白石市 白石川一目千本櫻 山並みは蔵王山系
名もなき櫻守を尋ね、花遍路
北へ北へ。急く心を抑えつつ、花を観ようとジープを跳ばしたあの日。原発エリア内の櫻たちは今年も平然と咲いていた。どこか変異はなかったかと奇妙な心配をしつつ櫻行脚へ。土浦市立真鍋小学校の106歳の、五本の染井吉野もとっくに終わっていた。今年も上級生に新一年生がオンブされ、櫻樹の周囲を回っただろうか。北茨城の辺りの櫻も既に花が終わり、富岡町の櫻も気になったが、何せそこまで行けない。警備する警察官にお疲れ様とご挨拶をし、そそくさと先を急ぐ。飯館村で震災が起こるまで20年間、2000本の染井吉野を植え続けた会田征男さんは被災後初の花見を、4月24日全村民避難地区で僅かな時を惜しむように、ジュースで乾杯しながら挙行されたようである。各地から集まった村民は50人だったとか。今年の櫻は予測不能な突然の開花。そして駆け足で北へと向かって行き、どうしても追いつかない。こんなことって滅多にないことで、春から秋の来るような不条理観を感じながらの一人旅。三春の瀧櫻も終わりに近づいていた。急ぎ会津へと向かう。今年の太河ドラマ『八重の櫻』の冒頭に出て来る石部櫻を観に行く。西郷頼母の武家屋敷近くで、飯盛山の下に位置する石部櫻。中世会津の領主葦名氏の重臣・石部治部大輔(いしべ じぶだゆう)の庭にあったと伝えられているが、今は田圃の真ん中。10本の幹からな り、どう観ても一本の樹幹にしか見えない不思議さ。枝張は最も広いところで約20mもあるだろう。樹勢は二十歳の青年のような勢いで素晴らしい。鶴ヶ城の染井にどうにか間に合ったようだが、会津坂下(ばんげ)町の杉の糸櫻はちょうどよかった。真下に片栗の花が背を伸ばし、そっくり返って愛嬌を振りまいていた。会津の町より、坂下はやや寒いのかも。喜多方を通り過ぎ、新しく出来た長いトンネルを抜けると雪の米沢。米坂線の小国は豪雪地帯で今年もドッサリ積もったことだろう。私は市内に行く前に、雪の残る長井市の久保櫻を訪ねる。養生杭が痛々しいほど多く、直ぐ傍の小学生たちの歓声を尻目に後にし、花芽を確認すると、米沢へ。米沢周辺の花回廊はちょうど元気いっぱいであり、釜の越し櫻も白兎の枝垂れ櫻もみなまだ寒風の中、そそと咲き始めていた。本来なら四月下旬に咲くものを。米沢に来た時には必ず行く林泉寺へも。同じ大きさの兼続夫婦のお墓が大好き。あんな時代によく、同じ大きさの夫婦の墓が作られた。兼続の意思だろうか。綺麗にお墓への道は雪かきされていて、祈願す。米沢の櫻は未だし。板谷峠を逆に福島へと峠を越える。どうしても花見山を観たかったからだ。阿部一郎さんの私有地で、二年ぶりに見学が許された嬉しさ。花見山の見事さ。見学者も随分回復していた。さすがに福島は、圧倒的な春の香り。一気呵成に花が咲いている。庭坂など、広大な梨畑はいつしか住宅地へ。東京で、人間のご都合により勝手気儘に開発され、鬼平犯科帳のユルリとした江戸情緒の欠落に常に愕然としている私に、福島でもそうなのかと少々無念なりき。それでも櫻、花桃、梨、など多くの果樹の花が圧倒する。急ぎ白石のひと目千本の櫻を見学。飯坂に一泊し、再び逆行し山形国道13号線を北上する。山形へ出て霞城跡をチラ観。関山街道から作並街道へ出る国道48号線へ。所々見える早咲きの山櫻が美しい。私は新芽の中に意外性をもって季節限定に表出する山櫻が最も美しいと常々思っているが、辛夷と櫻が競演し残雪残る山肌はわぁわぁ泣きたくなるほどの美しさ。仙台に出ると既に満開を過ぎた染井が。被災された海岸通りを走る。時々車から降りて、平穏な海に向かって合掌す。三年目になろうというのに、何度手を合わせたことだろう。それでも足りない。祈っても祈っても祈りきれない残酷な自然災害。二年前、津波により塩害を被った櫻木はいつも通りに咲いていたのに、去年やや少なく花を着け、愈々今年は60%も減ではないのか。塩害はそうして櫻を駄目にした。あんなに花を待っていた被災者たちに、特別に残酷な話だが、枯れた櫻樹の伐採の通知。土手や道路の嵩上げのためだという。そういえば岩手県釜石市唐丹町本郷地区の櫻並木は昭和津波の経験から高台の道路に植えられ、今年も健全で咲き誇っていた。経験則として多くの櫻プロジェクトが各地に立ち上がったのだった。
