Still Creek のほとりで

Still Creek(静寂なる小川)は裏庭を流れる小川の名前。といっても Windows からは騒音もきこえてきます。

沖先生

2009-02-28 10:14:47 | 雑感
実は鹿児島を離れる前日に、沖先生にお会いしてきました。
カレの中学時代の図画の先生です。 ある個人病院で長期
療養中でいらっしゃるということをカレから聞いておりました。 
その病院の住所を見たら、実家から車で10分位の場所だと
いうことが分かったのです。

60年前の新聞記事も見つかったし、カレの絵の才能を見つけて
自信をつけてくださった恩師の沖先生にぜひお会いして、お礼を
申し上げたかったのです。 明日は鹿児島を離れなければなら
ないし、この機会を逃してはお目にかかることはないのでは?

度々、後で後悔することの多い私は「後悔、後を立たず」
と笑ってきましたが、今回だけはそう思いたくはなかったのです。
「後悔、先に立たず」で実行に移しました。

その病院の受付を訪ねました。
「実は沖先生を訪ねてきたのですが、お会いできるでしょうか?」
「ええ、大丈夫だと思いますよ。 先生のお部屋は・・・・」
若くて感じの良い女性が、部屋を教えてくださいました。
「ちょうどお昼過ぎですが、大丈夫でしょうか」
「ドアを叩いてみてください。返事があったら大丈夫ですよ」

部屋は一階の離れの部分に特別に用意されているようでした。
恐る恐るドアを叩いたら、「ハイ・・・」という返事が直ぐありました。

病室とは思われないほどの広い部屋の入り口にベッドがあり、
そこに、とても上品なお年寄りが横になっておられました。
突然見知らぬ私が入っていったので、先生は本当にビックリ
なさったことでしょう。

連絡もしないで厚かましくも突然来訪したこと、それにカレの件の
絵のことで、度々電話でご迷惑をおかけしたことなどを詫びました。

そして、例の新聞のコピーを渡して説明をしたら、先生は少し
頭を持ち上げて、その絵をしばらくじっと見つめておられました。
「この桜島の絵のことを覚えていらっしゃるでしょうか?」
どうしても思い出せないご様子で、軽く頭を振られます。

カレのことについても何も思い出せないご様子に、これ以上
お邪魔をしては申し訳ないという気持ちになりました。

「これまでに沢山の生徒さんたちを育てていらしたのですから
無理もありませんね。 しかし、先生の優しい指導のお陰で、
60年経った今、絵を描くことが益々好きになり老後を楽しんで
いる生徒がいるということをお伝えしたかったのです。先生の
お陰です」

先生に対するお礼の気持ちを、私なりに率直に述べた積もりなの
ですが、それがどのように先生に伝わったか、全く自信はありません。
なにしろ、話下手だと言うことを自分でもよく分かっていますから。

たぶん10分くらいの対面だったのでしょうが、先生はかなり
お疲れのご様子で、言葉もほとんど聞き取れないくらいの
弱々しさでした。 一週間前になくなった私の母と同じ年令で、
体調が良くないために入院していらっしゃるのですから・・・。

お別れするとき、「先生にお会いすることが出来てとても幸せです。
主人も喜んでくれることでしょう」といって握手をしてもらいました。 
先生の手の温もりと優しく潤んだ目を今でも忘れることが出来ません。

若い頃から静かで温厚な先生だったとカレもいっています。
ベッドに横になっておられても、往時の姿が目に浮かぶような
素晴らしい紳士の沖先生でした。

「見付けた!」

2009-02-27 14:27:01 | 想い出


母の最期を見届け、葬儀も滞りなく終えることが出来ました。
といっても、足が不自由で、日本の仕来りに疎い私は、なにも
出来ず、全てを確り者の義姉が取り仕切ってくれたことを、
心から有難く思っています。

あとは足手まといになる前に、バンクーバーに帰ることです。しかし
その前に、どうしてもやっておかなければ・・・と思うことがありました。
新聞に載ったという件のカレの描いた水彩画の記事を探すことです。

