硯水亭歳時記

千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた

     名もなき櫻守を尋ね、花遍路

2013年05月06日 | 

 

白石市 白石川一目千本櫻 山並みは蔵王山系

 

             

         名もなき櫻守を尋ね、花遍路

 

 北へ北へ。急く心を抑えつつ、花を観ようとジープを跳ばしたあの日。原発エリア内の櫻たちは今年も平然と咲いていた。どこか変異はなかったかと奇妙な心配をしつつ櫻行脚へ。土浦市立真鍋小学校の106歳の、五本の染井吉野もとっくに終わっていた。今年も上級生に新一年生がオンブされ、櫻樹の周囲を回っただろうか。北茨城の辺りの櫻も既に花が終わり、富岡町の櫻も気になったが、何せそこまで行けない。警備する警察官にお疲れ様とご挨拶をし、そそくさと先を急ぐ。飯館村で震災が起こるまで20年間、2000本の染井吉野を植え続けた会田征男さんは被災後初の花見を、4月24日全村民避難地区で僅かな時を惜しむように、ジュースで乾杯しながら挙行されたようである。各地から集まった村民は50人だったとか。今年の櫻は予測不能な突然の開花。そして駆け足で北へと向かって行き、どうしても追いつかない。こんなことって滅多にないことで、春から秋の来るような不条理観を感じながらの一人旅。三春の瀧櫻も終わりに近づいていた。急ぎ会津へと向かう。今年の太河ドラマ『八重の櫻』の冒頭に出て来る石部櫻を観に行く。西郷頼母の武家屋敷近くで、飯盛山の下に位置する石部櫻。中世会津の領主葦名氏の重臣・石部治部大輔(いしべ じぶだゆう)の庭にあったと伝えられているが、今は田圃の真ん中。10本の幹からな り、どう観ても一本の樹幹にしか見えない不思議さ。枝張は最も広いところで約20mもあるだろう。樹勢は二十歳の青年のような勢いで素晴らしい。鶴ヶ城の染井にどうにか間に合ったようだが、会津坂下(ばんげ)町の杉の糸櫻はちょうどよかった。真下に片栗の花が背を伸ばし、そっくり返って愛嬌を振りまいていた。会津の町より、坂下はやや寒いのかも。喜多方を通り過ぎ、新しく出来た長いトンネルを抜けると雪の米沢。米坂線の小国は豪雪地帯で今年もドッサリ積もったことだろう。私は市内に行く前に、雪の残る長井市の久保櫻を訪ねる。養生杭が痛々しいほど多く、直ぐ傍の小学生たちの歓声を尻目に後にし、花芽を確認すると、米沢へ。米沢周辺の花回廊はちょうど元気いっぱいであり、釜の越し櫻も白兎の枝垂れ櫻もみなまだ寒風の中、そそと咲き始めていた。本来なら四月下旬に咲くものを。米沢に来た時には必ず行く林泉寺へも。同じ大きさの兼続夫婦のお墓が大好き。あんな時代によく、同じ大きさの夫婦の墓が作られた。兼続の意思だろうか。綺麗にお墓への道は雪かきされていて、祈願す。米沢の櫻は未だし。板谷峠を逆に福島へと峠を越える。どうしても花見山を観たかったからだ。阿部一郎さんの私有地で、二年ぶりに見学が許された嬉しさ。花見山の見事さ。見学者も随分回復していた。さすがに福島は、圧倒的な春の香り。一気呵成に花が咲いている。庭坂など、広大な梨畑はいつしか住宅地へ。東京で、人間のご都合により勝手気儘に開発され、鬼平犯科帳のユルリとした江戸情緒の欠落に常に愕然としている私に、福島でもそうなのかと少々無念なりき。それでも櫻、花桃、梨、など多くの果樹の花が圧倒する。急ぎ白石のひと目千本の櫻を見学。飯坂に一泊し、再び逆行し山形国道13号線を北上する。山形へ出て霞城跡をチラ観。関山街道から作並街道へ出る国道48号線へ。所々見える早咲きの山櫻が美しい。私は新芽の中に意外性をもって季節限定に表出する山櫻が最も美しいと常々思っているが、辛夷と櫻が競演し残雪残る山肌はわぁわぁ泣きたくなるほどの美しさ。仙台に出ると既に満開を過ぎた染井が。被災された海岸通りを走る。時々車から降りて、平穏な海に向かって合掌す。三年目になろうというのに、何度手を合わせたことだろう。それでも足りない。祈っても祈っても祈りきれない残酷な自然災害。二年前、津波により塩害を被った櫻木はいつも通りに咲いていたのに、去年やや少なく花を着け、愈々今年は60%も減ではないのか。塩害はそうして櫻を駄目にした。あんなに花を待っていた被災者たちに、特別に残酷な話だが、枯れた櫻樹の伐採の通知。土手や道路の嵩上げのためだという。そういえば岩手県釜石市唐丹町本郷地区の櫻並木は昭和津波の経験から高台の道路に植えられ、今年も健全で咲き誇っていた。経験則として多くの櫻プロジェクトが各地に立ち上がったのだった。

 

白石市 一目千本櫻

 

 今回の櫻旅は盛岡停まり。裏日本と太平洋側と行ったり来たりしながら、花の時季を見計らっていたが、櫻前線の北上は意外に遅く、弘前は諦めた。今日あたり、漸く満開になったようである。多分前線は津軽海峡を越えていまい。静内の圧倒的な櫻並木は通常なら5月8日から咲き始めるのだが、今年の異常気象のせいで、一週間以上遅れることだろう。

 樹齢100年を超す染井吉野は全国で、たった8本しかない。所謂名木とされる櫻はヒガンザクラかヤマザクラのどちらかで、実に6732本に上る。全国にある櫻は2億8万本以上らしいが、正に当てずっぽうの数量であり、誰もその総数を当てたことはない。山野に咲く霞櫻や、富士周辺に咲く豆櫻など、どうやって数えるのだろう。殆ど無益なことかも知れないが、ただ全国にいらっしゃる櫻守の方々は、この3年間かけて大凡の見当がついた。無論櫻守の定義はある。先ず櫻を愛すること、一本以上の櫻の育成や管理を一定の時間以上に関わっていること、病害駆除や折損などの手当てをしていること、櫻を日本文化の象徴としてお考えのことなどである。これも茫漠たる話で、私たちが考えた櫻守の定義は聊か危ういものと覚悟しているが、何かと連絡しあったり、ご相談に乗ったりするのに、非常に便利であることは確かである。その把握している人数は3万人を超える。櫻守の呼称は佐野藤右衛門さんだけの特許ではない。無論第一人者に相違ないが、明治期に活躍した三好学博士を忘れられない。彼の労著『櫻図譜』は未だに手許を離れないでいる。今更いうまでもないが、牧野富太郎先生もそうである。更に最も頭が下がる御仁は笹部新太郎先生である。水上勉氏の小説『櫻守』に出て来る竹部庸太郎として有名であろう。

 

『櫻守』 水上勉(みずかみつとむ)著

 物語は、主人公の庭師北弥吉の幼い日、山櫻が満開である在所の京都府北桑田郡鶴ヶ岡村の背山を木樵の祖父と登って行くところから始まる。弥吉はそこで初めて山櫻の名を覚えた。祖父は小舎の前に木端をあつめて火を焚いた。母とむきあって、話しこんでいた。話の様子は、父のことらしい。弥吉はのけものにされた思いがして雑木山へ入り、岩なしをとった。口のはたが、実の色で染まるほどたべて、弥吉は小舎に走り戻った。すると、祖父と母は小舎のまわりにいず、火が消えていた。弥吉は急に淋しくなって、尾根づたいに櫻山の方へ歩いた。と、不意に足もとから、母と祖父の笑う声がした。満開の櫻の下だった。遠目だからはっきりしないが、かわいた地べたに、白い太股をみせた母が、のけぞるように寝ていて、わきに祖父がいた。家では、いつもいらいらしている母が、楽しそうにはしゃいでいる。弥吉はいかにも秘密めいた感じが、そこにあるような気がした。呼ぶのに気がひけて、しばらくだまってみていてから逆もどりした。見てはならないものをみたような、一瞬、はずかしい気持ちが襲った。弥吉は眼を閉じて歩いた。と、立止った所に、一本の櫻があった。小菊の花でもみるような、薄紅の花びらを何枚もかさねた大輪で、一匹の蜂が花の中へ頭をつっこんでいた。峰は蛹型の尻を小きざみに振った。蜜をすっているのだと思った。その日、満開の山櫻の樹の下で久しぶりでついてきた母と祖父の情事の余韻を見る。この情景は弥吉の心に深く焼き付けられる。

 まもなく祖父は死に、母は宮大工の父に離縁される。その後、弥吉は新しい母になじめず、実母を思って暮らす。14才のとき、京都の植木屋「小野甚」に奉公する。そこで生涯の友であり先輩である、石に詳しい庭師橘喜七に出会う。その喜七の紹介で、大阪中之島の資産家の次男で東大を出て、生涯無位無冠で櫻一筋に情熱を傾ける櫻研究家竹部庸太郎の雇い人となった。弥吉は竹部が持っている武田尾の櫻演習林や向日町の櫻苗圃などで特に接木や接穂作りなど山櫻の種の保全と育成、普及の研究の下働きをすることになった。そんなある日、竹部と弥吉は武田尾の演習林からの帰り道、どうしても通らなければならない福知山線のトンネルの中で臨時列車に遭遇する。列車の煤を洗うため立ち寄った武田尾温泉の「まるき」で弥吉は仲居の園と出会う。その奇遇で弥吉と園は、周囲のすすめもあって結婚する。

 ふたりは櫻が満開の演習林の番小屋で初夜を迎える。この里櫻の楊貴妃は番小屋の屋根にとどくぐらい枝が垂れていた。弥吉が腕をはなして、畳へ眼をやると、乱れ髪がながれて、楊貴妃の花弁が一つ、小貝をつけたように着いていた。弥吉はうっとりとそれを眺めた。そしてふたりは武田尾の番小屋で新婚生活を始める。だが時局は逼迫し、武田尾の櫻山も向日町の苗圃も例外ではなかった。武田尾は松の供出を迫られ、向日町の苗圃は地目が畑地であったことや不在地主に認定されたことから食糧増産のため買い上げられる羽目に陥った。そんななかでも、竹部は名木ありと聞けば訪ね、その接穂をもらい受け、日本の伝統的櫻を残そうと私財を投じて、何百本もの名木の接木や実生を育ている。損も得もない。先生は自分の財産をつこうて日本の櫻を育ててはんのやと弥吉は竹部を尊敬している。弥吉は菊櫻など接木について竹部からかなりの手ほどきを受けた。失われたといわれる「太白」という品種をイギリスの櫻研究家が日本への里帰りを支援するとの話に、竹部は密かに「太白」を接木して持っていた。弥吉と園は日常生活を考えて、竹部の許しを得て武田尾から向日町の苗圃にある小舎へ移り住む。ここは数千本の山櫻の苗木の園である。大阪造幣局、橿原神宮参道、琵琶湖近江舞子、根尾、みなこの苗圃で育て、竹部が植えたものだった。

