場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

栃本・・・天空の里・秩父最奥の村

2022-07-02 11:02:11 | 場所の記憶
                
山里の原風景といったものがあるとすれば、そのひとつに秩父山塊の奥処に位置する栃本をあげることができそうである。
 満々と水をたたえる秩父湖を左手に眺めながら、国道140号線をさらに行くこと数キロ、前方の街道沿いに、肩を寄せ合うように建ち並ぶ低い家並みが見えくる。そこが栃本の集落である。
 現在の地番でいうと、秩父郡大滝村大字大滝字栃本となる。そこは白泰山から東に重々と連なる山稜の南斜面にあり、村の南側は深く切れ込んだ荒川がV字谷をなしている。
 それにしても、初めてこの地に足を踏み入れた時の印象は強烈だった。その特異な景観に思わず息をのんだものだ。平坦地がなく、尾根側から谷に向かって、急激に崩れ落ちる斜面ばかりの地である。それを目にした時に私は軽い目眩のようなものに襲われた。
 その体験は、ちょうど、傾きながら滑空する飛行機の窓から外界を眺めた時と似ていた。視線がぐんぐんと斜面を転がり落ち、左手の荒川の谷底に吸い込まれてゆくのであった。 
 かつてその地には関所(今も建物が残る)が置かれ、旅人のための宿が用意されていたということが嘘のように思える。最盛期旅人が往きかう街道は、つねに活気に満ちあふれていたといい栃本の賑わいはかなりのものだったらしい。それが今は、忘れられたように、ひっそりと息づく、ただの山村に変わり果てている。
 往時、栃本は、中山道と甲州路を結ぶ脇街道--旧秩父甲州往還のほとりにある交通の要衝であった。   
 今でこそ、屋根はトタンで葺かれ、そこらにある民家とさほど変わらぬ造りになっているが、賑わった頃は、栗の柾目板を葺いた旅籠が幾棟も並んでいたという。
 旧秩父甲州往還は、その名が示すように、中山道の熊谷宿から寄居、秩父、大滝村とたどり、雁坂峠を越えて甲州へと通じる街道であった。 
 とりわけ、秩父の山中に入ってからの、栃本〜雁坂峠間の四里四丁の険阻な道は難所とされ、旅人は大いに難儀したという。   
 この街道、じつは栃本を通り過ぎたところで、二手方向に分かれる。左すると、前記の雁坂峠越えの甲州路であり、右すると、十文字峠を越えて信州側に抜けることができた。
 いずれの道をめざす旅人も、とりあえず栃本で旅装を解き、そこで一泊したあと、甲州あるいは信州に旅立ったのである。
 この街道が開発されたのは、戦国の世の武田信玄の時代にさかのぼる。信玄は、このルートを甲州と武蔵を結ぶ最短距離の道として着目し、軍用道として街道の一層の整備に力を注いだ。以来秩父甲州往還は、武州、上州、甲斐、駿河を結ぶ重要路になったのである。
 この往還道は、江戸時代になってからも、文物の交流ルートとしてだけではなく、三峰詣、善行寺詣、身延山詣、秩父札所めぐりなどの庶民の巡礼道としても栄えた。
 さらに、明治になってからは、生糸が交易の中心になったこともあり、繭を扱う商人の行き来がさかんになった。
 秩父でとれた繭は、山梨県側の川浦に運ばれ、そこから、塩山に送られたという。そして帰りは、馬の背に甲州の米が積まれたのである。
ところで、この栃本に関所が設けられたのはいつ頃のことなのだろうか。
 記録によれば、竹田信玄が勢力を張っていた天文年間から永禄年間の頃であるとされている。永禄十二年には、信玄が小田原北条を攻めるために、この街道を使って秩父に侵入している。 
 時代は下って、江戸幕府が開かれたのちの慶長19(1614)年になって、関東代官頭の伊奈氏がこの関所を整備。それ以来,関所は、幕藩体制の防備の拠点という、重要な役割をになうことになる。
 幕府がここに、代々世襲の関守を常駐させ、つねに厳重な警備を怠らなかったというのも、そうした役割を重視したためであった。実際、この職務にあたった大村氏は、明治2年に関所が廃止になるまで、十代、250年という長きにわたって、その任についている。栃本の関所が、中山道の松井田、東海道の箱根の関とともに関東三関のひとつに数えあげられたのも、こうした位置づけがあったからこそである。
 当時の関所のあらましは、東西に関門を置き、街道の両側に木柵と板矢来を配するといったものものしいもので、関所は大村氏の役宅も兼ねていた。
