場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

秩父事件 ・・・・山の民の反乱

2022-02-19 08:55:59 | 場所の記憶
 秩父は山深い地である。いまでこそ、その深い山をぬって、舗装された山道が通じているが、その出来事が起きた時代には、どれほどか辺鄙な山峽であったことかと想像される。 
 地図を広げて見ると、秩父という地が荒川によって引き裂かれ、東西に分断されている盆地状の地域であることが分かる。その荒川は、山梨、埼玉、長野三県の分水嶺にあたる甲武信岳に源を発して東に流れ、さらに北流して、この盆地を貫いている。
 地元では、荒川を挟んで東側を東谷(ひがしやつ)、西側を西谷(にしやつ)と呼ぶ。なかでも、西谷と呼ばれる地域は、西方向に奥行き深く延びて、いずれも山深い地であることで知られている。
 大小の河川が谷を縫うようにしてめぐり、それら河川がつくる沢に沿って集落が点在する。集落は、よもやこのようなところにと思われる山の急斜面や、谷の底にうずくまるように、突然、その姿を現すのである。
 それら集落はどれも戸数が少ない。それは10戸、20戸の規模である。家々の前に広がる、わずかな空間に耕地がつくられ、互いの耕地を結びつける私道が行き交っている。せこ道と呼ばれるこの私道が、唯一、村人たちの交流の回路になっている。
 この秩父の山峡は、江戸時代から養蚕の盛んなところであった。耕地が少ない山民は、農作ではなく、蚕を飼い、生糸をつくるという生業で生活を成り立たせていたのである。主業は養蚕で、農耕山林の仕事はむしろ副業であった。彼らは生糸という商品を生産し商うという、小商品生産者的農民であった。
 明治15年頃のことである。当時の政府がおこなっていた緊縮政策(松方デフレ政策)によって全国的にデフレが吹き荒れていた。そうしたなかでおこなわれた、不換紙幣の整理と軍備拡張のための増税は、いっそうの金融閉塞という名の金詰まりをきたし、国民を苦しめた。養蚕による生糸の生産地として繁栄してきた秩父も例外ではなかった。 
 デフレによって、生産物である生糸の値段が大暴落したのだ。ために、養蚕農家は資金繰りに苦しみ、誰も彼も高利貸からの借金が嵩むことになった。ある者は一家逃散、ある者はみずからの命を断つという形で借金地獄から逃れる者が続出した。身代(しんだい)限りという名の生活破産が蔓延した。それは、昔からの生活基盤である共同体の崩壊を予感させた。
 一方、養蚕農家が困窮しているなか、高利貸だけが豊かさを享受していた。彼らは狡猾に農民に対した。 
 借金の累積に苦しむ農民には苛酷に、役所や警察にはあらかじめ手を打っておいて、不当な借金の実態を隠蔽した。養蚕農家の生活はますます逼迫していった。 
 こうした状況下にあって、農民たちも耐え忍んでばかりいたのではなかった。山村共同体の崩壊を目の前にして、彼らの危機感は募っていた。最初は数人の者たちの行動であったが、やがて、行動の輪はひろがり、自らを守るために組織づくりをはじめることになった。はじめは負債延期請願運動として、やがて、それがかなわぬと知ると、武装蜂起を視野においた困民党という名の組織を成立させた。
 組織づくりは山峽を縫い、耕地を駆け巡り、集落から集落へ隠密裡に何カ月にもわたって積み重ねられていった。
 その活動は容易ではなかった。困窮の極限にあってもなお現状に甘んじようとする農民を説得し、組織化するのは、まさに石に穴をうがつ努力に等しかった。
 が、やがて、彼らの努力が成果を結ぶ時がくる。山林集会と呼ばれる農民たちの集まりが、警察の目を逃れ、山林のあちこちで幾度も行われるようになるのである。
 状況はいよいよ切迫していた。一般農民がリーダーたちを突き上げていく。もはや直接行動に出るほかない、というのが彼ら一般農民の考えであった。リーダーの意志は蜂起へと向かっていく。
 山は燃えていた。
 蜂起の日は明治17年11月1日と定められた。そして、その日がやってくる。 
 晴れ渡った秋空が広がるその日の昼過ぎから夕刻にかけて、どの山峽の集落からも続々と農民たちが下吉田村にある椋神社目指して動きはじめた。椋神社は阿熊渓谷を東にみる森につつまれた高台にある。
 その数およそ3000名。いずれの農民も白襷、白鉢巻姿で、各々刀や火繩銃、竹槍を手にしていた。椋神社は秩父神社とともに秩父盆地を代表する神社である。
 黒々とした杉の木立にまざって、見事に紅葉した大きな銀杏の木々が立ち並ぶ境内には秋の気配が濃く漂っていた。
神社のまわりに広がる田の畦道につくられた稲架には、取り込みの遅れた黄金色した稲の束が並べられていた。あるいは、迫り来る冬にそなえて麦まきのさなかであった。 