 秋のある日、根尾の薄墨櫻の櫻守、宮崎由之助の甥が出征前の寸暇をやり繰りして叔父の死を竹部に伝えに来た。この向日町の苗圃で弥吉は竹部から櫻栽培のこつを熱心に教えられた。竹部は櫻に明け暮れていた。竹部の父親が変わっていたらしい。「大学にゆくのはいいが、月給取りにはなってくれるな。月給を取らずとも、一生どうにか暮らせるだけの物は残しておく。そのかわり、お前は、どんなことでも、白と信ずれば白と云い切る男になれ。お前の母親は二つの時に死んでいる。母の顔を知らないお前に、こんなことをいうのもわしの慈愛だと思え」と教え、当時としては高価なカメラも買い与えたという。また、大学の和田垣謙三教授から、「生涯をかけろ。日本一の櫻研究家になれ」と励まされた。竹部は学者のように机上でものを考えるのでなく、研究家であると同時に実践家でもあった。彼の持論は、古代より日本の伝統の櫻は朱のさした淡緑の葉とともに咲く山櫻(里櫻も含む)だ、近頃、流行っている染井吉野は違う、と主張する。また、学者は視野が狭く、造園業者は金でしか考えないし、役所、役人は長期的視野に立っていない。植樹はするが、日常管理など後の地道な保全育成に何の見識もないと断じ、櫻の衰退を嘆いた。園は、なぜ竹部は櫻気ちがいのようになったのだろう、と訊く。弥吉は密かに櫻の木の下の祖父と母を思いだし、早く母を亡くした竹部にも、一生忘れられない、同じ風景があるのではないかと思った。そして心の中で竹部も弥吉も櫻のために生まれてきた人間だと思う。昭和20年3月、弥吉に徴用が来た。行き先は舞鶴軍需部だった。その少し前、園に妊娠の兆しがあった。舞鶴では本土決戦に備えたタコ穴掘りの日々だった。3月中頃、鶴ヶ岡から召集令状到達の知らせが電報で届いた。弥吉は伏見の輜重輓馬隊に入隊することになった。弥吉は妊娠のはっきりした園と新婚生活を送った武田尾の演習林に行く。そして園と楊貴妃の花のイメージが重なる。弥吉は園を狂おしく抱き、遅咲きの八重が散る下で、母が白い足を陽なたに投げ出してはしゃいでいた情景を思い出していた。園の顔と母の顔が重なった。その夜、ふたりそろって、岡本の竹部に別れを告げに行った。軍隊は苦しかったが、8月15日弥吉は終戦の詔勅を聞いた。実家に帰ると、父から実母が再婚した岐阜のつれ合いに死なれ、雲ヶ畑に戻って百姓をしていると聞く。しかし、弥吉は母に会わずに京都の喜七を訪ね、園も含めて、喜七の所に世話になる。弥吉と喜七は小野甚で培った人脈を辿って、野菜売りをして戦後を乗り切る。園は長男槇男を産んだ。昭和23年4月、弥吉と喜七は小野甚に復帰し、待望の庭造りを大喜びで始める。初仕事は料亭「八海」の新しい庭造りだった。しかし、設計家は、東京から来た大学出の若い造園家だった。彼の設計意図は花木のにぎやかさと石組みの豪華さだけを強調した外人好みの庭造りだ。特に櫻の植え方では、里櫻の普賢象を築山の常緑樹のうしろに隠し植えよ、と若い設計者は言う。弥吉の思いとは違う。

 櫻はうしろに常盤樹をめぐらせて屏風にしなければ映えない。これは常識だった。空に向って咲くのでは空の色に吸われるのである。竹部はいつも言っていた。世の中は表面的な美がもてはやされる中、櫻をかわいがる人もいた。京都広沢の池の宇多野は京の櫻の母親であり、竹部は日本の櫻の父親といえた。昭和29年38才の弥吉は京都・鷹峰に家屋敷を買った。昭和36年、弥吉45才、園42才、槇男16才になっていた。喜七は50才半ばをこえ足を痛め、息子の喜太郎が跡を継ぎ、弥吉がその親方だった。昭和36年4月、弥吉は新聞紙上で名神高速道路建設により、櫻を守るための砦としての向日町苗圃が数百本の櫻とともに消えゆくことを知った。弥吉は竹部に会いたくなった。岡本の駅で阪急を降り、弥吉は、なつかしい川沿いの道を歩いた。鉄扉をあけて弥吉は「京の植木職の北ですねや」といった。竹部は柔和な老爺の貌をほほえまして、そこにのっそりと立っていた。そして竹部は向日町の櫻苗圃の件ではごね得と言われ、心を痛めている経緯を話し、20年以上土作りをしてきた櫻苗圃のなくなることを憂えた。

 そのときすでに竹部は荘川の御母衣ダム建設に伴う樹齢400年以上のエドヒガン2本の移植を引き受けていた。電源開発公社芹崎哲之助の熱心な依頼に寄った。四百年も生きた老木、しかも櫻の移植など聞いたことがない。竹部は今日七十五歳である。櫻一途に生きてきて、すべての財産を投じて、櫻の品種改良と日本古来の山櫻の育生に身をけずる思いできた。その今までの努力はわかるけれども、老境に入って、前代未聞の老櫻の移植をひきうけている。もし不成功に終わったら、竹部は今日までの櫻にそそいだ人生を棒に振りはしないか。弥吉はそう思った。「松や櫻は移植に弱い」。しかし、竹部は辛苦の末、この老櫻2本の移植に成功した。湖水は両側の山影をうかべ、ちりめん皺をたてて鏡のように凪いでいた。二本の櫻は、新しい枝を張って芽ぶいた若葉のあいまからうす桃色の美しい花をのぞかせて、春風にゆれていた。
 弥吉の息子、槇男は高校を終え、音楽家になりたい夢を抱きながら、弥吉の後を継いだ。昭和38年5月、鶴ヶ岡の弥吉の父が死んだ。若い頃は宮大工としてよく働いた父だが、いまの義母と一しょになってから、働かなくなり、戦後は、まったくののらくらで、義母と長男が田を作り、生活を支えてきた。弥吉の母を追いだしたあたりから、父の性格に暗い墨が入ったようである。生涯、父は弥吉に母を捨てた理由をいわず、仏頂面を押しとおして、死んだのであった。弥吉も実母を訪ねていく勇気はなかった。気持ちは複雑だった。弥吉は実母を恨んでいなかった。実母の姿は憧れの中で生々としている。弥吉の思い出の中では、母は美しくて、それでいて、どことなく、背姿が淋しかった。昭和39年10月12日、弥吉は死んだ。死ぬ前に「お前らにいうとく。わしが死んだら、海津の清水の墓に埋めてくれ。寺に頼んでくれ。あすこの櫻は立派な八重やったと桜の木の下で眠ることを頼んで死んだ。享年48歳、膵臓癌だった。「わたしは、まあ、好きやから、今日まで櫻、櫻というて生きてきましたけど、北さんが、なぜこんなに櫻がすきやったか……そのわけを聞かずじまいに終わりました」と謎を投げかける竹部であった。そして参列者みんなで見上げる櫻は、墓地の大櫻が、朱の山を背に黒々と浮きあがる気がした。

 正しくこの小説で語られているように、笹部新太郎は櫻のためだけに生きた。櫻守の代表格と言えよう。笹部が愛した武田尾山中に行かない春は淋しいものである。「亦楽山荘」と表示されたその場所へは今は歩きでしか行けないが、私にとって極めて重要な山中である。

 だが私は著名な櫻守だけではなく、多くの素晴らしい櫻守を存じている。被災地で櫻プロジェクトを立ち上げた人たち。戦時中、多くの教え子を「日本は神の国だ、負けるはずがない。元気に戻って来い」と発破を掛けた一教師が、戻らなかった多くの戦没者に対し、慰霊のため荒れた土壌でも寒冷地でも咲くようにと、生涯を掛けて開発した「陽光」。カンヒザクラとアマギヨシノの交配種で紅色が強く木肌が美しい櫻である。不戦の櫻として全国に9万本の苗木を届け続けている高岡正明氏。この櫻は江田島の学徒出陣で散った方々が眠る品覚寺にも植えられている。陸前高田や気仙沼などにも多く配られ、それらは津波到達地点に植えられ、今年漸く花を付けた。現在は御子息が跡を継がれている。若い時農作業が忙しいからと言われ花見が許されなかった内子町の竹崎勇さんは、ならばと言い、自宅にエドヒガンの枝垂れ櫻を植えた。それから60年、妻一子さんと共に毎年花が咲くのを楽しみにしている。山間の小さな集落にあるこの櫻を観に、毎年大勢の観光客が訪れている。「相野のサクラ」として有名で、勇さん一子さんご夫妻も立派な櫻守である。愛媛県岩城島積善山に咲く3000本の櫻は島民の思いの丈が詰まった櫻で、しまなみ海道の櫻の美を存分に堪能出来る尾根だが、一本一本に櫻守がいると言っても過言ではない。沖縄本島から西へ100キロ、久米島がある。ヒゲ爺こと、喜世盛昌興さんから受け継ぎ、クメノサクラを懸命に育てている保久村昌欣さんがいる。クメノサクラの発生は謎だらけで、人手によってしか櫻樹が成り立たない。最初白く咲き、次第にピンクに変化して散る儚さ。美しい南国の櫻だ。久米島に櫻通りを作りたいと今日も頑張られておいでである。愛知県新城市の比丘尼山では、9000本の櫻を植樹した岡田真澄さんもいる。北海道の松前には浅利正敏さんが櫻博士として多くの新種の櫻を作出された。瀧櫻のように、一本の名木に多くの櫻守がいるところもある。様々だが、全国津々浦々にいらっしゃる櫻守の先達たちに謙虚に教えを戴きながら、明日の私たちの糧としよう。

 

クメノサクラ 謎だらけの不思議な櫻である

 

 

 連休は今日まで。東京の人間は連休中はそうは出掛けない。心の中の故郷を思い、墓参や、庭木に手を入れたりしながら静かに時を過ごす。勝手気儘に開発された都会の構造は嘘だらけで、江戸切絵図などを相手として観て、池波正太郎や藤沢周平の江戸の想いに遊ぶ。

 


      さわさわと、葉ざくらの中を歩き栄華の墓所へ

2013年04月10日 | 

 

清川妙著 早川茉莉編 「つらい時、いつも古典に救われた」

 

 

     さわさわと、葉ざくらの中を歩き栄華の墓所へ

 

 

 吉野から帰ると、東京にはまだ櫻が残っていた。さっそく家内を誘って家族四人で新宿御苑に出掛けた。広大な苑内に、花見客も少なく、私たちはノンビリとして手製の昼食を楽しんだ。自宅から自家用車で行き、千駄ヶ谷の身内の庭に駐車し、多くの躑躅咲くはずの裏門から入ったが、そこで何種類かの櫻を楽しむことができたのだ。葉ざくらの中を歩くのは大好きだ。花が終わったあとの、あの清涼感が堪らなく好きである。櫻を待って、ヤキモキしている日に一旦区切りがつくのかも知れないが、葉ざくらを吹き抜ける風がまるでいつもと違うからでもある。まさにフローラル系香水の香りが漂い、よくよく感じると、シプレ系かグリーン系の香水シャワーを浴びている瞬間へと変化する一瞬を感じるからである。花筏や、花散らし、いちめんに広がる散花こそ栄華の墓所というべきであり、花の余韻がまだまだ続くからだ。このところ日々寒暖の差がある日が続き、少し寒い日など櫻は散りそうになく、花が長くもったのかも知れない幸せ。だが夕べの弾丸低気圧で、さすがに花びらも残らず散ってしまった感がある。我が邸内に今朝も強い風が続くなか、花びらの翳が色濃く散らばっている。実は新宿御苑に行ったのはわけが二つある。中央付近の池の辺りに、「太白」が咲いているかどうかだったが、純白の大きな花びらが幾輪か残っていた。八重櫻はこれからもうすぐ咲く気配がした。もう一つのわけというのは八重櫻の見ごろを観察するためだ。こちらはここまま気温の上昇が続けば、後三日もしないうちに賑やかに咲きだすだろう。再び栄華の墓所の上にいられる真実。何とも幸せなことだろう。これから始まる被災地の櫻たちへ思いを馳せながら、風の中を歩く。

 花が散り、敷き詰められた花びらのうえは花の栄華の墓所だ。出遭い、別れ。死、誕生。卒業・入学・入社、新しい始まりの時であり終わりの時でもある。ここからあらゆる再生の美意識と生の儚さと、逆に生命力の強さとを、日本人は古代から実感してきた。それは大袈裟でも何でもなく、縄文時代から伝わる私たちのDANとして受け継がれているからである。中国では実のならない花木は大事にされない。ただ鑑賞し感嘆し、お互いに共感する日本人の櫻観は圧倒的に違う。縄文時代では櫻の咲く場所は山と海の交合する場所であり、神々との感応する場所であり、豊かな実りを約束し、部族間の平和が結実する花木であったろう。間違いなく豊かな季節感の象徴であり、弥生時代風に言えば農耕行事の始めとなる。どちらの時代も、そこに真摯な祈りがあったはずである。被災地で、中島みゆきの「時代」がよく歌われているようで、時を特定しないから猶更歌われているので、三月四月に多いのも大いに頷けることである。「さんげさんげ ろっこんしょうじょう」と唱和しながら神聖なお岩木山に登り、夏の終わりにある物悲しい「お山参詣」の行事は、何故か中島みゆきの「時代」に通じるものがあるかもと想像すると余計に不思議なことである。永い年月の間、自然災害による悲哀と、豊穣の山海への歓喜と、常に交互に体験してきた日本民族の意思の強さと謙虚さと叡智と祈りの深さを感じざるをえない。

