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Une petite esquisse

日々の雑事の中で考えたこと、感じたことを徒然に書き綴ります。

ラオスを理解するための、お薦めの本

2020年06月25日 | 社会学/社会批評
「ラオス豊かさと『貧しさ』のあいだ」  新井綾香著




 国際NGOでの3年8ヶ月にわたる自らの経験をもとに、綿密な記録に基づいて書かれており、ラオスの農民、貧困層の視点から、
ラオスの置かれている実情がヒシヒシと伝わってくる。
 中国、ベトナム、日本などの企業が進出し、ラオス政府による開発事業が急増、その結果、森林や農地の収用の問題が発生する。
保護林が伐採され、ダムが建設されることで、魚が獲れなくなり、洪水がひどくなり稲作をあきらめざるをえなくなる。
田んぼには米以外にも魚、カエル、イナゴ、タニシ、ウナギやナマズが生きていて、村人の生活を支えていたのに獲れなくなる。
灌漑水路の土崩れがひどくなり補修に費用がかかり、電気代が高くなり、電気代が増え続けることなどで生活が成り立たなくなる。
村人が長年築いてきたセーフティーネットが崩れていく。
 森林や農地の喪失、川の汚染や流れの変更により漁獲量の減少など事業のツケは村人に長期化にわたり悪影響を及ぼす。
巨大開発事業や投資事業により特定の人には利益をもたらすであろうが、村人が得られる利益はごく僅かである。
 ラオスは豊かな自然資源に恵まれ、人々はお互いに助け合って暮らしてきた。村人同士の助け合い、分かち合いの精神が息づいてきた。
村人は物質的に豊かに暮らしているとは言えないが、飢餓や戦争のない社会で、心豊かな生活を営んでいた。
貧困削減という名目のもとで、開発事業が進められ、村人が追い詰められ、さらに貧困は深刻化していく。
「貧困は外部からの開発によってもたらされている」というタイトルの文言が良く理解できる。
2010年に初版発行で、ここ10年が過ぎ去った、環境破壊、貧困はさらに進んでいると考えられる。

『ラオス豊かさと「貧しさ」のあいだ』  新井綾香著
発行所 コモンズ  1700円+税

ラオスの危ない綱渡り(2)

2020年06月14日 | 社会学/社会批評
ラオス高速鉄道建設を中国が放棄か





メコン川に架かる高速鉄道の橋桁(ルアンパバーン) 2020年3月2日撮影

 かつてラオスを植民地化したフランスはインドシナ諸国を鉄道網で結ぼうと計画したが
工事があまりにも困難で断念した。中国が主導するラオスの鉄道建設工事は2010年10月に
計画に着手、2014年に完成予定だったが、中国側で汚職事件が発覚し、工事は無期限延期
となっていた。
 2016年に突如、工事が再開され、2021年に完成が予定されている。
 鉄道は中国の昆明からラオス国境のボーデンを通りルアンパバーンを経由して首都ヴィ
エンチャンに至る427、2kmを結ぶ単線である。将来的にはタイのバンコクからマレー
鉄道へ接続し、シンガポールまで追伸を計画している。北京からシンガポールまで鉄道での
通行が可能になる。
 鉄道工事が急ピッチで進められ、中国語の看板が林立し、大きなゲートの下を中国語表記
の大型トラックが砂埃をあげ、ひっきりなしに出入りしている。深緑の山肌が削られ黄土が
無残に露出している光景が眼に入る。自然環境への悪影響をかえりみず、中国式に強引に工事は
すすめられている。
 3月初旬、ルアンパバーンを訪れた折、メコン川に架かる高速鉄道の橋桁を見て工事は順調に
進んでいるように思えたが、「中国が鉄道建設を放棄し、ラオス人労働者への賃金支払い
が滞っている」とのニュースが入ってきた。
 アメリカ政府系の放送局「ラジオ・フリー・アジア」が伝えるところによると、ラオスで
新型コロナウイルスの感染が確認されて以降、雇用主の中国人が突如姿を消して中国へ帰り、
連絡が取れない状態である。賃金が未払いのままで、ラオス人労働者が生活に困窮をきた
している。ラオスの国家鉄道局に問い合わせても回答のない状態が続いている。
 ラオス中国高速鉄道計画は習近平が推し進める巨大経済圏構想「一帯一路」の南進版とい
える、この鉄道建設により中国は南洋に通じる交易路などを確保できることになる。
 開発事業によって土地を収用された住民は安い補償額しか得られず、代替地は農業に適さず
農業を放棄せざる状況にある。
 鉄道開発により森林が伐採され、水源が枯渇し、動植物の生態系が破壊されて生活が出来なくなる。
貧困削減対策の開発事業によって、さらに貧困は推し進められていく。


