒否しているわけでもないのだが。

 但し染井吉野の起源は未だに不明で、三島の国立遺伝学研究所では盛んにDNAによる探査が行なわれている。この花の起源説の始めは伊豆・大島であるという説があったが、現地調査の結果否定された。次に小泉源一により染井吉野の発祥地は韓国の済州島であると提唱されたが、済州島から、吉野権現に献上され、それを江戸染井村の植木屋が持ち帰ったとされた。だがそもそも吉野には染井吉野は存在せず、この説は荒唐無稽だとされた。済州島には染井吉野に近似のサクラは確かに存在するが、DNAは明らかに違っている。1916年Wilsonはオオシマザクラとエドヒガンの雑種説を唱え、更に国立遺伝学研究所の竹中要によって交配実験が行なわれて、それがほぼ実証された。そしてその上で伊豆半島発生説が流布されるに至ったが、オオシマザクラとエドヒガンがともに生育する伊豆半島が発生地であるからだというわけである。然し近年、明治初期には小石川植物園の入り口に樹齢100年の染井吉野があったとか、船津兼松らの「ソメイヨシノは江戸染井村の植木屋が創った」という説に着目され、伊豆半島説を否定、岩崎文雄はすべての検討を加え、その作出者は染井村の植木屋・伊藤伊兵衛政武であろうとも述べられている。又サクラの遺伝子を研究している荻沼一男は、ソメイヨシノの枝型からエドヒガンとオオシマザクラの遺伝子が単純にそれだけではなく、自家交配か、その上にオオシマザクラへ「戻し交配」されたものだろうとも断じられた。一方北米では雑品種起源ではなく、独立した種ではないかと言う説が出されるなど、竹中要説で落ち着いたかに見えた論争はまだまだ続いている。先月国立遺伝学研究所から、交配種のエドヒガンは関東北部のエドヒガン2本が確認されたとの報道があったばかりである。いずれにせよ染井吉野は実生から発芽しないのが事実であり、そして寿命が短いことや、更なる補植は困難であることが最も危惧されていることだ。

 

我が家の染井吉野 老樹でも甲斐甲斐しく毎年花をつける

 

 福岡市内西公園の染井吉野は危機的状況であり、全国各地からも同じような補植の必要性のお訴えの声を真摯に伺っている。古い公園の、その殆どが錬兵場として使われ、戦争中は何とかの戦勝記念とかで染井吉野が数多く植えられた。戦後、戦火の中で広がった空き地を利用し染井吉野が植えられたのだ。早く花をつけ、早く成長するし、育て易かったことが主な原因であるだろうが、如何にも戦後らしい局面での櫻の植樹であっただろう。

 米国の押し付けの民主主義が極端に憚り、資本主義が益々偏向し、愈々時代は極端な閉塞状況の中にある。私は山櫻をして、全国に植樹して行きたい願望は何も本居宣長のせいだけではない。無論「しきしまの大和心と人とはば 朝日ににほふ山櫻ばな」を頻りに慕っているのは事実であるが・・・・。宣長の真髄が表現されているこの歌で、宣長と山櫻と大和心の三位一体であるかのようであり、いい歌だと信じている。我が思う大和心とは、宣長先生のいう「もののあはれ」と一体化したもので、日本人の矜持を意味しているのであって、右翼とははっきりと一線を画すものであるとお断りしておきたい。又宣長は亡くなる前に遺言を詳しく書き記し、山室山上の墓所の図まで書いて曰く「山むろにちとせの春の宿しめて 風にしられぬ花をこそ見め」と。宣長没するや、その通り埋葬し山櫻を植えた門人たちが宣長に「秋津彦美豆櫻根大人」と諡(おくりな)し称え、山櫻で作った笏(しゃく)を位牌とし諡名を記して家々で祀ったものである。宣長は死して尚今も、日本の国土に山櫻が朝日に匂い続けているのである。

 「我思う、故に我あり」と自著『方法序説』で、この命題を提起したルネ・デカルトは17世紀フランスの哲学・数学者だが、自然については数学者らしく、万物を数式で表現出来ると断じ、限りない人間の智慧を論じた。その後18世紀に産業革命が起き、19世紀は産業革命を果たし終えた国々は列強として世界に植民地主義をとった。20世紀には共産革命が起き、大なる混乱ばかりで、そうして21世紀の私たちは極端なマネーゲームの虜となって、行き着くところまで到達し、今やすべてのイデオロギーは大きな袋小路に入り、出口を見つけようともがいている。自然をすべて数式で表現出来なかったのである。原発は私たち世代で何ともしようがないものであり、原発を消滅させるのに10万年も掛かるものを、私たちは持ってはならない筈である。西洋哲学の限界であるだろう。

 

櫻の根元付近に芽吹いた姫小百合 (山形・大江町より戴いた苗)

 

 現在の中国を簡単に非難出来ない。我が国家も同様にいつか通った道だからである。中国・広州で大人気になっている櫻がある。亜熱帯でも育つ櫻を作出したもので、一名を「改良櫻」とも呼ぶ。栽培会社は二年前に設立された「天適集団」と言い、自慢は中国人好みの紅が濃いこと、開花期間が35~45日と長いことらしい。この経営者は何宗儒(42歳)さんという方で、15年ほど前に櫻の美しさに魅せられ、研究者10人に品種改良を託した模様だ。何さんは改良櫻に成功し、一部富裕層を顧客にし、一本6万元(約78万円)で売ると鼻息が荒く高い。美しい花木の需要は非常に高いようで「日本は散り際の美しさを尊ぶが、中国人にはそうした感覚はない。開花期間は長ければ長いほど良い」と豪語する。広東州だけではなく、四川省と山東省にも農園を持ち、櫻の苗木は総計120万本。広州郊外の農園には約3000本の櫻が咲き誇り、2月初旬から一ヶ月間ほど鑑賞出来るそうである。中でも大人気な櫻を「中国紅」と称している。ただ私たちが新種を開発する場合、途方もなく時間が掛かるだろうし、中国紅より染井吉野が遥かにいい品種に違いない。「万葉集」にある櫻の歌は全部で43首であるが、半分は散りゆく櫻を詠んだ歌である。それも自慢していいものであり、櫻の散り際が田の神と深い関係があるからであるだろう。