 

爆弾低気圧に耐えしのぶ八房櫻 今年は既に葉ざくら

 

 今年から私の秘書は8人体制になった。塾生からも3人出たのは大きな出来事であり、気象大学校を卒業し、新たな任に就いたものもいる。私たちに無関係な仕事に就いたものも何人か出て行き、それでも徐々に肥大して行く組織の長として、より大きな視点と深い洞察力が必要となる。私には時間が必要で、苗畑に行くことも被災地へ行ってプロジェクトがどうなっているかも。今や人任せにならざるを得ない。

そうそういずれ書こうと思っていたことがある。本居宣長の「玉勝間」の一説である。漢意(からごころ)に関して次のように書かれてある。

 漢意(からごころ)とは、漢国のふりを好み、かの国をたふとぶのみをいふにあらず、大かた世の人の、万の事の善悪是非(よさあしさ)を論(あげつら)ひ、物の理(ことわり)をさだめいふたぐひ、すべてみな漢籍(からぶみ)の趣(おもむき)なるをいふ也。さるはからぶみをよみたる人のみ、然るにはあらず。書といふ物一つも見たることなき者までも、同じこと也。そもからぶみをよまぬ人は、さる心にはあるまじきわざなれども、何わざも漢国をよしとして、かれをまねぶ世のならひ、千年にもあまりぬれば、おのづからその意(こころ)世の中にゆきわたりて、人の心の底にそみつきて、つねの地となれる故に、我はからごころもたらずと思ひ、これはから意にあらず、当然理(しかあるべきことわり)也と思ふことも、なほ漢意をはなれがたきならひぞかし。そもそも人の心は、皇国も外つ国も、ことなることなく、善悪是非(よさあしさ)に二つなければ、別(こと)に漢意といふこと、あるべくもあらずと思ふは、一わたりさることのやうなれど、然思ふもやがてからごころなれば、とにかくに此意(このこころ)は、のぞこりがたきものになむ有ける。人の心の、いづれの国もことなることなきは、本のまごころこそあれ、からぶみにいへるおもむきは、皆かの国人のこちたきさかしら心もて、いつはりかざりたる事のみ多ければ、真心にあらず。かれが是(よし)とする事、実の是(よき)にはあらず、非(あし)とすること、まことの非(あしき)にあらざるたぐひもおほかれば、善悪是非に二つなしともいふべからず。又当然之理(しかあるべきことわり)とおもひとりたるすぢも、漢意の当然之理にこそあれ、実の当然之理にはあらざること多し。大かたこれらの事、古き書の趣をよくえて、漢意といふ物をさとりぬれば、おのづからいとよく分るるを、おしなべて世の人の心の地、みなから意なるがゆゑに、それをはなれて、さとることの、いとかたきぞかし。

 ここでは和文脈の文の、独特の言葉の使い方を味わっていただければ十分ではあるが、それとともに、本居宣長の思考の射程を知っていただくために、いささかの戯れまでに、この文全体の「からごころ」を、「欧米風のものの考え方」と言い換えて、下記のとおり、現代風に書き直して見た。

 ─ 欧米風の生き方を好み、欧米を崇敬する人だけが、「欧米風のものの考え方」をしているわけではない。世間の人が、ことの善し悪しや正しいか間違っているかを論じ、これが論理的に正しいなどというのは、欧米の本にそう書いてあったから言っていることが多い。そんなことを言うのは、欧米の本を読んだ人ばかりではない。本などというものを、一冊たりとも読んだことのない人でさえ、そうなのだ。
 もともと欧米の本を読んだことのない人なのだから、そんなはずはないのだが、どんなことでも欧米がよいといって、欧米に学ぶ風潮が百年以上も続いたので、自然にそのようなものの考え方が世間に行き渡って、人の心の底に染み付き、それが常識となってしまったために、自分は欧米風になど考えない、これは欧米の考え方ではなく、世界どこでも通用する、当然のことだと思うのも、実は欧米のものの考え方を一歩も出ていないのである。
 人間の心は、日本でも外国でも違うわけがなく、善いこと悪いこと、正しいこと間違っていることに二つはないのだから、別に「欧米風のものの考え方」だと強調する必要はないと思うのは、一応正しいように見えるが、そう思うのも実は欧米の考え方なのだ。このように「欧米式のものの考え方」は、なかなか捨て去ることが難しい。人間の心がどこでも違わないというのは、人間本来の感情はそうであるかも知れないが、欧米の書物に書いてあるのは、欧米人が考え出したご大層な理論の産物であり、人為的理屈をこねて考えたことばかりが多く、人間の自然な感情を反映していない。欧米人が正しいとすることが本当は正しくなく、間違っているといっていることが本当は間違っていない例も多いので、善いこと悪いこと、正しいこと間違っていることに二つはないともいえない。またものごとの当然の理と思われている論理も、欧米の論理であり、われわれがものを考えるときのすじ道とは矛盾することも多い。
 大体こうしたことは、昔の書物に書いてあることをよく理解し、欧米人がどのようにものを考えるかが分かれば、自然に納得できることなのだが、世間の人がおよそものを考えるときは、みな欧米の影響を受けているので、欧米のものの考え方を離れてものごとを納得するのは、ひどく難しい。

 「漢意」を廃し、宣長に最終的に残ったのは「もののあはれ」であった。日本人の情緒こそ他国からの影響されたものではないとするものだという。私たちは「漢意」というサングラスをかけて世の中を見ているようなものだ。サングラスをはずして自分の目(日本人としての目)で世の中を見てみよう、と宣長は提案する。そのための指針となるのが、『古事記』を中心とする古典であったのだ。

 

モタモタしていたら 八重櫻が咲き出した

 

 少し自分の時間が出来たので、この四月から女性陣を集めた読書会と、少々専門的な分野の男性向け読書会を開くことにした。それぞれ月に一度ずつで、巻頭の写真は清川妙さん著 早川茉莉さん編の「いつも辛い時、古典に救われた」を、今月最初に取り上げる。こちらは女性陣との読書会で毎月作者・作品が変わる。男性陣は「古事記伝」「玉勝間」「玉の小櫛」や、室町期の「看聞御記」などである。少しずつやってゆきたいが、受講する方々はみな楽しみにしているようである。

 


      子供たちと、吉野に遊ぶ

2013年04月03日 | 

竹林院群芳園 入り口看板

竹林院群芳園 玄関

 

 

         子供たちと、吉野に遊ぶ

 

 古都・奈良の春。二日間奈良市内の奈良ホテルに滞在する。子供二人連れ。子供を相手にすると何故か時間の経つのが早い。春は奈良、秋は京都と定めてから久しい。下の千本がようやく五分咲き、中の千本はまだき蕾。4月11日~12日の蔵王堂で行われる「花供懺法会式」までは、中の千本も山櫻が爛漫と咲き誇ることだろう。まだ吉野は静かである。気の早い私のような人が蔵王堂近辺の商店をウロウロと歩き廻り、花が少しだけなのに、何故か清々としたお顔をしている。善男善女といったところか。ここへ来るまで、大宇陀の又兵衛櫻や貝原の枝垂れ櫻や大野寺の枝垂れ櫻や瀧蔵神社の権現櫻も観てきた。枝垂れ櫻系統はみな江戸彼岸櫻だから、染井吉野より遥かに早いもので、それだけでも充分だ。長谷寺の入り口付近にも枝垂れ櫻が豪華に咲き乱れていた。レンタカーで着いた吉野の宿泊先・竹林院群芳園は久方ぶりの宿泊。但し二人の子供たちと三人旅行で、人から見たら何事かと思われそうだが、子供たちは久し振りに父親を占領できるのだから、愚痴一つ言わない。そろそろ上の子は小学校で、下の弟は幼稚園の年長組。そして再び我が妻が妊娠した。その初期だけに、さすがに今回は連れて来なかったが、子供たちに困ることは一切なかった。旅籠の上の庭で思い切り遊んだり、家族風呂で悪戯をしながら遊んだり、寝物語をしてあげたりした。大人しいのは、でも不思議と言えば不思議である。そうして今年じゅうに、もう一人増えるのだ。水分神社は水の神であると同時に「身籠り=みくまり」と称して子安神社としても古来から有名で、本居宣長の父親も、男子を授けてくれとお祈りした。後年宣長は、吉野水分神社に詣で「菅笠日記」を残している。翌朝、商店街の中の知り合いに、子供たちを託し、タクシーで金峯神社まで行き、小走りで走って奥の千本の西行庵まで出掛けた。無論花は一つも咲いていなかったが、可愛い西行像に逢って、西行愛用の苔清水をゴクリと飲んでから直ぐさま引き返した。金峯神社まで帰ると、タクシーが直ぐ捕まえられ、それに乗り込んで、途中車中から水分神社にお参りし、子供たちのいるお店まで帰った。二人とも泣くこともなく待っていてくれた。よほどおばちゃんが優しかったのだろう。

 

奥の千本 西行庵

可愛い西行像 果たしてこうであったか定かではないが

 

 そうだ、こうして花が咲かないうちの櫻見物もいいもので、これから直ぐに咲くであろうことを予感するだけで、充分嬉しいに違いない。我が愛読書の一つ「山家集」には西行生涯の歌2000首から取られた櫻の歌、僅かに100首に過ぎないが載っている。全部で櫻歌は200首あったはずで、櫻を待つ歌、櫻の満開を堪能している歌、残りの櫻を惜しむ歌、様々である。やや女々しいような印象を受ける方がいるかも知れないが、何々西行は別れた妻子を晩年までずっと面倒を見ていた。かの弘川寺に西行が眠っているが、同墓ではなく、妻子もまた同寺境内に眠っている。公卿と同じ身分を持つ気高い北面の武士だった西行は、色々な出家の噂で今も喧しい。あの清盛とも同世代であり、清盛と身分は近かったが、西行のほうが遥かに高貴な武士であったことは確かである。鳥羽院に入内した待賢門院彰子に横恋慕したとか、よくもまぁ何百年と言われ続けているから、可笑しい。頼朝にも逢っているし、平泉には二度に渉って行っている。或いはスパイかという説がないでもない。天災で焼け果てた高野山再建の基金集めのために、高野聖として活躍したのも事実であろう。ただ西行のどの歌も、今の世知辛い時を生きている私を、強かに打つ。櫻歌は純粋で直向きである。新古今和歌集に多く出した技巧ではない。それだけに西行の、櫻への思いが伝わってくるというものだろう。

 

漢方胃腸薬・「陀羅尼助丸」の本舗 三本足の蛙は江戸時代、櫻の樹で創られた由緒あるもの

 

吉野葛の原料はかくも巨大な葛の根 吉野葛を売る店舗には必ず置いてあり 

お店によっては 店頭で白い澱粉を撹拌する機械も置いてある

 

どの店先も 櫻の花が待ち遠しいよう

 

 いい子たちであった。二三時間とは言え、泣くこともなく、知人宅で楽しく遊ばせて頂いたようである。昨晩三人で入った長風呂は楽しかったものであるが、そろそろ帰るかと聞けば、母親のことを躊躇いがちに言っていたので、やはりどこか淋しかったのだろう、微笑ましい。さもありなん、父は勝手である。慣れろよお前たち。父親は英語しか話さない。日本語は母親に聞けと、幼少のころからの癖で、もう通常の英語は不自由なく話している。簡単な絵本などの文字も読めているから、やれ大きくなったもので、頼もしいかな。どうやら子供は一人でに大きくなってゆくのかも知れない。そうして昨夕、三人で自宅に帰ったが、妻はマイペースで、学問づけ。四日間の子供の留守をそれほども感動していない。今夜も、ゆっくりと妻を融かしてあげなければならないだろう。じぃじとばぁばは、チビたちの帰りを飛び上がらんばかりに歓んでいた。

 

蔵王堂一部 満開にはほど遠いが充分かも 700年前 後醍醐天皇はここに御所として住んでいた

 