何しろ60年前の、謂わばうろ覚えのカレの記憶です。 一人では
心細かったし、兄弟たちにも事情を話してありました。 ある日、
親戚への挨拶参りなどを済ませた後、義妹も交えて一緒に調べて
もらうことにしました。

 

前にもカレがこのブログ(2009-01-08)に書きましたが、古い
新聞記事の検索は、県立図書館で出来ることは分かっていました。 
県立図書館は、西郷隆盛銅像や鹿児島美術館・黎明館などが
建ち並ぶ旧鶴丸城の石垣に囲まれた一角にありました。



此処に足を踏み入れるのは、4人とも初めてのことです。
駐車場に車を止めて、数人が出入りしていた裏口から入りました。
「古い新聞を見せてもらいたいのですが・・・」
受付で聞いて、二階の新聞の閲覧室へ向かいました。

「昭和24年と25年の南日本新聞の記事を見ることが出来ますか」
「出来ますが、何月頃の新聞でしょう?」
「それが全然分からないのです。 真冬ではないということですが・・・」

「マイクロフイルムに入っているので、探すのに時間が掛かると思いますが
今、他に使っている人が居ないので二台の器械を使ってください」
掛かりの男性が、昔風の丸いフイルムを4本探して来てくれました。
 
「先ずこの24年度分を見てください。 これは1~6月分。 こちらは
7~12月のフイルムです」 二組に分かれて、画面に並んで座った
私たちに、彼はフイルムの見方、回し方を丁寧に説明してくれます。

兄と私は、1~6月分の3月頃から見始めたのですが、画面の早い
流れになかなか付いて行けません。 マイクロフィルムの閲覧機は
画面がユックリ流れるように目盛りを動かすのですが、なかなか上手く
いきません。 眩暈がしそうです。 その時代の新聞の画面は全て白黒。 
「まるでイカ釣りをしているようだ」と釣り好きの兄と弟は、私の肩越しに
冗談を言い合いながら笑っています。 そう云えば二人ともここ数年
好きな釣りどころではなかったようです。

「アッ、桜島だ!」「いや、これは絵じゃないわよ。写真よ」
「チョット、ストップ。 この記事、面白そうだね。読んでみたいな」
「後にしてね・・・」
「ホラ、また桜島だよ。 ストップ、ストップ・・・」
そんな会話を両方で交わしながら、昔の新聞を楽しんでいました。
桜島の大きな写真が今と変らず多く出ていること、それに意外と
宣伝が多いのにも驚きました。



「アッター!きっと、これがカズさんの絵よ」 「そうだ!」
義妹と弟の声に驚いた私たちは椅子から立ち上がって覗き込みました。 
義妹が行き過ぎたフイルムを巻き戻して出してくれました。

昭和24年7月24日   まさにカレの描いた桜島の絵です。 
<櫻島スケッチ 鹿師付中三年生重松和君> と付記してあります。
時間が掛かることを覚悟していたのですが、思っていたより早めに発見
出来たことに、静かな図書館内にいることもすっかり忘れて我々4人は
大はしゃぎ。

「早めに見付かってよかったですね」受付の方々も喜んでくれました。
「コピーしてもらえるでしょうか?」「ええ、もちろん。1枚10円ですが」 
先ほどの掛かりの男性に頼んで、2枚撮ってもらいました。
「後は自分で好きなようにコピーしてください。そして、もし又何かあったら
またカナダから調べに来てください」

という訳で、目出度く件の新聞記事を見つけることが出来ました。

義妹がコンビニ店で部分的に数枚コピーして来てくれたので、
あらためて良くみたのですが、その絵に関する説明は何もありません。
 
載せられた絵は<コドモと夏やすみ>という中程度の記事の傍に
付かず離れずといった感じで載っています。 カレの記憶でも、記事には
何の説明もなく、コンクールの入選作といった物でも無かったと言います。

当時のそんな小さな新聞写真に人はチラッと目を触れるだけで、
作者名などに目を通す人は稀なのではないかとカレは言います。 
義父がその小さな活字に気付いていなかったら、今回のエピソードも
生まれていなかったのではないかと、何となく不思議なものを感じます。