 櫻の原種はヒマラヤで、ネパールやブータンやミャンマーの高地にはヒマラヤ櫻という古い品種が咲いている。すべては冬の櫻で見ごろは11~12月ほど。沖縄の寒緋櫻とよく似ている。多分それらに近い櫻だろうか、中国の改良櫻は。そして櫻に日本人の矜持を感じている実情とは大違いである。海外の知的財産権を平気で犯し、何でもただ金になるからと言って商標登録しているらしい。青森の林檎から、ブランド魚や、漫画や、ありとあらゆる分野に対して遠慮会釈は全くない。あのスカイツリーを「天空樹」と称し、商標登録したことも大いに笑えて余りある。昨日上海市第一中級法院での裁判が8年掛りでやっと結審したのは、日本の双葉社から訴えられていた「クレオンしんちゃん」の件である。無論双葉社が勝訴して300万円の賠償が敗訴側に発生したのだが、常々感じていることは、「恥」の感覚を失った国家の末路は悲惨であることである。太子党の出か、共青部出であろうが、たった9人の指導部で、13億人の人民を掌握し指導しているのである。共産主義とは官僚主義の別名らしい。様々な矛盾や無理があっても当然なことであるだろう。懐かしい周恩来さんがお元気であった頃を比較し、人間も社会も品格が圧倒的に違うのだろうかと疑う。どうぞお好きに櫻ビジネスをおやんなさい!盗人猛々しく水ビジネスで北海道や長野など多くの土地を買いまくることについては危険な臭いを少々感じざるを得ない。共産主義国家で、現ナマ第一主義とはこれ如何。嘆かわしい!老子・孔子さんもお気づきでないことだろう。

 二年前ノーベル平和賞を受賞された天安門事件の英雄・劉暁波氏や、北京五輪で、あの鳥の巣をデザインし、今や反体制派になってしまった艾未未(アイウェイウェイ)氏など、埋もれた素敵な方々も少なくない。艾氏は「過ぎた愛国主義宣伝は罪悪」だとバッサリ。人民の中の、真の友情を信じたいものである。

 


   うらうらと櫻(はな)を観つつも

2012年04月15日 | 

新宿御苑にて 春うらら

 

 

うらうらと櫻(はな)を観つつも

 

 

四月八日、お釈迦様のお誕生日に、菩提寺にお参りし墓参。

私たちだけで手作りお弁当を持参し、

新宿御苑で静かなお花見をした。朝から快晴のお花見日和。

杏の愛犬は内弁慶で体調もおもわしくなく、自宅待機で、邸内の櫻見物。

小さな海苔巻きお握りの上に、塩抜きした櫻花を二、三弁。蕗、若筍、

厚揚げ豆腐、椎茸、人参、煮玉子、絹さや、里芋などの煮物が中心。

大食いの大風のために、唐揚げやタコ形ウィンナーやチーズも少々。

櫻若葉の下でそれを広げると、風もなくおっとりした日差しが心地いい。

広々とした庭園で、銘々が伸び伸びと過ごす。

 

櫻の繁忙期を終え、漸く家族静かなひと時を送れると思っていたら、

或る財団や知人の強引なセットによって、数多くの講演会をこなすことに。

地方自治体から三件、入学式を終えたばかりの大学から二件。

そうして或るNPO法人さまからのお招きによってお話することも。

講演とは難しいもの。一つにつき何時間もかけ用意しても、

後になってしまうと、アレも足りなかった、コレも足りなかったと、

悔やみ切れない舌足らずなことばかりで、無念でしかない。

 

若き八重江戸彼岸櫻の枝垂れ 天空に舞う

 

このブログは、裏面では「櫻のブログ」なり。

櫻満開の折、書くべきことは多かったはずなのに、最早、

染井吉野は散り、可笑しなことに八重櫻も引き続いて咲き、

どうやら可笑しな天候。願わくは700PPM以上の二酸化炭素濃度に、

ならなければと、ひたすらひたすら憂慮し希う。人は案外阿呆かも。

こんなに知的な存在の人類なのに、全く我が身を省みない。

万一日本に四季がなくなったら、と想像するとソラ恐ろしい。

 

櫻のある風景 私たちの好きな光景

 

本当に忙しかった。だが聴いて下さる方々が熱心で嬉しかった。

妻も好き勝手に過ごし、我も亦勝手。ただ我が子への思いは半端ではなく、

一日中、この日は駆けずり廻った。こんな時ばかりは長女と長男は仲良し。

晴れ晴れとしたお花見の一日でも、東京の花見が終わると、

急速に櫻(はな)の話題が薄れる。でも本番は未だ。今後は東北・北海道。

米沢を中心とした「花回廊」、静内の大パノラマの蝦夷山櫻を観に行こう。

 

長男の愛犬・スパンキー (信濃町の身内宅に預け公園には連れて行かなかった)

 

櫻は静かに楽しむべきものである。

「遅きの花」として八重が嫌われ、一重の櫻が愛でられた時代もあったが、

八重もなかなかによろしい。但し大阪造幣局の通り抜けはいいにしても、

通り抜けと河畔の間にある二重三重の屋台の列は何なのだろう。

仄かに香る櫻の匂いも全くないもので、人込みに押されるのはもう御免。

稀代の櫻守・笹部新太郎翁の真情が思い遣られる次第。

 

 


   「さくらの日」に寄せて

2012年03月28日 | 

 

陸前高田の一本櫻 (震災の翌月に半分だけ花咲けり)

 

 

「さくらの日」に寄せて

 

 

3月27日は「さくらの日」です。

100年前の3月27日に、タフト大統領夫人のヘレンさんが

ポトマック河畔に、日本から贈られた櫻の第一樹を植樹なされ、

財団法人日本さくらの会では、それを記念し「さくらの日」としました。

本ブログでも櫻灯路でも何度も、それを仲介したエリザ・シドモア女史の、

その功績を称えました。又NYのハドソン河畔については高嶺譲吉博士を。

 