堂々たる金峯山寺・蔵王堂本堂 東大寺の次に大きい ご神体は櫻の樹で出来ている

 

 

何という椿か知れねども ビロードのような肌触りの竹林院群芳園の椿 さらばしばしの間よ

 

そうそう、今年の大阪・造幣局の櫻の通り抜けは4月16日(火曜日)から、

4月22日(金曜日)までと決まったらしい。

但し今年の櫻はどれと言った発表は未だなされていない。

 


     これだけは観てから死にたい櫻たち

2013年03月29日 | 

奈良県大宇陀町の又兵衛櫻

 

 

 

      これだけは観てから死にたい櫻たち

 

 財団法人日本さくらの会の櫻の植樹は何の哲学もなく、さりとて根拠もなく、理由があるすれば、財団法人から寄贈した染井吉野を喧伝したいだけで、「日本櫻100選」が存在するのであって、戦後一層押し薦めてきた染井吉野の植樹に、何一つ反省することがない。同財団には一種の怒りさえ感じられてならない。ユンボなどの重機製造で有名なコマツは財団法人日本花の会をやっているさくらの植樹とは違う。私的な機関で、資金も自ら調達しているから、それなりに頑張っていると言ってもよい。結城市にある彼らの苗場を見れば一見にして理解できる。財団法人日本さくらの会は、賭け事の収益から得て、会を賄っている上、染井吉野だけ植え、まるで日本全国を総白痴化しようとしているかのようで、甚だ不愉快である。理事長は時の衆議院議長ときているから猶更不快である。以下日本さくらの会が定めた「日本櫻百選」であるが、既に有名であった箇所と財団が薦めた櫻の箇所と巧妙に混合されているから、実にずるいと言わざるを得ない。戦中・戦後、櫻が政治の舞台に利用されたような匂いがして好きになれない。

 

 ≪日本櫻百選≫

     【 1 】:二十間道路桜並木     ●北海道静内町《Tel:01464.3.2111》 

     【 2 】:松前公園         ●北海道松前町《Tel:01394.2.2275》

     【 3 】:県立自然芦野公園     ●青森県金木町《Tel:0173.53.2211》

     【 4 】:弘前公園         ●青森県弘前市《Tel:0172.37.5501》

     【 5 】:高松公園         ●岩手県盛岡市《Tel:0196.51.4111》

     【 6 】:北上市立公園展勝地    ●岩手県北上市《Tel:0197.64.2111》

     【 7 】:船岡城址公園・白石川堤  ●宮城県柴田町《Tel:0224.55.2117》

     【 8 】:桧木内川堤・武家屋敷通り ●秋田県角館町《Tel:0187.54.1114》

     【 9 】:千秋公園         ●秋田県秋田市《Tel:0188.66.2112》

     【10 】:真人公園         ●秋田県増田町《Tel:0182.45.5516》

     【11 】:鶴岡公園         ●山形県鶴岡市《Tel:0235.25.2111》

     【12 】:烏帽子山公園       ●山形県南陽市《Tel:0238.40.3211》

     【13 】:三春滝桜         ●福島県三春町《Tel:0247.62.2111》

     【14 】:霞ケ城公園        ●福島県二本松市《Tel:0243.23.1111》

     【15 】:鶴ケ城公園        ●福島県会津若松市《Tel:0242.27.4005》

     【16 】:かみね公園・平和通り   ●茨城県日立市《Tel:0294.22.3111》

     【17 】:静峰公園         ●茨城県瓜連町《Tel:029.296.1111》

     【18 】:日光街道桜並木      ●栃木県宇都宮市・今市市《Tel:028.623.3297》

     【19 】:太平山県立自然公園    ●栃木県栃木市《Tel:0282.22.3535》

     【20 】:赤城南面千本桜      ●群馬県宮城村《Tel:0272.83.2131》

     【21 】:桜山公園         ●群馬県鬼石町《Tel:0274.52.3111》

     【22 】:熊谷桜堤         ●埼玉県熊谷市《Tel:0485.24.1111》

     【23 】:大宮公園         ●埼玉県大宮市《Tel:048.641.6391》

     【24 】:長瀞           ●埼玉県長瀞町《Tel:0494.66.3111》

     【25 】:清水公園         ●千葉県野田市《Tel:0471.25.3030》

     【26 】:茂原公園         ●千葉県茂原市《Tel:0475.22.3361》

     【27 】:泉自然公園        ●千葉市若葉区《Tel:043.228.0080》

     【28 】:上野恩賜公園       ●東京都台東区《Tel:03.3828.5644》

     【29 】:小金井公園        ●東京都小金井市《Tel:0423.85.5611》

     【30 】:井の頭恩賜公園      ●東京都武蔵野市《Tel:0422.47.6900》

     【31 】:新宿御苑         ●東京都新宿区《Tel:03.3350.0151》

     【32 】:墨田公園         ●東京都墨田区《Tel:03.5608.6180》

     【33 】:県立三ツ池公園      ●横浜市鶴見区《Tel:045.582.6996》

     【34 】:小田原城址公園・城山公園 ●神奈川県小田原市《Tel:0465.33.1521》

     【35 】:衣笠山公園        ●神奈川県横須賀市《Tel:0468.22.8333》

     【36 】:村松公園         ●新潟県村松町《Tel:0250.58.7181》

     【37 】:大河津分水        ●新潟県分水町《Tel:0256.97.2111》

     【38 】:高田公園         ●新潟県高田市《Tel:0255.26.5111》

     【39 】:大法師公園        ●山梨県鰍沢町《Tel:0556.22.2151》

     【40 】:小諸城址懐古園      ●長野県小諸市《Tel:0267.22.0296》

     【41 】:高遠城址公園       ●長野県高遠町《Tel:0265.94.2551》

     【42 】:臥竜公園         ●長野県須坂市《Tel:026.245.1770》

     【43 】:富士霊園         ●静岡県小山町《Tel:0550.78.0311》

     【44 】:さくらの里        ●静岡県伊東市《Tel:0557.36.0111》

     【45 】:高岡古城公園       ●富山県高岡市《Tel:0776.20.1563》

     【46 】:松川べり彫刻公園     ●富山県富山市《Tel:0764.43.2072》

     【47 】:新境川堤         ●岐阜県各務原市《Tel:0583.83.1111》

     【48 】:霞間ケ渓         ●岐阜県池田町《Tel:0585.45.3111》

     【49 】:根尾谷・薄墨公園     ●岐阜県根尾村《Tel:05813.8.2511》

     【50 】:兼六園          ●石川県金沢市《Tel:0762.21.5850》

     【51 】:足羽川・足羽山公園    ●福井県福井市《Tel:0776.20.5346》

     【52 】:霞ケ城公園        ●福井県丸岡町《Tel:0776.66.3000》

     【53 】:五条川          ●愛知県岩倉市・大口町《Tel:0587.66.1111》

     【54 】:山崎川四季の道      ●名古屋市瑞穂区《Tel:052.841.9350》

     【55 】:鶴舞公園         ●名古屋市昭和区《Tel:052.731.1610》

     【56 】:岡崎公園         ●愛知県岡崎市《Tel:0564.23.6257》

     【57 】:三多気          ●三重県美杉村《Tel:05927.2.1111》

     【58 】:宮川堤          ●三重県伊勢市《Tel:0596.28.3705》

     【59 】:海津大崎         ●滋賀県マキノ町《Tel:0740.28.1188》

     【60 】:豊公園          ●滋賀県長浜市《Tel:0749.62.4111》

     【61 】:嵐山           ●京都市西京区《Tel:075.861.0012》

     【62 】:笠置山自然公園      ●京都府笠置町《Tel:07439.5.2159》

     【63 】:御室桜          ●京都市右京区《Tel:075.461.1155》

     【64 】:醍醐寺          ●京都市伏見区《Tel:075.571.0002》

     【65 】:大阪城公園        ●大阪市中央区《Tel:06.941.1144》

     【66 】:桜の通り抜け       ●大阪市北区《Tel:06.351.5361》

     【67 】:万博記念公園       ●大阪府吹田市《Tel:06.877.3331》

     【68 】:夙川公園         ●兵庫県西宮市《Tel:0798.35.3151》

     【69 】:明石公園         ●兵庫県明石市《Tel:078.912.7600》

     【70 】:姫路城          ●兵庫県姫路市《Tel:0792.85.1146》

     【71 】:奈良公園         ●奈良県奈良市《Tel:0742.22.0375》

     【72 】:吉野山          ●奈良県吉野町《Tel:07463.2.3081》

     【73 】:郡山城址公園       ●奈良県大和郡山市《Tel:07435.2.2010》

     【74 】:紀三井寺         ●和歌山県和歌山市《Tel:0734.32.0001》

     【75 】:七川ダム湖畔       ●和歌山県古座川町《Tel:07357.2.0180》

     【76 】:根来寺          ●和歌山県岩出町《Tel:0736.62.2141》

     【77 】:久松公園         ●鳥取県鳥取市《Tel:0857.22.8111》

     【78 】:打吹公園         ●鳥取県倉吉市《Tel:0858.22.8111》

     【79 】:松江城山公園       ●島根県松江市《Tel:0852.31.5214》

     【80 】:斐伊川堤防桜並木     ●島根県木次町《Tel:0854.42.1122》

     【81 】:鶴山公園         ●岡山県津山市《Tel:0868.22.3310》

     【82 】:千光寺公園        ●広島県尾道市《Tel:0848.25.7184》

     【83 】:上野公園         ●広島県庄原市《Tel:08247.2.2121》

     【84 】:吉香公園・錦帯橋     ●山口県岩国市《Tel:0827.41.2750》

     【85 】:常磐公園         ●山口県宇部市《Tel:0836.31.6416》

     【86 】:西部公園・眉山公園    ●徳島県徳島市《Tel:0886.21.5295》

     【87 】:琴弾公園         ●香川県観音寺市《Tel:0875.23.3933》

     【88 】:松山城          ●愛媛県松山市《Tel:089.948.6557》

     【89 】:鏡野公園         ●高知県土佐山田町《Tel:08875.3.3111》

     【90 】:牧野公園         ●高知県佐川町《Tel:0889.22.1900》

     【91 】:西公園          ●福岡市中央区《Tel:092.741.2004》

     【92 】:小城公園         ●佐賀県小城町《Tel:0952.73.4801》

     【93 】:大村公園         ●長崎県大村市《Tel:0957.53.4111》

     【94 】:熊本城          ●熊本県熊本市《Tel:096.352.5900》

     【95 】:市房ダム湖畔       ●熊本県水上村《Tel:0966.44.0311》

     【96 】:水俣市チエリーライン   ●熊本県水俣市《Tel:0966.63.1111》

     【97 】:岡城公園         ●大分県竹田市《Tel:0974.63.1111》

     【98 】:母智丘県立自然公園    ●宮崎県都城市《Tel:0986.23.2754》

     【99 】:忠元公園         ●鹿児島県大口市《Tel:09952.2.1111》

     【100】:名護城公園        ●沖縄県名護市《Tel:0980.53.1212》

 以上の日本櫻百選は百選にすること自体無謀であり無意味である。これら多くの櫻は財団にて寄贈された櫻である。但し約30箇所以上の櫻は財団とはまったく無縁の櫻である。

 

奈良 貝原の枝垂れ櫻

 

 

  <自薦 これだけは観てから死にたい櫻たち> 

 

  ① 関東の櫻

東京都大島の櫻株 小田原入生田・長興寺の枝垂れ櫻 秩父荒川・青雲寺の枝垂れ櫻 埼玉県北本・石戸の蒲櫻 群馬県鬼石町の櫻山公園 日光・輪王寺の金剛櫻 日光・植物園の櫻 茨城県岩瀬町磯部の櫻川公園 大戸の櫻 雨引観音(楽法寺)の山櫻と霞櫻 青梅・金剛寺の枝垂れ櫻 青梅・梅岩寺の枝垂れ櫻 高尾・森林科学園の櫻実験林 小金井公園の櫻 神代植物公園の櫻 千鳥ヶ淵の櫻 新宿御苑の八重櫻群 小石川植物園(東大付属)の櫻

  ② 日本三大櫻

●山梨県北巨摩郡山高の神代櫻(日本最大の江戸彼岸櫻 根回り13m 樹齢1800) 