白石市 一目千本櫻
今回の櫻旅は盛岡停まり。裏日本と太平洋側と行ったり来たりしながら、花の時季を見計らっていたが、櫻前線の北上は意外に遅く、弘前は諦めた。今日あたり、漸く満開になったようである。多分前線は津軽海峡を越えていまい。静内の圧倒的な櫻並木は通常なら5月8日から咲き始めるのだが、今年の異常気象のせいで、一週間以上遅れることだろう。
樹齢100年を超す染井吉野は全国で、たった8本しかない。所謂名木とされる櫻はヒガンザクラかヤマザクラのどちらかで、実に6732本に上る。全国にある櫻は2億8万本以上らしいが、正に当てずっぽうの数量であり、誰もその総数を当てたことはない。山野に咲く霞櫻や、富士周辺に咲く豆櫻など、どうやって数えるのだろう。殆ど無益なことかも知れないが、ただ全国にいらっしゃる櫻守の方々は、この3年間かけて大凡の見当がついた。無論櫻守の定義はある。先ず櫻を愛すること、一本以上の櫻の育成や管理を一定の時間以上に関わっていること、病害駆除や折損などの手当てをしていること、櫻を日本文化の象徴としてお考えのことなどである。これも茫漠たる話で、私たちが考えた櫻守の定義は聊か危ういものと覚悟しているが、何かと連絡しあったり、ご相談に乗ったりするのに、非常に便利であることは確かである。その把握している人数は3万人を超える。櫻守の呼称は佐野藤右衛門さんだけの特許ではない。無論第一人者に相違ないが、明治期に活躍した三好学博士を忘れられない。彼の労著『櫻図譜』は未だに手許を離れないでいる。今更いうまでもないが、牧野富太郎先生もそうである。更に最も頭が下がる御仁は笹部新太郎先生である。水上勉氏の小説『櫻守』に出て来る竹部庸太郎として有名であろう。
『櫻守』 水上勉(みずかみつとむ)著
物語は、主人公の庭師北弥吉の幼い日、山櫻が満開である在所の京都府北桑田郡鶴ヶ岡村の背山を木樵の祖父と登って行くところから始まる。弥吉はそこで初めて山櫻の名を覚えた。祖父は小舎の前に木端をあつめて火を焚いた。母とむきあって、話しこんでいた。話の様子は、父のことらしい。弥吉はのけものにされた思いがして雑木山へ入り、岩なしをとった。口のはたが、実の色で染まるほどたべて、弥吉は小舎に走り戻った。すると、祖父と母は小舎のまわりにいず、火が消えていた。弥吉は急に淋しくなって、尾根づたいに櫻山の方へ歩いた。と、不意に足もとから、母と祖父の笑う声がした。満開の櫻の下だった。遠目だからはっきりしないが、かわいた地べたに、白い太股をみせた母が、のけぞるように寝ていて、わきに祖父がいた。家では、いつもいらいらしている母が、楽しそうにはしゃいでいる。弥吉はいかにも秘密めいた感じが、そこにあるような気がした。呼ぶのに気がひけて、しばらくだまってみていてから逆もどりした。見てはならないものをみたような、一瞬、はずかしい気持ちが襲った。弥吉は眼を閉じて歩いた。と、立止った所に、一本の櫻があった。小菊の花でもみるような、薄紅の花びらを何枚もかさねた大輪で、一匹の蜂が花の中へ頭をつっこんでいた。峰は蛹型の尻を小きざみに振った。蜜をすっているのだと思った。その日、満開の山櫻の樹の下で久しぶりでついてきた母と祖父の情事の余韻を見る。この情景は弥吉の心に深く焼き付けられる。
