場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

姉川古戦場を訪ねて

2018-08-07 12:12:41 | 場所の記憶
 時は元亀元年(1570)、織田信長率いる織田連合軍が浅井、朝倉連合軍と対峙し、その後激突した場所が姉川である。姉川は大河ではなく、東西に東から西に流れ落ち、琵琶湖に注いでいる。
 十一月中旬、私はこの合戦に関係する地を訪ねた。
 まず訪れたのが浅井家代々の居城があった小谷城。城は琵琶湖の東、伊吹山系が西に切れるその縁に位置する標高四九五メートルの小谷山の尾根沿いに築城された山城である。守りに堅固なことで知られ、日本五大山城に数えられている。
 私がこの城に関心を持ったのは、やはりこの城の悲劇の顛末である。織田信長による三年にわたる執拗な攻撃で、ついには落城し、城主は切腹自刃、妻子はかろうじて逃れるが、その顛末がまた数奇というほかない。
 今はただの山にしか過ぎないが、そこがかつての悲劇の山城となれば、眺めるこちらの眼差しも尋常ではない。かつての合戦の有様を想像し、そこでどれだけの人間たちが生死を争ったのかを思えば気分はおのずと重苦しくなるというものだ。
 雲に覆われた空の下、何か悲しみを背負ったような山の姿が痛々しい。
 戦国時代とはいえ、各大名が各々の領分に甘んじていれば何ごともないはずである。が、実際は、そうはいかなかった。誰かが天下統一の覇権を目指せば、まずはその隣国との争いとなる。覇権を押し出して攻める側と自国の領土を安堵させようと守る側。戦いは避けることができなかったといえる。
 織田信長は覇権を目指して湖東の地、浅井家の領土を狙っていた。これに対抗して浅井家は隣国朝倉家と同盟する。領土拡大の野望に走る信長を何とか食い止めなければならない。
 この争いには複雑な事情が絡んでいた。浅井家三代目当主・浅井長政の妻  そもそもこれは政略結婚であったが、こんな結果になるとは予期せぬことだった。政略結婚にあたり、浅井と織田は同盟を結び、その際、浅井の同盟者である朝倉への不戦を誓っていたのである。が、信長はそれを破り、三河の徳川家康と共に越前の朝倉方の城を攻め始めたのだ。
 近江を手中にしなければ天下を取れない。そのためには、まず朝倉氏の領土である越前を服従させ、それから浅井の領国を臣従させる。それが信長の戦略だった。
  長政は板挟みになった。縁戚を優先するか、同盟という義に従うか。長政は悩んだことだろう。が、信長に従えば、やがて自分の所領  かくて以後三年にわたる朝倉、浅井軍と信長連合軍との熾烈な戦いがつづく。そのなかで起きたのが姉川の合戦だった。
 元亀元年六月二十八日、太陽暦でいうと七月三十日。午前6時頃に戦闘開始。浅井軍は姉川の西から、織田軍は東から、姉川を挟んで対峙した。ほどなく、浅井・朝倉連合軍は姉川を渡渉して進撃するが、その陣形が伸びきっているのを見た信長配下の家康軍が側面からこれを攻撃。そのあたりで激戦が繰り広げられた。やがて
朝倉軍が敗走。続いて浅井軍も敗走した。結果的に織田・徳川側が千百余りの敵を討ち取って勝利。
 今も合戦場付近に残る「血原」(公園になっている)や「血川」という地名は往時の激戦ぶりをうかがわせ、背筋が引き締まる。今は広い田園地帯になっているその辺りを歩くと、姉川戦死者の供養碑や陣跡などを彼処に目にする。
 この姉川合戦ののち織田、浅井・朝倉の両勢力は拮抗を保ちながら年を経るが、三年後の一五七三年七月、織田軍に攻められた朝倉氏は越前の一乗谷の戦いで滅亡、同年八月、長政は小谷城が落城。自刃する。二十九歳の若さだった。
 信長の天下統一の野望に翻弄され、ついには命を落とした浅井長政、そしてその家族の離散と敗者の悲劇は今も大地に刻み込まれている。一方の勝者である信長も
十年もたたぬのち、みずからの命が断たれようとは神のみぞ知るである。
 それにしても古戦場跡は何故かこうも無常感を誘うものか。古戦場に立つと、芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」ではないが、茫々とした寂寥感が迫ってくる。
 今は何ごともなかったような、ただの田園地帯であるが、往時、そこでおびただしい軍兵が血みどろになって戦い、ある者は倒れ、ある者は生き延びて、それぞれの人生を分けあったかと思うと、粛然たる気持ちになってくる。風の中に彼らの雄叫びが聞こえてくるようであった。
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