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硯水亭歳時記

千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた

 愛宕神社千日詣りと茅の輪くぐり

2007年06月24日 | 祭り・民俗芸能・民間信仰

 

 

 

 

愛宕神社千日詣りと茅の輪くぐり

 

 

 

本日は 今月全国的に多かったお田植神事のトリが 伊勢・志摩地方の

伊雑宮で 『御田植祭り』があります 海の近くらしく 漁師さんも混じって

大混雑して大賑わいすることでしょう 別名『オミダ』と呼ばれていて

五穀豊穣の他に大漁祈願にもなるそうです

 

一方東京では 23,24日愛宕神社で千日詣りがあり 茅の輪くぐりがあります

昨日の午後 愛宕神社の薪能があって NHKのBSで放送がありました

その前ふりで 愛宕さまの急勾配の階段 男坂と申しますが 出ておりました

金春の能で 櫻間金記師の『一角仙人』も立派でしたし 

野村萬斎師の狂言『彦市ばなし』も 非常に面白かったです

 

四国丸亀城主の家臣・曲垣平九郎盛澄が 

将軍家光の御前で この愛宕神社の過激で急な男坂八十六段を

愛馬諸共一気に駆け上がり 

国家安泰を祈願した後 将軍の愛でた梅花をひと折

梅花を将軍に差し出し 馬の名人と持て囃されたのでした

 

又 万延元年 安政の大獄で恨みを買った井伊直弼を討とうと 

この神社に集結した水戸浪士の面々が 

雪を蹴散らし 櫻田門へ飛び出して行きました

 

更に明治元年 旧江戸幕府の将・勝安房守海舟と 官軍参謀の西郷隆盛が

ここ愛宕神社から 江戸の巷を睥睨し 戦火に晒すのは惜しいと 

二人で 戦乱を断念した場所でもあります

 

兎に角高い場所なので 昔は海は無論のこと 遠く房総なども一望出来たのでした

それが大きな要因で 渋谷ではなく 最初のNHKは この直ぐ傍にありました

 

23、24日は愛宕神社で千日詣りがあり 

大祓いの儀でしょう 茅の輪くぐりもあり 晦日からすればひと足早い筈です

半年分の(昔は一年を二度に分けていた)を取って戴けることになっております 

一日お参りすれば千日の功徳があると言われ 近郷近在から多くの人々が集まって

ごった返えしたのは つい最近まででして その時酸漿(ほおずき)が売られ 

それを処方すると忽ち癪(シャク)が治ったり 子供のカンの虫が治まるとか 

霊験あらたかであったと 浅草の酸漿市の原型になっております

 

そして正月から半年の晦日で 茅の輪をくぐって 

大祓いをし 夏に備えたものです

 

様々な曰く因縁がある立派な神社なのですが

去年七月二十八日 気温38度の暑い中 我が主人は愛宕さまにお断りもなく

リハビリの為 何度かこの神社の男坂の石段昇りに挑戦を申し上げました

セキュリティの方々と三度上り下りされ 最後下りた後に突然の異変が 

手術して一年も経っていない心臓が ピタリと止まったのでした 

下で待機していた私が 直ぐ救急車を呼んで胸骨を折るような強い人工呼吸 

だがその甲斐もなく再び鼓動が 一度も戻ることはありませんでした 

焦るリハビリに 何かの要因があったのでしょうか 今では分かりませぬ

由緒ある御神前で 本当に済まないことを致しました

今月二十八日が 最後の月命日であります 

来月の二十八日が 我が主人の一周忌です

 

返す返すも 口惜しく淋しい限りなのでありまして 

今回偶然に テレビで観るのがやっとでして 

残念ながらこの神社には 未だに近づけないのです 

取り巻きの我々の責務が 甚だ重責になっておりまして 

どんな非難をも受ける覚悟が御座いました

そんな愛宕さまのご報告で 愛宕さま!本当に御免なさい 

眞に勝手で 恐縮につき

愛宕さまに依って来る多くの苦悶や苦悩や災厄を 

独り背負って天に召されたと 是非お許し賜りとう御座ります

畏しこみ畏しこみて神の御前に 平身低頭させて戴き

ひたすら御願い申し上げる次第であります

 

 


 鞍馬の竹伐(か)り会式

2007年06月20日 | 祭り・民俗芸能・民間信仰

 

 

 

鞍馬の伐(か)り会式

 

 