まもなく祖父は死に、母は宮大工の父に離縁される。その後、弥吉は新しい母になじめず、実母を思って暮らす。14才のとき、京都の植木屋「小野甚」に奉公する。そこで生涯の友であり先輩である、石に詳しい庭師橘喜七に出会う。その喜七の紹介で、大阪中之島の資産家の次男で東大を出て、生涯無位無冠で櫻一筋に情熱を傾ける櫻研究家竹部庸太郎の雇い人となった。弥吉は竹部が持っている武田尾の櫻演習林や向日町の櫻苗圃などで特に接木や接穂作りなど山櫻の種の保全と育成、普及の研究の下働きをすることになった。そんなある日、竹部と弥吉は武田尾の演習林からの帰り道、どうしても通らなければならない福知山線のトンネルの中で臨時列車に遭遇する。列車の煤を洗うため立ち寄った武田尾温泉の「まるき」で弥吉は仲居の園と出会う。その奇遇で弥吉と園は、周囲のすすめもあって結婚する。
ふたりは櫻が満開の演習林の番小屋で初夜を迎える。この里櫻の楊貴妃は番小屋の屋根にとどくぐらい枝が垂れていた。弥吉が腕をはなして、畳へ眼をやると、乱れ髪がながれて、楊貴妃の花弁が一つ、小貝をつけたように着いていた。弥吉はうっとりとそれを眺めた。そしてふたりは武田尾の番小屋で新婚生活を始める。だが時局は逼迫し、武田尾の櫻山も向日町の苗圃も例外ではなかった。武田尾は松の供出を迫られ、向日町の苗圃は地目が畑地であったことや不在地主に認定されたことから食糧増産のため買い上げられる羽目に陥った。そんななかでも、竹部は名木ありと聞けば訪ね、その接穂をもらい受け、日本の伝統的櫻を残そうと私財を投じて、何百本もの名木の接木や実生を育ている。損も得もない。先生は自分の財産をつこうて日本の櫻を育ててはんのやと弥吉は竹部を尊敬している。弥吉は菊櫻など接木について竹部からかなりの手ほどきを受けた。失われたといわれる「太白」という品種をイギリスの櫻研究家が日本への里帰りを支援するとの話に、竹部は密かに「太白」を接木して持っていた。弥吉と園は日常生活を考えて、竹部の許しを得て武田尾から向日町の苗圃にある小舎へ移り住む。ここは数千本の山櫻の苗木の園である。大阪造幣局、橿原神宮参道、琵琶湖近江舞子、根尾、みなこの苗圃で育て、竹部が植えたものだった。
秋のある日、根尾の薄墨櫻の櫻守、宮崎由之助の甥が出征前の寸暇をやり繰りして叔父の死を竹部に伝えに来た。この向日町の苗圃で弥吉は竹部から櫻栽培のこつを熱心に教えられた。竹部は櫻に明け暮れていた。竹部の父親が変わっていたらしい。「大学にゆくのはいいが、月給取りにはなってくれるな。月給を取らずとも、一生どうにか暮らせるだけの物は残しておく。そのかわり、お前は、どんなことでも、白と信ずれば白と云い切る男になれ。お前の母親は二つの時に死んでいる。母の顔を知らないお前に、こんなことをいうのもわしの慈愛だと思え」と教え、当時としては高価なカメラも買い与えたという。また、大学の和田垣謙三教授から、「生涯をかけろ。日本一の櫻研究家になれ」と励まされた。竹部は学者のように机上でものを考えるのでなく、研究家であると同時に実践家でもあった。彼の持論は、古代より日本の伝統の櫻は朱のさした淡緑の葉とともに咲く山櫻(里櫻も含む)だ、近頃、流行っている染井吉野は違う、と主張する。また、学者は視野が狭く、造園業者は金でしか考えないし、役所、役人は長期的視野に立っていない。植樹はするが、日常管理など後の地道な保全育成に何の見識もないと断じ、櫻の衰退を嘆いた。園は、なぜ竹部は櫻気ちがいのようになったのだろう、と訊く。弥吉は密かに櫻の木の下の祖父と母を思いだし、早く母を亡くした竹部にも、一生忘れられない、同じ風景があるのではないかと思った。そして心の中で竹部も弥吉も櫻のために生まれてきた人間だと思う。