●岐阜県根尾谷の淡墨櫻(樹高23m 根回り11,5m 神代櫻につぐ巨木 樹齢1500年)  

●福島県三春の瀧櫻(日本一の紅枝垂れ櫻 樹齢1000)

  ③ 古都の櫻

大阪・造幣局の八重櫻群 常照皇寺の九重櫻 嵐山の櫻及び山櫻 兵庫県湯村・正福寺のショウフクジサクラ 平野神社の櫻の種類の多さ 京都府立植物園の櫻 円山公園の枝垂れ櫻 御室仁和寺のおたふく櫻 京都御所の左近の櫻 醍醐寺・三宝舘の枝垂れ櫻群 奈良・知足院の奈良八重櫻 吉野山の山櫻 三重県・三多気の山櫻街道 鈴鹿市白子の不断櫻 大宇陀町の又兵衛櫻 法隆寺・夢殿の枝垂れ櫻 瀧蔵神社の権現櫻 奈良貝原の枝垂れ櫻

  ④その他の注目すべき櫻

沖縄名護城の寒緋櫻 四国高知県の牧野公園の櫻 中国吉備高原家族村たけべの森の櫻 錦帯橋・吉香公園の櫻 岐阜・中将姫誓願櫻 臥龍櫻 荘川櫻 揖斐の二度櫻 弥彦櫻 石川県林業試験場樹木公園 兼六園公園の菊櫻 高遠櫻 花回廊の久保櫻と釜の越し櫻 霞城公園の櫻 会津・石部櫻 鶴ヶ城の櫻 会津坂下の杉の糸櫻 開成山公園の櫻 花見山公園の櫻 鹽釜神社の八重櫻 北上展勝地 盛岡・石割櫻 小岩井農場の一本櫻 角館・武家屋敷の枝垂れ櫻と檜内川堤の櫻群 弘前公園の櫻 松前町櫻見本園 静内・二十間道路の蝦夷山櫻 根室・清隆寺の千島櫻

 以上の櫻たちは圧倒的に山櫻や江戸彼岸の櫻が多い(染井はゼロではないが)。尚枝垂れ櫻は100%江戸彼岸と思って戴いても結構である。彼岸櫻というぐらいで、染井吉野より早く開花する。開花情報を確実に得る方法は最寄の役所へ、観光課や商工課に電話して確認する方法が最も適切である。美山の常照皇寺の場合、櫻のことが知りたかったら、あんたが来て確認したらどうやって、えらくどやされる場合があるからである。

 

龍安寺の枝垂れ櫻


    櫻始開

2013年03月27日 | 

 

原発から10キロ範囲で 春まだき富岡町 櫻道のわきにある商店は殆ど盗難にあっている

 

 

   櫻始開 七十二候のうち 春分の次候にあたりて)

 

 二十四節気は皆さまはよくご存じのことと思います。その、それぞれ節気を五日ずつ分けて更に詳しく節気を表現したのが、七十二候ということになります。必ずしも中国伝来だけではなく、所々日本人の感性にあった節気になっています。偶々今日は春分から五日目で、七十二候の「櫻始開」になります。この春分・次候の「櫻始開」には櫻の花が咲き始めるというわけです。又「雷乃発声」の日とも言われ、同日より遠くで雷の音がし始めるということでしょう。その上、今日は101年前ワシントンで櫻が植樹されたのを記念し、財団法人日本さくらの会では「さくらの日」に設定していますので、本日は「さくらの日」となります。また表千家・不審菴では利休忌が行われているでしょう。けれど私たちはアレコレ能天気なことを言っている場合ではないかも。

 被災地の春はまだき、それでも櫻が咲くのを心待ちに、心待ちにして方が大勢いらっしゃることでしょう。読者の皆さまには震災から満二年だと思われておいでの方が多いはずです。でも被災地の春は、今度で三度目なのです。どんなに変化した町にも村にも、又花が咲きます。どれほどの哀しみを抱えられた方もきっと楽しみにされていらっしゃることでしょう。樹に咲く花は人を忘れません。津波に倒れなかった櫻は山櫻か江戸彼岸が圧倒的に多く、それを参考にして、各地で始まった櫻の植樹。私たちは各地の植樹に、コツコツと協力して参ります。同時に広葉樹の植樹も数多く協力させて戴きたいと念じています。

 

福島・浜通り さくらプロジェクト ワッペン

 

 頑張れ、福島!でも政治家の方々は福島の再生なくて、日本の再生はないと、言葉では皆口々に言いますが、だったら後何年経ったら帰村出来るのでしょう。口先八丁なんぞいい加減にして欲しいものです。付近の岡や山など、高い部分から除染しなかったら何もならないのです。半径たった100メートルで、5分の1になるなんて、放射線防護研究グループの報告がありますが、これは真っ赤なウソ。雨が降ると、近所の山からまた新しい濃度の高い放射性物質が麓に流れてきて新たに汚染されるのです。その繰り返しで、これが実態で、家の周辺だけでの除染はまったく効果がありません。現在の除染の仕組みを根本から改めて欲しいものです。除染された福島県内の村などに行ったことがありますか。青ビニール袋に目いっぱいになった放射線濃度の高い袋がほとんど自宅わきに野積みにされているのですよ。中間貯蔵所もない。まして最終処分場もないのが真実です。行き場のない除染物がどうにもならない状況になって、除染したはずの自宅にあるのです。確実な見通しを提言すべきです。改めて政府にお願い申し上げます。

 東電の、今回の電源喪失については、私たちは激烈な怒りを感じます。二年経っても、緊急用の自動車から取る電源でしたか。はぁそうですか。何をさて置いても、冷却水確保のための電源ではないんですか。ネズミの侵入ですか。そんな子供騙しの言い訳は相変わらずで、困ったものです。何が大事で、何を先行すべきか、未だに分かっておいででないようですネ。東電のような巨大企業はその体質から言って、悪い意味で、まるでお役所仕事のようなものであり、そのお役所でも最も頭が悪いお役所としか言いようがありません。お役所にお勤めの方でも、客観性の高いガバナンスを完璧に出来る方は幾らでもいますヨ。もう一度喫緊に総ざらいをして、出直して欲しいものです。

 

富岡町のさくらたち 去年撮影 今年も立ち入り禁止

 

富岡町の観光課が出している「富岡町夜の森さくら 360°パノラマ」を

是非お楽しみ下さい!彼らを励ますためにも。今年も帰れない町なのですから

どの櫻の花印をクリックしますと、美しい櫻のパノラマ映像が出ます!

 


まぁ、また咲いてくれましたねぇ!

2013年03月21日 | 

我が家の染井吉野 元気な部分の先端

 

 

      まぁ、また咲いてくれましたねぇ!

 

 自宅に再びの花の到来。あんなに寒かった日々はスッカリ遠くなったようです。二人の子供たちと妻と、我が家にて静かに花見をする。子供たちはいつも以上に輝いてみえる。日頃静かな妻も嬉々としている。歓びが、みんなで炸裂する。我が手作りお料理を、茣蓙を敷いて広げ、雛祭りが終わったばかりだから、春の野遊びのようである。子供たちは随分大きくなったもので、今度生まれてくる子とは少々年齢が離れてて、だからこそきっとお姉ちゃんお兄ちゃんとして面倒みよくみてくれるに違いない。かもな!

 

我が家の染井吉野 樹齢100年ほど 曽祖父が植えたもの

 

 我が家の染井吉野は多分100年以上は経っているだろう。曽祖父が植えたもので、老齢な樹だから、幹から彦生えも生えてこない。戦災にも耐えた花である。でもあとどのくらい持つのだろう。そして我が庭には江戸彼岸もあるし、小彼岸もある。種類が違う山櫻も二本植えてある。私たちが結婚した時に、紅枝垂れ櫻を植えたが、まだまだ妙心寺・頭塔の退蔵院のような華麗な樹になってはいない。ちょろちょろと少しずつ上に伸び、実に可愛いもので、こんな都会にも健気に育っているから微笑ましい。まるで私たち夫婦のようなもので、私たちも夫婦として成長しているのだろうか。更に屋敷傍に、もう直ぐ夥しいスミレたちが賑やかに咲くことだろう。芝の端をよ~く見ると、オオイヌフグリやオドリコソウやナズナやハナニラなど、今を盛りに咲いているから更に嬉しい。白爪蒲公英は、叔母がどこからか取ってきて植えてあるはずだが、まだ姿を見せていない、どうしたことだろう。辛夷はとっくに盛りを過ぎ、思い切り外へふんぞり返り、今にも散りそうである。あぁ、春だ、私たち家族は春を通り越し、初夏のような陽気の中で汗ばんで過ごしていた。そう言えば亡き母がいつも口にしていたことがある。「Rちゃん、花は時を忘れずに咲くものよ。きっと人間より偉いんだわ」と、まるで恩知らずな人とは違うと言わんばかりであったから、よく覚えている。確かにそうだ、早い遅いの若干の差があるものの、時季が来たら必ず咲いてくれる花たち、有難いことである。子供たちのワワンたちはみ~~んなお家の中。折角だもの邪魔されたくない。こうして我が家の櫻の季節は静かにやってきたのである。

 

父が丹精こめてつくったヤマモミジの盆栽たちも、若葉を伸ばして元気いっぱい

 

 本居宣長は「古事記伝」で特に有名だが、宣長19歳の時「源氏物語」と出遭って、その10年後の29歳から弟子に対し、「源氏物語」の講釈を始めた。それから40年飽くることなく、殆ど終生続くのだが、その結晶が「源氏物語 玉の小櫛」となって私たちにも残された。如何に「源氏物語」を裏から表まで読み込んでいたかが、よく理解出来る。勧進懲悪的だったり、好色的と批判されがちな佛教的儒教的な説教部分を一切省いて、「もののあはれ」を追求した奇跡的な宣長の集大成である。「古事記」の読み込みはその途中であっただろうと想像されるが、宣長にとって「古事記」とは、源氏で掴んだ結論を補完するためであっただろう。師匠・賀茂真淵から、万葉仮名を勉強するようにと薦められ、宣長は「万葉集」もこと細かに読んでいる。だが、それまでだれもが解読不可能と言われた「古事記」を初めて読み解き、現代の私たちにどれほどの恩恵を与えていることだろう。漢意(からごころ)を詳細に解きほぐした「玉勝間」は、昨今、最も重要な宣長の説かも知れない。今夜は、宣長43歳の時綴った「菅笠日記」でも読もう。古都・奈良への旅はもう少し先だろうから。

 


    日本人とは、あなたは何を身につけますか

2013年03月18日 | 

錦帯橋の櫻たち

 

 

   日本人とは、あなたは何を身につけますか

 

 日本人とは、何者でしょうか。歴史を知らず、如何なものでしょう。日本史に近づきたくないようで、何だか哀しいです。声高に中華思想の誇示を掲げる習近平新総書記に怖さを感じる前に、あなたは日本人たる道理をどう語るのでしょう。WBCやサッカーの国際試合に日の丸を掲げますが、私たちは普段何を知り何を身につけようとしているのでしょう。家族愛・郷土愛・愛国心など、どう育んで行くべきでしょう。戦後復興での古い価値観の日教組的教育では何一つ分からない時代になっているのに。日本人から生まれたから日本人なのですか。しかも海外事情に極めて疎く、英語力がどうしても肝心だと思われるのですが、あなたは海外で一人でホテルのチェックインが出来ますか。スンニ派とシーア派の違いって判りますか。今そこにある日本の何をご存知ですか。今日はせめて櫻のお話を知りたい方々のために、櫻に関する本のご紹介に止めます。だってここまで来たら、お花が待ちきれませんね。 

 

  <櫻好きな方にお薦めしたい本>

 

薄墨の桜    著者/宇野千代 ●集英社文庫

岐阜県根尾谷の淡墨桜を一躍有名にした一冊。本書は小説だが実在の人物も多く登場する。前田利行氏は、昭和24年枯死の危機に瀕したこの桜に238本の根接ぎをおこないみごとに甦らせた伝説の人物。実話と創作を織りまぜつつ進行する老桜の妖美な物語。淡墨桜を愛でるための必読書。

 