無策な政治が招く悲劇 (1)

2020年05月18日 | 社会学/社会批評
アイルランドの大飢饉




ジーニー・ジョンストン号の近くに設置されている、大飢餓モニュメント



















 19世紀にアイルランドは悲劇に見舞われた。ジャガイモの疫病に端を発する大飢饉である。
アイルランドは鉱物資源がほとんど産出されず産業が発達しなかった。
痩せ細った農地でジャガイモ生産だけに依存し、いわばイギリスの植民地として、
イギリスへの食料供給地となっていた。
 その主要食物のジャガイモが疫病により枯れ死、1845年から52年に大飢饉となり、
少なくとも100万人から150万人(全人口の20%)が餓死、100万人(全人口の10~20%)が
アメリカ、カナダ、オーストラリアへ移住した。
 イギリス連合政府は緊急に救済食料を調達して、飢餓に苦しんでいる人々に配給すべきなのに
予算の問題などから「貧民救済」という有効な政策をとらなかった。
アイルランドの貴族や地主は自らの地代収入を心配するだけで、
飢餓でアイルランド人が餓死していく時にも大量の食料をイギリスに輸出していた。
小作農は地代支払いの為、わずかの農地を二束三文で売らざるを得なかった。
その結果、食料生産供給のシステムが崩壊し、飢餓はより深刻なものとなった。
疫病の発生がわかった時点でイギリスへの食料輸出を止めて、
この食料を地元消費にまわしていたら飢饉は回避できたはずである。

大飢餓モニュメント:
ルアスLUAS(路面電車) George’s Dock駅下車すぐ。
ジーニー・ジョンストン号近くに設置されている。

幻のメコン川を探してー村上春樹の旅エッセーを読む

2020年03月16日 | 社会学/社会批評
 村上春樹が僕をラオスへといざなう。
彼は「本当にラオスへ行ったのであろうか?」と言った単純な疑問が、わだかまりとして心に残る。
彼が旅エッセー「ラオスに一体何があるのですか?」で描いている内容は、100年前に宇宙旅行をしたと、
空想にもとづいて書かれた「読み物」と同じくらいに荒唐無稽である。事実とあまりにも乖離しているのだ。
その表現を、メコン川の描写から読み解こうと思う。
 ガイドブック的に言えば、メコン川はチベット高原に源を発し、中国雲南省を経て、インドシナ5カ国を貫く全長4800㎞、
ラオス領内では1898㎞におよぶ、いつの時代にもラオスの人々の生活を支えてきた川である。
悠々と流れるメコン川を船上から見ると、波がなく、滑るように船はすすむ。
小さい村々が目の前を次へと、次へと通過していく。
メコン川が村々への入り口であり、交通輸送の「要」としての役割をはたしてきた事がわかる。


悠々と流れるメコン川


メコン川の渡し船


メコン川が村々への入り口、物資運搬の「要」(小舟が浮かび村へ通じる階段がある)

 しかし、村上春樹の描くメコン川は「平和で穏やかな川ではなく、川の流れは荒々しく速い、
水は大雨の降った直後のようにどこまでも茶色く不吉に濁っている。
メコン川の持つ深く神秘的な、そして薄暗く寡黙なたたずまいは、湿った薄暗いヴェールのように僕らの上に終始垂れ込めている。
そこには「不穏な」「得体の知れない」とも表現したくなるような気分さえ感じられる。
おそらく、あまりにも流れが激しく、そしてあまりにも濁りすぎている、こんな川は今まで他のどこでも見たことがない
そこには泥のように濁った水が雄々しく流れるメコン川があり、プーシーの丘に登ると、
蛇行しながら緑の密林の間を流れるメコン川を遥かに望むことができる」と言い切っている。
 過去12年間に11回インドシナ半島を訪れ、ルアンパバーンには今回で8回目の滞在となる。
メコン川は一部の地域を除き、タイのチェンコーンからベトナムのメコンデルタまで、幾度も見つめて来た。


