困民党軍が大宮郷に入った時、郡の権力機関はすでに事の成り行きを察知して姿をくらましてしまっていた。
この事態は困民党軍の予期せぬことであった。警察をはじめとする権力側の抵抗に遭うであろうことをみな予測していたのだが、実際はそうならなかった。意外な感じだった。
それでも、彼らは事前の打ち合わせどおりに、郡役所、警察署、裁判所、監獄、そして高利貸を次々と急襲していった。総指揮をとったのは副総理の加藤織平である。
猟銃が放たれるのを合図に、攻撃目標への乱入が始まる。書類が引き裂かれ、投棄され、その一部に火がつけられる。冷えきった空気に包まれた、決して広いとは言えない市中の街道筋には、至るところに紙切れが散乱し、そのさまは、あたかも吹雪が舞うようであったという。
壊された高利貸七軒、同じく火を放たれたもの三軒。いずれも貸金証書が破棄されたことは言うまでもない。
一方、豪商を対象に、軍用金の調達が行われた。その際、総理田代栄助名義の革命本部発行の受領書が出されている。また、刀剣類を差し出すことや炊き出しの要求も行われた。
今や大宮の町はパニック状態であった。商家のほとんどが鎧戸を閉めてしまっていたため、町は暗さが一層きわだった。その中を怒号と歓声がどよめき、困民党の面々が黒い塊となってうごめいた。
疾風のように通り過ぎた困民党軍の破壊行為が一段落すると、町は奇妙に静まりかえった。うっそうたる樹木に包まれた秩父神社の境内に彼らが退いていたからである。すでに東の空がしらみはじめていた。
困民党軍は郡役所を革命本部と定め、分営を秩父神社近くの小学校に置いた。
明けて十一月三日。その日は天朝節の日であった。
夜が明けると、昨夜来の騒ぎがまるで嘘のように、軍団の動きが鈍くなっていた。明らかにひとつの目的を達してしまったあとの虚脱感がただよっていた。
そんな時である。憲兵隊と警察の一団が群馬県側から西谷の奥にある城峰山に進出し、早晩、大宮郷に向かってくるだろうと“いう情報が困民軍本部にもたらされた。
恐れていた事態が訪れたのだ。いよいよ本当の戦いがはじまるのだという予感が皆の頭をよぎった。今までの弛緩した気持ちが一気に消し飛んでいた。
ただちに、それを迎え撃つために、軍団が三隊に分けられた。甲隊は西からの襲撃に備え、荒川の竹の鼻の渡しを守ること、乙隊は北からの攻撃に対して大野原で迎え撃つこと、そして、丙隊は大宮郷にとどまって防衛をかためること、が決められた。
そうしたなか、しきりに虚報が飛び交っていた。虚報に躍らされて、軍団の統率が乱れはじめていた。当初、決めた各隊の配置にもかかわらず、なぜか、甲隊は小鹿野から下吉田方面へ、乙隊は大野原からさらに北上して皆野へと移動していた。
この間、激しい戦闘も行われていた。甲隊の別動隊五百名が、城峰山のふもとにある矢納村で、群馬方面からやってきた警官隊と衝突、警察側に大きな損害を与えたのもそのひとつである。また、皆野に進んだ乙隊は、憲兵隊と荒川の親鼻の渡し付近で戦闘をくりひろげた。憲兵隊はこの時、最新式の村田銃を使用して困民党軍を撃退している。
四日に入ると、警察、憲兵隊、東京鎮台一中隊の態勢は一段と強化された。秩父に至るすべての街道が封鎖されたのである。
一方、革命本部の置かれていた大宮郷はというと、そこは蛻の殻になっていた。大宮郷にとどまっていたはずの丙隊のほとんどが、いつの間にか皆野に集結していた乙隊に合流してしまっていたからだった。その空になった町では、赤鉢巻きの武装した町の青年層が、困民軍を迎え撃つための自衛隊を組織していた。
大宮郷に警察と軍隊が進出してきたのは、それからほどなくしてからだった。同じ頃、東京憲兵隊の一個小隊も皆野から大宮郷に入っている。十一月五日のことである。
すでにこの時、皆野に布陣していた困民党軍の本部は解体していた。総理田代は持病の胸痛の再発で一線から脱落、ほかの幹部たちもいずこともなく姿を消していた。