ただワシントンに植えられた当時の櫻は既に100近くしかなく、

全部で3,800本あるポトマック河畔の櫻の殆どは米国生まれです。

当時も有力な植物学者がおられて、メリーランド州ケンウッド町には

一軒に必ず一本ずつ櫻が植樹され、今も研究されている成果です。

 

ミシェル大統領夫人による櫻の植樹式(右 藤崎駐米大使夫人)

 

アメリカの「さくらの日」(日本時間は本日)には

オバマ大統領夫人のミシャルさんが

新しい櫻の植樹式に参加され、タフト大統領夫人のお話の後、

「100年後の大統領夫人も植樹して」と。

 

陸前高田の一本櫻(岸から1キロ)に巻きついた養殖牡蠣のイカダ

 

陸前高田を中心に津波の到達点に、

櫻を植えようと頑張っておられる方々がいらっしゃいます。

櫻ライン311」と命名され、私たちも心からご賛同し参加しています。

山櫻か江戸彼岸を提供して行こうと思っています。

但し私たちは陸前高田だけではなく、全長500キロにわたって!

 

櫻ライン311チームの方々の櫻植樹

 

 

この一本櫻が大雷神さまと言われているのは、

この樹の所有者である方のご先祖さまがお山で

雷から助けられてもらってから、ここに感謝し櫻が植えられた。

樹齢200年あまりの美しい江戸彼岸櫻だが、津波により半壊。

樹元の重い板碑が200mも流されてしまい、今も残り1枚不明。

ただ樹の半分に花芽が見える。今年4月半ばに咲いてくれるだろうか。

往時の、見事な姿の櫻が復活し、

再び「種蒔き櫻」になって蘇ってくれることを祈りたいものである。

7万本あった高田松原で一本だけ残った松は残酷にも無理らしい。

せめてこの樹だけは助かってと切に祈りたい。

 

※福島県富岡町に1,500本の櫻並木がある。ここも去年同様咲くだろうが、

花見をするのは生き延びられた動物だけでしかない。原発から5キロだから

 


   春のニュージーランドへ

2011年10月08日 | 

クライストチャーチの民家の櫻

 

 

春のニュージーランドへ

 

 被災地通いで、すっかり塞ぎ込むことが多かった私を、妻が後押ししてくれて、私は久し振りに、三週間余、海外に出ていました。最初はNYへ。美しい初秋のセントラルパークが眼前に広がるザ・リッツカールトンに宿泊し、9;11を迎えました。そしてあの恐ろしいテロの鎮魂の儀式へ。グラウンド・ゼロには、二つの四角い池があり、その周囲に犠牲者の名前が刻印されていて、我が親友の名前もありました。せめてもの鎮魂の碑なのでしょう。多くの犠牲者を悼むご家族で溢れていました。私は優しくその刻印をなぞると、再び涙が溢れ、あの惨劇の凄まじさが蘇ってきて堪りませんでした。JF・ケネディ空港から既に厳戒態勢で、物々しい取締り。まるで厳戒令でも出ている風でした。前と現在の大統領には逢えませんでしたが、それが逆によかったように思われてなりません。白黒二極どちらに味方するのかと全世界に迫った単細胞のリトル・ブッシュに逢いたくなかったからでありましたが、その式典こそアメリカ国民自身のものであったからであります。既に100階以上の新しい高層ビル建築が始まり、現在80階まで完成していました。その他三つのビル群が立ち並び、いずれのビルも再び悲劇の舞台にならないことを祈るばかりです。そこからたった200mの地点に、新しいモスクの建設の話が。知人に聞いてみると、未だに決定的な建築される模様はないようです。そこに、イスラムのモスクを建築していいものか、実はイスラムの信者間でも議論があるようで、偶々私が連絡したイスラムの宗教者は何とも言えない複雑な繰言を繰り返すばかりでした。五番街の、元居たオフィスに立ち寄ると、ミシガン州のディアボーンは凄いよと教えらました。少々興味がありましたので、空路ディアボーンに入ってみました。花の自動車産業の町だとばかり思っていたのに、何と町の殆どの人々はイスラム教信者でした。変われば変わるものです。シーア派もスンニ派も仲良く暮らしておりましたが、過激な主義主張の人は無論表面上では一切見受けられませんでした。イスラムの人々は何かと肩身が狭い思いがあるようで、太平洋戦争中、在米日本人がすべての個人資産を没収され、各地に強制収容されたようなことが二度と起きて欲しくありません。

 戦争の殆どは宗教対立かエネルギー戦争の、そのどちらかです。あの魔法の森に陥った太平洋戦争もエネルギー戦争がそもそもの発端でありました。ようよう秋に近づいているこのデイアボーンの無機質な町を歩くと、何だかジャズの聖地ニューオリンズに似ているような独特な雰囲気がありました。最も酷い被害を受けたニューオリンズの復興がなされたのでしょうか。今年のアイリーンの被害も、あれやこれや心配です。でもどこに過激な思想を持った人がいるのだろうかと、私は真摯に疑いました。皆無ではないでしょうけれど、イラク戦争は時期尚少ではなかったか、様々な疑問を持つべきです。そうした状況下でか、何かアメリカは閉塞状況が強く、今回の「格差社会反対デモ」が始まる前に、ミシガンからLAに飛び、漸くサンタフェの自宅に到着致しました。遣る瀬無さで満ち溢れています。アメリカに行っても被災地巡りはないだろうと、日本でチビ達と頑張る妻に電話をすると、カラカラと笑われてしまいました。日干し煉瓦の我が家のベットで丸二日間爆睡状態。数度のトイレと水のみ以外完全に深い睡魔に襲われていました。心配して見に来て下さった管理人から起こされるまで、殆ど何も食べず眠っていたのです。余っぽど疲れていたのでしょう。アメリカを後にしました。リーマンショックだけではなく、莫大な対テロ戦争の戦費も、重々しく国民に圧し掛かっているのではないでしょうか。