夕陽の沈むメコン川


ナムカン川との合流点、(手前がナムカン川、遠くに見えるのがメコン川)

 彼の描くメコン川はルアンパバーンの何処に存在するのか?探して、探して、探しても何処にも見つからない。
単刀直入に言えば、ルアンパバーンの、何処にも存在しないのだ。彼の妄想の世界の「お話し」でしかない。
虚構の世界を描く小説ならともかく、旅エッセーは事実に基づいて書かねばならない。
事実を見つめることなく、妄想により筆を進めている。善良な読者を欺く、きわめて悪質な所業である。
メコン川ほど、ゆったりと悠々と流れ、「静止した時」を感じさせる川は他にはない。
 かって、ソビエトの宇宙飛行士ガガーリンは「地球は青かった」と述べた。
地球が「青いか、否か」はガガーリンにしかわからない。
しかし、メコン川がどのような川かはラオスに行けば誰にでも分かる。
 村上春樹の旅エッセー「ラオスに一体何があるのですか?」を読んで、このエッセーの何に対して僕は怒りを感じるのか。
村上春樹の思考の中に異文化を理解する視点が欠落している。
ラオスの歩んできた歴史に想いをはせることもなく、ラオスの文化、伝統を顧みることなく、後進国と決めつけ、ラオスを見下している。
ラオスに対する想い入れもなければ、畏敬の念もない。
 「噓八百」を積み重ね、きわめて空疎で、ラオスが抱えている「国家の貧困、国民の貧困」という、
社会状況に対する切込みもない。観光ガイドブックとしても百害あるのみである。
 何が目的で、このような旅エッセーを書いたのか、さっぱり理解できない。
一字なんぼの原稿料稼ぎか?ハルキで書けばどんな駄文でも金になる、出版社の商業資本主義のなせる業か
この駄文を読んで、村上春樹にとんでもない天才を感じる。
詐話師としての才能を、書かれている事のすべてが作り話である、彼の虚構の人生そのものを感じる。




村上春樹「ラオスにいったい何があるというんですか?」の問題点を考える

2019年08月18日 | 社会学/社会批評
旅エッセーのあるべき姿

 先日、TVで松本清張原作の「点と線」が放送されていた。
刑事役の北野武のシリアルな演技も見どころであったが、
市原悦子の存在感も申し分ない。
何よりも、時代考証に基づいた当時の「東京駅」が再現されていて感激だった。
残念だが、過去に一度見たこともあり、途中で寝てしまったが。


松本清張「ペルセポリスから飛鳥へ」

 松本清張は推理作家と思われているが、ドキュメンタリー作家でもあり、
歴史家でもある、考古学や法律学にも造詣が深い。
 若い頃、松本清張の「ペルセポリスから飛鳥へ」を読んで、
実際にイランのペルセポリス遺跡を訪れた。
乗った飛行機がイラク航空だったのが最悪だったが。
 実地での調査、取材、記録、資料作成。それらをもとに、
綿密に論理を組み立てていく、彼の思考の深さ、
学術研究にも十分に耐える内容には驚かされた。
綿密に調査し事実だけを記述する、これが旅エッセーの原点であると教えられた。


旅の愉しみ

 旅とはおもしろいもので、道に迷ったことで、新しいものを発見したり、
突然、大雨にあい仕方なく雨宿りして、普段あまりみていなかったものが、よく観察出来たり。
 毎年、同じ街を訪れ、よく知っていると思っていたのに「あれ、こんなものあったかな」
と新しい発見に驚かされたりする。見たハズなのに、すっかり忘れていたりする。
前にも、同じ道路を通ったのに、記憶になかったりする。