この本部解体のあと、東京をめざして、秩父郡に隣接する児玉郡の金屋に進出した大野苗吉に率いられた一隊があった。彼らは東京鎮台兵との激しい戦いのあと壊滅した。また、菊池貫平に率いられて、信州へ転戦した一隊があった。
彼らは神流川沿いの群馬県側の山中谷をぬけ、駆り出しを繰り返しながら、佐久の東馬流まで転戦し、さらに八ヶ岳山麓の野辺山原で力尽き壊滅した。東馬流には、今「秩父暴動戦死者之墓」と記された立派な碑が建てられている。
警察は、十一月五日、早くも事件参加者の逮捕に乗り出した。大宮郷、小鹿野、熊谷、八幡山には暴徒糾問所が設けられ、参加者の厳しい取り調べがはじまった。
後日、裁判にかけられた者の数が明らかにされた。それによると、埼玉県内の逮捕者三千六百十八名。内訳は重罪二百九六名、軽罪四百四八名、罰金科料二千六百四十二名というものであった。重罪中には、のちに死刑になる、田代栄助、加藤織平、新井周三郎、高岸善吉、坂本宗作、それに、逃亡して欠席裁判で死刑を言い渡された菊池貫平、井上伝蔵の二人が含まれていた。
事件は終息し、秩父の山峽はもとの静けさに戻ったかのようであった。
が、事件後、半年たった明治十八年六月二日付けの『東京日々新聞』は、秩父の現況を以下のようになまなましく伝えていたのである。
「大小の別なく、人家は皆食物に窮し、特に中等以下の人民の惨状は実に目も当てられず・・・。大抵右の貧民は小麦のフスマ或は葛の根を以て常食とし、死馬死犬のある時は悉く秣場(まぐさば)に持ち往きて皮を剥ぎ、其肉を食ふを最上とす」
生活の困窮の果てに蜂起した秩父の農民の意思は、強大な権力の前に空しく潰えたのであるが、事件後、彼らの窮状は、さらに苛烈をきわめ、農民たちの肩に重くのしかかってきていたのである。
それでもなお、蜂起に参加した秩父の農民たちは、その後も、幾重にも連なる山々の峰を日々見つめながら、困苦のなかで生活するしか手だてがなかったのである。そこで生をうけ、育った者にとって、秩父は決して捨て去ることのできない場所であった。
最後に、欠席裁判で死刑を宣告された参謀長菊池貫平と会計長井上伝蔵のその後について触れておこう。
菊池は信州に転戦したあと逃れぬき、甲府市内のさる博徒の親分の家に身を寄せているところを逮捕された。明治十九年秋のことである。その後、網走監獄に収監され、幾度かの恩赦をへて、十八年後の明治三八年二月、懐かしい故郷佐久に帰ってきた。白髪の長い髪と長い髭をたくわえた、この不屈の男はどんな思いで故郷の地を踏んだことだろう。その時、貫平五七歳。大正三年三月十七日に亡くなるまで、息子の家に身を寄せ、悠然と構える日々を過ごしたという。
そしてもうひとり生きばてとされていた井上伝蔵。
伝蔵は下吉田村で絹の仲買をする商家の主人だった。れっきとした秩父の自由党員で、東京の自由党本部に出入りするほどの人物だった。困民党には早くから加わり、幹部となっていた。
困民党解体のあと、彼の行方はようと知れず、そのうち人々の噂にもならなくなっていた。
大正七年六月二十三日のことである。北海道の野付牛村(現在の北見市)の自宅で、今や臨終の床にあるひとりの老人がいた。老人は家族を枕辺に呼び寄せ、ある重大な告白をなした。実は、自分は井上伝蔵といい、あの秩父事件の首謀者のひとりであると。妻をはじめ、これを聞いた家族は皆驚愕した。
事件後、伝蔵は新潟から船で逃れ、北海道に渡って、札幌郊外の石狩に住み着いた。そこで再婚し、子供をもうけ、新天地でひそかに生きていたのである。その気の遠くなるような長い歳月を伝蔵はどんな気持ちで過ごしたのだろうか。
当初は、再起を図ったことだろう。しかし、世の中の動きは彼の思惑をこえて転変していった。ひっそりと市井に生きる伝蔵の、ささやかな楽しみは俳句をつくることだった。地元の結社にも参加し、「柳蛙」の俳号を名乗って句作を楽しんだ。「思ひ出すこと皆悲し秋の暮」の句など多数の句が今も残る。享年六五歳の生涯であった。 完