  アメリカ滞在はたった五日間で、今回何としても行きたかったニュージーランドに行く途中、私は西オーストラリアのパースの友人宅にお邪魔しました。サンタフェ同様、パースはまことにいい気候で、やっとこさ気楽になりました。パース近郊のフリーマントルの友人宅に二泊しました。世界金融はどうなっているのか、第三者のようなこの町の金融人に聞けば相当だろうと思われました。我が友も金融関係の人ですが、南半球で最大の金融機関が集まるパースは、最も冷静に現在の世界金融状況を分析していました。いずれユーロ危機はギリシャが追い出されるか、ドイツが抜けるか、二つに一つだと言う結果でしたが、果たしてそうなるのでしょうか。その後スペインやイタリアやポルトガルが待機している状態です。ギリシャは観光と海運だけで、五人に一人は公務員です。財政再建の道は果てしなく遠いもののようです。今後のギリシャの再建は優秀なドイツマネーを注ぎ込んでも結局上手くいかないだろうと言うものでした。ユーロは政治的な思惑が本音だったのでしょうか。まさに経済的な連携だけでは可笑しいものだと断じていました。愛のないセックスを嫌々ながらしているようなものだとウィンクされました。スイスフランはGDPの半分を市場介入し、安定しています。ユーロに入らなかったイギリスは少しは楽なものだったのでは。

 私はオーストラリア航空の便が偶々あったので、ニュージーランド北島の最も大きな空港であるオークランド国際空港を目指さず、その隣のハミルトン空港を目指して飛びました。ニュージーランドには今回二つの目的があったからです。15万人もの署名を集めて、ラグビー・ワールドカップの招致をした日本チームはJ・F(ジョン・カーワン)コーチのもと必ずやいい結果を出してくれるに違いないと、私には確信がありましたし、特に本国ニュージーランドとの世紀の一戦を観戦したからからでもあります。空港を降り立って、すぐブルルとしました。たった3時間のフライトで、住み易さは違うようです。春まだきといったところでしょう。夕刻だったので、周囲の状況はよく見えず、ハミルトン・ワイカトスタジアムに行きました。入場券を購入し、中に入ると、もう一つの目的である櫻塾々生たちの、ホームスティ見学。全員で、48名の塾生のうち、11名ほどがホームスティ先の方々と一緒に来ていました。試合開始は20時。既に、気温は10℃をとうに切っていたように思われます。何と、日本との試合は特別な意味があると。そう言えば、ジョン・キー首相と、日本ラグビーフットボール会長の森嘉朗氏が選手たちと整列していました。ニュージーランドでは今年2月に大地震に見舞われ、両国の友情と災害への同じ思いから特別にメッセージが出されました。

 

日本ラグビーフットボール協会の 正式ロゴマーク

 

 セレモニーでは、日本~ニュージーランド両国の大地震被災に対する哀悼の辞が読み上げられ、その後選手も会場の方々も全員による黙祷が捧げられました。観ると、ニュージーランド国民の方々も、日本応援団として数多く日の丸が出ていました。大感激した一瞬でした。同時に私は世界中廻っても、日本の震災は忘れられるものではないことを強か知りました。

 

ラグビーワールドカップ2011ニュージーランド大会
大会マッチデープログラム JRFUから感謝のメッセージ 内容

【掲載文】

Thank you to the global Rugby family

On behalf of all Japanese people, the Japan National Team and Japan Rugby Union, we would like to express our
deepest gratitude to the global Rugby family for your kindness, consideration and sympathy following the tragedy of the March 11 earthquake and tsunami centred on East Japan.


Our team and our Union would also like to offer our heartfelt sympathy to all those affected by the earthquakes in Christchurch. We feel bound   together with the people of New Zealand as both countries face the consequences of these events and continue the long rebuilding process.

We aim to show our appreciation for the support we have received as a nation by responding as a team and giving
our best performance at RWC 2011.

We are determined to participate in the tournament with courage and pride.
Yours in Rugby,


Japan National Team
Japan Rugby Football Union

 

【日本語訳文】

ありがとう、世界のラグビーファミリーの皆様

我々日本代表チーム並びに財団法人日本ラグビーフットボール協会は、日本国民を代表して、この度の東日本大震災に対して世界中のラグビーファミリーの皆様からいただいた様々な御支援や御厚情に対し、心より感謝の意を表したいと存じます。

今回の大会ホスト国であるニュージーランドのクライストチャーチも大地震の被害を受けており、被災された皆様には心からのお見舞い申し上げます。また、共に大震災によってもたらされた困難に直面している国同士として、ニュージーランドの人々との強い絆を感じます。

我々日本代表は、この大会でベストパフォーマンスをお見せすることが、この度の災害に対して寄せられた皆様の御支援にお応えすることになると信じています。

我々は勇気と誇りを持ってこの大会を戦ってまいります。

日本代表チーム選手団
日本ラグビーフットボール協会

 

 世界ランキング一位との格闘の結果は惨敗でした。「うなぎステップ」の小野澤選手のワントライだけでしたが、誇り高いニュージーランドとの一戦は格の違いが大きく、横綱と十両の試合のような試合でした。それでも日本選手へ拍手は会場割れんばかりで、私たち日本人も多くの勇気を貰った素晴らしい試合でした。ニュージーランドにも「判官びいき」というものがあるのでしょうか。日本の真似をしてまでペインティングをしてたたくさんの若きNZの国民に、心から御礼を申し述べたいと思いました。だってただ一度の手抜きもせず、徹底して圧勝したわけですから、これが相手国に対する最高の礼儀というものでしょう。試合開始直前、ブラックジャージー軍団(オールブラックス=NZ代表チーム)によって、先住民マオリ族の戦闘を鼓舞する「ハカ」が演じられ迫力満点でした。最初っから感動の連続で、私は大きく満たされました。私はアイスホッケーやラグビーをこよなく愛します。

 結局、日本チームは予選全敗でしたが、釜石ラグビー部の選手もいる日本チームはとても誇らしく思いました。だって真紅のジャージーに、櫻のエンブレムが躍動していたのですから。ビデオで観た対フランス戦は中盤で3点差まで追い詰め、あと一息の大接戦でした。いい夢を魅せてもらったものです。今後とも櫻のエンブレムを背負った日本チームに継続精進して欲しい一心です。それにしてもNZは国技がラグビーということもあって、ラグビー競技場が多いこと、驚きました。羨ましい限りです。

