Eos5D写真三昧 格安の海外旅行記と国内旅行のすすめ

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いまさら輪るピングドラム

2022年09月15日 03時32分27秒 | 映画
もう11年も前になる作品の感想を今年になって初めて見た。

このアニメに関する解説や考察はネット上には無数にある。それほどこのアニメは、視聴者による解釈の幅が大きい作品であり、ストーリー上に関連する伏線やそうでない伏線なども非常に複雑に組まれた芸術的作品だと思う。このアニメに関して「これはどんな話ですか?」と他人聞かれたら答えに窮してしまう。以下に完全にネタバレを含む感想と個人的な妄想を交えた考察を書く。

 このアニメは表面的には「自己犠牲による愛」をテーマにしているように見える。実際に宮沢賢治の銀河鉄道の夜のテーマは「自己犠牲による愛」がテーマにもみえてしまう。
 しかし私の見方としてはそうではない。本編のアニメにおいて、愛が常に自己犠牲を伴うように勘違いされるのは、愛の行動には常に必死さが伴うからである。自分のことを顧みずに他人に対して必死な状態を、人は「自己犠牲」と表現したりする。
 必死さにも度合いがあり極端な例は命をかけることになるが、こういう例は本来は稀であり、本作品においてもそれを視聴者に推奨しているわけでも規範としているわけでもない。このあたりを誤解していると「神風特攻隊」になってしまう。確かに命をかける必死さが人々の心を打つことは確かであるし、本編にもそれがいくつか描かれている。
 だが本アニメの「ピングドラムを手に入れるのだ」のピングドラムとは、「自己犠牲をともなう愛」ではない。ピングドラムが「愛」であることは確かだ。
 
 アニメに出てくる彼ら(カンバ・ショウマ・ひまり等)は、その必死さゆえに本人が他人に愛を発揮していることに気づくことはない。勝手に体が動いてしまってるのだ。その愛に気づくのはその愛を受け取った人のみであり、実は愛は情報としては一方通行なのである。そしてその受け取った愛は、時と共に忘れてしまったりするが、決して完全に消えることはなく、なにかの拍子に思い出したりするものである。そしてその一方通行の愛を受け取った者は、必ずしもその愛を与えた人間に愛を返すのではなくて、たすきを渡すように自分がかつて受けたと感じた愛を、形は違えども次の人へと受け渡すのだ。(本人は自覚することなく)

 本作において、もっともわかりやすい「ピングドラム(愛)」はカンバからショウマへ渡り、ショウマからヒマリに渡り、ヒマリからカンバに渡るという循環を示しているが、別に愛は閉じた循環だと言っているのではなく、次の人へ受け渡すということである。それはダブルHのヒマリに対する友情や、リンゴのショウマに対する愛情に描かれている。
 このアニメにおいて一番純粋な形の愛は、カンバ・ショウマ・ヒマリが幼児だった頃にある。
 時系列に合わせると、カンバが高倉家に迎え入れられるのは、ショウマにリンゴの半分を渡した後のことである。カンバの実の父親は「お前を選ぶんじゃなかった。私は家族に失敗したよ」というセリフをカンバに投げかけ、カンバは補いようもない絶望感を抱く。焼き場でカンバが絶望感を味わっていた時に、ヒマリが絆創膏をカンバの頬に貼る。カンバはこのときの愛を終生忘れなかった。つまり3人が幼児の頃に、ピングドラムはカンバ→ショウマ→ヒマリ→カンバという循環がなされているのである。
 その後、16歳になったカンバ・ショウマと妹のヒマリが、両親の事件によってバラバラになりそうになったとき、同じようにこの3人の中でピングドラムの循環が起きてフィナーレに至る。

 問題はこの循環は、愛だけでなく呪いも同じく循環することにある。
サネトシ→高倉剣山→カンバという呪いの循環。タブキやユリの高倉家への復讐→ショウマの両親への恨みなども呪いの循環といえよう。
 リンゴの場合は特殊で、モモカに成りきる(呪い)→挫折とショウマの献身→タブキの高倉家の報復(呪い)を見る→完全覚醒→愛を発揮する側へ、という闇から光の道へと見事に転身した。

 呪いと祝福を併せ持つ存在もいる。高倉剣山と千恵美である。二人ともテロ宗教団体の幹部という呪いを持つが、カンバ・ショウマ・ヒマリには愛情を注いでいる。カンバが時々両親との回想(霊と話をする)のが出てきたり、剣山の行動に似てくるのは、特に父の愛情が強かったからである。
 メリーさんの羊の話は、剣山が亡くなった千恵美を外道の方法で生き返らせるというものである。カンバがヒマリを救うためにとった行動は、まさに剣山の生き写しとも言うべきものだ。ストーリー上、サネトシがこの件にかかわっていることは明らかであるが、このアニメが一筋縄でいかないのは、人間の内面的な深い情念を象徴によってあらわしていることにある。つまり、サネトシは本編のセリフで「呪いのメタファ」といっているように、あることを表すための象徴として人物化されているのである。

 したがって、ピングドラムの深層のテーマを掘り起こすためには、この象徴主義を取っ払うことにある。

 では、まず思い出していただきたい。物語冒頭、ヒマリは不治の病に侵されていることから始まるのだが、これもすでに象徴である。ヒマリは両親のテロ事件によって小学校をやめている。ヒマリが退学する学校の校門近くで消しゴムを校舎から投げられるシーンがあるが、この絶望を象徴しているのが不治の病なのだ。この時のヒマリの絶望はどれほどのものだったろう。不治の病と子供ブロイラーの象徴は実は同じものを表しているのだ。