そのような時である。武装した農民たちが下吉田村にある椋神社に集結したのである。 
 日が落ちると共に、武装農民の黒い塊が境内にあふれた。十四夜の月が煌々と中天に輝く夜の神社。今、その神社の拝殿前にひとりの黒い男の影が浮かびあがっている。
 それは総理にかつぎ上げられた田代栄助の小太りのずんぐりとした黒い影である。彼は大宮郷に住む信望の厚い博徒であった。
 まず、田代が困民党軍の役割を発表。つづいて、参謀長の菊池貫平が高らかに軍律五カ条を読みあげた。菊池は秩父の峠を越えて、はるばる信州の北相木から馳せ参じた、代言人を生業とする男である。菊池の政治目標はこの頃盛んであった自由民権の実現であり、そのための早期国会開設だった。彼は正式の自由党員でもあった。この時、菊池38歳。
 午後8時、鬨の声と共に、甲乙二隊に分かれた軍団は、竹法螺を吹き鳴らし、それぞれが小鹿野を目指して出発した。
 部隊は、鉄砲隊、竹槍隊、帯剣隊とからなる二列の長い縦隊をなして進んで行った。その規模といい、規律のとれたさまといい、それは百姓一揆とはいえない、まさしくひとつの意志をもった農民の軍団であった。 
 甲大隊の隊長は新井周三郎といった。彼は小学校の若き教師である。甲隊千五百名ほどの農民は吉田川をさかのぼり、巣掛峠を越えて小鹿野の町を西から急襲した。
 一方、乙大隊はこれまた教員の隊長飯塚森蔵の指揮のもと、椋神社をそのまま南に下り、下小鹿野に出、東から小鹿野町に入った。小鹿野の町を東西から挟撃する作戦であった。 
 小鹿野の町は街道筋に細長く延びる古い町で、町を背に低い山並みが連なっている。その山影が黒々と夜空を画し、町を一層暗くしていた。
 当時、小鹿野町は大宮郷に次いで大きな町であった。商家も多く西秩父の農村を後背地に控えて、高利貸が集まっていた。
 困民党軍が小鹿野を襲ったのは、そこに彼らが仇敵とする高利貸がいたからである。怒涛の勢いで町に入った農民軍は高利貸の家を打ち壊し、火を放った。が、そこには規律というものがあった。
 農民軍団は、その夜、町の北はずれにある木立に包まれた諏訪神社(現小鹿神社)に参集し、近在の農家に炊き出しを命じて露営した。 
 町は不気味に静まりかえる夜を迎えた。 
 翌二日早暁、困民党軍は隊列を組みながら黒い塊となって諏訪神社を出立する。隊伍の先頭には「新政厚徳」の大旗がひるがえっていた。
 目指すは郡都大宮郷(今の秩父市)である。鉄砲隊を先頭に、3000を越す農民軍は、長い隊列を組んで町の東方面に通じる街道を進む。進むうちに周辺の農民を巻き込みながら、隊列がふくらんでいった。
 やがて軍団は小鹿野原と呼ばれる桑畠の広がる地に出た。その畠道を縫って赤平川を渡った。そこからは、ややゆるい登りとなり、それを登りつめると小鹿坂峠に出る。
 時に午前11時。峠からは、目の前に武甲山の無骨な山容が立ちはだかるのが望めた。眼下には秋の陽を溶かして、荒川がのどかに流れているのが見え隠れする。
 その対岸には、黒い塊となった大宮郷の家並みが南北に細長く望める。農民たちの胸の内には、万感の思いがあふれていた。
 それは、今ようやく、自分たちの苦しみが何がしか解き放たれるのだ、という思いであった。新しい世界をこれから自分たちでつくってゆくのだ、という希望に膨らんだ思いでもあった。
 峠を少し降りたところに秩父札所二十三番の音楽寺がある。黒い軍団はそこにも群がっていた。皆が厳粛な気分に満たされている、その時であった。音楽寺の鐘が力をこめて打ち鳴らされた。
 それはあらかじめ申し合わせておいた大宮郷へ突入するための合図であった。鐘の音は高らかに、響きのある音色を、澄みわたった大気のなかに溶けこませながら流れてゆく。 
 期せずして、勝鬨の声があがる。誰の胸の内にもはち切れんばかりの怒りがこみ上げていた。
 歓声をあげながら、彼らは音楽寺から荒川に下るつづら折りの狭い山道をいっせいに駆け降りて行った。
 秋色濃い荒川の河川敷を目の前にして、誰もが一気に川を渡るつもりでいた。荒川の水嵩が、人が歩いて渡れるくらいになっていることを、彼らは先刻承知していたのである。この時、困民党軍の数は、駆け出しと呼ばれる強制参加の呼びかけの効果もあって、五千という規模に膨らんでいた。
 この蜂起にあたっては駆け出しという伝統的な手法が使われていた。それは共同体を守り抜くための、いわば暗黙の共同体規制であった。
 われ先にと川を渡って行く軍団は、こうして郡都大宮郷になだれ込んで行ったのである。 続く

タイトル写真:秩父・吉田椋神社境内(秩父事件百年顕彰碑)