 

六月二十日のこの日 鞍馬寺では 蓮華会が行われる

鞍馬寺と言えば 古い御寺で 宝亀元年(770年)に 

鑑真和上の高弟・鑑禎上人によって 毘沙門天が祀られた事から始まり

鎌倉幕府誕生に寄与した源義経が 

その若き修行時代を過ごした有名な御寺でもある

 

寺伝によれば 延喜年間(901~923)

鞍馬山に棲んでいた雌雄の大蛇が里人を苦しめていたので

峯延和尚が調伏をはかったところ 雄蛇は死に 雌蛇は和尚の説伏に服し

山の井戸が枯れないように守ると誓ったと言う

この故事にならい 大竹を蛇の代わりに4本置き

根のついてない二本を雄蛇とし 根のついている方の二本を雌蛇として

東西に分かれた弁慶のような装束を纏った法師四人ずつが

導師の合図とともに 掛け声を掛けてお堂に登り 大竹を山刀でばっさりと切り

堂内に駆け上がる その遅い速いによって勝負を決め 東が速いと近江

西が速い時は丹波の勝ちとして 豊凶を占うもので 

なかなか清涼感が溢れ パワフルで 古風な祭りがあるものだ

 

但し14;00から開始し 15;00にはあっと言う間に終わるようで

これからおいでの方は 充分その時間にお気をつけて下さりませ 

鬱陶しい梅雨の中にでも 元気のあるご祭祀があるものだ

 

 

口絵は 芹沢介氏の切り絵染めつけの作品で『鞍馬の伐り会式』

 

 

   他の六月の京都のお祭り

 

 貴船祭り  

 6月1日鞍馬路に虎杖(イタドリ)の緑が映える祭礼で 鞍馬の貴船神社で行われる

 本祭礼は正しくは御更祭(ごこうさい)と言われ 昔は旧4月・11月の朔の日に行わ

 れていた 明治以前貴船神社が賀茂神社の摂社的存在を受けていた時は盛大に

 行われていた 4月には虎杖(イタドリ)が繁茂し 参詣人はこれを採って大きさや

 量を競ったので 俗に虎杖(イタドリ)祭りとも言う

 

 県(あがた)祭り 

 暗闇の中を渡御の行列が進む祭りで 別名り『くらやみ祭』言われる 6月5日

 ~6日 京都府宇治市県神社での例祭のことで 5日は午前10時から朝御饌の

 儀 午後5時の夕御饌の儀がある 6日はこの祭りのメーンで ご神体の大さかり

 の御幣が本社から宇治神社へ移される渡御の行列が行われる 道筋の家々は物

 忌みの意を籠めて消灯し 行列は暗闇の中を進む 『くらやみ祭り』と呼ばれる由縁

 である 東京都府中市の大国魂神社の『くらやみ祭り」と共に名高い 又お渡りの

 時 御幣の紙を千切って投げ 信者は紙を拾いお守りとする 更に「種貰い祭り」

 とも言い 沿道の家々が男女雑魚寝してお渡りを待つと言う性的な性格を持つ

 お祭りでもあった

 

 伏見稲荷大社の田植祭り 

 稲荷信仰の稲荷とは 山城国風土記の逸文によれば「稲が生えた」ところとある 

 従って稲荷信仰の根源をなすものは 稲作が当然重要なことであり 五穀豊穣を

 祈り祀る神であった 6月10日に田植祭りが行われる 4月に行われた水口播種

 祭で蒔かれた種が生育し 早苗になったところを稲荷大社の神田に移し植え 豊

 かな実りを祈るのである 午後1時本殿祭の後 2時より神田にて田植えの儀が行

 われる 神田で薄緑色のカザミ装束を纏った神楽女が優雅に御田舞を舞っている

 中で 茜襷に菅笠の早乙女が田植えをする この色彩の対称が美しい 型がしっ

 かりした大阪住吉大社のお田植祭りや広島の花田植の行事より やや小降りだが

 しっとりとして 彩色的にも美しい稲荷大社の田植祭りは なかなかいいものである

 

 余談だが こうして京都のお祭りを書くにつれ 次第にフィアンセに近くなって行く

 ような気がして何だか嬉しく 今月末各神社で大祓いの儀が済むと愈々祇園さん

 となる 祇園さんが終わり 亡き主人の一周忌の喪が明けて 我が人生最大の祭り

 が待っている 胸の動悸は時々刻々と近づいていることを指し示しているようだ

 