 ここ数年、毎年のように、ラオスへ旅行しているが、「どうして、又、ラオスに行くんですか」と聞かれる。
その言外にはラオスにどんな魅力があるのですか?というより、よく飽きないですね
というニュウアンスが読み取れる。

 ルアンパバーンは村上流に言えば、「趣のある静かな古都」で、幾度、訪れても興味が増すことはあっても、
減少することはない。ここ10年で11回インドシナ半島を旅し、ルアンパバーンには7回滞在している。
街が、少しずつ変化している様が目にとれる。変化しないのは地形と、ゆるやかなメコン川の流れぐらいか。
ナイトマーケットの品揃えも、時代を反映して、少しずつ変化している。
 朝の托鉢も、昔は太陽が昇る前から托鉢の列が続き、僧侶のオレンジ色の袈裟が街を染めつくしていたが、
今は観光客向けのセレモニーか?朝の6時に始まり。6時15分頃にはアッサリと終る。
 インディゴハウスの斜め向かいにある、「モン市場」は現在、再開発のため閉鎖されているが、
ほぼ、建設も終わっているのに、何時、OPENするのかは誰にも分からない。
いずれにしろ、昔のよき風情はなくなるだろう。
 幾度も訪れていると、少しずつ変化していることが分かる。
「アレ、ここにあったジュース屋さんがゲームセンターに替わっている」とか
「こぎたないが美味しかった大衆食堂が、小奇麗になり値段は上がったが、味は落ちた」とか。
これも旅の愉しさかと思う。


見る事、書くこと

 高校の美術教師の言葉で印象に残っているのは「よく観察しなさい。
利き手で描いた方が多少は巧く描けるが、見ていないもの、観察していないものは
どちらの手で描こうとしても、描けない」、名言である。
 文章を書く時でも、文章の技量に優劣はあっても、
よく見ていないもの、自分が体験していないものは書けない。
 中学1年生の時、担任の先生から「君の文章ほど退屈なものはない」と言われた。
なる程、自分が書いた文章が退屈以外の何物でもないことは、十分理解できる。
でも、読後感想文で優秀作に選ばれているのは、みな「金太郎飴」ばかりで、
授業で先生が述べた「感想」を、そのまま自分の「感想」として書き写しているだけではないか。
本人が感じたことなど何処にも書かれていない。
中学生の「冒険ゴッコ」などで、野原を駆け廻っている少年に、芥川龍之介の
「傍観者の自己心理」などと言った、難し言葉は理解できないし、深い心情など書ける訳がないと思った。

 旅のエッセーでは旅した時の実体験が大切で、それを、どのように文章化し他の人に分からせるか。
自分が観察していないモノ、体験していないコトは書けない。
それを、勢いで書こうとするから無理が生じ、ウソでっちあげが生まれる。


村上春樹の文章を評価する

 
村上春樹の文章を「良くも悪くも独特」と言う人がいるが、
私に言わせれば「悪くも、悪くも独特」な文章である。
彼の文章を「・・・」で引用すれば、自分の書いた文章全体がダラしなくなる。
要約すれば「俺はそんなことを言ってない」と横槍を入れられそうである。
 「遠いと言えば遠いが、近いと言えば近い」とか
「遠いと言うほど遠くないが、近いと言うほど近くない」とか、
一例を挙げれば、「・・・少しばかり、でもけっこう根幹から
変更してしまうことになる。」(P160)、
少しばかりと根幹からはまったく反対の概念ではないか?
要するに内容がアイマイで判断するのに困る。
 読んでいて、突然「です、ます」調の文章になり気が抜ける。
出来の悪い中学生の作文を読んでいるような気分になる。