 

クライストチャーチ ハグレー公園の櫻道

 

 8月の末から、ニュージーランドの各地に、我が塾生がホームスティしています。私は出来るだけ、塾生にいる風景を見たかったのですが、翌日からレンタカーを貸し切りにして、各地を櫻巡礼をすることにしました。NZ中、全距離6千キロ。出発前、ラグビー球場で出逢った二・三のお宅に訪問し、私はすっかり安心しました。塾生は皆生き生きと元気いっぱいで、櫻の開花と共に、羊の子供たちのベビーラッシュでもありました。子供たちは何と贅沢な日々を過ごしているのでしょう。受け入れて下さった四市の市長に表敬訪問をし、記念品を差し上げ、和気藹々でした。このNZでは8月中旬に、50年ぶりと言う豪雪に見舞われたようでしたが、夏の終わりである日本の時季には、ニュージーランドでは春の盛りとなります。塾生たちの家庭訪問や塾長に任せ、北島や南島に生息する櫻の樹を観て歩きました。ウェールズ出身の塾の教師ただ一人が私と行動を共にしてくれました。ワイカト大学のキャンパスも、IPC(パーマストンノース大学)も春真っ盛りで、何てこんなに櫻があるのか不思議に思えてなりませんでした。ただその殆どは染井吉野であったことが気に入りませんでしたが、湖水から見られる雪山の風景に、櫻は実によく似合っていました。そしてそれぞれ土地で櫻祭りが開かれておりました。国土は日本の四分の三ほどですが、人口密度が低く、驚くほど多くの国立公園が点在していました。何だか箱庭のような風景でもありましたが、素晴らしいことです。パチンコ屋のような消費電力が多いお店もなく、小さな水力発電が個々のお宅を支えております。本物のエコの精神でしょう。

 全部で、800本の櫻の樹を調査して廻りました。根回り・樹齢・樹勢・管理人名・樹種・来歴などなど。全行程距離6000Km、期間十日間で。ハグレー公園には山櫻や太白もあります。樹齢は150年を過ぎていることから、イギリス王立キュー植物園あたりから寄贈されたものでありましょう。そこで19世紀半ばに、日本にやってきたプラントハンターから持ち出されたものと推定致しました。高峰譲吉博士や、財団法人日本さくらの会から持ち込まれた新しい櫻もありましたが、私たちはホームスティしているお宅に、二本ずつ持ち込みました。山櫻と江戸彼岸の枝垂れ櫻です。凡そ120本の櫻の苗木は厳格な検疫のため、塾生の手許に届いたのは二週間も掛かってからであったようですが、それぞれのご家庭の、美しい庭に植えたれたようです。櫻というのは不思議なもので、満開の日、たった一日だけはひとひらの花びらも散りません。でも驚くことに、ニュージーランドの櫻は満開のまま、普通二週間ほど、凄いのは一ヶ月ほど満開の状態が続くと得意顔でした。日本より寒冷のまま咲き続けるのでしょう。

 私たちは全世界を櫻の海にしたいと思っておりません。適切な場所に、お人さまの懇願があって植樹することにしています。世界各地の風土を壊す気などさらさらありません。そうして、NZの風土はまことに正しく、足し算の文化ではありませんでした。電力も真摯に考え、こと足りるだけの需要と供給のバランスが重要でした。自給自足の法則が当たり前になっている国民なんです。印象的なIPC(パーマストン大学)の櫻並木。クイーンズタウンや、特に凄かったのはクライストチャーチでした。ハグレー公園は最高でしょう。私は櫻の花翳にスッカリうずもれていたように思います。

 

10年前に 亡き主人と植えた枝垂れ櫻は見事でした

 

IPC大学正門通りの『櫻祭り」は強烈でした

 

 西洋では樹のなる花は、お花だけの観賞ではこと足りず、果実そのものが楽しみとされ、重要視されて参りました。果実がなっても利用し収穫が出来ない多くの櫻は、そんな期待はされせんが、近年実の利用されない花の櫻でも多くの地域で、受け入れつつあるように思われます。櫻に添って、特にNZ国民と共にありたいと強く願いました。怒涛の二週間の大半がNZ各地に、櫻への股旅行脚。櫻バカになりきって夢のようなひと時を過ごして参りました。探せばあるはあるはなんです。たっぷり櫻の風景を満喫し、成田から自宅に帰ると、咽せ返るような金木犀の香りに圧倒されました。ヒヤッとする秋本番でした。NZの満開の櫻は標準的に十日間も満開の状態で、これから八重の櫻も咲くのでしょう。9月20日から来年の4月まで夏時間となり、日本との時差が1時間長くなりますが、どうも帰国してから十日間も経つというのに、頭が夢まぼろしのように、あちらNZの櫻のほうに向いているようです。

 すっかり秋ですねぇ。万葉の時代は萩の花も花見に行く対象でした。何故花を観るか、生きとし生けるものにとって、自然から得られる生命感を心身に満たしたかったからなのです。それを「感染呪術」と言いますが、五穀豊穣を祈る際に、子宝祈願もしていたことによく似ています。花だけの観賞が意味が無いとする過去の西洋人の考え方は間違っています。南島の小さな村で、私のミニ講演会があった時、そのことを申し述べました。櫻を愛する村人の方々もほぼ同意見であったのがとっても嬉しかったです。

 十月五日、私たちの塾生たちは元気いっぱいでただ一人の脱落者もなく、帰って参りました。引率者8名も皆無事でした。来春予定されている北米とプリンスエドワード島への上陸、今回行けなかった子供たちもきっとそれを楽しみにしていることでしょう。櫻は勇気ある再生の花であり、痛んだ心は股旅同様の花行脚の旅でスッカリ癒えたよう、今後も塾生たちと、被災地復興のお手伝いをすべく、再びの強い覚悟が湧き上がってきております。

 


   「冬のサクラ」の虚実

2011年07月21日 | 

啓翁櫻 冬咲きにする工夫ありて 正月にも楽しめる (自宅にて)

 

 

 

「冬のサクラ」の虚実

 

 