 つぶろさし

2007年06月15日 | 祭り・民俗芸能・民間信仰

 

 

 

つぶろさし

 

 ~今日のお祭り~

 

 

 今日は弘法大師・空海の誕生会で 

お山では賑やかに法要が営まれていることだろう

まさに今夜は朔の日で 真夜中は真っ暗になり 新しい月が生まれる

更に北海道神宮では 神宮祭がつつがなく執り行われていよう

 

梅雨に入ったと言う各地の報を受け 今日は実にいい天気で 梅雨は何処吹く風

こんな六月十五日に 古代から配流の島・佐渡では 古風なお祭りが展開されている

 

奈良 平安 そして中世 今尚それぞれの時代が息づく佐渡
 
順徳天皇を始め 日野資朝も日蓮も世阿弥も 流罪によって
 
多くの人々が流されて来た その為独自の文化が育まれもした
 
古代から金山としても有名な島で 幾多の紛争も絶えなかったようだ
 
失意のうちにこの島で処刑された日野資朝や 
 
伝聞だが 世阿弥翁も この島で亡くなったと言われる方があれば 
 
この島から出て 逆に偉業を達成する日蓮のような方もおられた
 
 
 
そんな中にも佐渡の羽茂に ユーモラスな踊り「つぶろさし」の芸能が残された
 
これは飛鳥坐神社の『おんだ祭り』や愛知県小牧市の奇祭『田縣神社の豊年祭』
 
非常によく似た性的なお祭りで 若い女性は見るに耐えないかも知れない祭りである
 
 
 
又ふるさとの味「鮎の石焼」などは 中世の羽茂城時代の名残とされていて

 徳川時代の三百年間 羽茂は 金山の盛衰にも全く関わりなく 
 
自給自足の純農村として過ごし 逆にそれが独自の文化を育むことになった
 
「文弥人形」「能楽」も皆 ほかならぬ農民文化であり 羽茂の大いなる誇りで
 
それは古くから受け継がれてきた数多くの祭りと行事が豊富に残ったからであった
 
 
 
 

「つぶろさし」


 羽茂には つぶろさしと呼ばれる舞は 三種類ある 

一つ目は 村山地区に伝承される「鬼舞つぶろさし」

二つ目は 寺田地区で伝承される「太神楽つぶろさし」

三つ目が 飯岡地区で伝承される「妹背神楽つぶろさし」

妹背神楽つぶろさしを除いた 鬼舞つぶろさし太神楽つぶろさしの歴史は古く

今から四百年以上も前から それぞれの地域に伝わっているものであり

現在、この二種類のつぶろさしは 新潟県指定文化財に認定されていて 

羽茂まつりをはじめとしたイベントなどで 今でも何度か観ることが出来る

それぞれの伝来も 奉納される神社も異なっている芸能だが 

太鼓や笛などの音楽に合わせて

「つぶろ」とよばれる男根を模した棒を手にした「つぶろさし」

という種馬的な精力絶倫の男性?を 中心とした登場人物が 

子孫繁栄 豊作祈願を祈る神楽であることは 皆共通している

六月十五日 今日のお祭りで あの狭い佐渡島の豊富な文化を下支えしている

 

このような性的なお祭りは 感染呪術(かまけわざ)と呼ばれ

性的に孕む つまり実ると言う意味を懸けて 五穀豊穣を祈り 

同時に子宝や子孫繁栄を願うものであり 

民俗行事の中には 全国的に数多く分布している行事でもある

 

 


  大阪 住吉大社の御田植神事

2007年06月14日 | 祭り・民俗芸能・民間信仰

 

 

 

住吉大社の御田植神事

 

~本日のお祭り~

 

 

今の日本人は「農耕民族」だという認識を持っていない 淋しい限りだ

だがあの戦争が終わるまで 殆どの日本人は 縄文時代からの稲作文化を

引き継いできた農耕民族であったと自負していたはずである

稲作は 大阪近辺では 梅雨に入る二十日ほど前に 

路地の苗代に 種籾を撒いて稲を発芽させ 

葉の部分が15~20cmぐらいに育った早苗を

広い水田に植え替えする田植えから始まる

この田植えの日に「田の神」を 神田(しんでん)にお招きして 

秋の豊作を祈願し 田の神をお祀りする伝統行事は 

日本各地でも行われているが 大阪市内にある住吉大社では

明治以降新暦6月14日の本日に「住吉大社御田植神事=御田(おんだ)とも言う」

の祭儀が厳かに かつ華麗に行われている

 