昭和20年3月、弥吉に徴用が来た。行き先は舞鶴軍需部だった。その少し前、園に妊娠の兆しがあった。舞鶴では本土決戦に備えたタコ穴掘りの日々だった。3月中頃、鶴ヶ岡から召集令状到達の知らせが電報で届いた。弥吉は伏見の輜重輓馬隊に入隊することになった。弥吉は妊娠のはっきりした園と新婚生活を送った武田尾の演習林に行く。そして園と楊貴妃の花のイメージが重なる。弥吉は園を狂おしく抱き、遅咲きの八重が散る下で、母が白い足を陽なたに投げ出してはしゃいでいた情景を思い出していた。園の顔と母の顔が重なった。その夜、ふたりそろって、岡本の竹部に別れを告げに行った。軍隊は苦しかったが、8月15日弥吉は終戦の詔勅を聞いた。実家に帰ると、父から実母が再婚した岐阜のつれ合いに死なれ、雲ヶ畑に戻って百姓をしていると聞く。しかし、弥吉は母に会わずに京都の喜七を訪ね、園も含めて、喜七の所に世話になる。弥吉と喜七は小野甚で培った人脈を辿って、野菜売りをして戦後を乗り切る。園は長男槇男を産んだ。昭和23年4月、弥吉と喜七は小野甚に復帰し、待望の庭造りを大喜びで始める。初仕事は料亭「八海」の新しい庭造りだった。しかし、設計家は、東京から来た大学出の若い造園家だった。彼の設計意図は花木のにぎやかさと石組みの豪華さだけを強調した外人好みの庭造りだ。特に櫻の植え方では、里櫻の普賢象を築山の常緑樹のうしろに隠し植えよ、と若い設計者は言う。弥吉の思いとは違う。
櫻はうしろに常盤樹をめぐらせて屏風にしなければ映えない。これは常識だった。空に向って咲くのでは空の色に吸われるのである。竹部はいつも言っていた。世の中は表面的な美がもてはやされる中、櫻をかわいがる人もいた。京都広沢の池の宇多野は京の櫻の母親であり、竹部は日本の櫻の父親といえた。昭和29年38才の弥吉は京都・鷹峰に家屋敷を買った。昭和36年、弥吉45才、園42才、槇男16才になっていた。喜七は50才半ばをこえ足を痛め、息子の喜太郎が跡を継ぎ、弥吉がその親方だった。昭和36年4月、弥吉は新聞紙上で名神高速道路建設により、櫻を守るための砦としての向日町苗圃が数百本の櫻とともに消えゆくことを知った。弥吉は竹部に会いたくなった。岡本の駅で阪急を降り、弥吉は、なつかしい川沿いの道を歩いた。鉄扉をあけて弥吉は「京の植木職の北ですねや」といった。竹部は柔和な老爺の貌をほほえまして、そこにのっそりと立っていた。そして竹部は向日町の櫻苗圃の件ではごね得と言われ、心を痛めている経緯を話し、20年以上土作りをしてきた櫻苗圃のなくなることを憂えた。
そのときすでに竹部は荘川の御母衣ダム建設に伴う樹齢400年以上のエドヒガン2本の移植を引き受けていた。電源開発公社芹崎哲之助の熱心な依頼に寄った。四百年も生きた老木、しかも櫻の移植など聞いたことがない。竹部は今日七十五歳である。櫻一途に生きてきて、すべての財産を投じて、櫻の品種改良と日本古来の山櫻の育生に身をけずる思いできた。その今までの努力はわかるけれども、老境に入って、前代未聞の老櫻の移植をひきうけている。もし不成功に終わったら、竹部は今日までの櫻にそそいだ人生を棒に振りはしないか。弥吉はそう思った。「松や櫻は移植に弱い」。しかし、竹部は辛苦の末、この老櫻2本の移植に成功した。湖水は両側の山影をうかべ、ちりめん皺をたてて鏡のように凪いでいた。二本の櫻は、新しい枝を張って芽ぶいた若葉のあいまからうす桃色の美しい花をのぞかせて、春風にゆれていた。
