場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

「江戸切絵図」を携えて 本郷三丁目〜菊坂

2018-09-15 11:04:50 | 場所の記憶
  このコースの出発点は東京メトロ丸ノ内線本郷三丁目。駅正面の商店街を抜けるとそこは本郷通りだ。通りに沿って北方向にすすむと、すぐに広い交差点に出る。
 交差点の角に大きな文字で「かねやす」と書かれた店を目にする。今は7階建てのビルになっている洋品店だが、江戸時代、「かねやす」(兼安)は、蔵を備えた瓦屋根の町家だった。
 この店が「本郷も兼安までは江戸の内」と江戸川柳に詠われた小間物を扱う老舗である。
 「かねやす」が有名になったのは、ここで売り出されていた赤い歯磨粉が江戸庶民に人気を博したからであるが、それに貢献したのが、赤穂義士のひとり、堀部安兵衛。
 吉良邸討ち入りで有名になった安兵衛揮毫になる店の看となれば、おのずと客が集まるというものである。
 私ごとであるが、私の妻の祖父(銀座万久)が兼安10代目の婚礼時(昭和の初め)の仲人であった、という話を聞いたことがある。
 
 本郷三丁目交差点を渡り左折する。このあたり、かつて真砂丁と呼ばれていたところである。真砂丁は泉鏡花の『婦系図』の舞台になったところでもある。
 近くにあった真光寺(戦災で廃寺になった)の門前町として、寛永年間に開かれた町屋で、神霊を京都の北野天満宮から勧請したところから、地元では北の天神の名で親しまれているのが、現在の桜木神社である。今も付近には仕舞屋風の家や看板建築の商店が散見される。
 さらに春日通りを西に歩くと、「文京ふるさと歴史館」の標識が見えてくる。交通量の多い通りと別れて閑静な通りを右すると「ふるさと歴史館」の建物が見える。ここで文京区の歴史の概観を学び、これからの散策の参考にするとよい。
 ちなみに、「切絵図」を見ると、このあたり信州上田藩5万8千石の松平伊賀守の屋敷地であったことが知れる。歴史館に並びに古風な武者窓のついた屋敷があるが、なにやら往時を彷彿させる雰囲気がただよう。通りの右手は真砂町図書館だ。
 道はやや下りになり、その先に階段がある。階段左手の、現在は日立本郷ビルが立つ敷地に、明治の文豪、坪内逍遥が住んでいた。その家は春廼舎(はるのや)と呼ばれ、近代日本文学の狼煙があげられたところである。
 「春廼舎は、本郷真砂町の炭団坂の角屋敷崖淵にあった」と門人のひとりが回想文を残している。ここには俳人正岡子規も明治21年から三年あまり寄宿していたことがある。この敷地も先ほど記した松平屋敷の一部だった。
 炭団坂と呼ばれる急な坂を下るとそこは菊坂だ。このあたり菊を栽培する家が多かったところからその名がついたという。「切絵図」では緑地をはさんで二本の狭い道が屈折して延びている。二本の道の左側には下級武士の家が並び、右側には本妙寺と長泉寺の広い敷地がひろがっている。そして、その地続きに菊坂町の町家がある。菊坂はいわば、左右の台地にはさまれた谷の底というところだ。
 ちなみに、この本妙寺という寺、今は巣鴨に移転しているが、幾たびかの江戸大火のなかでも最大といわれる明暦の大火(明暦3年)の火元になった寺だ。この大火は振袖火事と呼ばれ、江戸城の天守閣をも焼失している。
 ところで、この大火が振袖火事と呼ばれたのには訳があって、それには因縁めいた振袖の話が伝わっている。
 明暦3年(1657)1月18日のことである。その日、本妙寺では大施餓鬼が催されることになっていた。そして、その際に一枚の振袖が供養のために焼かれることになっていた。
 そして、いよいよ施餓鬼の儀式が執り行われることになり、件の振袖が火の中に投じられた。すると、どうしたわけか、その振袖が一陣の風に煽られ燃え上がった。そして、あっという間に本堂に火が燃え広がったのである。これが明暦の大火の発端であった。

 時代は下るが、この付近に、大正3年開業の西洋風のモダンな菊富士ホテルがあった。現在、オルガノ社という会社の敷地に記念碑が建っているが、そのホテルは多くの文人や著名な学者が滞在したことで知られ、数々のエピソードが残されている。
 右に湾曲した二本の道は、現在もそのまま残り、左手には長屋風の家が狭い路地をはさんで肩を寄せあうように立っている。このあたり明治の雰囲気が多少なりとも残るところだ。
 樋口一葉が母と次兄と共に、明治23年から3年ほど住んだ旧宅跡が、そんな一角に残っている。軒下には植木鉢がたくさん並び、一葉が使ったという掘井戸が今も健在である。
 菊坂から上手の通り(右手)に出ると、すぐ先に古格な土蔵が目に入るが、それが、一葉が貧窮いよいよ迫り、古着を質入れするためによく通った質屋・伊勢屋である。現在、土日に限り一般公開されている。
 明治26年5月2日付の『一葉日記』にも「此月も伊勢屋がもとに走らねばことたらず。小袖四つ、羽織二つ、一風呂敷につつみて」と記されている。
 「切絵図」では一葉の旧宅から二つ目の左手に鐙坂(あぶみさか)という名の坂がある。その坂上に高崎藩主松平右京亮の中屋敷があった。鐙坂の名は、坂のかたちが鐙に似ているからとも、鐙をつくる職人が住んでいたからともいう。
 ここで菊坂は尽きて、広い通りの菊坂下交差点に出る。


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