祭儀は本日午後1時から本殿で 午後2時頃から神田(しんでん)で行われ 

本殿での祭儀は一般には非公開になっているが 

神田での祭儀は「御田講講金(おんだこう=御田講への奉賛金)」を納めれば 

木陰に並べられた椅子席でゆったり観覧できる

 


神田での祭儀は 先ず儀式の前座として お祓いを受けた斎牛(さいぎゅう)が

御田講の奉仕者によって 神田の回りを一周して田に入り 

斎牛に農具を取り付けて代掻(しろか)きが始める 

水田の代掻きは 凸凹の水田を平らに均(な)す作業で 

水田の水深を一定させて 田植えをしやすくするために行う 

住吉大社の御田植神事には 成長した但馬牛を

一週間ほど代掻きの調教をしてから 本番の祭儀に備える 

 

続いて 御田講旗を持った代表者を先頭に 

供奴(ともやっこ) ほら貝吹き・太鼓・風流武者 楽人(音楽担当) 

神職と宮司 八乙女(やおとめ=8名の巫女さんで田舞を舞う) 

稚児 御稔女(みとしめ=新町花街の芸妓で御田代舞「みとしろまい」を舞う) 

植女(うえめ=8名の芸妓で神職から早苗が授与される) 

替植女(かえうえめ=植女から早苗を受け取って実際に田植えする女性たち) 

奉耕者(田植えをする男性) 住吉踊りの方々が

行列しながら神田の回りを一周する

 

これは、人には見えぬ「田の神」を神田にお迎えするための大切な儀式である 

行進が終わると 神職 植女 替植女が中央舞台に進み 

神職が四方に向かって修祓(しゅうばつ=お祓い)を行い  

植女から替植女に早苗が渡されると 替植女たちは 

すぐに神田に入って田植えを始める 

男性の奉耕者も田植えを始める 

 

元々は 植女が実際に田に入って田植えをしていたようだが 

近年では農家のご婦人たちが植女の代わりに田に入って田植えするようになった

 中央舞台には 八乙女が風流傘を中心に田舞を舞い 

更に御稔女が御田代舞を華麗に舞い 

田植えが進んでいく 一流の芸妓さんの舞う踊りなので 

なかなか見る機会はないが 実際に見ると なかなかいいもので

昭和54年(1979年)になってからは 

住吉大社(大阪人は、すみよっさんと呼ぶ)の

御田(おんだ=御田植神事のこと)は

 重要無形民俗文化財指定になっている

 

 

兎に角お田植神事系統のお祭りでは 

たった一つの端折りもなく 最高によく出来たお祭りではなかろうか 

是非一度は眼にして戴きたいものだと願ってやまない

稲作文化を誇りの一つに持つ日本人としてである

 


口絵写真は 植女(うえめ)の行列の様子である

 


 ササユリの祭りの日に

2007年06月12日 | 祭り・民俗芸能・民間信仰

 

 

 

ササユリの祭りの日に

 

 

6月17日 伊勢の神宮では 重要な月次祭がある 

同日父の日で 何かと気忙しいが

近鉄奈良駅直ぐ傍の率川(いさがわ)神社では 

三枝祭り(サエグサ=ササユリ祭り)と言う美しい祭りがある

一つの枝に三つのピンクのササユリを翳し 清らかな巫女舞が奉納される

ササユリとは 竹笹に似た葉を持つ淡いピンクのユリの花ことである 

 

率川神社は桜井市・三輪にある三輪大神神社の摂社で  

奈良市一の古社 奈良市本子守町にある神社であり

 天皇と皇后で挟まれた内親王との三御祭神がいらっしゃって 

「子守明神」としても 特に親しまれ

701年制定の大宝令に国家行事として定められている如く

由緒正しき「三枝(さえぐさ)祭」が行われる 別名ユリ祭りとも言う

 

三枝祭は ご祭神で神武天皇が後に皇后となられた

媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)が

住んでいた三輪山麓の狭井川ほとりを訪れた神武天皇 

周囲に咲き乱れるササユリの花に感銘をうけ 媛との恋が成就された

神武天皇と皇后の恋の語り草になっている神社でもあるお祭りである

 