櫻男行状   著者/笹部新太郎 ●双流社

「桜好き」の小林秀雄が、水上勉にすすめたという一冊。私財を投じ、生涯をさくらの保護育成に捧げた櫻男・笹部新太郎の自叙伝である。笹部新太郎は、水上勉の「櫻守」に登場する竹部庸太郎のモデルとされる人物。笹部桜、造幣局通り抜けの桜、荘川桜の移植などなど――櫻男の話は尽きない。

 

桜守二代記   著者/佐野藤右衛門 ●講談社〔1973〕【絶版】

昭和22年、枯死した京都・円山公園の祇園枝垂れ桜のあとに、嵯峨の自園で育てた二世の桜を移植したのがこの本の著者、桜守二代目・佐野藤右衛門。日本のさくらを守り育てるために、父子二代で日本全国を旅して接ぎ木のための穂木を集め品種収集につとめた。さくらにひとすじに賭ける情熱がすさまじい。

 

桜のいのち庭のこころ    著者/佐野藤右衛門 ●草思社〔1998〕

こちらの佐野藤右衛門は桜守三代目、植木職・植藤16代目の藤右衛門である(「さくら大観」の著書)。桜と庭にまつわる氏の語りが、土の感触を忘れて久しい我々現代人の欠落した感覚を思い出させてくれる。桜好きでなくとも、ぜひ、おすすめしたい一冊。

 

櫻よ―「花見の作法」から「木のこころ」まで 
著者/佐野藤右衛門[聞き書き]小田 豊二 ●集英社〔2001〕

藤右衛門さんの本はどれも読みやすくおもしろい。本書は、京都を中心に各地の桜を歩いたときの聞き書きをまとめたもの。自然をどこまでも破壊してきた人間に「このままでいけば、いつか自然のしっぺ返しを受けるにちがいない」人間は自然と共生して生きるべき動物である――と独特の語り口で諌言する。

 

桜伝奇   著者/牧野和春 ●工作舎〔1994〕

桜の巨木との出会い、日本人と桜の深淵さを綴った12の桜の小伝記集。真鍋の桜、根尾谷淡墨桜、醍醐桜、山高神代桜、石部桜、荘川桜、常照皇寺の九重桜、伊佐沢の久保桜、高麗神社のしだれ桜、桜株、三春滝桜、狩宿の下馬桜を紹介。桜巨木を語るのに欠かせない一冊。

 

巨樹と日本人 異形の魅力を尋ねて   著者/牧野和春 ●中公新書(1998)

『桜伝奇』の著者であり、全国巨樹・巨木林の会の理事でもある牧野和春氏が、全国から60本の巨樹を選び紹介する。うち桜は、角館のシダレザクラ、三春滝ザクラ、真鍋のサクラ、山高神代ザクラ、常照皇寺の九重ザクラの5本が収録されている。

 

櫻 守   著者/水上勉 ●新潮文庫(1976)

主人公の庭師・弥吉を通して笹部新太郎の桜に寄せる情熱を描いた小説。(小説では竹部庸太郎。上段『櫻男行状』の著者)。兵隊検査を丙種でのがれた弥吉が、竹部との出会いにより桜を守り育てる情熱に引き込まれていく物語。荘川桜の移植の他、根接ぎの話、各地の桜のエピソードも多く紹介されている。

 

在所の桜   著者/水上 勉 ●立風書房(1991)

根尾の淡墨桜、円山枝垂れ桜、越前ぜんまい桜、山高神代桜、石州三隅の桜、荘川桜など22の桜への思いが綴られた桜随想集。全国各地の名桜を訪ね歩いた思い出、小林秀雄や多くの人たちとの出会いを通して著者の桜観・自然観が語られている。

 

花見と桜〈日本的なるもの再考〉   著者/白幡洋三郎 ●PHP新書(2000)

「群桜」「群食」「群集」の3つを成立条件とする日本の花見は、世界に類のない民衆文化……と説くユニークな花見論。名木は追いかけても、名所はよけて通った私が、ちょっとだけ花見の写真も撮ってみようかと心動かされた一冊。

 

サクラを救え〈「ソメイヨシノ寿命60年説」に挑む男たち〉

著者/平塚晶人 ●文藝春秋(2001)

樹齢135年のソメイヨシノが、絢爛に咲き誇る青森・弘前公園。桜管理のパイオニアである同公園の試行錯誤を中心に、日本の桜名所の管理状況をルポした好著。読後には、桜を観る目が変わってくる、桜好きには絶対オススメの一冊。

 

桜と日本人ノート    著者/安藤潔 ●文芸社(2003)

語源にはじまる「サクラ」とは何か、古代の「桜」、「桜」に魅せられて、「桜」の民俗などなど。万葉集から日本酒のラベルまで、サクラにまつわるさまざまな姿をその源まで遡り、桜と日本人の関わりを考察しようと試みる「桜ノート」。桜を堪能する絶好の書。

 

日本の桜   解説・川崎哲也 写真・奥田實/木原清  ●山と渓谷社(1993)

あらゆる桜の種類や分布など網羅している。桜好きには必須の本。(すべての桜の学術的解説 及び写真掲載)

 

櫻 史  著/山田孝雄 山田忠雄校訳 ●講談社学術文庫(1990)

日本文学史に出てくるあらゆる原典から引用し、著者独自の視点で櫻の歴史を考察。(文学史から見た櫻の歴史 筆者が最も愛する本)

 

 

帯芯に描いた私の岩彩(芭蕉の句)


    櫻の種類

2013年03月17日 | 

吉野の山櫻

 

   櫻の種類 

 

 昨日東京の櫻も気象庁によって開花宣言された。史上最も早い二度目の記録らしい。尤もこの開花は染井吉野だけに限定されたもので、当ブログではどうでもいい櫻である。日本には案外櫻の種類が少ない。ただ山櫻や江戸彼岸の櫻たちは本邦原産の花である。「敷島のやまとごころと 人とはば 朝日に匂ふ山櫻ばな」と歌を詠んだ本居宣長の本質は「もののあはれ」であり、「からごころ」を排除して見えてきたものである。「からごころ」とは「漢意」と書き、中国からの知らず知らずのうちにうず高く蓄積していった漢籍・漢文影響への抵抗であったろう。「やまとごころ」とは大和魂などという勇ましい話ではなく、「和心」と書き「やまとごころ」と表現している。このことは宣長の作で、「玉勝間」に詳細に書かれているから、よく理解出来よう。又宣長は弟子を集めて最初に講釈をしたのは『源氏物語』であり、源氏を最初に正確に評価した人であったともいえようか。ではこの辺で本州の櫻の種類を掲げておこう。何故なら私たちの塾やグループでの仕事は花の時季に繁忙期を終えるからである。

 

櫻の種類

 

① カンヒザクラ群

  野生種は沖縄中心としたカンヒザクラ(分布の北限は関東地方)

  琉球寒緋櫻・寒櫻・大寒櫻・修善寺寒櫻・河津櫻・伊豆多賀赤・熱海早咲・大漁櫻・         横浜緋櫻・陽光・オカメ・啓翁櫻・初御代櫻・明正寺・椿寒櫻など

 ② エドヒガン群

  野生種は北海道と沖縄以外ならどこでもある 染井吉野は大島櫻×江戸彼岸の人口交配種につき野生種は存在しないが、学術的には江戸彼岸群に入る 江戸彼岸は別名/立彼岸・東彼岸・姥彼岸ともいう 望月櫻・八重望月櫻・枝垂・望月櫻・山望月櫻・枝垂櫻・紅枝垂・八重紅枝垂・雨情枝垂・紅鶴枝垂・勝手櫻・蒲櫻・三隅大平櫻・八重紅伊豆吉野・天城吉野・船原吉野・御帝吉野・三島櫻・咲耶姫・昭和櫻・アメリカ(植松作出の曙)・鞍馬櫻・神代曙・枝垂染井吉野・薄毛大島・衣通姫・白玉・盛岡枝垂・仙台吉野・水玉櫻・熊谷・八重紅彼岸・四季櫻・小彼岸・十月櫻・思川・白滝櫻・緑吉野・越の彼岸櫻・巴櫻・猩々・西法寺櫻・瀧野櫻・駿河櫻・茂庭櫻・松前薄墨櫻・穂先彼岸八重櫻など 

③ ヤマザクラ群

  南方は山櫻で、関西以北は大山櫻に分類される 北海道にも大山櫻がある 筑紫櫻・稚木の櫻・山越紫・仙台屋・内裏の櫻・衣笠・兼六園熊谷・八房櫻・紅南殿・養老櫻・佐野櫻・琴平・伊予薄墨・日吉櫻・市原虎の尾・二度櫻・火打谷菊櫻・気多の白菊櫻・来迎寺菊櫻~以上山櫻群 

  大山櫻群の別名は蝦夷山櫻・紅山櫻ともいう 初雪櫻・毛蝦夷山櫻・奥州里櫻など

  カスミサクラ群は北海道・本州・四国に分布し、九州にはない 朝霧櫻・片丘櫻・吉備櫻・奈良の八重櫻・紅玉錦・松前薄紅九重など

  オオシマザクラ群も山櫻に分類される 潮風櫻・薄重大島・寒咲大島・雲竜大島・八重紅大島・赤実大島・上匂・御座の間匂・駿河台匂・八重の大島櫻・伊豆櫻・青葉・水上・新墨染・細川匂・瀧匂・宗堂櫻など

  この他のヤマザクラの仲間として 江北匂・金剛櫻・祇王寺祇女櫻・伊保櫻・誓願櫻・御信櫻・木の花櫻・善正寺櫻

  この他のオオシマザクラの仲間として 梔子櫻・枝垂大島櫻・枝垂小山櫻・野中の櫻・暁櫻・明星・高嶺大山櫻など

  この他のカスミザクラの仲間として 霧降櫻・八重の霞櫻など   

  サトザクラも山櫻群に入る 山櫻と大山櫻の影響に入るサトザクラも多い 関山・紅殿・小汐山・金剛山・紫櫻・八重紫・嵐山・八重紫櫻・御室有明・仙台枝垂・不断櫻・千原櫻・荒川匂・御殿匂・大沢櫻・長州緋櫻・御所御車返し・手弱女・妹背・紅華・二尊院普賢象・鬼無稚児櫻・突羽根・梅護寺数珠掛櫻

  カスミオザクラの影響が見られる里櫻 水晶・名島櫻・太田櫻・鵯櫻

  オオシマザクラの影響が見られるサトザクラとして 明月・帆立・貴船雲珠・八重匂・白山旗櫻・永源寺・房櫻・早晩山・光善寺白八重櫻・苔清水・渦櫻・一葉・日暮・五所櫻・松月・玖島櫻・普賢象・天の川・御車返し・小南殿・菊櫻・御衣黄・鬱金

  ヤマザクラ群その他のサクラで、サトザクラの仲間として 類嵐・龍雲院紅八重・平野寝覚・祝櫻・増山・福櫻・菊枝垂・虎の尾・大芝山・九重・撫子櫻

  マザクラの影響が見られるサトザクラとして 真櫻・鷲の尾・大明・駒繋・車駐・太白・千里香・有明・白妙・雨宿・牡丹・大提灯・白雪・狩衣・翁櫻・今宿櫻

  ウスズミ系のサトザクラとして 薄墨

  高嶺櫻の影響が見られるサトザクラとして 松前紅緋衣・芝山・福禄寿・八重曙・高砂・松前早咲・綾錦・紅豊・江戸・東錦・八重紅虎の尾・白山大手毬・手毬・楊貴妃・糸括・法輪寺・紅時雨・静香・蘭蘭・松前大潮・新珠・松前愛染・紅笠・松前八重寿・松前・北鵬・松前花山院・花笠・松前花染衣・松前富貴・三ヶ日櫻・高台寺・矢岳紫・渋谷金王櫻・東京櫻・伊予熊谷・万里香・朱雀・小金井薄紅櫻・旭山・白華山・麒麟

  現存しないと思われるサトザクラとして 曙・玉鉾・紅鵯・采配櫻・奥都・王昭君・南殿・羽二重・乙女櫻・暁櫻・早咲櫻・勇櫻・尾上櫻・白菊櫻・紅虎の尾・墨染・満月・大南殿・蓬莱山・伊勢櫻・金綸寺白妙・都・黄金 