ただ、その写真の絵をよく見たら、カレの件の絵とはチョット違うような
気がしました。 カラーでないのでよく分からないのですが、全体の雰囲気
が何処となく違うようです。 このことについてはブログ(2009-02-14)
にカレが書いた通りです。 

これで大役を果たした気分で、急いで実家に帰りカレに電話しました。 
カレは直ぐにも確かめたい様子でしたが、私が帰国の予定を早めたので、
そのまま持ち帰ることにしました。 帰路立ち寄った次男夫婦の家から
画像をメールしてもらいました。

件の絵のお陰で、4人で思いがけず興奮する楽しい時間が持てた
ことを大変嬉しく思っています。 喪中で皆心身ともに疲れきっていた
時だけに、救いのひと時でした。

MRI 検査

2009-02-25 13:48:25 | 暮らし


二人とも風邪が長引いてしまい、なかなか元気が出ません。

なにしろ3日前は39.8度という高熱に「母の後追い・・・?」
などと真剣に夢うつつの中で考えてしまったほどでしたよ。(笑)

2人とも1~2日高熱が続いたのですが、意を決して手持ちの
抗生物質を服用したところ、翌日から平熱に戻り随分楽になって、
こうしてPCに向かっていられることをとても嬉しく思っています。

何故か、病気はファミリードクターが休診の週末に掛けて起こります。
こんな時にウォークイン・クリニックに行くのも大儀です。 何しろ患者が
ゴホンゴホンとやっている中で、1時間近く待つこともしばしばです。 
そこでかねがねドクターに言われていた通り、オフィスに電話したところ、
代診の巡回医師からコールバックがありました。

カレが症状を伝えて、抗生物質で熱が下がったと言うと、それで良い
とのことです。 ところが、抗生物質を二人でシェアしたため、数日分
が不足します。 この抗生物質は初日2錠で続く四日間毎1錠です。
不足分を巡回医師が薬局にオーダーしてくれたので助かりました。
おかげで大事に至らず快方に向かい、カレは運転する元気が出た
ようです。

昨日・23日は、私の右膝のMRI検査の予約が取れていたので
カレの車でSt.Poul Hospitalに行って来ました。
病院の駐車場は満杯で入れてもらえません。 私だけ降りて放射線科へ。
カレは病院裏手の駐車場へ向かいました。

訪日前には大分痛みも取れて楽になっていたのですが、毎日忙しく
動き回っていた所為か、母の葬式の頃から又激しい痛みが出始めました。 
葬式の後の接客や雑用を手伝う積もりで、長期滞在を予定して
いたのですが、自分の体を支えるのに精一杯でした。

それに23日に取れたMRIの予約を逃したら、また暫らくは待たなければ
ならないので、それに合わせるように急いで帰国した次第です。

放射線科の広い待合室には、数人の患者が順番を待っています。
カレが駐車して放射線科に着いて数分後に私が呼ばれました。

MRIを撮るのは初めての経験です。 
ヘッドホーンから流れるクラシカル・ミュージックを聴きながら、
「寝たままで丸い器械の中に入れられるのだけど、その音のうるさい
こと!」
何度か経験していた亡母が話していたことなどを思い出していました。

「Riko 大丈夫ですか? 気分は悪くないですか? 音楽は?」
東洋系の女性の掛かりの技師が、途中で2回もヘッドホーンを通して
優しく声を掛けてくれます。 

右膝を中心に30センチくらいの範囲の撮影でしたが30分かかりました。
その後、レントゲン室で立った状態と膝を曲げた状態のレントゲンを
2~3枚撮ってお終いです。

「数日中にファミリー・ドクターの方から、連絡がいきますよ」
感じの良いレントゲン技師に見送られて、カレの待つ待合室に
戻りました。

それにしても待合室には数人の患者しかいません。
「患者さんが少ないこと」 と私が言うと、
「5分おき位に、新しい患者が来ては次々に呼び込まれていたよ」
ノンビリした雰囲気ですが、結構効率よく診療が行われているようです。
アポイントメント制の有難さですね。