 現在見る建物は、天保15年(文政6年焼失後再建)の建築で外観は木造平屋建て、切妻造り、瓦葺き、間口約13メートル、奥行9メートルという規模で、一見するとふつうの民家風の造りである。が、内部をのぞくと、東妻側に、番士が座る十畳の上段の間の張り出しがあり、西寄りには、板敷き玄関、それにつづく十畳の玄関の間がしつらえてあり、この建物が関守屋敷であることを改めて知らされる。
 関所には三道具、十手、捕縄が常備されていたといわれ、通行手形をもたない違法な旅人はすぐに捕らえられた。
 この関所の往来が許可されたのは、明け六つから暮れ六つの間であったといい、江戸初期の寛永20年の記録によると、ここを一日百人をこえる通行人が行き来したという。
建築材として伐採し、その一方で、山の一部は、地元の村民に伐採権として授
 実は、この関所の重要性は、そこが交通の要衝であったということばかりの理由ではなかった。
 江戸幕府はこの地域の原生林から採れる材木に当初から目をつけていた。原生林は御林山と呼ばれ、当時、この一帯は「東国第一の御宝山」と称されていたところであった。
 その規模は、実に東西二十里、南北四里にも及んだといい、大血川の上流地域から中津川の南西部にひろがる地域である。
 幕府がここに関所を設けた真の狙いは、この地域からの原木の盗伐を監視するのが目的であったからだと言われている。
 ところで、奥秩父の原生林と呼ばれるこの地の森林相は、どんな樹木からなっているのだろうか。よく知られているものを数えあげただけでも、ブナ、ミズナラ、カバノキ、シデ、カエデ、シラビソなどその種類は多い。 
 こうした豊富な樹木を、幕府はけられた。それは百姓稼ぎと呼ばれたもので、村人たちは、この山から伐れた材木を一定の目的に限ってなら使える権利を認められていた。 
 伐採された木材は、筏師の手によって、荒川の激流を下り、江戸の町に運ばれた。
 明治になり御用林は官林となるが、明治12年の取り調べ書によると、官林は七万二七八七町歩、村人の稼山が四万三六七二町歩余と記されている。意外に、稼山の持ち分が多かったことが知れる。
 元禄3年((1690)の記録によれば、村の人口は千八百余り。村人は、斜面の耕地を利用して、主に、麦や粟、稗、豆類、そば、芋などを生産し、あとは、幕府から与えられた御林山の一部(稼山)を共同使用して、そこからの林産物や山の幸で生計を立てていた、とある。
 耕作といえば、この地には、土地の人が「さかさっぽり」と呼ぶ、独特の耕地農法がある。傾斜の強い斜面に畑地をつくらざるを得なかった農民たちが考え出した耕法で、それは畑地を耕す際に、斜面の上から下に順次鍬を入れてゆくという方法である。 
 常識的には、こうした地形では、下から上に移動しなければ、身体の安定感がつくれないものである。それを、逆に、上から下に移動しながら、耕作するというのである。逆さ掘りと呼ばれるゆえんである。
 実際、下から上に移動しながら、土を掘り返してみると、土が下方に転がり落ちて、作業にならない。それでなくとも、石ころのまざりあった、いかにも地味の悪そうな耕地であるのだから。
 そこで、身体を斜面下方に向け、インガと呼ばれる八尺ほどもある柄の長い鍬を使って、土を掘り起こすという耕法を考え出したのである。身体の安定感を欠いたこの作業は、さぞかし、重労働であるにちがいない。第一、農作業に時間がかかる。腰は曲がるし、膝に力が入るという具合で、並の労働量ではないのである。
 それにしても、栃本の風景は、そこを訪れる人に、自然の苛酷さを改めて感じさせる迫力をもって迫ってくる。
 斜面にへばりつくように建つ民家のたたずまいといい、急峻な斜面を利用してつくられている耕地は全て畑で、他に焼畑も行われていたが、薄地のため不作が多く、猪・鹿・猿などによる被害も多いという。こうした地形に足を踏みしめて生きなければならない、村人の日々の生活の計り知れない困難さが想像される。
 そういえば、街道脇に一本の形のいい橡の古木が陽に輝いて、この地のランドマークのように立っているのを目撃した。
その存在感ある橡の木は、あたも、栃本の歴史を見守ってきた生き証人でもあるかのように葉を広げ、深い谷を見下ろしていた。
 今も栃本は「天空の村」と呼ぶにふさわしい、秩父最奥の耕地なのである。

         

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