  以上のようにサトザクラ群に最も八重櫻が多く交配しやすい 

④ マメザクラ群 

マメザクラはマメザクラとタカネザクラの二つに分けられる。野生種のキンキマメザクラは敦賀を中心に滋賀・京都山手・兵庫裏日本・島根などに分布するが、野生種のマメザクラは富士山を中心にしか存在しない。

 マメザクラ群としては 豆櫻・大花豆櫻・近畿豆櫻・緑近畿豆櫻・武甲豆櫻・雪洞櫻・勝道櫻・富士霞櫻・飴玉櫻・藪櫻・緑櫻・水土野八重・茜八重・湖上の舞・熊谷櫻・鴛鴦櫻・二上櫻・海猫・勝道彼岸・正福寺櫻・真鶴櫻・ 

 フユザクラはマメザクラと何かが交配して出来た櫻で豆櫻群に。 

 野生種のタカネザクラは本州近畿地方の高山から東北と通り北海道の高山に広く分布する 高嶺櫻・千島櫻・石鎚櫻・小豆櫻・比翼櫻・八重の豆櫻・富士菊櫻・山豆櫻・身延櫻・枝垂小葉櫻・長柄の豆櫻・御殿場櫻・含満櫻・毛武甲豆櫻・武甲霞櫻・八ヶ岳櫻

 ⑤ チョウジザクラ群

 この花は東北の太平洋側に点在し、関東北部と西部から中部地方の山地に多いが滋賀県から西では急に少なくない

  丁字櫻・奥丁字櫻・深山奥丁字櫻・日光櫻・花石櫻・秩父櫻・大峰櫻・雛菊櫻・四季咲丁字櫻・大奥丁字櫻・鳴沢櫻・小根山櫻・霞奥丁字櫻・丸葉秩父櫻・小倉山櫻・丁字豆櫻などが該当する

⑥ シナミザクラ群

 この櫻は殆どが中国原産である 支那実(しなみ)櫻が中心

 だが東海櫻・子福櫻・泰山府君・箒櫻などは日本産の江戸彼岸や山櫻などとの交配種である  風戸八重彼岸・正永寺櫻などもある  

 ⑦ ミヤマザクラ群 

  中国原産の櫻で 深山櫻・八重深山などがある  

  この中に上溝櫻(犬櫻とも呼ばれている)も入れていいと推定される。但しズミなどと同種に扱う研究者もいる

⑧ 雑種群 

 様々な櫻が人工的に交配をすることにより、新しい櫻が生まれつつある。最も交配しやすい種類はサトザクラであろう。 

 現在数えられる櫻の品種は約340種である。交配種が不明な櫻も出て来たが、それらすべては三島の国立遺伝研究所でDNA鑑定されている  

 

一葉(ヤマザクラ群のオオシマザクラの影響がみられるサトザクラ 真ん中に一枚の葉が)

 


    今年も、あなたと花を見る

2013年03月15日 | 

  

福島第一原発から20キロ範囲の富岡町 櫻並木

 

 県立いわき総合高校の櫻の絵

 

 

 

今年も、あなたと花を見る

 

 

今年も震災の日がやってきた。

国立劇場で式典が開かれ、民主党政権下では2階席にいた

大切な友人・台湾の代表団が、今回は各国の代表の方々と前面にいた。

あのスッカラカンの菅元総理は八か国に対しお礼の広告を出したが、

中国に遠慮してだろうか、200億円も義援金を頂きながら、

台湾には、ただ一度も感謝の広告を出さなかった。この人でなし!!

 

チャイニーズ・タイペイとWBC日本代表との戦いの席に、

「謝謝 台湾 震災3,11 損贈」と書かれた日本応援団のカードを見た。

同時に「加油 東北!」と書かれたCTチーム応援の方々もいた。

更に試合後、チャイニーズ・タイペイチームは、

マウンド近くで円陣を組み、チーム全員で、祈りを捧げていた。

 

今年の3,11の色々な新聞の中で、読売新聞に見開きで、

被災者と、その家族のメーッセージが59記事出た。

どの記事を読んでも涙に溢れた。親子、友人、身内、職場関係など。

涙にくれるなら、どこかボランティアの地で迎えたかったのに。

原発被災地では何一つ見通しがたたず、私たちもただ見守るしかないのだろうか。

 

    長谷川櫂氏 『震災句集 四』より

    みちのくの山河慟哭初桜

    天地変いのちのかぎり咲く桜

    この春の花は嘆きのいろならん

    瀧桜一つひらきてとめどなし 

    みちのくを二分けざまの桜かな

    みちのくの大き嘆きの桜かな

    咲きみちて咲きみちて無残瀧桜

    さはさはと余震にさやぐ桜かな

    涙さへ奪はれてゐる桜かな

    花冷や津波のあとの大八洲

    花冷ゆる心をもって国憂ふ

    俳諧の留守の間に咲く桜かな

    俳諧の十日の留守や桜ちる

    マスクして原発の塵花の塵 

 

県立いわき総合高校の女子生徒が櫻の絵の前ではじける。

この北校舎は震災で使えず、この春に解体される。

昨日、避難先で多くの卒業式が行われていた。心からの応援を!

 


     豊穣、子福櫻と田の神と

2013年03月01日 | 

 上記写真は上溝櫻の実生

 

 

         豊穣、子福櫻と田の神と

 

 この忙しい折、私に第三子が授かったようである。満面に喜ぶ妻や、父や叔母や家人や、ただ二人の姉・弟の子供たちには分からないかも知れないが、五穀豊穣の予兆として、私も頗る嬉しく思っている。今宵は以前書き置いた国見と花見などの下記の文章を喜びのうちに掲げておきたい。

 

 富士山の元に鎮守されている浅間大社、そこに祀られる木花之咲耶姫は、櫻を象徴している神として広く知られている。毎春、日本国中爛漫と咲く花に熱中する日本人にとって至極親しい神様であるのだろう。「サクラ」と言えば、100%に近い日本人の脳内に「櫻の花」のイメージが浮かんで来るはずである。然し、もともと「サクラ」はもっぱら「櫻の花」を特定して指す花ではなく、稲作と深く関わりのある花の総称であった。

 

   1 「サクラ」の語源

 日本語の中の「サクラ」の語源について、和歌森太郎の『花と日本人』によると、民俗学では、「サ」とは、「サカキ」、「サケ」、「サクラ」、「サツキ」、「サナエ」、「サオトメ」「サガミ」の「サ」は全て神の意味で、すなわち稲田の神霊を指すと受け取っておられていた。お田植神事関係の用語は、「サアガリ」、「サノボリ」、訛って「サナブリ」とも言われるが、田の神が山にあがって山の神になることを指し示していると考えられる。逆に田の神になる時は山から降りて田の神になる必要がある。熊本県のタノカンサーなどが最もいい例であり、田植はまさしく農事である以上、「サ」の神の祭りを中心とした神事であるべきである。そこで田植とほぼ同じ時期4,5月に咲く「サクラ」の「サ」にも通じているのではないかと想定せられる。「クラ」とは、古語で神霊が依り鎮まる座を意味する。(類例:神座<カンザ→カミクラ→カグラ>は神楽に変遷している) 「イワクラ」「タカミクラ」「カミクラ」などの類例があり、「サクラ」は古代農民にとって、もともとは稲魂の神霊が憑き依る花(依り代=神の降りて来る目標物 ヨリシロ)とされたのかもしれない。

 

   2 「サクラ」と国見

 大和朝廷が最も盛んであった万葉時代、大和盆地の人々は稲作農耕をしながら、五穀豊穣を祈るため、さまざまな民俗風の純朴な神事を伴い行われていた。毎年の早春、ほぼ正月の予祝神事が終っての「こと始め」によって準備がなされ、早い段階に行う畦作りから水源確保の水路の仕事から、更には苗代作りから種蒔きに至り、本番の田植までの間に、様々な農作業が次々と行われてゆく。村の人々は真冬に自然界の山に生きて、気温の上昇によって咲いて来る花全般を「サクラ」と呼んでいた。そしてそれぞれの花はそれぞれの農作業の適切な実施時期を正確に知らせてくれる。従って「サクラ」にはたくさんの種類があると考えるのは至極当然なことであろう。その中で特に名高いのが白雪と見紛う白い花をつける「辛夷(こぶし)」(もくれん科もくれん属)や、タムシバ(辛夷の仲間)、そして同様に白い花を咲かせる「江戸彼岸櫻」や「山櫻」である。その時の櫻といえば、まだ現代人におけるイメージのピンク色の櫻ではなく、日本産野生種であり、春先一足早く咲く江戸彼岸や山櫻なのである。色は辛夷と同じくほぼ白であり、清かなる品の高い花であった。万葉時代の櫻は、後世の平安王朝のように都人によって華麗な櫻の美を愛でることがなく、山村の原始的な美が弥増しに漂う。神の宿る山に春が来ると、草木は幻のように白い木の花が咲く、村人たちが山を登り、これから田植が始まる村里の田園風景を望み、そして満開になる花の下で楽しむ様子は現代日本人と殆ど変わりはない。また花には稲霊が宿っていることが信じられ、今年木の花が盛かんに咲いたかどうかの具合によって、その年の吉凶が占われる。

 花見が終った後、万葉の人たちが山を下り、手折った辛夷や山櫻、また山櫻と少しだけ時間差をおいて咲く躑躅の花に稲霊が宿っているとも信じられ、秋の豊穣を祈りながら、水口に刺し、その後家々は漸く田植を始める。これは一種の稲作の予祝神事であり、「国見行事」といい、万葉時代に農耕を生業とした農民たちにとって、最も重要な行事であった。

 この行事の中で、「サクラ」はけっして櫻だけを指すではなく、山櫻のほか、辛夷や躑躅、田植時期の前後に咲く花であれば、全て大雑把に「サクラ」と表現されていた。当時の奈良盆地周辺の里山では、多くの木材が人々の生活するための燃料や住居用材、そして幾つかの宮を設営された用材として、あるいは農耕用器具もしくは堆肥として、伐採されていた。長い間続いていて、松などの常緑樹が山地に生育する主要な樹種になることによって、その下部には多くの辛夷、山櫻、躑躅、冬青(そよご)などの多くは落葉する広葉樹を主たる樹種として二次林になった。奈良の人たちにとって、これらの山櫻、躑躅などの春先に咲く木の花が、身近くにあり馴染み深く、そして生活に深く関わりのある植物であったのである。

 

   3 朝廷の国見

 さて万葉の歌から、かつて朝廷秘儀であった国見行事を見てみよう。万葉集巻一の構成を見ると、前半は第一~五三首(「持統万葉」一巻)、後半は第五四~八三首(宮廷歌の集合、「元明万葉」二巻のはじめ)である。くっきり前半と後半との仕切りが存在している。

 万葉集巻一の第一は雄略天皇の歌で、二は舒明天皇の国見歌である。この二の歌は: 

 天皇登香具山望國之時御製歌

 山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜可國曽 蜻嶋 八間跡能國者

 (読み:やまとには、むらやまあれど、とりよろふ、あめのかぐやま、のぼりたち、くにみをすれば、くにはらは、けぶりたちたつ、うなはらは、かまめたちたつ、うましくにぞ、あきづしま、やまとのくには)

 意味は、大和(やまと)にはたくさんの山があるが、特に良い天(あま)の香具山(かぐやま)に登って、国を見渡せば、国の原には煙(けぶり)があちこちで立ち上っている上、海には、鴎(かまめ)が飛び交っている。本当に良い国だ、蜻蛉島(あきづしま)の大和の国は。

 そして五二、五三の歌は、二の持統天皇の国見にかかわりのある藤原宮御井の歌である。

 五二 長歌:よみ人知らず

 八隅知之 和期大王 高照 日之皇子 麁妙乃 藤井我原尓 大御門 始賜而 埴安乃 堤上尓 在立之 見之賜者 日本乃 青香具山者 日經乃 大御門尓 春山跡 之美佐備立有 畝火乃 此美豆山者 日緯能 大御門尓 弥豆山跡 山佐備伊座 耳為之 青菅山者 背友乃 大御門尓 宣名倍 神佐備立有 名細 吉野乃山者 影友乃 大御門従 雲居尓曽 遠久有家留 高知也 天之御蔭 天知也 日之御影乃 水許曽婆 常尓有米 御井之清水