 ひまりはこの時点ではもう忘れてしまったのだが、幼児の頃、親に捨てられ「選ばれないことは死ぬこと」と幼児ながらに達観し、子供ブロイラーにまで赴いたが、ショウマの愛によって救われた。そしてショウマがヒマリを家族にすることでヒマリは初めて安らぎと愛を複数の人から得た。嵐の日に熱を出したヒマリを必死で病院まで抱えていく剣山。トリプルHの撮影に用意するリボンを母がまちがえて倒れる鏡から身を挺して守る千恵美。先生からの連絡を必死で守ろうとして自分の責任だと言い張るダブルH。この頃がヒマリが一番幸せを感じていた時期である。
 しかし、テロ事件を育ての両親が起こしたことをキッカケに事態は急展開を迎え、アイドルの道は閉ざされ、学校からも追われることになり、社会からも白い目で見られることになった。かつて不幸の底から救われたヒマリは、その救われた両親のせいで、再び不幸のどん底へと落ちていく。まさに子供ブロイラーに向かうときのヒマリの心情に近い状況である。これが「不治の病」として象徴的に描かれるのだろう。
 
 ヒマリといえば、プリンセスオブクリスタルである。あの変身する空間も象徴主義であり、ヒマリの心の中を表している。ネオン色をした改札口を抜けると、宇宙空間のなかに光の玉のようなものがあり、そこには時計の針のようなものも見え、さらには雪の結晶が飛び、光の玉を粉々に割れたガラスの破片が取り巻いている。時計の針ということは時空を超えたモノであることを象徴しているから、これはヒマリの深層心理・思い出、または願望・トラウマなどを含んだ心の内と解釈できる。雪の結晶が飛んでいるのは、捨て猫のショッキングな出来事が雪の日だったことを考えるとなんとなくわかるだろう。あの猫にヒマリは自身を重ねていた。ヒマリのペンギンがサンチャンなのも無意識だろうが偶然ではない。しかも捨て猫には赤いリボンがついていたのも、後のトリプルHでのリボンに重なるものがある。
 この変身シーンは受精をイメージしており、生まれてきたのが白と黒の熊のぬいぐるみである。白にはプリンセスオブクリスタルが、黒にはカンバとショウマがいて、いつもお約束のようにショウマは退場させられる。白黒というのは、この物語では光と闇を表しており、カンバが闇側に立っているのも物語の展開を考えれば頷けるし、ショウマが退場させられるのも闇堕ちしなかったからともいえるかもしれない。
 ただ、別の見方もできる。ヒマリにとってショウマは運命の人であったが、ショウマはヒマリの好意に答えられはしなかった。その恋は実らなかったわけである。だから退場なのかもしれない。そしてプリクリがガンバから赤いピングドラムのようなものを奪い取ったシルエットのシーンは、いわゆるサネトシがいうところの「キス」なのだろう。消費されてしまう「キス」なのだろう。だから電池切れが起こるのである。つまり救済にならない。
 あと、プリクリのコスチュームがそもそもデビューしたダブルHの衣装であることは、エンディングの画面をみれば一目瞭然である。エンディングの画面は「実際には訪れなかった、ヒマリの夢・願望」であり、小学生の発想らしく、EDでは3人はアイドルでありながら子供っぽい縦笛とピアニカを吹いていたりタンバリンを持っている。

 さて、次の象徴はサネトシとウサギである。
「僕は呪いのメタファ」と本人がネタバレしている。
 実は、幼児の頃の親に捨てられたヒマリはショウマと初めて会ったときに、クマのぬいぐるみを持ち、そしてウサギのスリッパを履いていた。その2つのアイテムは捨てた親から与えられたものである。
 クマとウサギはこのアニメのいたるところで登場する。サネトシはいつも黒ウサギと共に登場するし、テロで使われる爆弾もクマのぬいぐるみである。

 そう考えると、キガの会のペンギンマークが白黒になっているのも読めてくる。高倉剣山は、光と闇を併せ持つ人物であった。社会に対してはテロ組織のメンバーで闇の者だが、家庭では子供を愛する光の存在だった。

 モモカが2つのペンギンの被り物に変化し、サネトシが2匹の黒兎に変化しているのも、おそらくそのあたりを象徴しているのだろう。

 このあたりの考察はすでに妄想レベルになっているのだが、この作品が非凡なのは、すべてのシーンの意味を解明できない点にあり、それぞれの視聴者による解釈の幅を深く設定していることにある。

 最後に音楽的な演出として、本作品では「運命の子たち」という音楽が頻繁に使われている。そのなかでカンバ・ヒマリ・ショウマの家族がバラバラになっていく21話では、この運命の子の旋律が主旋律と伴奏に分解される。21話でカンバとショウマが殴り合いの喧嘩をするシーンで流れる「運命の子たち」のテーマは伴奏だけである。カンバが爆弾で記者を爆破するシーンも伴奏だけ。ショウマが家族ゴッコをやめるとヒマリにつげて、ヒマリとの別れのシーンのときに流れるときの曲は主旋律だけである。さらに23話でリンゴの持っている本をカンバが炎で焼いてしまうシーンも伴奏だけ。
 繋がっていた家族と友人がバラバラになっていく様を音楽的にも同様にバラバラにしていき、それが24話のフィナーレで完全な旋律として感動的にあらわれる。このあたりの細かい演出には本当に感動した。