Still Creek のほとりで

Still Creek(静寂なる小川)は裏庭を流れる小川の名前。といっても Windows からは騒音もきこえてきます。

白い花

2006-07-18 15:47:40 | 
この花は、最初の夜泊まったホテル裏の散歩道で撮した
「Cornus Canadensis」と呼ばれる花です。

花の形が、州花のハナミズキに良く似ています。

カナディアン・ロッキーの旅 (31)

2006-07-18 15:29:37 | 
ガイドのSさんは、350キロ、4時間余りの運転中、日本とカナダの
係わりについて、いろいろな話をして下さいます。

日本はカナダにとって3番目、カナダは日本にとって6番目の貿易相手国
ということは良く知られているようですが、長年カナダに住んでいながら、
知らない話が沢山ありました。

1928年に、カナダは日本に駐日公使館を開設しますが、これは駐米公使館、
駐仏公使館に次ぐ、カナダにとって3番目の公使館で、カナダがどんなに
日本を重視していたかを物語るものだそうです。

いまから130年前、1870年代にはカナダから宣教師が日本に来て、
幾つもの学校を創設したそうです。 また、軽井沢を開いたのは、カナダ出身の
英国国教会宣教師ACショー牧師だったとか。

ハーバート・ノーマン氏は、1909年にカナダ人宣教師ダニエル・ノーマンの
3番目の子として軽井沢で生まれ、一時帰国を除き、殆どを神戸のカナディアン
・アカデミーで学び、大学はトロント、ケンブリッジ、コロンビア、ハーバード
と学び、1935年に国際情勢を憂慮したノーマンは、カナダ外務省に入省したの
だそうです。

戦争が終局に近づいた頃、連合軍の各国代表が集まった時に、日本をどのように
分割統治したら良いかということで、代表者たちがそれぞれの要望・主張を
したそうですが、最後に、黙っているカナダ代表の意見を尋ねたそうです。

その時、理路整然と日本を分割してはいけないと説いたのがノーマンでした。
植民地も持たず、侵攻も受けていないにも拘わらず、連合軍に参加して多数の
犠牲を払ったカナダの意見には、耳を傾けないわけには行かなかったそうです。

以上がSさんが「日本人には殆ど知られていない秘話です」と言って教えて
くださった話の内容です。

カナダ大使館の広報によるその後の経歴は次の通りです。
第二次大戦後、米国の要請によりカナダ外務省からGHQ (連合国総司令部)
に出向し、占領下の日本の民主化・改革に携わった。1946年8月、駐日カナダ
代表部主席に就任。1951年9月、サンフランシスコ対日講和会議のカナダ代表
主席随員。1953年、駐ニュージーランド高等弁務官に就任。1956年、駐エジプト
大使兼レバノン公使に就任。 在日カナダ大使館の図書館はハーバート・ノーマン
の偉大な功績を記念して、「E・H・ノーマン図書館」と命名する。

ノーマンは外交官としてだけではなく、歴史家・思想家としての功績も大きく、
その研究や著書は、日本国内でも高く評価されているようです。しかし、
ハーバード時代から親交のあった、都留重人やケンブリッジ時代の友人との
関係から、米国のマッカーシー旋風と呼ばれる赤狩り政策で標的にされ、
あらぬ疑いで追い詰められた彼は、1957年、駐エジプト大使のときに
投身自殺し、世界中がショックを受けたそうです。

この時はカナダ政府も激怒し、公然と米国に抗議したと伝えられています。

写真:この野ばらは、アルバータ州の州花「Prickly Rose / Wild Rose」です。
因みに、ここブリティシュ・コロンビア州の州花は、ハナミズキです。

06-07-17 (月)曇りのち晴れ