タイトル写真:映画「草の乱」のスチール写真より
この事態は困民党軍の予期せぬことであった。警察をはじめとする権力側の抵抗に遭うであろうことをみな予測していたのだが、実際はそうならなかった。意外な感じだった。
それでも、彼らは事前の打ち合わせどおりに、郡役所、警察署、裁判所、監獄、そして高利貸を次々と急襲していった。総指揮をとったのは副総理の加藤織平である。
猟銃が放たれるのを合図に、攻撃目標への乱入が始まる。書類が引き裂かれ、投棄され、その一部に火がつけられる。冷えきった空気に包まれた、決して広いとは言えない市中の街道筋には、至るところに紙切れが散乱し、そのさまは、あたかも吹雪が舞うようであったという。
壊された高利貸七軒、同じく火を放たれたもの三軒。いずれも貸金証書が破棄されたことは言うまでもない。
一方、豪商を対象に、軍用金の調達が行われた。その際、総理田代栄助名義の革命本部発行の受領書が出されている。また、刀剣類を差し出すことや炊き出しの要求も行われた。
今や大宮の町はパニック状態であった。商家のほとんどが鎧戸を閉めてしまっていたため、町は暗さが一層きわだった。その中を怒号と歓声がどよめき、困民党の面々が黒い塊となってうごめいた。
疾風のように通り過ぎた困民党軍の破壊行為が一段落すると、町は奇妙に静まりかえった。うっそうたる樹木に包まれた秩父神社の境内に彼らが退いていたからである。すでに東の空がしらみはじめていた。
困民党軍は郡役所を革命本部と定め、分営を秩父神社近くの小学校に置いた。
明けて十一月三日。その日は天朝節の日であった。
夜が明けると、昨夜来の騒ぎがまるで嘘のように、軍団の動きが鈍くなっていた。明らかにひとつの目的を達してしまったあとの虚脱感がただよっていた。
そんな時である。憲兵隊と警察の一団が群馬県側から西谷の奥にある城峰山に進出し、早晩、大宮郷に向かってくるだろうと“いう情報が困民軍本部にもたらされた。
恐れていた事態が訪れたのだ。いよいよ本当の戦いがはじまるのだという予感が皆の頭をよぎった。今までの弛緩した気持ちが一気に消し飛んでいた。
ただちに、それを迎え撃つために、軍団が三隊に分けられた。甲隊は西からの襲撃に備え、荒川の竹の鼻の渡しを守ること、乙隊は北からの攻撃に対して大野原で迎え撃つこと、そして、丙隊は大宮郷にとどまって防衛をかためること、が決められた。
そうしたなか、しきりに虚報が飛び交っていた。虚報に躍らされて、軍団の統率が乱れはじめていた。当初、決めた各隊の配置にもかかわらず、なぜか、甲隊は小鹿野から下吉田方面へ、乙隊は大野原からさらに北上して皆野へと移動していた。
この間、激しい戦闘も行われていた。甲隊の別動隊五百名が、城峰山のふもとにある矢納村で、群馬方面からやってきた警官隊と衝突、警察側に大きな損害を与えたのもそのひとつである。また、皆野に進んだ乙隊は、憲兵隊と荒川の親鼻の渡し付近で戦闘をくりひろげた。憲兵隊はこの時、最新式の村田銃を使用して困民党軍を撃退している。
四日に入ると、警察、憲兵隊、東京鎮台一中隊の態勢は一段と強化された。秩父に至るすべての街道が封鎖されたのである。
一方、革命本部の置かれていた大宮郷はというと、そこは蛻の殻になっていた。大宮郷にとどまっていたはずの丙隊のほとんどが、いつの間にか皆野に集結していた乙隊に合流してしまっていたからだった。その空になった町では、赤鉢巻きの武装した町の青年層が、困民軍を迎え撃つための自衛隊を組織していた。
大宮郷に警察と軍隊が進出してきたのは、それからほどなくしてからだった。同じ頃、東京憲兵隊の一個小隊も皆野から大宮郷に入っている。十一月五日のことである。
すでにこの時、皆野に布陣していた困民党軍の本部は解体していた。総理田代は持病の胸痛の再発で一線から脱落、ほかの幹部たちもいずこともなく姿を消していた。
