私は福祉事務所のスタッフです。
時折、訪れる独り住まいの病持ちの老人の家での出来事です。孤独な彼は、訪問看護の職員に、夜中でもしばしば電話をかけてきて、職員もその応対に困惑する日々が続いていました。ところが、その連絡がある日、プツリと途絶えました。
それから一週間ほどして、私はその人のアパートを夜に尋ねることにしました。ドアをノックしてあけてみると、そこに見知らぬ女性がいました。彼女はちょうど食事の支度を終えるところでした。私に気づいているはずなのにこちらを振り返ろうとしません。一方、当の本人に目をやると、炬燵に寝転がって、ナイターの中継を見ているではありませんか。私に気づいているはずなのに、私を無視している態度なんです。
卓上には2人分の食事が並んでいました。それを見て、一瞬、私はその女性がヘルパーさんではないことは想像できました。「こんばんは。あの女性はヘルパーさんですか?」 彼にそう尋ねて見た。その人が親戚や兄妹でないことは想像できたし、彼には頼れる“身内”はいないことは知っていたからです。
こうして一緒に食事をする関係とは、と思いつつ、彼の入っていたコタツに私も入った。部屋を見渡すと、いつも閉まっているはずの襖が開いていて、奥の部屋には婦人用の服が何点かぶら下がっていました。下着も干されていました。
人生の最期を迎えようとしている彼の部屋に、女性がやってきて、生活を共にしていることは明らかだった。
遠回しに私は二人の間柄を尋ねてみた。
「失礼ですが、どなたでしょうか? ご親戚ですか?」
彼女は少し沈黙した後、決心した顔つきで私に話しはじめたのです。
「いつかは知れると思いますので、お話しします。内縁のようなものです。いつも、お世話になっております」
生活に疲れている感はあるが、穏やかな感じの人柄だった。今まで独居と思われていた男性に内縁ではあるが“同居家族”がいたのです。
二人の間にどんな出逢いがあったのかはわかりませんが、今、こうして仲睦まじく二人が寄り添っている光景を目にして、私は改めて、この福音とも思える事実に、捨てる神あれば拾う神があるものだと、つくづく思ったものです。
時折、訪れる独り住まいの病持ちの老人の家での出来事です。孤独な彼は、訪問看護の職員に、夜中でもしばしば電話をかけてきて、職員もその応対に困惑する日々が続いていました。ところが、その連絡がある日、プツリと途絶えました。
それから一週間ほどして、私はその人のアパートを夜に尋ねることにしました。ドアをノックしてあけてみると、そこに見知らぬ女性がいました。彼女はちょうど食事の支度を終えるところでした。私に気づいているはずなのにこちらを振り返ろうとしません。一方、当の本人に目をやると、炬燵に寝転がって、ナイターの中継を見ているではありませんか。私に気づいているはずなのに、私を無視している態度なんです。
卓上には2人分の食事が並んでいました。それを見て、一瞬、私はその女性がヘルパーさんではないことは想像できました。「こんばんは。あの女性はヘルパーさんですか?」 彼にそう尋ねて見た。その人が親戚や兄妹でないことは想像できたし、彼には頼れる“身内”はいないことは知っていたからです。
こうして一緒に食事をする関係とは、と思いつつ、彼の入っていたコタツに私も入った。部屋を見渡すと、いつも閉まっているはずの襖が開いていて、奥の部屋には婦人用の服が何点かぶら下がっていました。下着も干されていました。
人生の最期を迎えようとしている彼の部屋に、女性がやってきて、生活を共にしていることは明らかだった。
遠回しに私は二人の間柄を尋ねてみた。
「失礼ですが、どなたでしょうか? ご親戚ですか?」
彼女は少し沈黙した後、決心した顔つきで私に話しはじめたのです。
「いつかは知れると思いますので、お話しします。内縁のようなものです。いつも、お世話になっております」
生活に疲れている感はあるが、穏やかな感じの人柄だった。今まで独居と思われていた男性に内縁ではあるが“同居家族”がいたのです。
二人の間にどんな出逢いがあったのかはわかりませんが、今、こうして仲睦まじく二人が寄り添っている光景を目にして、私は改めて、この福音とも思える事実に、捨てる神あれば拾う神があるものだと、つくづく思ったものです。
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