Une petite esquisse

日々の雑事の中で考えたこと、感じたことを徒然に書き綴ります。

幻のメコン川を探してー村上春樹の旅エッセーを読む

2020年03月16日 | 社会学/社会批評
 村上春樹が僕をラオスへといざなう。
彼は「本当にラオスへ行ったのであろうか?」と言った単純な疑問が、わだかまりとして心に残る。
彼が旅エッセー「ラオスに一体何があるのですか?」で描いている内容は、100年前に宇宙旅行をしたと、
空想にもとづいて書かれた「読み物」と同じくらいに荒唐無稽である。事実とあまりにも乖離しているのだ。
その表現を、メコン川の描写から読み解こうと思う。
 ガイドブック的に言えば、メコン川はチベット高原に源を発し、中国雲南省を経て、インドシナ5カ国を貫く全長4800㎞、
ラオス領内では1898㎞におよぶ、いつの時代にもラオスの人々の生活を支えてきた川である。
悠々と流れるメコン川を船上から見ると、波がなく、滑るように船はすすむ。
小さい村々が目の前を次へと、次へと通過していく。
メコン川が村々への入り口であり、交通輸送の「要」としての役割をはたしてきた事がわかる。


悠々と流れるメコン川


メコン川の渡し船


メコン川が村々への入り口、物資運搬の「要」(小舟が浮かび村へ通じる階段がある)

 しかし、村上春樹の描くメコン川は「平和で穏やかな川ではなく、川の流れは荒々しく速い、
水は大雨の降った直後のようにどこまでも茶色く不吉に濁っている。
メコン川の持つ深く神秘的な、そして薄暗く寡黙なたたずまいは、湿った薄暗いヴェールのように僕らの上に終始垂れ込めている。
そこには「不穏な」「得体の知れない」とも表現したくなるような気分さえ感じられる。
おそらく、あまりにも流れが激しく、そしてあまりにも濁りすぎている、こんな川は今まで他のどこでも見たことがない
そこには泥のように濁った水が雄々しく流れるメコン川があり、プーシーの丘に登ると、
蛇行しながら緑の密林の間を流れるメコン川を遥かに望むことができる」と言い切っている。
 過去12年間に11回インドシナ半島を訪れ、ルアンパバーンには今回で8回目の滞在となる。
メコン川は一部の地域を除き、タイのチェンコーンからベトナムのメコンデルタまで、幾度も見つめて来た。


夕陽の沈むメコン川


ナムカン川との合流点、(手前がナムカン川、遠くに見えるのがメコン川)

 彼の描くメコン川はルアンパバーンの何処に存在するのか?探して、探して、探しても何処にも見つからない。
単刀直入に言えば、ルアンパバーンの、何処にも存在しないのだ。彼の妄想の世界の「お話し」でしかない。
虚構の世界を描く小説ならともかく、旅エッセーは事実に基づいて書かねばならない。
事実を見つめることなく、妄想により筆を進めている。善良な読者を欺く、きわめて悪質な所業である。
メコン川ほど、ゆったりと悠々と流れ、「静止した時」を感じさせる川は他にはない。
 かって、ソビエトの宇宙飛行士ガガーリンは「地球は青かった」と述べた。
地球が「青いか、否か」はガガーリンにしかわからない。
しかし、メコン川がどのような川かはラオスに行けば誰にでも分かる。
 村上春樹の旅エッセー「ラオスに一体何があるのですか?」を読んで、このエッセーの何に対して僕は怒りを感じるのか。
村上春樹の思考の中に異文化を理解する視点が欠落している。
ラオスの歩んできた歴史に想いをはせることもなく、ラオスの文化、伝統を顧みることなく、後進国と決めつけ、ラオスを見下している。
ラオスに対する想い入れもなければ、畏敬の念もない。
 「噓八百」を積み重ね、きわめて空疎で、ラオスが抱えている「国家の貧困、国民の貧困」という、
社会状況に対する切込みもない。観光ガイドブックとしても百害あるのみである。
 何が目的で、このような旅エッセーを書いたのか、さっぱり理解できない。
一字なんぼの原稿料稼ぎか?ハルキで書けばどんな駄文でも金になる、出版社の商業資本主義のなせる業か
この駄文を読んで、村上春樹にとんでもない天才を感じる。
詐話師としての才能を、書かれている事のすべてが作り話である、彼の虚構の人生そのものを感じる。




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