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硯水亭歳時記

千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた

  日本人の心柱(しんばしら)をもとめて

2011年05月18日 | 祭り・民俗芸能・民間信仰

玄関より出でて玄関より入る (玄関とは結界)

 

 

日本人の心柱をもとめて

 

3;11以来、我が家では今尚大幅な節電を続けている。

そして生活のリズムはBird it awakes、Bird it sleeps(早寝早起)を貫いている。

鳥眠り、鳥起きるの時間に合わせるかのように、そんな節電の工夫である。

無論元を切るのは言うに及ばず、場合によってはブレーカーを落とす時だってある。

御所においでの今上天皇・皇后両陛下さまもそうなさっているからでもあるが、

福島県の方々の四重苦の日々を思うと、今まで通りザブゴブと電気を決して使えない。

 

アイゼンハワー元大統領の時代、原子力の平和利用が提唱され、

我が国ではHiroshima/Nagasakiへ原爆を投下され、それから十年も満たないうちに、

原発を国策にすることになった。列島改造を標榜した田中角栄以前から始まっていた。

その後中曽根内閣に到り、本格的稼動に移り、かくして原発の安全神話が作られた。

そして誰もが、その内情を精査することを一切封じられた。アメリカ国防省の機密文書に、

日本側該当者がそれとなく記されている。暗号名で書かれてあるのだが、

それは明らかに、当時読売グループの総帥・正力松太郎氏であったのは確かだ。

氏は、資源の乏しい我が国家が繁栄するために、原発は必須欠くべからざることとした。

あらゆる電力の中、原発が最もリスクとコストが小さいという神話が出来たのだ。

 

ところがよくよく考えてみると、コストは決して安くはないのに直ぐに気がつく。

コストは自然国民負担に跳ね返ってくるわけだが、建築コストだけで、

後は殆ど欠落している。協力してくれた市町村には天からお金が舞い降りてきて、

温泉施設や図書館や公会堂やスポーツ施設など、あっと言う間に出来てしまう。

このカラクリの摩訶不思議さ、そこにどうしてもっと早く気づかなかったのだろう。

こうして事故が起きてみると、事故後のコストは全く算定されていないことが明白だ。

いつしか質素倹約を旨とした日本人の矜持がスッカリ失われ、軽佻浮薄のオンパレード。

一種自虐的な戦後思想家たちによって、民主主義のグローバル化に翻弄されてきた。

然しそれこそ危ういものでしかなかった。日本人の心柱を失った瞬間であったのだ。

大量生産・大量消費の、経済最優先の感覚に慣らされてしまった。そして経済大国へ。

 アメリカなくして何一つ出来ない国家になってしまっていた。

沖縄の基地問題を含め、つまりは米国の属国にも等しい現状なのである。

 

ミカンノ (美しい春日大社の巫女 独特なお化粧)

 

僕の卒論はフランスの片田舎・ヴェズレーの聖マドレーヌ教会のロマネスク建築。

更に亡き主人と世界中駆け回っていたが、グローバルな視点と思考を深めるために、

日本人たる何かを突き詰めて考えなければならなかった。

その上での、改まったグローバル化でありたかった。

決して国粋論者ではない。右翼でも左翼でもない。そんな枠には入らないと思う。

ただ日本人としての精神的基盤と基層文化を是非知る必要があったのである。

 

先日被災地に行き、ただ茫然とするしかなかった。

以前訪れた風景と、余りにも違っていて、今どこにいるのだろうと、

実際に距離感が全く分からなくなって、それこそ茫然自失の状況であった。

実はこの距離感が分からない、この錯覚は現在の私たち自身ではなかろうか。

又は大きく変化しようとする真っ只中にいるのではないだろうか。

私にはどうしてもそう思えてくる。根本から見詰めなおす絶好の時機であるとも。

ハーバード大学白熱教室の政治哲学者、マイケル・サンデル教授のご助言を、

敢えて賜る以前に、そこにある事象は、確実に存在するのだと。

 

新規に作らなければ、原発はいずれ老朽化して殆ど使えなくなる。

そんなことは分かっていることだが、さりとて直ぐに停められないことだろう。

化石燃料はいつまでもアテに出来るはずもなく、原子力とて化石燃料の領域だが、

新規燃料供給を探し、新たな事業にするためには莫大な経費は掛かる模様だ。

驚くことに、青森県六ヶ所村のウラン再処理施設は現在全く稼動していないという。

今夏の節電も今冬も、私たちは当分節電の必要があるが、

もっと言えばこの際、もう少し突っ込んで考え、

私たちの生き方そのものを再考するべき時ではなかろうか。

 

大原のベニシアさんの番組は大好きで、最早Vol59を超えた。

イギリスの方からその示唆に富む生き方を勉強しているのが本音である。

分かり易い英語が何よりも嬉しく、或る意味で強烈なメッセージとなっていないか。

又被災地でのお祭りにも大打撃を与えられたが、

虎舞などを始めとし、海の文化や自然に学ぶ文化が数多くある。

被災地を一括し、地域の声や文化を無視し、軽薄な集合体を菅内閣が作ろうとし、

思い切り拙速な計画が進められているようで、何とも怪しく危惧に堪えない。

あの減反政策で、多くの田の神や田遊びやお田植神事が死んでしまった。

営農者を大切にせずして、日本の貴重な文化がなくなってしまうことは残念至極。

失うことは容易く、復活・復興の道は遥かに遠く困難なのである。

 

 伊勢・朝熊(あさま)山の紫陽花祭り

季節は藤の花から紫陽花へ確実に時だけが過ぎて行く 時間は待ってくれない

 


  古雅な花咲く、厳冬の常行堂

2011年05月11日 | 祭り・民俗芸能・民間信仰

毛越寺・常行堂における「延年の舞」のうち 『祝詞(のっと)』

 

 

古雅な花咲く、厳冬の常行堂

 