「結果は如何であり、大仕事がひとつ終わったね」 全くその通りです。
それに屋外駐車場の2時間分のチケットでピッタリ間に合い上機嫌。
何ヶ月ぶりかで、自宅近くのベトナム麺屋で遅いランチを済ませて
帰りました。 その後は二人とも夜までぐっすり眠ってしまいました。

風邪には眠るのがいちばんの薬ですね。 それによく食べること。
おかげさまで二人とも食欲だけは落ちなかったので、回復も早いでしょう。


満開のアマリリス

2009-02-22 08:34:22 | 暮らし


麗らかな日和が続いています。
暖かい陽射しの裏庭で、花壇の横に一冬出しっ放しだった
子供用・スティール製の丸いテーブルに向かいました。

帰国してから付けていない日記と、訪日中に走り書きした手帳とを
睨めっこ・・・記憶のますますの薄れをあらためて感じております。

孫のコンラッドが引いていた風邪をカレがもらったらしく、ずっと
気分が優れない様子でした。 私も帰国早々同じような症状で
この2~3日二人とも昼夜を問わず眠ってばかりです。
でも、今日はやっと普通に時間を過ごせるようになったような気がします。

日本でも色んな種類の風邪が流行っていましたが、こちらも
同じように余儀なく学級閉鎖をする学校もあったようです。
性質の悪い風邪がこれ以上蔓延しないように願うばかりです。



帰国して散らかった部屋に足を踏み入れたら、真っ赤なアマリリスが
先ず目に入りました。 クリスマスに孫たちにもらった球根の鉢植えです。
二本の茎に花が4つずつ咲いたようで、一本はすでに咲き終わっていました。

「プラントの世話はしなくてもいいですからね」 とカレに毎回言って
旅発つのですが、それが如何して如何して・・・。
結構水遣りをしてくれているようです。 植物によっては、水をやりすぎで
ダメになるのもたまにはありますが・・・。


忘れないうちに、例のカレの絵に関することや、亡き母の最期の様子
など、これから少しずつ記していきたいと思っています。


お元気ですか?

2009-02-20 13:40:16 | Weblog


みなさん、お久しぶりです。

約一ヶ月間の訪日を終え、16日にバンクーバーに帰って来ました。
疲れと時差ぼけでまだ頭がボンヤリしていますが、少しずつ普段の生活に
戻りつつあります。

大寒の頃でしたのに、滞日中、鹿児島も東京もバンクーバーの
初夏を思わせるような暖かさに本当にビックリしました。
 
幸いに、こちらも穏やかな青空の上天気続きで、早い春の訪れを
感じさせてくれます。  しかし、我が家の前庭の一隅と裏庭にも、
昨年末降った雪が凍結したまま残っています。

 

今日はさっそく頼まれて孫二人を学校に迎えに行きました。 
クラスが終わるのを待つ間、久しぶりに近くの公園でバンクーバーの
空気を胸いっぱい吸いました。 周りの全てに元気をもらいながら、
再スタートすることが出来そうです。



特にとりたてて記すようなこともない、閑かな日々になることでしょうが、
これからも又、よろしくお願いします。

水彩画 : 深まる謎

2009-02-14 15:41:44 | Weblog
例の水彩画に関する南日本新聞の記事を鹿児島県立図書館の
マイクロフィルムの中から義妹が見付けたのだそうです。 そのハード
コピーはもらえたようですが、同時にRikoがデジカメでも写したようで
その画像を東京に住む次男がメールしてくれました。 戦後間もない
60年前の地方紙に掲載された白黒の小さな写真です。

「矢張り記事はあった」 と記憶が間違っていなかったことにホットした
ものです。 改良に改良を重ねた今日の報道写真にくらべ、当時の
新聞の写真はドット数も粗く細かいところは不鮮明ですが、ボクが
画いた絵だと直ぐに分かりました。