今年一月にTBSで連ドラとして放映された「冬のサクラ」について、

土用の丑の日の今日になって、一層の涼しさをお届けしようと話題に出したい。

無論冬のサクラは存在する。しかも起源は江戸時代からであるが、

近年、啓翁櫻は主に山形県において栽培され、正月一番の花として有名だ。

櫻はほぼ500時間の睡眠後、一日の気温差が10℃を超えると、春が来たと錯覚し

花をつけ始める。主に山形でも温泉地のある東根や寒河江市や山形市近郊で、

育成され、関東地方や関西地方に出荷されているが、櫻をキーワードにして、

生きる私は、この連ドラは欠かさず観ていたが、どうにもならない部分が多かった。

 

米沢を心底から愛する私は、米沢にはガラス工芸はないではないが、

あのようなガラス工房ではないことと、新米沢という駅名がないこと、

冬に咲く櫻として啓翁櫻が選定されたものの、米沢では栽培されていないこと。

余りにも多くの疑問点があった。フィクションだから何でも許されるのだろう。

それでも米沢に、小岩井農場の、かの有名な一本櫻を持ってくるとは、

それぞれの地域に失礼ではなかろうか。米沢は櫻回廊の最中にあり、

久保櫻を筆頭に、釜の越櫻や薬師櫻など、上品な名木が数多い。

 

あの櫻こそ、

NHK連ドラの「どんど晴れ」で既に有名になった一本櫻ではあるまいか。

 

11年ぶりにテレビドラマに復活した今井美樹や、誠実な人柄の草薙剛や、

龍馬伝」で大活躍した佐藤健や、江波杏子や、現在話題の人・高島政伸など、

抜群の個性溢れる陣容で描かれ、然も安っぽい不倫で終わらなかったドラマに、

敬服すべきものがあり、仄かな愛惜に、寧ろ感銘さえ覚えたものがあった。

ベニシアさんのナレーションで有名な山崎樹範が祐(草薙)の友人として登場、

巡査になっていたが、ナレーションの声と配役としての声に違和感があったのを、

寧ろ楽しめたものであった。でもロケ地を調べてみるとただ呆れるばかりである。

 

フィクションだから許されるに違いないが、櫻に関わる人間にしては義憤さえ、

憶えたものである。一本櫻が出てくる度にそうであったかもしれない。

或いは、こよなく米沢を愛する人間としてそうであったのかもしれない。

 

小岩井農場の一本櫻 (江戸彼岸種で枝垂れ櫻ではない)

 

ついでに少々専門的に啓翁櫻を解説しておきたい。

元来、東京の小石川植物園などでは三月中旬に咲く品種で、

シナミザクラを台木としてコヒガンザクラを接木にして啓太郎櫻が出来、

その実生から生まれた櫻が、啓翁櫻となったものである。

落葉小高木、樹皮は黒く、小枝の分岐が多い種で、枝先は波うって、

横に広がる傾向があり、樹幹から気根を出す。成葉は10センチ。

幅5,5センチで、先端は尾状鋭尖形、基部は円形、鋸葉は重鋸葉で丸みを帯び

先端は鋭尖形で、葉の表面は暗緑色で、裏はやや白っぽく、

やや疎らな短毛がある。葉柄は暗紅紫色で、上端に1~2個の蜜線がある。

花序は散形状で2~3花からなる。全体で少数の緑毛があり、外面には

散毛がある。花弁は淡紅色で、広卵形の、長さは約1センチほど。

先端に切れ込みがあり、花柱は無毛だが、淡い上品な香りを発する。

 

冬に咲く啓翁櫻は、温泉が地下水として通り、眠りから覚めると、

下限10℃で、上限は20℃で、徹底管理され、開花しないうちに出荷され、

真冬の店頭に並ぶのである。冬咲きは他にハツミヨザクラやマメザクラがある。

それも温泉を利用し、ビニールハウスで育成され、観光で見られる櫻ではない。

ただ何故かとってもいじらしいのが、冬の櫻なのである。

 

いずれにせよ、私たちの櫻仕事は年がら年中で、真夏に来期の花芽をつける。

春一瞬の満開の櫻、花が散っても、櫻木は始終仕事をしているのである。

特に古樹から取る実生の苗は2リットルの種につき、僅か3本の芽が出て、

その中から、たった一本の苗木しか実生の櫻として出来ないのであり、

櫻を育てるのも、人を育てるのも、時間と根気が必要不可分なのである。

 


  北の櫻は、「波流能由伎」

2011年05月08日 | 

弘前城 天守閣を望みて 枝垂れ櫻の乱舞

 

 

 

 

北の櫻は、「波流能由伎」

 

 

爛漫と咲く弘前の櫻。お岩木山の純白の雪とかさねあひ、

散りかけた櫻に、ただただ一体となってまどひて舞っておりました。

何気なく哀しげな花の美しさに、私はオロオロと歩いてばかり。

花は何とて美しく、何とて香るらん。

 

京都のじぃじが買ってきてくれた亀岡・丹山酒造の「蔵出し一番」にそこそこに酔い、

ばぁばは子供たちを独り占め。やっと落ち着き、酒盛り。妻は飄々として、杯を傾けたり。

じぃじは太棹三味線の演奏に夢中。津軽アイヤ節まで歌いだす始末。

花吹雪、人々の笑顔。やっと戻ったか平静。だが多くの人は静かな歩み。

 

天守閣にいたる朱塗りの橋がかり 櫻繚乱たり

 

お城を出て、下の岩木川沿いに出てみると、鬱金や一葉や関山や松月などの八重の櫻が、

川沿いの土手に規則正しく植栽されておりました。この川沿いを登れば白神山地。

酒の勢いで、久しぶりに妻と手を結び、再び城内へ。まさに「波流能由伎(はるのゆき)」

 

恐らく日本一樹齢が古い染井吉野か 林檎園での剪定の技術が生かされていた

 