午前中に古式にのとって 

神官が黒酒(くろき=燗酒) 白酒(しらき)を酒樽に盛り

ササユリの花とともに神殿に奉納する 

その後 4人の巫女がササユリの花を手に美しい舞を奉納し

祭典のあと無病息災の霊力あるとされるササユリは

参拝者に授けられるのが本当だが ササユリの栽培期間は永く

なかなか取れなくなった昨今 戴ける花は 造花になっている

但し本物のササユリは 三輪大明神境内に自生しているササユリが使われる

 

午後からは 七媛女(ななおとめ)や稚児の市内行列があり

16日は宵宮祭 18日は後宴祭 がそれぞれ行われる

春日若宮の御祭りに次ぐ盛大なお祭りとなっている

 

 

 

 http://outouro-hananoen.spaces.live.com/blog/cns!BA05963D8EB5CC5!6270.entry 『櫻灯路』 三枝祭り関連

 


 チャグチャグ馬っ子

2007年06月09日 | 祭り・民俗芸能・民間信仰

 

 

 

チャグチャグ馬っ子

 

 

今日は 盛岡でチャグチャグ馬っ子があります

一方チャグチャグ馬っ子は 愛馬を労わる極めて素朴なお祭りです

盛岡 所謂南部各地は南部馬の生産で盛んなところでした 軍馬用とか騎馬用とか

但し今のサラブレッドではなく モンゴルの馬のような短い足をしていました

 

江戸・寛政年間頃から 人馬共に生活出来るよう 南部曲がり屋が誕生しました

当然農耕馬で 足が太く大人しい馬です 人々はそんな農事に関わる馬を

愛着を籠めて せめて一年で一度ぐらいはねぎらってあげようとしたのでした

平成13年から 六月の第二土曜日に

岩手県滝沢村の蒼前(駒形=馬頭観音さま)神社を中心に行われています

 

この日は早朝から 愛馬を五色の布や紅白の手綱で飾り

金銀の馬具をつけ 半纏姿の男の子や振袖姿の女の子を乗せて

馬の守護神である蒼前(=駒形)神社(馬頭観音)に集合します 

皆それぞれに愛馬の無病息災を祈願した御神事を受けた後

行列して 盛岡市内にある盛岡八幡宮を目指し 

百頭近い馬達は 約15キロ 4時間の行程を歩きます

農家が忙しくなる直前 馬に対する農家の方々の愛情がたっぷり詰まっています

この日ばかりは 馬っ子は言わば神様として大切に扱われるのです

子ども達は 小さな馬の作り物にまたがり 可愛い滝沢駒踊りを見せてくれます

「チャグチャグ」とは馬に付けた鈴の音で 「馬っ子」とは馬の東北弁の愛称です

馬(=南部馬)の一大生産地として この地方ならではのお祭りになっているのです

 

ところで宮沢賢治が 盛岡高等農林学校三年(大正6年)の時分に

チャグチャグ馬っ子が通る下の橋の近くに下宿していました

その時次のような詩を詠んでいます

 

               夜明げには

             まだ間はあるのに

             下のはし

             ちゃんがちゃんがうまこ見さ出はた人

 

             ほんのびゃこ

             夜明けがヾった雲のいる

             ちゃんがちゃんがうまこ橋渡て来る

             いしょけめに

             ちゃんがちゃんがうまこはせでげば

             夜明げの為が

             泣くだぁぃよな気もす

 

             下のはし

             ちゃんがちゃんがうまこ見さ出はた

             みんなのながさ

             おどともまざり

 

尚石川啄木も このお祭りを見ています 啄木の一文が残っています

 


 ぎをん 放生会

2007年06月07日 | 祭り・民俗芸能・民間信仰

 

 

 

ぎをん 放生会

 

 

 

毎年六月の第一日曜日に 

京都・祇園乙部 辰巳明神さまの脇 巽橋で 

華やかな芸妓さんや裏方で働く板場の方々が大勢待つ中 

比叡山で千日廻峰する大阿闍梨さまが 市内切り回しの際

この橋に立ち寄られ 一切殺生無用の御法を説き 辰巳明神へお参り後

約2000匹の鯉や小魚を 皆さんで白川に向かって放流されます

 

これから来る御盆は すべての人の対する優しさであり

放生会は 生きとし生きるものへの供養で 優しさでありましょうか

この歴史は本来は古いけれど ぎをん放生会は

 昭和60年から復刻されたもので

今年で23回目となっている

 