 今般、世界遺産に推奨された我が国の「小笠原諸島の自然」と「平泉文化」だが、

平泉と言えば中尊寺であり金色堂だけなのでしょうか。

普段の年の五月の大型連休の時期は、春の藤原祭りで、

全国から大勢の観光客で賑わうのが通例であったが、

今回の大震災により自粛され、すべてのお祭りは中止を余儀なくされた。

甚だ残念だが、この平泉文化には、毛越寺(もうつうじ)も入っている。

ただ毛越寺は建立以来の堂塔伽藍は一宇もないが、

遺跡の発掘調査により、完璧な姿で残され確認されている。

境内にある芭蕉の俳碑文にあるように、「夏草やつわものどもの夢の跡」と。

けれどよく観ると境内には平安時代そのままの美しい王朝庭園がある。

五月には曲水の宴(ごくすいのうたげ)やあやめ祭りがあり、

中尊寺に負けないほど往時を偲ばせる重要な行事が連綿と伝わっている。

寺伝によると、嘉祥3年(850)慈覚大師(じかくだいし)が東北巡遊の折、

この地にさしかかると一面霧に覆われ、一歩も前に進めなくなられた。

ふと足元を見ると地面に白鹿の毛が点々と落ちているので、

大師は不思議に思い、その毛を辿ってゆくと、前方に白鹿がうずくまっていた。

大師が近づくと白鹿の姿は霧のなかへ忽然と消え、

やがてどこからともなく一人の白髪の老人が現れ、申し述べた。

「この地は霊地であるから堂宇を建立するなら仏法が広まるであろう」と。

大師は、この老人こそ薬師如来の化身と感じ、一宇の堂を建立し、

嘉祥寺(かしょうじ)と名付けられた。これが毛越寺の開山にまつわる伝承だ。

所謂「白鹿伝説」として今日まで伝えられているところである。

毛越寺は慈覚大師円仁が開山し、藤原氏二代基衡(もとひら)から、

三代秀衡(ひでひら)の時代に、多くの伽藍が造営されたが、

往時には堂塔40僧坊500を数え、中尊寺をしのぐほどの規模と華麗さであったという。

奥州藤原氏滅亡後、度重なる災禍に出遭いすべての建物が焼失したが、

山門くぐると直ぐ観得る大泉が池を中心とした浄土庭園と、

平安時代の伽藍遺構が、ほぼ完全な状態で保存されており、

国の特別史跡・特別名勝として、二重の指定を受けている。

平成元年には、平安様式の新本堂が建立されたことだ。

 

美しい浄土庭園の奥まった反対側に、小さな可愛いお堂がある。

このお堂は常行堂(じょうぎょうどう)と言い、

享保17年(1732)に仙台藩主伊達吉村公の武運長久を願って再建されたものだ。

このお堂は宝形造りで、須弥壇中央に本尊・宝冠の阿弥陀如来、両側に四菩薩、

奥殿には秘仏としてあがめられている摩多羅神(またらじん)が祀られている。

摩多羅神は修法と堂の守護神であり、地元では古くから作物の神様として、

厚く信仰されてきた民衆の御佛である。奥殿の扉は普段は固く閉ざされ、

33年に一度御開帳されるが、毎年のご祭礼・正月二十日祭(はつかやさい)は、

古式の修法と法楽としての延年の舞が奉納されている。

 

毛越寺の延年の舞こそ、延年関係では最もよく残ったもので、

能楽大勢以前の、能の裾野の基層文化として頗る意味が深い。

 

 

正月二十日夜祭が行われる、雪の「常行堂」 (静寂のなか鈴の音だけが響く)

 

毛越寺に伝承される延年の舞は、開山以来連綿と行われてきた常行三昧供の修法と、

あわせて国の重要無形民俗文化財に指定されている。素晴らしい指定である。

雪の常行堂で正月二十日に行われる摩多羅神(またらじん)の祭礼を、

地元では俗に「二十日夜祭(はつかやさい)」と呼んでいるが古雅な素晴らしい祭りである。

 明治15年ごろから、この二十日夜祭に合わせ、

厄払いの行事である蘇民祭が行われるようになった。

しかし見物客が多数押しかけため、境内が荒らされ、

蘇民祭は昭和30年ごろまでに中止となり、

代わって献膳行事が行われるようになったようだ。

 厄年の老若男女が、夜、平泉駅前に集合し、松明の明かりを先頭に常行堂まで行進、

佛前に大根や白菜などの野菜をささげ、無病息災・家内安全を祈願した。

常行堂内では、古伝の常行三眛供の修法のあと、法楽に延年の舞が奉納される。

「延年」とは「遐齢(かれい)延年」すなわち長寿を表している。

遊宴歌舞は延年長寿につながるというところから、

諸大寺の法会のあとに催される歌舞を総称して「延年」と言ったものだ。

佛を称え、寺を讃め、千秋万歳を寿くのだが、

曲趣は様々で、風流に仕組まれたものは漢土の故事など、

様々な問答方式に舞楽風の舞がついたものや田楽躍(おどり)など、

当時の流行の諸芸を尽くして祝ったもののようだ。

常行堂も享保17年(1732)に再建されたもので、佛像、佛具、書籍など、

宝物は後世のもので、創建当時のものは殆ど残っていないのが、

形の無い延年の舞だけは、時空を超え、今も800年昔ままに伝えられている。

 

 毛越寺古伝の常行三眛供は、開山慈覚大師以来の秘法とされている。

堂内の荘厳は、道場の四囲に注連縄(しめなわ)をまわし、

これに菊、桐、茗荷、大根や扇、鳥居などの切り紙細工の華を下げ、

四方の柱には田楽用の花笠や烏帽子を竿の先に結び付ける。

そして佛前には花のお膳を供えている。

 

 毛越寺の「延年の舞」は次のような順で進行される。田楽踊の始まる前に、

呼立(よびたて)」があり、二人の僧が田楽衆に囲まれ、向い合いに腰を下げ、

足声(そくせい)という秘事を行うのだ。

 