 (読み:やすみしし、わごおほきみ、たかてらす、ひのみこ、あらたへの、ふぢゐがはらに、おほみかど、はじめたまひて、はにやすの、つつみのうえに、ありたたし、みしたまへば、やまとの、あをかぐやまは、ひのたての、おほみかどに、はるやまと、しみさびたてり、うねびの、このみづやまは、ひのよこの、おほみかどに、みづやまと、やまさびいます、みみなしの、あをすがやまは、そともの、おほみかどに、よろしなへ、かみさびたてり、なぐはし、よしののやまは、かげともの、おほみかどゆ、くもゐにぞ、とおくありける、たかしるや、あめのみかげ、あめしるや、ひのみかげの、みづこそば、とこしへにあらめ、みゐのましみづ)

 歌の意味は、国を治められている大君(おおきみ)の日の皇子(みこ)が、藤井(ふぢゐ)が原(はら)に大御門(おほみかど)をお建て始めになり、埴安(はにやす)の堤(つつみ)の上にお立ちになってご覧になれば、大和の青々とした香具山(かぐやま)は東側の大御門(おほみかど)に、春山らしく茂って見えます。みずみずしい畝傍(うねび)の山は西側の大御門(おほみかど)に美しく見えます。青々とした耳成山(みみなしやま)は、北側の大御門(おほみかど)に神々しく見え、名高い吉野の山は、南側の大御門(おほみかど)を通じて遠くの雲の向こうにあります。天に届くように高くそびえる宮殿のある、この地の水こそはいつまでもあってほしい、御井(みゐ)の清水(しみづ)よ。

 万葉集巻一の前半は、二である舒明天皇の国見の歌を始め、そしてその歌と対応した五二、五三と続く藤原宮御井の国見の歌で終わり、これは巻の構成上重要な特徴の一つであり、大和朝廷にとって、国見行事の重要性は軽んずることは出来なかった。稲を生業として生活していた農民にとっても、農業が国の重要な経済の支えである朝廷の施策にとって、春先に国見をし、一年の豊穣を祈り、稲作を大事にすることは古代日本では確かなことであった。

 国見行事は、最初は朝廷の行事で後に民間の稲作神事に変化してきたか、それとも最初は民間の稲作神事で後に朝廷の大事な行事になってきたか、現在調べは出来ていないが、これは民間の収穫祭である「あへのこと」などと国家の祭祀「神嘗祭」が同時に混在していると同じことで、稲作文化であった古代日本では、稲は最も重要なことであり、稲作神事は人々の心から、敬虔に祀られていたからに違いない。

 

   4 「木の花」と「櫻」

 前述したように、「サクラ」はもともと専門的に「櫻」を指すことではなく、少なくとも、万葉時代にはそうではなかった、その時代に「サクラ」とは、辛夷や山櫻や躑躅などが、多く国見の時に咲く花の通称、或いは総称であった。然し後世になると次第に「櫻」のみが「サクラ」の代名詞になってきた。そもそも、「木花之咲耶姫」も同じことである。もともとは「木の花」があらゆる樹木の花を現わされていたが、これも又後世になると、だんだん専門的に「櫻」を指すようになってきたのだった。

 山田孝雄は名著『櫻史』の中で、「咲耶姫(さくやひめ)」は「櫻姫(さくらひめ)」の誤りである仮説を提出した。折口信夫も『古代研究・民俗学篇Ⅰ』、「花の話」の中で、万葉時代の稲作農民が花の咲く具合を見て、今年が豊作かどうかを占うことを語った一方、「木の花」は実は櫻であることを証明しようと、万葉集に載せられている木の花の歌を例として挙げた。

 巻六 一四五六  藤原朝臣廣嗣、櫻の花を娘子に贈れる歌一首

 この花の一辨のうちは百種の言ぞ隠れるおほろかにすな

    一四五七  娘子の和ふる歌一首

  この花の一辨のうちは百種の言持ちかねて折らえけらずや

 この二首の歌の中で、確かに「木の花」で「櫻」のことを指していたが、この二首だけの歌であって、万葉時代全般で「木の花」=「櫻」を証明することは十分ではない。この歌を詠んだ藤原朝臣廣嗣も娘子も、貴族の人間であり、稲作作業をしたこともない彼らは、わくわくとして国見行事をし、苗代や種蒔、田植などの田圃の重労働である仕事を準備し、豊作を念頭にして頑張ろうとする農民たちの心の中での「木の花」像の深みとはまるで違うと思う。

 さて、『日本書記』で木花之咲耶姫について書かれてある段にも、明らかに木花之咲耶姫は「櫻」であることを触れられていなかったが、稲作との関わりが書かれていた。

 ① 木花之咲耶姫が最初に書紀に現れたときは、稲作と関りのある神として現れていた。

 巻第二 神代下 第九段 一書第三

 「時神(かむ)吾(あ)田鹿(たか)葦津(しつ)姫(ひめ)、以占(うら)定田(へた)、号曰狭(せ)名田(なだ)。」

 神(かむ)吾(あ)田鹿(たか)葦津(しつ)姫(ひめ)は、木花之咲耶姫の別名である。ここでは、彼女は巫女的神性を有するので「神」の字を冠し、神田を司る神であり、父親の大山祗神は山の草木や獣などを司る神となっている。

 占(うら)定田(へた)とは、占いにより神田と定められた田のことである。狭(せ)名田(なだ)は、狭長田、すなわち狭く細長い田である。神田の特徴に基づいた表現、神田は、山の最初の水を取って治られる山田であるので、狭くて細長い。

 「以其田稲、醸天甜酒之。又用()()()稲、為飯嘗之」

 嘗は、「大嘗祭」の嘗と同じく、神と供薦して神に献饌する。渟(ぬ)浪田(なた)とは、沼(ぬ)浪(な)田、すなわち波立つ沼のように水が多い水田のことである。これらは全て水稲農耕の主な特徴であり、書記に書かれた木花之咲耶姫に関する神話の中で出たのは興味深い話である。

 ②書記で二回目の登場する時、彼女の名は時神(かむ)吾(あ)田鹿(たか)葦津(しつ)姫(ひめ)から木花之咲耶姫に変わっている。

 「于時高皇産靈尊以真床追衾、覆於皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊、使降之、皇孫乃離天磐座、、、彼國有美人、名曰、鹿葦津姫、亦名、神吾田津姫、亦名、木花之開耶姫、皇孫問此美人曰、汝誰之子耶?、對曰、妾是天神娶大山祇神所生兒也、皇孫因而幸之、即一夜而有娠、皇孫未信之曰、雖復天神、何能一夜之間令人有娠乎、汝所懷者、必非我子歟、 故鹿葦津姫忿恨、乃作無戸室、入居其内而誓之曰、妾所娠、若非天孫之胤、必當焦滅、如實天孫之胤、火不能害、即放火燒室、始、起煙末生出之兒、號、火闌降命、是隼人等始祖也、火闌降、、、次、避熱而居生出之兒、號、火火出見尊、次、生出之兒、號、火明命、是尾張連等始祖也、凡三子矣。」

 ここで、斎庭から稲穂を地に持ってきた皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊が、稲とゆかりのある木花之咲耶姫と結婚し、子が生まれた。まるで稲と花との象徴的結合である。ここにも相変わらず木花之咲耶姫は「櫻」であることを言っていないが、木花之咲耶姫はあくまでも、やはり田植の目印としての「サクラ」だと理解すれば良いと思う。それが証拠に殆どの場合、村々のどの位置からでも容易に見える最も高い場所に櫻の巨木がそそり立っている。

 そんな訳で文献上「木の花」はいつの時代になってから「櫻」になったか実は分かっていないのであるが、和歌の世界で、「花」が「櫻」を表すのは早くても平安に入ってからのことである。『万葉集』では、櫻の歌は43首で、梅は117首もある。万葉の人は櫻よりはるかに唐の国の象徴である梅を好まれていた。『古今集』では、「梅」の歌が18首に対して、櫻の歌は70首と櫻の歌の割合がぐんと増えた。然し『古今集』では櫻を歌うときに、必ず「櫻の花」と明確に注を加えている。さらに『新古今』という和歌の黄金時代になると、吉野の山櫻が盛んに詠まれるようになり、櫻の歌は119首で、梅は僅か23種に留まる。特に「櫻の歌人」と呼ばれた西行が櫻を愛し、櫻を讃えた歌は200首を超え、『山家集』にはそのうち100首余りが掲載され、多くの名歌を残している。その後も櫻を好む文人が絶えず、中世文学では、「花」はほかの花ではなく、専門的に「櫻」を指すようになっていた。また、鎌倉時代に入ると、武家思想は櫻によって大きな影響を与えられていた。当時の風潮により、日本人はやがて「木の花」を「櫻の花」というような理解になってきたのではないかと思う。

 また一般的な風評として平安時代に、梅派の菅原道真一族と櫻派の藤原一族との争いがあり、藤原氏が勝利したために、宮中内裏・紫震殿に植えられていた左近の梅が櫻に取って代わったというのは未だ充分に論証されていないことも付記しておきたいことである。 更に木花之咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)の万葉仮名での呼び名の中で、「ヤ」が「ラ」だから本来はコノハナサクラヒメと言う説があることも表記しておきたい。

 

   5 「櫻の花」と田植

 日本人の近世で櫻を好む風潮により、都会にも田舎にも全く関わらず、人々は花見を楽しむ習慣が一般的になってきた。無論農村部の春先の田植神事をするときも、櫻の花だけを重視し、櫻の花の咲き具合のみで田植をし、五穀豊穣を願う判断にされて来ることになってきたかからではないだろうか。辛夷は畦作りで、躑躅は苗代から種蒔きと時期が特定され、櫻を全般的に象徴として農作の花として一般化され具現化されたのであったのだろう。

 いまでも、櫻を田植の目印と見られる農作の習俗・習慣は、前述した奈良盆地だけではなく、東北から中部、四国、全国各地にまで類例は見られる。この農作における自然暦と見られた櫻は、関連する農作業によって、種蒔き櫻、種あげ櫻、苗代櫻、芋種櫻、田打櫻などと、さまざまな名をつけられた櫻が多く散見される。また、豪雪地帯である一部東北地方では、春の農作業の目安は櫻のほかに、山の雪形(残雪の形)とも含まれて、農作業は周囲の自然と深く結び付けられている。

 そのほかの櫻と関係する稲作神事の例をあげれば、各地に数多くの櫻の大木に関する伝説が伝えられている。その一つは「駒つなぎの木」の伝説:里の祖霊たちが山に神集って山の神になっている。この山の神が樹木に宿って再び里に下られる時に、歳の神・農の神になる。農の神は、田の側の松や櫻などの大木に神が憑き依ることが信じられている。村民は農の神を祭った木を、「駒つなぎの木」として、「咲いた櫻に、なぜ駒つなぐ。駒がいさめば、花が散る」と歌いはやして、稲の花が無駄に散らないように念願し、豊作を祈っていた。木の種類は地方により、松や櫻、杉、椋(むくのき)などさまざまであるが、この行事は意外に一致点があり、全国に広く分布している。神馬は、神の乗り物であり、農の神でもある。それを木につなぎとめることで、山の神が村に下りて来て、農の神になり、長く田にいらっしゃれることに願ったものと思う。

 もう一つの「子持櫻」や「子福櫻」の伝説は、娘が櫻の花を懐に入れた夢を見、妊娠することになった。これは櫻に稲霊さまが宿り、稲にも繁殖させる力を信じ、開花した櫻の枝を、まだ播種していない田圃の水口に刺し、今年の稲花の開花を切に祈ることで、一種の感染呪術(カマケワザ)と同じことであろう。ここから派生して安産・子授けの神にもなっている。

 幾つか時代が変わっても、日本の村々に櫻の花の咲く風景は変わらない。稲と櫻のこんな素朴な組み合わせはこのように品のある美的感性に結晶して存在し、人の心の奥に深く沁みていくのである。どこかの本で読んだか詳細は覚えてないが、かつて柳田國男が農村に調査しに行った時、長く村の櫻を眺めていた。農林省出身の彼にとって好む櫻は、けっして現代人の好む華やかな都の枝垂れ櫻ではなく、日本の村々に咲く田の櫻であったのだろう。

 

  

「ケ」を祓う流し雛 (下鴨神社)

 

 * 参考文献

 「桜Ⅰ、Ⅱ」(ものと人間の文化史) 有岡利幸 法政大学