 

尚毎度恐縮ですが 亡き主人の原稿が最も詳細に書かれてありまして

是非ご一読を賜りたいと存じます

http://outouro-hananoen.spaces.live.com/Blog/cns!BA05963D8EB5CC5!6975.entry 櫻灯路『放生会』

 


 伊勢・斎王まつりへ

2007年06月04日 | 祭り・民俗芸能・民間信仰

 

 

 

伊勢・斎王まつりへ

 

 

昨日ブログに ねむの木学園の記事を書き終えて直ぐ

品川から 新幹線にポンと乗り 伊勢・明和町へ向かった

 

天武天皇以来660年間 鎌倉前期まで約64代に亘って続いていた斎王

その古式ゆかしい斎王のお祭りが 復刻されるのを目撃するためだ 

伊勢の神宮より斎王がいたところは10キロも離れており 斎宮と称していたが

往事は威風堂々とこの距離を 神嘗祭や6月と12月に行われる月次祭に

(その三つお祭りは 三節祭と言われ最も重要なお祭りである)

年三度天皇の名代として 斎宮から出発し 伊勢の神宮までお参りに行く

現在は斎王の代わりに 祭主がそれに代わっておられるが 

都大路とは違い 見栄えはしないのではないかと不安に思いながら観に行った

斎宮のお膝元 伊勢の明和町だから 尚更小規模ではないかと

下記は今回の斎王復活行事の簡単なスケジュール表である

 

          6月2日(土曜) 禊ぎと前夜祭
 
          830  出演者着付け開始

          1100 出演者写真撮影

          1300 鎮魂の儀

          1315 業平群行

          1350 禊ぎの儀
 
          1500 前夜祭リハーサル

          1700-2100 前夜祭(斎の舞、雅楽など)

          2000-2100 参加者の紹介


 
 
          6月3日(日曜) 斎王群行
 
          800  出演者着付け開始

          1230 御座所着座

          1335 群行開始

          1450 斎王博物館にて 社頭の儀

          1600 解散


 

生涯独身であらねばならぬ斎王の御心が 

小生の興味を大いに引くものであるが 今般の復刻はやや物足りないものの

往事を偲ぶのに 果たして充分であったか実際は定かではない

一つだけ面白かったのは 葵祭りでは斎王代が登場するが 

ここでは 堂々と斎王として登場していた

伊勢の神宮だからであろうか

 

京都・葵祭りの斎王は 斎院と称する施設においでになったのに対し

伊勢近くの斎王がいらっしゃった斎宮は 京都より遥かに古く巨大な施設で

現在でも延々と 発掘調査が続けられている

 

天照大神に直接御仕え申し上げた斎王なので 大変な費用が掛っていた

それを取り止めた経緯は 多分経済的理由が最も深刻な事情であったためだろう

 

実は今回の行事に 私の許婚者が出演していた 身長が177センチあるため

斎王にはなれなかったが 請われての出演で 采女(うぬめ)として 

色彩も鮮やかな青海波の衣装に 白い水衣を羽織り 千早を被って

ソロリソロリと群行の中にいた やっと間に合ったのだった

ひと一倍美しい采女であった

 

但し雨が降ったり止んだりの不安定な天候で気の毒に思い

あの重たい装束を着るには持って来いの寒さであったろうが

梅雨の走りだろうか

 

解散後 直ぐ近鉄特急に乗って京都へ

私は朝早い役員の会議があるからと 泊まらずに送り届けただけで

トンボ帰りの忙しい最終の新幹線の中に

彼女は近鉄の中で すっかり疲れたらしく 私にずっともたれて

眠り続けていた 寝顔がいじらしいほど可愛い顔をして 手を握り続けた

 

 


 大原女(おはらめ)まつり

2007年05月25日 | 祭り・民俗芸能・民間信仰

 

 

 

大原女(おはらめ)まつり

 

 

古い格式が多い京都でも 新しく大切にされている祭りがあるもので

ここ京都・大原の里では まだ28回目と言う

大原観光保勝会主催の『大原女まつり』が行われている

5月16日から31日まで 大原女の扮装を

どなたにでも丸一日無料で貸与されるお祭りで

その扮装をしていると 何処ででも特典があり 

紫蘇の苗を戴き植え 秋にはその紫蘇で作られた柴漬けを贈られると言う

 