若女 実に静かな舞で、鈴の音だけが堂内に響く 大感動

 


 「田楽躍」は、太鼓三人、編木(ささら)三人、瑟丁(しってい)伝、(機織りに似た音を出す)一人、銅撥子(とうはっし・二個一対で指にはさんで打ち鳴らす)一人、笛二人の都合十人で構成される。麻布の水干に裁着(たっつけ)、脚半(きゃはん)姿で、太鼓と編木方はクルミの樹皮に網代(あじろ)に編んだ笠をかぶり、笠の頂きには太鼓方は櫻の造花を挿し、編木方は白玉椿の造花を飾る。この花は笠花と呼ばれ、瑟丁伝と銅撥子の童師は日月模様の烏帽子を被り、周囲に四垂(しで)を垂らす。舞は粧(けはい)、散(ちらし)、行道、立法(たちのり)、大水車、中八返、小水車、鳥ばみの八曲が伝えられ、陣形を変えて舞うもので、約40分要している。次の「路舞(ろまい)」は唐拍子(からびょうし)ともいわれ、古風な節まわしで上の句を一人が舞い、下の句を他が舞う。慈覚大師入唐の折に清涼山麓に二人の童子が現れて舞い、また大師が当山を草創された時に再び、忽然と童子が現れて舞った故事を伝えたものだ。「祝詞(のっと)」は台詞(せりふ)を口中で、つぶやくように唱えるので、側からはほとんど聞きとれないが、古風で神佛混交のあとが見える。古来常行堂別当の大乗院が勤め、摩多羅神の御本地と御利益を唱え、御願円満、息災延命を祈るのである。「老女」は、神前に蹲って白髪をくしけずる真似など、奇異な所作をする。でも私は齢百歳のこの老女は大好きだ。「若女(じゃくじょ)」は、昔、鎌倉より神子(みこ)がこの地に下って舞ったことから、坂東舞ともいわれている。若女は金の風折に似た古実舞独特の烏帽子に水干の姿で、振る鈴の音にも趣があります。後から、禰(ねぎ)が一人からみる。静寂な夜半に鈴の音だけが響き、荘厳な感じがとてもいい。「児舞(ちごまい)」は立合(たちあい)ともいい、櫻の枝を肩にして向かい合うごく緩やかな舞楽風の舞で、春の息吹を感じさせてくれる。花折王母(おぼ)ケ昔の二曲が伝えられており、一曲ずつ干支隔年に舞うことになっている。花折では、当山四方の山河を愛で、千秋万歳の長保楽を取り入れて舞っているようだ。王母ケ昔では、シテが「吾は是れ天台山の傍に年来住める仙人にて候」と名乗り、桃花のいわれを語り、先年の春を寿ぎ、地謡に合わせて舞う。「勅使舞(ちょくしまい)」とは京殿有吉(きょうどのありよし)舞ともいい、一種の典雅な狂言で、シテは立纓(りゅうえい)の冠に狩衣姿の勅使京殿左少弁富任(とみとう)、ワキは両手にバチを持つ狂言の有吉。越天楽(こんてんらく)を奏し、互いに物語をし、相舞いに舞う姿が美しい。

 このように、延年の舞の基調には、問答の答弁と、乱舞があると言える。答弁と言っても即興性があり、乱舞も何か物語性を持った舞で、そのさわりを一差し舞うといった趣きがある。この他に、毛越寺には延年の能と言うべきものが数十番の能があったと言われているが、近年に残ったのは「留鳥(とどめどり)」「卒都婆(そとば)小町」「女郎花(おみなえし)」「姥捨山(うばすてやま)」の四番だけで、これを年二番づつ交互に演じている。尚四番の謡は完全に残っているが、舞は明治ご維新後、廃佛棄却によって途絶え、現在「留鳥」だけが復興されている。

私が大好きな老女 気品と千秋万歳を感じて余りある

 

 最も盛大に行われた興福寺の延年は江戸時代・元文四年の維魔会の後の催しを限りに衰退し止めた。つい最近まで伝えた厳島、身延なども今は廃れ、日光山に一曲を残すに過ぎず、最後に残ったものとして、当毛越寺のものを除いては隣山の中尊寺の白山宮祭、陸中小泊の小泊(おばさま)祭、陸中鹿角の大日堂の旧正月二日の祭堂、隠岐国分寺・蓮華会の延年などで、その他延年と呼ばないが、延年風の催しをしているに過ぎない。能楽発生以前の、裾野の芸能として極めて重要である。世界遺産へ推奨に、この貴重な文化遺産も含まれている。能楽大勢より200年前に遡るのだ。日本人として大いなる誉れであろう。

 

参考図書;本田安次著 萩原秀三郎写真 毛越寺刊・「毛越寺の延年の舞」

       後藤淑著 萩原秀三郎写真 河出書房新社刊・「古能」

       毛越寺寺伝各書・『吾妻鏡』など

 


 新年につき、谷中七福神めぐり

2011年01月06日 | 祭り・民俗芸能・民間信仰

 

谷中の七福神めぐり

 

 

 

 

明けましておめでとう御座います

 

 

皆さま、明けましてあめでとう御座います。

暮れから新年にかけて大忙しくしておりました。

今日はお天気でしたので、家族とともに谷中に行き、七福神めぐり。

夕焼けだんだんを降り、商店街へ。凄い賑わいでした。

そして高村光太郎・智恵子夫妻の寓居跡や、

サトウハチロー宅や、新宿・中村屋の相馬ご夫妻の跡をめぐり、

森鴎外記念館や青鞜社があった場所めぐりをしました。

谷中は今やワンダー・ランドで、芸大で勉強する外人さんのアトリエまで拝見。

随分時間をかけてしまったので、子供たちとタクシーで帰宅した次第。

谷中には朝倉彫塑館があったり、外人専用の格安旅館があったり、

谷中の墓地に行けば幸田露伴作「五重塔」跡があったりもします。

妻は大喜びし、また来たいとのこと。

 