オヤジギャグ的な軽いノリで充分に観察することもなく調べることもなく、
思いついたまま、勢いで文章を書いているように思える。




旅のエッセーは「作り話」で具体性がない

 村上春樹は文章表現がうまい。何も知らない人は、言葉の巧さに、「そうだ」と思い込んでしまう。
心情に訴えかけ、読者の心を揺さぶるような文章だが具体的なことは、何も書かれていない
「旅っていいものです疲れることもがっかりすることもあるけれど、そこには何かがあります。」
疲れること、がっかりすることとは、具体的に何なのか?
必ず何かがありますとは、具体的に何があるのか?
 例えば、両替でダマされたとか、バスの中に帽子を忘れたとか。
買い物の時500円で安いと思ったが、計算間違いで5,000円だったとか。
具体的な失敗、トラブルなど実体験したことを書くべきだろう。
 村上春樹は旅をして、その土地について考察も観察もしていない、
旅をすれば当然出くわすであろうトラブルなどについて、経験していないので、
具体的に書くことが出来ない。

ラオスには何もないと読者が間違った観念を持つ

 ブックレビューを読むと、「おもしろそうなタイトルですが、それ以上でもそれ以下でもない。
筆者として(ラオスに)特別な思い入れがあるように見えません」と冷静に判断している読者もいるが、
「その景色が浮かんでくるようで、海外旅行をしている気分になって楽しかった」とか、
「ラオスに行きたくなる気持ちがふっふっと芽生える一冊です」と成績優秀な中学生のような
感想を書く人もいる。

 ラオスには何もないと言ったことが伝言ゲームのように伝わり、ラオスには何もないと誤解する人がいる。
この文章で書かれていることが、フィクション(作り話)とは知らず、本当のことと錯覚する人が出てくる。
自ら体験することもなく「ラオスには何もないんだ~」と決めつけ、その国を侮辱する、これほど、不愉快なことはない。

「ラオスに何もないの」ではなく、ラオスの国の素晴らしさを、村上春樹には理解できていない。
細かい事情も分からず、その国に対するリスペクトもないなら、旅エッセーなど書くべきではないと思う。


このエッセーの何が問題なのか!

 松本清張の文章を読めば、彼の幅広い学識をもとに、取材、調査に基づいて事実のみを論理的に組み立て記述している。

その対極にあるのが、村上春樹の旅エッセー、「ラオスにいったい何があるというんですか?」である。
一言で言えば「空疎」、内容が何もナイヨーと、つい村上流のオヤジギャグを飛ばしたくなる。

 十分に調べることも、取材することも、資料作成をするわけでもなく、思いつくままに適当に文字を書き並べている。
ルアンパバーンの街に高層建築がない理由など、少し調べれば分かることである。
調べもしないから、「景観保護条例」のことも分からず、勢い、「高層建築がない」とラオスを見下した文章を書く。
エッセーの内容は事実誤認も甚だしく、内容が希薄で少しラオスに認識のある人間なら不愉快しか感じない。

 メコン川の描写は実に素晴らしい。彼の言語能力と想像力、フィクション作家としての文学的な、あり余る才能を感じる。
これが作り話であり、ウソ八百、デタラメであることが分からなければ。
村上の書くメコン川の描写を読み、メコン川がそのような川であると錯覚を持たれることが恐ろしい。

メコン川は黄褐色に濁っていて、けっして美しい水の色ではないが、流れはゆったりと穏やかである、
激流など何処にも存在しない。ルアンパバーンの「市街地図」を見れば一目瞭然だが、
プーシーの丘から眺めるメコン川は直線的で、蛇行などしていない。
恐らく、メコン川の支流のナムカーン川と間違えているのであろうが、
ナムカーン川はメコン川と比べると、蛇行はしているが川幅はきわめて狭い。
いずれにしろ、杜撰さは否めない。

ルアンパバーンは地球の歩き方、ラオス編でも紹介されているように、山深い「猫の額」ほどの平地にあり、
密林など何処にも存在しないと断言しておく。

村上春樹「ラオスにいったい何があるというんですか?」はフィクションなんだ!
旅エッセーに「作り話」はいけません。
ウソ、ごまかしで書かれた「旅エッセー」には何の価値もない、文筆家としての良心があるなら、
「このエッセー」は唾棄すべきであろう。


プーシーの丘から眺めたメコン川、直線的で流れは緩やかで蛇行などしていない


プーシーの丘から眺めたナムカーン川、川幅は狭く蛇行している


市街地図(部分)、「論より証拠」メコン川は直線的で蛇行などしていない