中でもハイライトは『大原女時代行列』で この20日に行われた

各時代の大原女の扮装をした方々が 

大原・寂光院から 大原・三千院(正確には勝林院)までの道程を

静かに歩き 時代の移り変わりがよく分かるようになっている

『大原女時代行列』には 土地の小さい女の子達も大原女行列に参加し

へぇ 幾ら観光目当てであっても なかなかいいものだなぁと充分に楽しめる

 

紅と白の柄の紺絣を着て 真紅の襷を掛け 白足袋で草履を履き

紺色の手甲・脚袢に 白い手拭を被り

頭に柴とか花を乗せ 京都の繁華街に行商に出る 

夢にまで出そうな 何て懐かしき姿であろうか

お花どうどすえ~~ はしご くらかけ いらんかなぁ~~と

澄んだ大原女達の声が聞こえて来そうである

何でも三千院の門跡(もんぜき=皇家の方が出家されるとこう呼ばれた)さまの

御仕え人がこのような扮装をしていたのが最初だったらしいが 詳細は知らない

 

このところ実際の大原女は 旧市街では殆ど見ることがないけれど

ヒーロー・ヒロイン達だけが出るわけじゃない 脇役達の

こんな小さなお祭りも大好きである 近年外人さんの参加も多いと聞く 

よくぞこう言うお祭りを創って戴いたと感謝したいものである

 

 

【お断り】

 

この口絵は 夕ひばりさまの御蔭で 十河田鶴子さんの日本画と判明致しました

亡き主人のパソコンに大切に保管されてあってものを使わせて戴いた次第でしたが

十河さまから 直接に有難くも 快い掲載の承諾を頂戴致しました 

ほっとすると同時に 改めてお詫びを申し上げ 深く感謝申し上げます

 http://homepage3.nifty.com/tazu/top.html 十河田鶴子さんの素敵なホームページ

 

小生は 土田麦僊先生の『大原女』の大好きです

大原は懐かしい所です 我が亡き主人のお祖母さまのお身内で 

日本画家・小松均先生の美術館もあり 以前から何度も訪れていますが

小松均先生は別途書こうと思っています 画壇とは一切付き合うことがなく

日本画壇の仙人と言われた方で 無心で描かれた大原の風景画が数多く

ご出身地の山形の代表的風景を描いた畢生の大作『最上川』などがあります

美術年鑑には 生前常に東山魁夷先生と同列に扱われていたようです

 

 

 

http://kyoto-ohara-kankouhosyoukai.net/oharame_p/oharamematsuri.html 大原女まつり保勝会

http://www.geocities.jp/rskykms/page085.html 大原女時代行列の写真集

http://homepage3.nifty.com/KOMATSU-HITOSHI/ 小松均美術館(土井の志ば漬本舗から 左手奥に入る)

 


 江戸の粋 三社祭り

2007年05月19日 | 祭り・民俗芸能・民間信仰

 

 

 

江戸の粋 三社祭り

 

 

 浅草では 三社祭りが始まっている 明日20日がお祭りの本番だ

先日は神田明神さまのご祭礼があった 日枝神社のご祭礼と合わせて

江戸の三大祭りと言われている 何て言っても粋でいなせな世界なのである

 

お神輿を担いで 町内を廻ったり お旅所巡りをする

その神輿こそ 神がのり移るお輿で 神送りや神迎えに使われる

神輿だけで お祭りは成立しない ところが不思議なことに

何処からか参集した神輿を担ぐ専門の団が多くあることだ 

悪いとかいいとかの話では全然ない

でも出来る限り 地元の方々を優先して欲しいだけである

浅草寺境内にある浅草神社のご祭礼であって 

浅草神社の氏子のお祭りであるのだから

 

そう言えば雷門の傍にある『長谷徳』(下駄屋)さんの

親父さんが亡くなってから随分経つが 跡継ぎさんはいるんだろうか

履き心地が最高にいい下駄で いつも怖い顔をし ぶつぶつ言いながら 

それでも仕事熱心で 優しく直してくれたものだ

偶には浅草に出掛け 掻き揚げの『中清』とか 『舟和』の芋羊羹とか

かつては顔馴染みの檀家(?)廻りをしたいものだ

浅草よ 頑張れ!浅草の燈を消すな

 

 

 

http://www.kamiya-bar.com/ 喧しいぐらい熱気ある懐かしき『神谷バー』 デンキブランが名物