いいお正月でした。今年は実行あるのみで、既に私たち二人とも忙しく、

慌しくこの年を走ることでしょう。夢に向かってまっしぐら、頑張ります。

皆様方の、ご健勝ご多幸を心からお祈り申し上げます。

 

 

硯水亭主人

 

 

 

 

故坂村眞民先生にご寄贈せらるご親筆 「願に生きる」

 


京の「いけず」の精神文化

2010年11月20日 | 祭り・民俗芸能・民間信仰

 

 大好きな御寺 紅葉の真如堂の本堂 (黒谷にて)

 

 

 

     京の「いけず」の精神文化

 

 京には様々な文化と伝承があり、町衆と公家、或いは武士との合間と言った、

混在する多種多様な文化があるが、中でも「いけず」の精神文化は最も興味がある文化である。

通常「いけず」とは意地悪なとか、「いけすかない」とかの意味があろうが

京町屋ではそんな悪いような言葉ではなさそうである。「いけず」とは人間関係の潤滑油であろう。

中京区にある杉本家は家内の実家の直ぐ傍であるが、家内の実家でも杉本家でも、

隣近所とのお付き合いは専用の入り口がある。正客の出入り口とは全く異なる。

どんなに親しい間柄であっても正客の出入り口には通さない。つまり必ず一定の幅を持ち、

キリリとした間柄を保っているのがその背景である。乱世あり、いつどのようになっても、

必ず新しい秩序に対応出来るように出来ているのが、その「いけず」の精神であろう。

可笑しなことに、京都にいる御仁でもこの深い精神性が全く分かっていないのが実情だ。

そう言えば近頃四条や、床しき花町にも暴走族が出ているようである。何たることであろう。

 

団塊の世代は戦後の日本を支え、その功績は讃えてあまりあるが、

団塊の世代の、少し前の世代は戦後民主主義に毒された甘っちょろい世代である。

礼儀作法も知らなければ、青雲の志もなく、肝油やDDTで育った方であろう。

決して侮蔑して申し上げているのではない。その心根が甘いのである。

散々金満家と揶揄する人に、すっ高い御酒を何年も馳走になりながら、

一転して他人のコメント蘭に悪口を書き込みする。その悪態ぶりは尋常ではない。

書かれた御仁も迷惑せんばんな筈で、その弊害が広がらないことを祈る。

 

金満家とは笑止の至り、あなたのように毎夜の晩酌を一切せず節約の日々を送っている。

もともと武家であった当家の伝統は質実剛健である。あなたのようにユルイ人生を送っていない。

八幡さま境内に疎開されていたようだが、八幡さまが何たるかを全く知らない。

山頭火ばりの情緒的な生き方に終始し、八幡大菩薩は貴殿を大いに笑っておられることだろう。

 

こうして人を非難するような記事を、我がブログの記事に書きたくないが、

お他人さまのフンドシを利用して書く批判行為は日本随筆家協会も、大いに嘆いていることだろう。

今日の政治的軽薄な言葉は、あなた方世代の大なる責任がある。

真摯な「いけず」の精神的文化も知らずして笑止。勇気があれば自分のブログで反論したまえ!

私には痛くも痒くもないことだから。(爆笑)

 

<もし反論があれば、このブログのコメント蘭にカキコしたらよかろう、待っている!>

 

 

暮れになるとこうした「西利」本店の店内風景が すぐきや千枚漬けが美味しかろう

 


 蓮華会と蛙飛び

2007年07月07日 | 祭り・民俗芸能・民間信仰

 

 

 

 

蓮華会と蛙飛び

 

 

 

今日は小暑で七夕 各地では華やかに竹に短冊をたおやかに垂らし

織姫・牽牛の浪漫に 夢を馳せていることでしょう

そんな折 御霊会(ごりょうえ)としての祇園会が

既に博多や京都で始まっております

然し本祭りとしてトップは成田不動尊の祇園会で 

今日のかの地は 賑々しく大騒ぎでありましょう

 

一目千本の櫻で有名な吉野山の金峯山蔵王堂では 大切な行事があります

七と言う日は 開祖役行者のご縁日で 特に七月七日は開祖が

初めて産湯を使った日とされ 特別に大切な日となっております

役行者のご出身地・大和高田の奥田にある弁天池から 

清らかに咲く蓮の花を採り 蔵王権現にお供えをする蓮華会が開かれます

そこで『蛙飛び』と言うユニークな所作も行われ 

夏の吉野に大歓声が響くでしょう

 

  <役行者と言う人とは>

 役行者(えんのぎょうじゃ)は実在の人でした 『続日本記』や『日本霊異記』などには役優婆塞(えんのうばそく)と書かれてありまして 優婆塞とは在家で佛教を修行する人を言いますが 役行者・役小角・役優婆塞と色んな呼称があり 全く同一人物のことです 舒明天皇(634年)六年一月に 御所市茅原で生まれ 名前を小角(おづぬ)と言いました 父は高賀茂朝臣真影麻呂(たかかもあそんまかげまろ)で 母は都都岐(つづき)でした 賀茂一族は葛城一帯の豪族として知られていました 税を集めたり 古墳や皇居や寺院の造営にも深く関わっていました そんなところから小角は鬼人を操ると言う伝説が生まれたのでしょうか

 役行者は幼少の頃から才気走っていて 佛教が伝来したばかりの時だったので 佛教を学んだり佛像を造ったり佛塔を造ったりしていました 成長するに従って 勉学だけでは飽き足らず 様々な欲望を断ち切って生きることが国家安寧や万民幸福に繋がると確信したのです 葛城山に登り難行苦行をしていたのですが 他の峯々も踏破し修行したくなって 熊野から 大嶺山へ至り 最後吉野の金峯山山上ヶ岳に行き 一千日の苦行を実践致しました

