玄関より出でて玄関より入る (玄関とは結界)
日本人の心柱をもとめて
3;11以来、我が家では今尚大幅な節電を続けている。
そして生活のリズムはBird it awakes、Bird it sleeps(早寝早起)を貫いている。
鳥眠り、鳥起きるの時間に合わせるかのように、そんな節電の工夫である。
無論元を切るのは言うに及ばず、場合によってはブレーカーを落とす時だってある。
御所においでの今上天皇・皇后両陛下さまもそうなさっているからでもあるが、
福島県の方々の四重苦の日々を思うと、今まで通りザブゴブと電気を決して使えない。
アイゼンハワー元大統領の時代、原子力の平和利用が提唱され、
我が国ではHiroshima/Nagasakiへ原爆を投下され、それから十年も満たないうちに、
原発を国策にすることになった。列島改造を標榜した田中角栄以前から始まっていた。
その後中曽根内閣に到り、本格的稼動に移り、かくして原発の安全神話が作られた。
そして誰もが、その内情を精査することを一切封じられた。アメリカ国防省の機密文書に、
日本側該当者がそれとなく記されている。暗号名で書かれてあるのだが、
それは明らかに、当時読売グループの総帥・正力松太郎氏であったのは確かだ。
氏は、資源の乏しい我が国家が繁栄するために、原発は必須欠くべからざることとした。
あらゆる電力の中、原発が最もリスクとコストが小さいという神話が出来たのだ。
ところがよくよく考えてみると、コストは決して安くはないのに直ぐに気がつく。
コストは自然国民負担に跳ね返ってくるわけだが、建築コストだけで、
後は殆ど欠落している。協力してくれた市町村には天からお金が舞い降りてきて、
温泉施設や図書館や公会堂やスポーツ施設など、あっと言う間に出来てしまう。
このカラクリの摩訶不思議さ、そこにどうしてもっと早く気づかなかったのだろう。
こうして事故が起きてみると、事故後のコストは全く算定されていないことが明白だ。
いつしか質素倹約を旨とした日本人の矜持がスッカリ失われ、軽佻浮薄のオンパレード。
一種自虐的な戦後思想家たちによって、民主主義のグローバル化に翻弄されてきた。
然しそれこそ危ういものでしかなかった。日本人の心柱を失った瞬間であったのだ。
大量生産・大量消費の、経済最優先の感覚に慣らされてしまった。そして経済大国へ。
アメリカなくして何一つ出来ない国家になってしまっていた。
沖縄の基地問題を含め、つまりは米国の属国にも等しい現状なのである。
ミカンノ (美しい春日大社の巫女 独特なお化粧)
僕の卒論はフランスの片田舎・ヴェズレーの聖マドレーヌ教会のロマネスク建築。
更に亡き主人と世界中駆け回っていたが、グローバルな視点と思考を深めるために、
日本人たる何かを突き詰めて考えなければならなかった。
その上での、改まったグローバル化でありたかった。
決して国粋論者ではない。右翼でも左翼でもない。そんな枠には入らないと思う。
ただ日本人としての精神的基盤と基層文化を是非知る必要があったのである。
先日被災地に行き、ただ茫然とするしかなかった。
以前訪れた風景と、余りにも違っていて、今どこにいるのだろうと、
実際に距離感が全く分からなくなって、それこそ茫然自失の状況であった。
実はこの距離感が分からない、この錯覚は現在の私たち自身ではなかろうか。
又は大きく変化しようとする真っ只中にいるのではないだろうか。
私にはどうしてもそう思えてくる。根本から見詰めなおす絶好の時機であるとも。
ハーバード大学白熱教室の政治哲学者、マイケル・サンデル教授のご助言を、
敢えて賜る以前に、そこにある事象は、確実に存在するのだと。
新規に作らなければ、原発はいずれ老朽化して殆ど使えなくなる。
そんなことは分かっていることだが、さりとて直ぐに停められないことだろう。
化石燃料はいつまでもアテに出来るはずもなく、原子力とて化石燃料の領域だが、
新規燃料供給を探し、新たな事業にするためには莫大な経費は掛かる模様だ。
驚くことに、青森県六ヶ所村のウラン再処理施設は現在全く稼動していないという。
今夏の節電も今冬も、私たちは当分節電の必要があるが、
もっと言えばこの際、もう少し突っ込んで考え、
私たちの生き方そのものを再考するべき時ではなかろうか。
大原のベニシアさんの番組は大好きで、最早Vol59を超えた。
イギリスの方からその示唆に富む生き方を勉強しているのが本音である。
分かり易い英語が何よりも嬉しく、或る意味で強烈なメッセージとなっていないか。
又被災地でのお祭りにも大打撃を与えられたが、
虎舞などを始めとし、海の文化や自然に学ぶ文化が数多くある。
被災地を一括し、地域の声や文化を無視し、軽薄な集合体を菅内閣が作ろうとし、
思い切り拙速な計画が進められているようで、何とも怪しく危惧に堪えない。
あの減反政策で、多くの田の神や田遊びやお田植神事が死んでしまった。
営農者を大切にせずして、日本の貴重な文化がなくなってしまうことは残念至極。
失うことは容易く、復活・復興の道は遥かに遠く困難なのである。
伊勢・朝熊(あさま)山の紫陽花祭り
季節は藤の花から紫陽花へ確実に時だけが過ぎて行く 時間は待ってくれない