弥吉の息子、槇男は高校を終え、音楽家になりたい夢を抱きながら、弥吉の後を継いだ。昭和38年5月、鶴ヶ岡の弥吉の父が死んだ。若い頃は宮大工としてよく働いた父だが、いまの義母と一しょになってから、働かなくなり、戦後は、まったくののらくらで、義母と長男が田を作り、生活を支えてきた。弥吉の母を追いだしたあたりから、父の性格に暗い墨が入ったようである。生涯、父は弥吉に母を捨てた理由をいわず、仏頂面を押しとおして、死んだのであった。弥吉も実母を訪ねていく勇気はなかった。気持ちは複雑だった。弥吉は実母を恨んでいなかった。実母の姿は憧れの中で生々としている。弥吉の思い出の中では、母は美しくて、それでいて、どことなく、背姿が淋しかった。昭和39年10月12日、弥吉は死んだ。死ぬ前に「お前らにいうとく。わしが死んだら、海津の清水の墓に埋めてくれ。寺に頼んでくれ。あすこの櫻は立派な八重やったと桜の木の下で眠ることを頼んで死んだ。享年48歳、膵臓癌だった。「わたしは、まあ、好きやから、今日まで櫻、櫻というて生きてきましたけど、北さんが、なぜこんなに櫻がすきやったか……そのわけを聞かずじまいに終わりました」と謎を投げかける竹部であった。そして参列者みんなで見上げる櫻は、墓地の大櫻が、朱の山を背に黒々と浮きあがる気がした。
正しくこの小説で語られているように、笹部新太郎は櫻のためだけに生きた。櫻守の代表格と言えよう。笹部が愛した武田尾山中に行かない春は淋しいものである。「亦楽山荘」と表示されたその場所へは今は歩きでしか行けないが、私にとって極めて重要な山中である。
だが私は著名な櫻守だけではなく、多くの素晴らしい櫻守を存じている。被災地で櫻プロジェクトを立ち上げた人たち。戦時中、多くの教え子を「日本は神の国だ、負けるはずがない。元気に戻って来い」と発破を掛けた一教師が、戻らなかった多くの戦没者に対し、慰霊のため荒れた土壌でも寒冷地でも咲くようにと、生涯を掛けて開発した「陽光」。カンヒザクラとアマギヨシノの交配種で紅色が強く木肌が美しい櫻である。不戦の櫻として全国に9万本の苗木を届け続けている高岡正明氏。この櫻は江田島の学徒出陣で散った方々が眠る品覚寺にも植えられている。陸前高田や気仙沼などにも多く配られ、それらは津波到達地点に植えられ、今年漸く花を付けた。現在は御子息が跡を継がれている。若い時農作業が忙しいからと言われ花見が許されなかった内子町の竹崎勇さんは、ならばと言い、自宅にエドヒガンの枝垂れ櫻を植えた。それから60年、妻一子さんと共に毎年花が咲くのを楽しみにしている。山間の小さな集落にあるこの櫻を観に、毎年大勢の観光客が訪れている。「相野のサクラ」として有名で、勇さん一子さんご夫妻も立派な櫻守である。愛媛県岩城島積善山に咲く3000本の櫻は島民の思いの丈が詰まった櫻で、しまなみ海道の櫻の美を存分に堪能出来る尾根だが、一本一本に櫻守がいると言っても過言ではない。沖縄本島から西へ100キロ、久米島がある。ヒゲ爺こと、喜世盛昌興さんから受け継ぎ、クメノサクラを懸命に育てている保久村昌欣さんがいる。クメノサクラの発生は謎だらけで、人手によってしか櫻樹が成り立たない。最初白く咲き、次第にピンクに変化して散る儚さ。美しい南国の櫻だ。久米島に櫻通りを作りたいと今日も頑張られておいでである。愛知県新城市の比丘尼山では、9000本の櫻を植樹した岡田真澄さんもいる。北海道の松前には浅利正敏さんが櫻博士として多くの新種の櫻を作出された。瀧櫻のように、一本の名木に多くの櫻守がいるところもある。様々だが、全国津々浦々にいらっしゃる櫻守の先達たちに謙虚に教えを戴きながら、明日の私たちの糧としよう。
クメノサクラ 謎だらけの不思議な櫻である
連休は今日まで。東京の人間は連休中はそうは出掛けない。心の中の故郷を思い、墓参や、庭木に手を入れたりしながら静かに時を過ごす。勝手気儘に開発された都会の構造は嘘だらけで、江戸切絵図などを相手として観て、池波正太郎や藤沢周平の江戸の想いに遊ぶ。