 行者は乱れた国家を正すのにどうすればいいか 祈りを深めると最初お釈迦様が現れました でも実際に正すのにもっと祈らなければと 次に現れたのは優しさに溢れた千手観音様でした でも酷い乱世には相応しくないのではと 更に祈りを深めると弥勒菩薩様が出現しましたが もっと強い現実的な何かを求めて祈りました そしたら突然天地が慟哭し 雷鳴が轟き そこに凄まじい憤怒の形相をした蔵王権現様が現れたのです これだと思った行者は 末世を救う御方はこの方だと信じ 櫻の木に蔵王権現様を刻んだのでした 金峯山寺が出来たのも 吉野が櫻の山になったのもこの役行者が修行した御蔭だったのです

 葛城から大嶺へ そして金峯山へ 修行し 難行苦行された結果の法力の名声は愈々高くなって参りました その頃に多くの伝説が生まれています 役行者のパワーが備わった証拠だったのでしょう あらゆる山伏や修験者が集まって参りました 金峯山蔵王堂は修験者達の一大拠点となったのです ところがそれを妬んだ韓国連広足(からくにのむらじひろたり)は時の天皇である文武天皇に讒言します そこで行者を捕らえようとするのですが 妖術などを使い なかなか捕らえられませんでしたが 結局母を人質にされ捕らえられ 伊豆大島へ配流されてしまいます このことは『続日本記』に詳細に出ています 然し二年後(701年)無実の罪だと分かり 大和に返されて来ます 帰国後直ぐに亡くなってしまうのですが 箕面から天高く舞い上がったとか 母を鉢に乗せ 唐の国に行ったとか 神格化された逸話でいっぱいです

 その高潔な人柄に対し 平安時代には『行者』の尊称を与えられ 江戸時代 千百年忌に当たる寛政11年(1799年)には 光格天皇により『神変大菩薩』と言う尊称を与えられています 高僧・名僧が多い中 伝説に満ちているものの役行者の国士ぶりには些か敬意を表するものです 

 

  <蛙飛び>

 或る男が蔵王堂にやりたい放題し 蔑んだ行為を繰り返すのがおりました その男は運悪くオオワシに捕まり 天高く連れて行ってしまわれました そこで蔵王堂の高僧が呪文を唱え 許しを請い 漸く帰れるようになったのですが 蛙に変身させられ 地上に降りて参ります そこで蛙は蔵王堂の贖罪を申し出るのです そうして漸く蛙から人間に戻されました この蛙飛びは蔵王権現様の御威信とパワーを見せ付ける行事となって 現在まで約千年の歴史がある催しとなっています 蛙の被り物を取る場面があるのですが それで人間に帰ったと言う証拠になる訳で 古風で素朴な行事となっており 四月櫻満開の折 櫻の花を蔵王権現に献上する花供会式と同じように 蔵王堂では大切な行事として受け継がれています

 


 入谷の朝顔市

2007年07月06日 | 祭り・民俗芸能・民間信仰

 

 

 

 

         入谷の朝顔市

 

 

 

       かぁさん 今年も朝顔市がやって来ましたよ

      貴女が最期に朝顔のお鉢を買って来たのは 

      僕が中学を卒業する年のあの夏の日でしたね

      かぁさんが独りで浴衣を着て 鬼子母神さまにお参りし

      小紫の朝顔を 嬉しそうに小脇に抱え帰って来て

      涼し気な朝顔は 客間のど真ん中

      見て見てと 何度も僕に言うんだもの

      その時の僕だってウンザリして はいそうそうと空返事

      その日のかぁさん一日中はしゃぎまわって

      身の回りを身綺麗に掃除をするかのように

      部屋と言う部屋を全部お掃除

 

      それから三日後

      夕方のお遣いの時 自転車ごと轢かれてしまったかぁさん

      お顔半分が トラックの後輪の跡があり 汚い紫

      でもそれ以外はみな綺麗なまんまのかぁさんでしたね

      お棺の中に 父がそっと手を伸ばし

      かぁさんの手 綺麗な手だろうと僕に言い 

      泣いてばっかりいましたよ

      あの時の朝顔の小鉢 何処に行っちゃったんでしょうねぇ

 

      今日から鬼子母神さまのご縁日

      勇気を出して朝顔の小鉢を買って来ましたよ

      貴女に差し上げたくて

      僕もとぉさんももう大丈夫 おばちゃんもいるから

      僕はかぁさんのような人と結婚します

      どうか許して下さいね

      決して貴女を忘れないでいるから

      決して貴女を忘れないでいるから

                             (母へ  Ryuより 7/6)

 

 