しかし、よくよく見ると「まてよ。前景の石垣が無い」
そこでノースカロライナのロビンさんから送られてきた水彩画のカラー
画像と較べて見ました。 新聞写真の絵は全体により細かく描写
しており、桜島の稜線の描き方が違う。 特にキング女史が保存
していた水彩画の空の彩色は雑な感じがする・・・ということでした。

沖先生に画き直しを命ぜられたときに、いちばん苦労したのが「空」
だったと以前書きましたが、ロビンさんからの画像を見たとき「果たして
これがあんなに苦労した空の彩色だろうか」 とあきれ、恥ずかしく
思ったものです。

南日本新聞に掲載された「桜島」の絵こそ、画き直して提出した
もので、数日後に(わが生涯唯一の)賞状と賞品をもらった作品
だったのです。 

ということは、最初に画いた稚拙な絵の方が、キング女史の手に
渡ったものだと判りました。 2009-01-08 のブログで件の
水彩画がキング女史に渡ったのは「南日本新聞社の主導では?」
と書きましたが、この推測は外れたようです。

こんなどんでん返しが、待ち受けていたとは夢想だにしませんでした。
画き直して賞をもらった水彩画は最早出てくることは有りますまい。
おそらく廃棄処分されて亡霊のように現れることが無いことを願って
います。

実は沖先生について思い出すことが今ひとつあるのです。中学を
卒業後数年経ったある日、友人に誘われてサイクリングをした序に
中学に立ち寄ったことがあります。 授業中のあるバラック教室を
隙間から覗いたところ、沖先生が一枚の絵を黒板に張り出して
授業をしておられたのです。 張り出された絵を見たらボクが中学
3年の最後に画いた水彩画でした。 何か見てはいけないものを
見てしまったような気がして急いでその場を離れたのです。

その絵は、学校の側門から見た下り坂の町並みを画いたもので、
その時も沖先生は何も仰らずに受け取られたのです。 その絵を
授業に使われたということは、恐らく良い作品として見てくださった
からだろうと思えるのです。 今思い返しても全体が薄こげ茶色で
仕上げたその絵は一所懸命に画いた記憶があります。 あの桜島
の絵で賞を貰ったのが励みとなったわけです。

中学のときの成績で(A)をもらったのは図画だけだったと思います。
その町並みを画いた絵も当然の事ながらゴミと消えたことでしょう。

件の水彩画がどのようにしてキング女史の手に渡ったかはますます
判らなくなりました。



ご報告

2009-02-11 17:32:04 | Walden の Kaz

このブログの女主人Rikoが、このところ投稿を休んでいます。 
実は彼女は一月下旬から母親の安らかな最期を見取るため
鹿児島の実家に帰っていました。 その後のもろもろの日程も
無事終えることができたようです。 

母親は苦痛も無く、割りと意識も確りしており、自分でもあの世
に行くことを楽しみにしている様子だったそうです。 賑やかに
やってくれと云われていたようで、弔事もそれなりの雰囲気で中々
良かったと感想を述べていました。

一段落した彼女から昨夜電話連絡が入りました。 例の水彩画
の件ですが、兄弟たちの協力を得て県立図書館へ出向き南日本
新聞のマイクロフィルムを調べたところ、小さな記事と水彩画の写真
を見つけることが出来たそうです。

昭和24年(1949)7月24日(日曜日)号だったそうです。
図書館の職員の方がコピーを取って下さったようで、私がコピーを
見るのは一週間ほど先になりそうです。 当時の新聞は二つ折
の計4ページで多分社会面に出ていたのではないかと思います。

父が新聞を読みながら見付けた記事に、僕が後ろから覗き込んだ
記憶があったのは、その日が日曜日で登校していなかったからだと
納得が行きました。

折しも、キング女史が当時宿舎としていた、桜島を一望出来る様に
海に突き出して建てられた「風景楼」という名所で生まれたという
東京のブラックコーヒーさんからコメントを頂いたところでした。 
ブラックコーヒーさんは僕よりも20才若い方ですが、小・中・高校と
同じ学校を出られた方と分かり不思議なご縁に驚いています。