この本部解体のあと、東京をめざして、秩父郡に隣接する児玉郡の金屋に進出した大野苗吉に率いられた一隊があった。彼らは東京鎮台兵との激しい戦いのあと壊滅した。また、菊池貫平に率いられて、信州へ転戦した一隊があった。
彼らは神流川沿いの群馬県側の山中谷をぬけ、駆り出しを繰り返しながら、佐久の東馬流まで転戦し、さらに八ヶ岳山麓の野辺山原で力尽き壊滅した。東馬流には、今「秩父暴動戦死者之墓」と記された立派な碑が建てられている。
警察は、十一月五日、早くも事件参加者の逮捕に乗り出した。大宮郷、小鹿野、熊谷、八幡山には暴徒糾問所が設けられ、参加者の厳しい取り調べがはじまった。
後日、裁判にかけられた者の数が明らかにされた。それによると、埼玉県内の逮捕者三千六百十八名。内訳は重罪二百九六名、軽罪四百四八名、罰金科料二千六百四十二名というものであった。重罪中には、のちに死刑になる、田代栄助、加藤織平、新井周三郎、高岸善吉、坂本宗作、それに、逃亡して欠席裁判で死刑を言い渡された菊池貫平、井上伝蔵の二人が含まれていた。
事件は終息し、秩父の山峽はもとの静けさに戻ったかのようであった。
が、事件後、半年たった明治十八年六月二日付けの『東京日々新聞』は、秩父の現況を以下のようになまなましく伝えていたのである。
「大小の別なく、人家は皆食物に窮し、特に中等以下の人民の惨状は実に目も当てられず・・・。大抵右の貧民は小麦のフスマ或は葛の根を以て常食とし、死馬死犬のある時は悉く秣場(まぐさば)に持ち往きて皮を剥ぎ、其肉を食ふを最上とす」
生活の困窮の果てに蜂起した秩父の農民の意思は、強大な権力の前に空しく潰えたのであるが、事件後、彼らの窮状は、さらに苛烈をきわめ、農民たちの肩に重くのしかかってきていたのである。
それでもなお、蜂起に参加した秩父の農民たちは、その後も、幾重にも連なる山々の峰を日々見つめながら、困苦のなかで生活するしか手だてがなかったのである。そこで生をうけ、育った者にとって、秩父は決して捨て去ることのできない場所であった。
最後に、欠席裁判で死刑を宣告された参謀長菊池貫平と会計長井上伝蔵のその後について触れておこう。
菊池は信州に転戦したあと逃れぬき、甲府市内のさる博徒の親分の家に身を寄せているところを逮捕された。明治十九年秋のことである。その後、網走監獄に収監され、幾度かの恩赦をへて、十八年後の明治三八年二月、懐かしい故郷佐久に帰ってきた。白髪の長い髪と長い髭をたくわえた、この不屈の男はどんな思いで故郷の地を踏んだことだろう。その時、貫平五七歳。大正三年三月十七日に亡くなるまで、息子の家に身を寄せ、悠然と構える日々を過ごしたという。
そしてもうひとり生きばてとされていた井上伝蔵。
伝蔵は下吉田村で絹の仲買をする商家の主人だった。れっきとした秩父の自由党員で、東京の自由党本部に出入りするほどの人物だった。困民党には早くから加わり、幹部となっていた。
困民党解体のあと、彼の行方はようと知れず、そのうち人々の噂にもならなくなっていた。
大正七年六月二十三日のことである。北海道の野付牛村(現在の北見市)の自宅で、今や臨終の床にあるひとりの老人がいた。老人は家族を枕辺に呼び寄せ、ある重大な告白をなした。実は、自分は井上伝蔵といい、あの秩父事件の首謀者のひとりであると。妻をはじめ、これを聞いた家族は皆驚愕した。
事件後、伝蔵は新潟から船で逃れ、北海道に渡って、札幌郊外の石狩に住み着いた。そこで再婚し、子供をもうけ、新天地でひそかに生きていたのである。その気の遠くなるような長い歳月を伝蔵はどんな気持ちで過ごしたのだろうか。
当初は、再起を図ったことだろう。しかし、世の中の動きは彼の思惑をこえて転変していった。ひっそりと市井に生きる伝蔵の、ささやかな楽しみは俳句をつくることだった。地元の結社にも参加し、「柳蛙」の俳号を名乗って句作を楽しんだ。「思ひ出すこと皆悲し秋の暮」の句など多数の句が今も残る。享年六五歳の生涯であった。 完
タイトル写真:映画「草の乱」のスチール写真より