 朝顔は,奈良時代(708~781)下剤として遣唐使により他の薬と共に中国から朝鮮を経て牽午子〈ケンゴシ〉の名で種で渡来致しました。その後和名で阿佐加保になったようです。原産地は熱帯地方で相当以前より中国にあったようでした。奈良時代現在の奈良県畝傍地方の薬草園で栽培されたと推測されています。高松塚古墳の西北に牽午子塚古墳があります。薬であったため花は鑑賞することは少なかった平安時代(782~1182)には薬として用いられた記録がありましたが、その後時代と共に花の色〈原色は淡青色〉変り咲き等の発達を続け、第一流行期として文化・文政期(1804~1829)に色々の朝顔が一般に普及致しました。徳川の初期(1603~1700)には水田の蛙道に栽培されて居たとあり、その後時代の悪化により一時期園芸そのものが衰えましたが、嘉永・安政期(1841~1859)に第二流行期に入り各地で品評会が開かれ、奇種、珍種の逸品が現れました。中でも下谷坂本村字入谷に住んで居た植木師山崎留次郎さんが活躍して色色のアイデアで朝顔作りを広め、大阪の朝顔師と共に大いに普及宣伝されました。その後、明治時代〈1868~1902〉に入り維新で衰えましたが、大阪の被害が少なかったので大阪を始め束京を中心に各地で朝顔の会が出現したのです。仙台,名古屋,長崎,新潟にも出来(1888~1902)、これが第三流行期になりました。 入谷が朝顔で有名になったのは,明治になってからのことで,土質が朝顔造りに適してい たのか、十数件の植木屋が,一軒五六百坪の土地を有し,軒を連ねて朝顔造りを始めたのです。その頃の主な植木屋には,丸新・入又・入十、植松・入久・松本、入長・高野植惣・新亀等があリまして、年々大輪朝顔の外、変り種を作り,珍花を咲せ,それを陳列したのが評判になり、早晩より見物人が群集し、新都の年中行事の一つに数えられるようになったのです。 当時の模様を下谷繁昌記〈大正三年明治教育社発行〉によって観ますと「入谷の朝顔の全盛を極めたりしは,明治二十四五年頃にして,其の頃は,朝顔を造る植木屋十数軒を数え、入谷の通りは、毎朝,往来止めとなる程なりし也。殊に,当時は,周囲一面の蓮田を廻らしたれば、涼しき朝風に吹かれ乍ら、朝顔を見又蓮の花を見るを得たりしかば、観客頻る多く,非常の盛況を呈したり。」と記載されております。 これ程有名であった入谷の朝顔も,入谷が発展するに伴い,地価と作品のバランスを失い 廃業する植木屋が次々に現れ,遂に大正二年意地づくで踏留っておった植松の廃業を最後に、束京名物入谷の朝顔もその姿を消してしまったのです。尚,植松さんの子孫が 現在も花関係で入谷にて盛業中ですが、それから三十五年経った,昭和二十三年,下谷観光連盟並びに地元有志の方々の努力はもとより,台東区の後援を得て,入谷に再び朝顔の市が立つようになって,早晩より深夜に至るまでの終日,往時を凌ぐ盛況を極めていることは又宜なるかなと言えるようです。 尚入谷の鬼子母神の縁日として、この朝顔市が開かれるのですが、その鬼子母神とは千人の子供がいながら、自分の子供や他人の子供まで食べてしまう悪鬼のような母でした。お釈迦様はこの母に滔々と御説法をされます。その御説法の御蔭で母はすっかり改心し、お釈迦様は最後の末子を隠して助け、以来お釈迦様の守り神の一人として存在するようになりました。現在では子育てと安産の神として、私達一般庶民に深く信仰されております。

 

      http://www.dentan.jp/ 『江戸下町情緒』から、本文の大半を参照させて戴きました

 


 祭鱧(まつりはも)

2007年07月06日 | 祭り・民俗芸能・民間信仰

 

 

 

                    祭鱧

 

 

 

  七月の京都の祇園祭りは、日本で有名であるばかりか、祭りの中でも特異な祭りで、京都っ子は祇園さん見ないで祭りを見たなんて言わないでと言わんばかりである。一日から既に始まっているが、延々と続くこのお祭りは十六日の宵山、十七日の山鉾巡行で頂点に達する。普段贔屓にしている「やげんぼりグループ」(東京の赤坂に三店舗、京都には九店舗がある)に書かれてある祇園祭りの梗概をコピーさせて戴いたのを、以下貼り付けさせて戴いた次第である。尚特異なお祭りであると言うもう一つの理由は厄病神をおだててお連れして、神人饗応の上お帰り戴く。本来はいい神様ばかり祀らうが、ここでは二重構造のお祭りとなっている点である。

 

【吉封入の儀】1日・放下鉾町
祇園祭の神事始めの儀式で、会所に関係役員が集まり神事の打ち合わせや当番を決める。この日、鉾倉の扉を開け八坂神社神職が祓い清め、祭りの無事を祈る。
【長刀鉾町お千度】1日・八坂神社
その年に選ばれた長刀鉾の稚児が八坂神社の神前で、その役割を勤める旨を報告し、祭礼中の無事を祈願する。
【くじ取り引】2日・京都市役所

巡行当日の山鉾の順番をくじによって決める式。昔、巡行の先陣あらそいが絶えなかったため、応仁の乱後に始まった。
鱧【神面改め】3日・船鉾町
船鉾町に伝わる神面は、船鉾の御神体である神功皇后が被るもので、室町時代の作とその写し2面をこの日役員が鉾から面を取り出し異常がないか確認する祇園祭の儀式の中でも船鉾だけの特徴あるものである。
【長刀鉾稚児舞披露】5日・八坂神社能舞台・長刀鉾会所
役員と稚児全員が揃う席に稚児が舞いを披露。合格すると一般に披露する。
★華やかで美しい衣装でゆっくりと独特の振り付けである。一見に値するものである。
【綾傘鉾稚児社参】7日・八坂神社
山鉾の古い携帯を伝える綾傘鉾の巡行に参加する稚児が祭りの無事と稚児に選べれた事を報告、宣状を受ける。
【鉾立て】10日~12日
この日から、鉾組み立てが各鉾町で始まる。鉾蔵から分解し収納されていた材料を取り出し、全てわら縄がらみで釘1本使わず、見事な伝統技法で組み立てる。
【御輿洗い】10日・八坂神社
八坂神社の神輿を四条大橋に運び、鴨川の水で清める神事で、神輿洗いの水がふりかかると無病息災といわれ多くの見物客で賑わう。
★神輿が運ばれる前に道を清めるため大松明が出発するが、その松明を四条大橋で立てるのが見物である
【山鉾曳初め】12日~13日
各鉾町では、鉾の組み立てが完了すると、大人と子供男女入り混じり、祇園囃子を奏でながら鉾綱を曳き町内を巡行する
【宵山】14日~16日
宵々々山 (14日)から宵山(16日)までの三日間、夕刻から四条通りや烏丸通りは、歩行者天国となり、道路は、人の波となる。各山鉾町では、山や鉾を飾り付け、駒形提灯には明かりを灯し、涼しげなそろいの浴衣で祇園囃子を奏でる。
【鷺舞】16日・八坂神社
祇園祭にかかわりのある芸能が拝殿前と能舞台で奉納される。
【山鉾巡行】17日(四条通り→河原町通り→御池通り)
午前9時から巡行は、くじ取り式で決まった順に四条烏丸を出発。(32基中29基の山鉾が重要有形民俗文化財である。)
途中四条堺町で奉行役(京都市長)のくじ改めを受ける。
★くじ改めの場面でくじ行司の所作がそれぞれ異なり、楽しい。注連縄切りの瞬間や通りを廻る辻廻しも見もである。