泥棒雑感

2009-02-04 20:14:30 | Walden の Kaz
Dejaさんとロビンさんからコメントをいただき有難うございます。 
件の盗難事件ですが、盗品がその日のうちに戻るとは稀有の
ことで、運が向いてきた喜ぶ方が良いのかも知れませんね。

一番高価なものを盗んだということは、目利きの泥棒か、前回
侵入した同一犯?とのロビンさんの感想ですが、そのとおりかも
知れません。 ただ娘夫婦の反応は、小さなアンプまで盗んだ
ということは、ひょっとして自分でギターを弾くつもりだったかも知れ
ないと、なかば同好の士みたいなことを云っています。 

初めてこんな感想を聞いたときはビックリしたものですが、最近
は、こんな考え方にも慣れてきたような気がします。 それだけ
に自分の考え方が普通の日本の人々からずれて来て、日本
の人から顰蹙を買いそうな気がして、口を利くのが怖くなって
きています。 

「泥棒を捕らえて刑務所へ入れて欲しい」 などと考える人は
少ないようです。 こそ泥を捕まえて刑務所に入れる費用を
税金で賄われては敵わないという気持ちでしょうか?

前にもRikoが書きましたが、通りの向かい数軒先の家を借りて
いたこそ泥グループについて、時々パトカーが止まって警官が
中に入って行くのを見かけましたが、その警察官にも緊張感は
見られません。 何か途轍もない物を盗んではいないだろうな?
とチェックしているのかと思った程です。

こそ泥なんてのは侵入しやすい家に入るもののようです。 
泥棒が家人に見付かって居直り危害を加えるということも
余り聞かないのは、掴まっても軽罪ですぐに釈放されることを
知っている所為かもしれません。 事実逮捕される場合でも
抵抗しないことのほうが多いようです。 

「生きて虜囚の辱めを受けず」とばかり「徹底抗戦」を貫くと
いうことも無く、アッサリと捕虜になる欧米兵の気風というか、
ルールの違いといったようなものを、こんなところに感じてしまう
のは不謹慎でしょうか。

だからと言って気を許してはいけません。 警察では誰か家に
侵入していると判ったら絶対に家に入らずに警察を呼ぶように
と注意を喚起しています。

それにしても、留守の間とはいえ泥棒に入られるということは、
私たちには何となく薄気味悪い感じがするのですが、如何
でしょう。 そんなことを想定して、もし外出から帰ってきて
家の中に誰か居るのを見たら、私の方が泥棒の振りをして
「友達の家と間違った」と謝って逃げようかな等と考えています。

それともう一つ。 家の中を荒らされたくなかったら、目に付き
やすい所に、お金を置いて「これで家を荒らさないでくれ」と
メモを残しておくと良いと何十年もまえに云われました。
そのころ$50が相場だったようですが、今なら$100か
$200くらいでしょうか。 このアイデアのことをスッカリ忘れて
いました。 泥棒にしても品物を盗んでもいずれ換金しなけ
ればならない筈で、こんな取引の方が有難い筈です。

これで思い出したのですが、30年ほど前の話です。 強盗に
遭った人が金を要求されて持ち合わせがなかったので、
「小切手で良いか?」 と訊いたところ強盗も「仕方がない。
小切手でも良いよ」 と答えたとのこと。 そこで小切手を
切ったわけですが、翌日小切手を書いた被害者が銀行に
支払停止を申し立てたというのです。 この一件が報道された
ときの社会の反応が面白い。 殆んどがこの被害者を非難
する投書だったそうです。

非難の理由は「貴方みたいなことをしたら、今後強盗が小切手
を受け取らなくなってしまう。 折角の安全弁をはずしてしまう
ルール違反である」 というのです。 何となく間の抜けた話の
ようにも聞こえるかも知れませんが、欧米では真面目な考え
なのかもしれませんね。

そんな小切手社会も今ではカード社会に変ってしまいました。
カード社会における強盗対策も考えて置く必要がありますね。

コメントへの返礼がダラダラと長くなって仕舞いました。