場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

桜田門の変 ・・・ 鮮血にそまった江戸城の一角ーその1

2022-02-04 11:50:41 | 場所の記憶
 JR 常磐線の南千住駅を降り西に少し歩くと、賑やかな商店街に出る。その通りはかつての奥州街道で、通り沿いの鉄道高架線そばに、今は鉄筋づくりになっている回向院の建物を目にする。寺は周囲に住宅街が押し寄せ、かろうじて、その体を保っているといった風に建っている。
 以前は、寺域もかなりあり、その背後には、広大な野晒しの地が広がっていたであろうことなど想像もできない変わりようだ。 
 この寺の開基は古く、寛文七年(1667)といわれる。当初、この寺は行路病者の霊を弔うために建てられたものであった。回向院はもうひとつ本所にもあるが、本所の回向院が手狭になったために新たに開かれたのがこの寺だった。
 この地は、江戸期、小塚原と呼ばれる刑場地として知られ、江戸開府から明治に至るまでの二百数年間、ここで処刑された者は、じつに、25万人を数えるといわれている。人も近づかない空恐ろしいところであった。 
 そもそも小塚原の名の起こりは古く、遠く平安の時代にさかのぼる。
 言い伝えによれば、源氏の頭領、源義家が、奥州征伐の帰途、賊の首四八体をこの地に埋葬したことからその名がついたという。その塚を古塚原とも骨ケ原とも書いたといい、現在の南千住一帯をそう呼ぶようになった。 
 時は下り、江戸の末頃になると、国事犯がここで処刑され、この寺に埋葬されることになる。
 それを物語るかのように、今は狭くなってしまった墓地内には、首切り地蔵が残り、歴史に名を残す刑死者の墓を幾つも見ることができる。 
 そのひとつ、墓地の中央、ブロック塀で四角に区切られた墓域にいかにも、それと分かる墓碑が並んでいるのを発見する。いかにもというのは、肩を並べるように立つ墓列が、ひとつの意志を表しているかのように見えるからである。
 今にも消え失せそうな、墓石に刻まれた死者の名をなぞるように読み取ってゆく。
 吉田松陰、頼三樹三郎、有村次左衛門、関鉄之介、・・・居並ぶ墓碑名をつなげてゆくと、そこにひとつの歴史の記憶がよみがえってくる。墓石のわきに万延元年の没年を刻むものが多い。間違いなく、それは安政の大獄にかかわる関係者たちの墓である。
 なかでも私の目をひいたのは、桜田門外の変で井伊直弼殺害に加わった者たちの墓である。
 あの時、大老襲撃に加わった者は、総勢18名だった。そして、ほとんどの者が捕まるか討ち取られてしまった。
事件の顛末は次のようなものであった。
 万延元年三月三日。その日は上巳の節句にあたり、慣例により、各大名が将軍に拝謁する日と決められていた。大老井伊直弼も当然登城するはずだった。
 一方、水戸藩脱藩の浪士たちは、その日を千載一遇の機会ととらえ、井伊直弼襲撃の日と定めていた。
 例年ならば、桜が開花する時期でもある。が、その日は、あいにく、明け方からの雪が降り積もって、見渡す限りの銀世界になっていた。
 井伊直弼が登城する時刻は遅くとも五ツ半、今の午前九時頃と思われた。
 これに対して、水戸脱藩士たちは、昨夜から止宿していた品川の妓楼、相模屋を早朝に出立していた。
 この妓楼は、土蔵造りであったことから、通称、土蔵相模と呼ばれ、尊王攘夷運動に奔走する浪士たちがよく止宿する妓楼だった。
 実行班に選ばれた者は、関鉄之介をはじめ、佐野竹之介、大関和七郎、森五六郎、海後嵯磯之介、稲田重蔵、森山繁之介、広岡子之次郎、黒沢忠三郎、山口辰之介、増子金八、杉山弥一郎、斎藤監物、蓮田市五郎、広木松之介、鯉淵要人、岡部三十郎、有村次左衛門 ら18名である。有村を除けばすべて水戸藩を脱藩した浪士たちである。
 彼らは、前夜から大老襲撃の打ち合わせを積み重ね、悲憤慷慨して酒を呑み交わしながら夜を明かした。
 朝外を見ると、いつの間にか積ったのか、外は銀世界になっていた。彼らはその雪を計画が成就する吉兆と受け止め、互いに喜びあった。
 やがて、彼らは気取られないように、三々五々宿を出た。めざすは、あらかじめ決めておいた集合場所である愛宕山だった。そこには、すでに薩摩藩からただひとり参加した有村次左衛門が待っていた。
 一同は愛宕権現に大願成就を祈願したあと、新橋を通り、左に道をとって(現在の祝田通りから左折して桜田通りへ)桜田門に向かった。
 桜田門近くの濠端に近づくと、雪の日にもかかわらず、すでに人の影があった。登城する大名行列を見物する人を当てこんだ傘見世と呼ばれる屋台も出ていた。 
 彼らはその見物人にまじって、「鑑」(大名行列の詳細を記したガイドブック)を手にしたり、屋台にたむろしたり、ある者は濠の鴨を見物するふりをしたりして時を待った。誰もが胸の高まりを押さえ切れない状態にあった。寒さも加わり、武者震いが止まらなかった。その時が待ち遠しくもあった。 つづく

タイトル写真:「桜田門外の襲撃之図」(月岡芳年)