 

 まぁ、お祭りの主な流れはかくの如き式次第であるが、この時季の京都は一年で一番暑く堪らない暑さで、都大路を人込みに紛れて歩けば、誰しも大汗もかこうというもので、夕方になるとシャツに白粉が付いていたりする。何はともあれ、宿に帰ってザバッと風呂に入り、さっぱりして浴衣に着替えると、食膳にはどうしてもなくてはならないものがある。そう鱧(はも)尽くしであるべきで、お祭りはともかく、何が何でも食べたくなるのが心情だ。

 祇園祭りは別名鱧祭りとも言い、色んな創意工夫を施した鱧料理の数々があるわけで、鱧があってこそ祇園祭りなのである。鱧は梅雨が明ける頃から不思議に油が乗って美味しくなり、夏の京料理から鱧が消えたら、京料理は京料理でなくなるから不思議なものである。

 鱧の白い身は濃厚なようであり淡白である。又淡白なようで濃厚で、その味の奥行きは計り知れないし、知れば知るほど深くなって行くようである。これほど色々に料理して、お客の方も作り手も飽きない魚はない。鱧だけで楽に一冊の本が出来るくらいであろう。煮てよし、焼いてよし、湯引きしてよし、揚げてよし、しゃぶしゃぶだって美味しい。鱧と言う字は「魚偏に豊か」と書く、そんな理由が分かるような気がする。

 見た目には凡そ優美とは言えず、寧ろグロテスクかも知れない。ウナギ型と言うよりアナゴ型であるし、顔は獰猛な顔をしている。体長は二㍍にも及ぶが、食べて美味しいのは七十㌢くらいなものだろうか。肝の山椒焼き、鱧の落とし、椀は葛たたき、色彩の対照的で見事な源平焼き、鱧寿司、焚き合わせには鱧の子と小芋、果ては鱧しゃぶ。どうやってもそれぞれに美味しいが、鱧は硬い小骨が多く、「骨切り」と言う特別な技術が必要だ。包丁も鱧切り包丁と言う特別な包丁がある。一寸の間に二十二から二十四まで骨切り包丁が入らないと一人前にはなれない。そのくらい厳しい技術が必要だ。

 可笑しいことがある。鱧は水から離れても長時間生きている。更にタライに「つ」の字を書いておくと持ちがいいそうである。京都の鱧は山で取れると言う笑い話がある。交通の不便だった頃、夜道を駆けて魚を運ぶ行商人が偶々山道で休む。道端に腰を下ろして一服している間に、荷籠の中から元気のいい鱧が逃げる。それを知らずに行商人が立ち去った後、後から通り掛かった旅の人が、砂まみれの鱧を発見し「なるほど京都の鱧は山でも獲れるのか」と仰天したと言う、可笑しな話である。

 鱧の身は最も上等な蒲鉾(かまぼこ)にもなる。余った鱧の皮を香ばしく焼いたのを錦小路で見たことがあった。それを小口に細かく切って、胡瓜と一緒に三杯酢で食べるのが美味い。これも京のおばんざいの傑作の一つであろう。

 

   http://www.yagenbori.co.jp/index.html やげんぼりグループのサイト ここの歳時記の蘭を参照した 

  どこも気さくに行ける店舗ばかりで 特に私は普段着で先斗町の『出逢い茶屋おせん』に行く

 


 祇園会の開始

2007年07月01日 | 祭り・民俗芸能・民間信仰

 

 

 

祇園会の開始

 

 

 

今日は各地で 山開きや海開きが行われていることだろう

国民安全の日で 全国安全週間が始まり 社会を明るくする運動もあり

銀行の日で 更生保護の日で 小麦年度始めで 肥料年度始めで

あの富士山の山開きの日でもあり 多くの行事が今日一日に集中している

 

中でも京都・八坂神社の祇園会や博多祇園山笠の開始の日でもある

博多祇園山笠のフィナーレは十五日であるが 京都の祇園会は17日まであり

七日の成田山祇園会 十日の小倉祇園太鼓 十三日の戸畑祇園大山笠

十四日の松坂祇園祭・江津祇園祭 十九日の仙崎祇園祭・田島祇園祭

二十日の津和野祇園祭・山口祇園祭 二十一日の須坂祇園祭

二十三日の中津祇園 二十四日の福岡・瀬高の人形祇園などと 

祇園祭と名付けられたお祭りだけを ざっと列挙してもこれだけある

その間に 念仏踊りや御田祭りもあり 

多彩な美しい飾りのある風流(ふりゅう)の行事が目白押しだ

日本の夏祭りの幕開けである

 

田舎のある方は幸せである

久し振りに郷土の感触と旧交を温める場でもある祭りである

小暑から大暑へ 季節は否応なく移ろい 変幻自在に入道雲が湧き上がる

大好きなお祭りのシーズンの到来であると同時に 

櫻は 来年の花芽をつける大切な季節でもある

 

 

口絵写真は 博多祇園山笠 東流れの飾り山

 


 七夕哀話

2007年07月01日 | 祭り・民俗芸能・民間信仰

 

 

 

七夕哀話

 

 

 

七夕は 古来お盆の行事の一端であった 

それが外来文化によって 幾度か変質を余儀なくされる 

畑作の感謝をし 来るべき 秋の稲作の収穫を祈念するために 

祖霊をお迎えし祀らう行事の一つであった 

仏教が伝来し その要素の影響を受けてから 第一の変質が見られる

 