青森にある樹木の剪定技術は公的化され、弘前市役所に技術者がいる。

ただ染井吉野が多く、私はそれほど感心しないが、ここまで来れば立派の一言。

惜しむらくは、全国の城郭にある染井吉野はすべて戦勝記念植樹。殆どのお城は、

嘗て「錬兵場(れんぺいば)」となっていて、ご維新後、暴走した軍国主義と無縁ではない。

日清・日露戦争から、第二次世界大戦でもデマで戦勝とし植栽された経緯を持つ。

山櫻や江戸彼岸の樹木は鉄砲の台座となり、消えていった。秤や桝に利用されることなく。

そして版木(浮世絵で使用された木材)としても堅い樹質がいつしか失われていった。

 

染井吉野で日本一の樹周を誇っている 手を掛ければ櫻は応えてくれると人の言い

 

いずれ染井吉野だけの櫻の公園は消えてなくなるだろう。

だから私たちは山櫻と江戸彼岸しか扱わない。

染井吉野が欲しかったら、「財団法人日本さくらの会」へ依頼すればいい。

千本単位で戴けることだろう。

 

散り始めた櫻の花が直ぐに天守閣を染め上げることだろう

 

西目屋村の友人に電話連絡すると、白神山地にはまだ雪があり、

「暗門の瀧」から入る営林道を通り抜け、深浦に出て、波打ち際の露天風呂に浸かり、

地元の人が「ジュ~っと落ちる」と表現する、豪快な日本海の夕日を見せたかったのだが、

ブナの新緑と山櫻の競演を諦め、市内元寺町にある老舗旅館『石場旅館』に投宿す。

じぃじとばぁばと、私と妻と、子供たちと六人で、一部屋の和室にて賑やかに会食す。

 

夜櫻のライトアップ 割と静かな宵でした

 

妻と二人きりで、再び夜櫻見物へ。

お城の周辺や天守閣辺りには大勢の人々が。城内深く入ると、静かな櫻の宴。

どこからともなく聞こえてくる泣き三味線の太棹や、ネプタの哀調を帯びた篠笛の音。

地色が翡翠色の加賀友禅を着た妻は、櫻以上の艶やかさ。夜半の柔らかい光に映える。

 

一泊し、朝早く青森まで移動、新幹線に乗り換え、八戸へ。朝市がお目当て。

可笑しなことに、じぃじとばぁばは買い物に熱中、愛する孫はこの際無関係。

アツアツのセンベ汁に舌鼓。一抱えも買った京都へのお土産のすべてを宅送に。

港近くでは陸に上がったままの幾船もの残骸。過酷さをモノ語っていた。

 

函館・五稜郭の櫻、松前の櫻群、静内の二十間道路の蝦夷彼岸、

納沙布岬に咲く山櫻、小樽の銀鱗荘の山櫻、千島櫻などに思いを馳せながら、

久し振りの家族サービス。一泊二日の忙しないサービスだったが、まぁまぁだろうか。

二つ目の博士論文が通り、今年から或る国立機関の准教授となった

我が妻は晴れ晴れとした表情。愈々研究に打ち込む覚悟と決意キッパリ。

熱狂的な「恋」から、深淵に至る「愛」へと変化しつつあるのだろうか。

 

 <今日は母の日。朝早く、母の墓参へ。いつからか真紅のカーネーションをささく。今回、青森へ旅に行くと言ったら、京都からすっ飛んできた義父母。いつもよくしてくれる。義母にも花束と、工房藍木野の久留米絣のワンピースを贈る。宅の叔母にはニチロ毛皮の春色(薄いピンク)レザー・ジャケットを贈る。若返ったとニコニコ顔。嬉しや。ただ被災地で未だに難渋を強いられているお母さん方に、幸運あれ!>


 日光・白根山の高嶺櫻

2007年07月09日 | 

 

 

 

 

日光・白根山の高嶺櫻

 

 

 

友人のガイドから知らせがあったので 

早速車を走らせ 奥日光で待ち合わせた

東京から約300キロ 日光・丸沼は低い曇天で寒かったが 

早々に山登りの身支度をする 既に友人はやる気漫々だ

登り始めると 早速ガスが掛かって先が見えない 

雨も降り出し 友人の後を必死になってついて行く

足許を見ると 健気に可愛いイワカガミや白根葵や低木の日光石楠花が

花いっぱいで 高山での寒冷地の花々は 今が盛りと咲いていた

一瞬晴れ渡った すると目の前に何とまぁ可愛い高嶺櫻が咲いているではないか

しかも群落している 泣けて来るような歓喜が湧いて来る

夢中でシャッターを押す もう午後に差し掛かっていた

美しい 小さくて可愛い よくもまぁこんな時季に咲いてくれてと

ひたすら感謝する よく観るとどの櫻も下を向いて咲いている

恥ずかしいのか シャイなのか 乙女心か この櫻は観音さまか

しばらくそこでオニギリを食べ 櫻の香りと共に過ごした 

山頂は直ぐそこにあるのに 登るまで目的は達成された

私達は それだけを長い時間を掛けて観 満足して帰途についた

奥日光の温泉に着いた頃は 辺りは真っ暗になっていた

そう この感動を胸に ここでひと晩過ごそう 

硫黄分を含んだ温泉に 長々と身体を投げた

 

 

今日から入谷の朝顔市と交代するように 浅草寺ではほおずき市が二日間立つ

そう言えば 今日は鴎外忌であるのだろう 『森林太郎』と書かれた墓碑名を思い出す

 


 平地での櫻前線の最期

2007年05月24日 | 

 

 

 

平地での櫻前線の最期

 

 

この23日 北海道・札幌市の大通り公園で 

北海道の花盛りの時節を告げる「さっぽろライラックまつり」が始まった

ちょうどそんな折りも折 根室の友人から「千島櫻が咲いたよ」と一報を受けた

これが平地での櫻前線の最期である 来月初めで終わるのであろうか

朝からしんみりとした

 

今年二ヶ月あまり櫻を追い掛け 櫻行脚の旅をし何を得たのか 

今回の分は今回の分として 纏める必要があるが

まだまだその考えを纏めるまでには至っていない

 

ただ今の段階で 幾つかは課題として言えるのではないかと

そんな考えがあって ここでは少々だけ その一端を披瀝したい

 