 

それまでは 女の子は髪を掬い 町屋では硯を綺麗にし 

神に供える食器類を洗い チガヤやマコモで作った『七夕馬』を屋根にあげ 

祖霊を迎えると言った習俗であった 

盆とともに来臨する神々のために 

衣つくりとして選ばれた神女が 

村を離れた海浜や池や湖等の水辺のほとりで 

作られた「棚」で 「機織」をした 

そこから棚機(たなばた)の語源になったと考えられる 

つまり本来は 明らかにお盆の行事の一端だったのだ


 

 ところが佛教行事が色濃く反映されるようになると 

佛教が 人々の生活習慣・習俗にまで濃密に関与するようになって来る 

お盆はあたかも仏教の行事のみだと言う印象を与えかねないようになる 

従ってお盆の行事には 七夕だけがぽつりと取り残されてしまう観が否めない

 

 

平安時代になって 古代中国伝来の星祭である乞巧奠(きこうでん)や

織姫・牽牛伝説が 日本の宮廷に急速に流布されるようになると 

七夕の儀式だけが 逆にお盆の行事とかけ離れて独立することになったのである

 


 
 織姫・牽牛の物語は諸説あるが メルヘンであるに違いない 

天の川の上方にある織姫星(琴座の主星ベガ)と 

下方に位置する牽牛星(鷲座の主星アルタイル)がともに 

一際異彩を放って光り輝いて対峙しているのを 

比較的隔たって見える時と異様に接近して見える時があることから 

古来 悲恋の男女に見立てたのであった 

旧暦7月7日に最接近する日が成就する日とされているが 

残念ながら 天の川に隔てられ 逢うことは決してない 

メルヘンをぶち壊すようで心苦しいが・・・・

 

  

(いずれにせよ旧暦の七月七日は 新暦ではほとんど八月であって 

今のように新暦の七夕の時季では 牽牛・織姫の星達は 

接近には程遠いのである 旧暦まで待たなければ最接近の二つの星を

観測することが出来ない 真夏の夜の楽しみの一つに違いなかろうが)

 

 

伊勢湾の鳥羽から船で行く神島(小説潮騒の舞台の島)では 

七月一日に 海の向こうからやって来る七夕さまの神迎えをする

竹のヨリシロに 人々は身体中の穢(ケ)を 短冊につけてから祈る

七日間七夕さまにいらっしゃって戴いてご馳走し 七日目の日に海へ流し

同時に七夕さまにお帰り願う ここではっと思われた方もおいででしょう

一年を二度に分けていた時分の名残は 一月分は七月に集中していて

この七夕さまの行事は 言わばお正月の松の内にそっくりなのです

神島は絶海の孤島だから こうした古風なお祭りが残ったのでありましょう

 

トシの神さまも七夕さまも 海や山のあちら彼方から 

平行神として遥々とやって来るからだ


 


 大祓いの儀と夏越のご神事

2007年06月30日 | 祭り・民俗芸能・民間信仰

 

 

 

大祓いの儀と夏越のご神事

 

 

 

六月三十日は 一年が二度に分けられていた時代の名残で

十二月の大晦日と六月の晦日に 大祓いが行われる

新しい時をお迎えするのに 強い魂に生まれ変わらなければならない

更にそれまで多くの穢れや災厄がくっ付いて来ているから それを祓って戴く

つまり人形(ひとがた)や祓麻(はらいま)に穢(ケ)をつけ 

神社に納めるか 川に流してしまう

 

盛夏の頃 清流の傍に茂る葦(よし)を刈りとり 神事に用い

紙垂(しで)をとりつけ 祓麻(はらいま)と言われるお祓いの具を作る

これを用いて自らの左肩 右肩 左肩を順にお祓いし最後に息を吹きかけ

茅で作った茅輪を潜り貫ける事により その年の罪穢れを祓い落とす

茅には強い霊力が宿ると古くから伝えられていた

それが大祓いの儀で 本来夏越のご神事とは違っていたが 何時の時代からか

大祓いの儀と夏越のご神事が同じようにやられるようになっている

 

夏越のご神事は 半年の生活で弱って来た体力を回復させないと

直ぐ来る暑い夏場は乗り切れない その為の行事であろう

拝殿の東側に茅の輪を設け 祭典を執り行った後

それぞれ手に祓麻を持ち

祭員以下参列者が順に 茅の輪をくぐりぬける

氏子には神事に先立ち 茅を約二万本準備し

各町内に祓麻として配布されていて

その祓麻を持参し神事が終わると茅の輪を 左右左とくぐり抜けて行く

一日限りの神事で 境内は夜遅くまでお祓いをする人で賑わう

但し神社によっては 六月二十日頃から 七月の中旬まであるところがある

 

一方茅の輪くぐりは 別名では 胎内くぐりとも呼ばれ

お母さんの胎内をくぐり直して 新しく生き直す意味が大きいが

安産や子育ての意味も 大いなる意味をなしているかも知れない

 

大祓いの儀と夏越のご神事の意味はそれほど大きく変わらないが

大祓いのご神事は古く 天武天皇の御世からあったと言われている

夏越のご神事は比較的新しく江戸時代に発生したと聞く

 

いずれにせよ 日本人は幸せな国民であろう

新しく生まれ変われるのだから この習慣・習俗に乗らない手はない

 

明日から七夕が始まり 七日には終了する

正月の松の内に当たり もう一度やり直せると言うものである

全国津々浦々の神社で今日殆ど行われているから 

あなたのお近くの神社を ちょいと覗いて見ては如何でしょう

 

京都では 三角形に切った外郎(ういろう)の上に小豆を載せ食べる

外郎は氷を表し 小豆は疫病退散の魔力を持っている

京都の和菓子屋さんの前を通ると 『水無月あります』と張り紙が貼ってある