① 櫻は 神代(縄文後期~弥生時代)の昔より存在し 

日本人の心に深く根ざしていたのではないか

(飽くまでも仮説だが 今後実証出来れば素晴らしいことである)

 

② 櫻は 日本文化の形成の過程に深く関わっていた 櫻がそう

したのではなく 日本人の美意識が 櫻をそうして深く引き込んだ証左が多い

何故そうなのか 研究し探訪し尽くし 今後の創造に生かせたらいい

 

③ 櫻と民間信仰の結び付きも 深く指摘しなければならない

何処の櫻の古木にも小さな祠があったが 祠は櫻との関係の証であり

何か同一の神なのか 特別な民間信仰が関わっていたのか 

或いは櫻そのものが ご神木と言う意味であるのか

今後の根気強い調査を待ちたい

 

④ 櫻の保護・育成を考えた場合 高度な農業技術が必要である 

弘前で観た染井吉野の延命技術に そのすべてが関わっていた

 

⑤ 櫻のイメージを染井吉野に集中させるのは 間違いである

古来からあった櫻は 山櫻の中でも 山野に最も多く分布していた

霞櫻(カスミザクラ)の存在を無視できないし 豆櫻もそうかも知れない

 

⑥ 櫻の中で最も長寿な櫻は 江戸彼岸に違いないが

江戸彼岸の良さをもっと多くの方々に 再認識して戴く必要でありたい

 

⑦ 櫻の新種が最も多い時代は 江戸期であった

改めて復興するか 多くの新種を開発しなければならない 

その際 極力実生から出来る新種が望ましいが 

接木で出来る種類も止むを得まい

いずれにせよ 超近代的な染井吉野一辺倒では 

日本人の櫻観に危機的状況をもたらすのではないだろうか

 

⑧ 櫻の自然肥料の開発をする必要がある 予防対策も含めて

多くの場合 根腐れや根っ子のシロアリや根頭ガンシュ病でやられていた

又湿潤な土壌には ナラタケ病や根こぶ線虫が潜んでいるので 土壌改良の研究

罹病した樹や土壌は 今の技術では全く使えるものではない 

更に染井吉野には 容易にテング巣病に懸り易く 切除する闘い等から 

櫻専門の樹木医の育成が是非必要であり 喫緊の課題でもあろう

 

⑨ 櫻はその材料から 様々な利用の仕方がある 

観賞用だけではない 花片は茶になり 櫻の葉は和菓子の材料であり 

木肌は細工モノに利用され 樹幹そのものは燻製用に焚かれる用途がある

それら用途の研究も 是非必要があろう

 

あらましこんなことを考えさせられた旅だったと思うが

我々の櫻チームには それぞれの分野で活躍出来る人が多くいる

日本女子大学の櫻専門の研究グループや

他官民両方の外部研究機関にも 密に連絡を取って 

更に多くのことを吸収しながら 成長していければいいと思う

櫻山計画は 待ったなしの状況で進んでいるのだから

 

これから私の櫻見学の旅は 仕事の合間を見て

高地へと向かう 日光を始めとして

日本アルプスの山々に 高嶺櫻や峰櫻を観に行くことになろう

櫻を全く観れないのは あの暑い真夏の八月一ヶ月だけで 

その時季 櫻は来期の花芽をつけるのだ

 

 


 蔵群にて 旅の終わりに

2007年05月07日 | 

 

 

 

蔵群にて 旅の終わりに

 

 

夕べ遅く小樽・朝里川温泉の『蔵群』に到着する

やはり相当疲れているらしい そこで明日夜のフェリー便で 

私が乗って来たランド・ローバーを 小樽から舞鶴に送り

京都のオフィスの人に 舞鶴まで車を取りに来て戴き 

詳細な手続きは直ぐ行うことにし オフィス用に使えるようにした

 

思い掛けないことに 私の結婚について 

道草先生始め カフェさま・夕ひばりさま・野の花さまから 

それぞれに 素晴らしいお人柄を表現されたご丁重なご祝辞を戴いた

特に道草先生が親族のように 分厚いお祝いの文章には感動させられた

 

更に何気なく今朝 MSNのメールを開けて見たら

何とまぁ 雪月花さまからのグリーティング・カードが届いていて

美しいカードで 雪月花さまらしいご丁寧なお祝いが述べられていた

その中に 女心を大切にとのご指導があって 何と嬉しかったことか 

 

これから堂々と逢える そう思うだけで胸が否応なく高鳴る

然も会長始め本社からも 櫻チームの皆さんからも祝辞が届いていた

何と言う幸せ者だろうか 偏に亡き主人が見守っていて下さるからだと思え

早速携帯電話にて そのことを彼女に伝えた

 

彼女も嬉しそうにして 私の旅の無事を神に感謝し 迎えに来たいと言う

私は車をフェリー会社に明日届けたら 飛行機で千歳から羽田へ帰る予定だ

新幹線で彼女は来る ほぼ同時刻に品川に着くように打ち合わせた

品川駅から徒歩でほんの少々歩いた処が自宅で 

時間が幾分かずれた場合 先に御殿山の自宅に行っているようにと告げた

もし私が先なら ずっと駅で待っているよと

 

国立競技場の二十倍もある広さの 札幌市内よりやや郊外に

イサム・ノグチ設計によるモエレ沼公園がある 

そこのサクラの森に植栽した約3000本の蝦夷山櫻や

静内の蝦夷山櫻や根室の千島櫻が気にならないでもない

でも昨日のニッカでの出来事で プツンと張り詰めた糸が切れ

今度の旅の終焉を知った これでいいんだと 長かった旅の終わりは

朝里川温泉で眠って湯に浸かって 何とか明日までに疲れを取りたいものだ

 

さぁ 再びテンコ盛りの仕事と彼女との新しい生活が待っている

頑張ろう 櫻行脚よ グッバイ!

 

 

口絵は 今年彼女をもう一箇所連れて行った長谷寺の櫻の写真を掲載しておきましょう

 

http://www.sapporo-park.or.jp/moere/index.php モエレ沼公園

http://www.kuramure.com/ 小樽・朝里川温泉『蔵群』

http://www.hasedera.or.jp/ 長谷寺ホームページ