かつてのアメリカの花形産業の自動車大手三社が、倒産の瀬戸際にある。
短期的な儲けをねらった経営手法のツケが、極大に達しつつある.
今日は、「アメリカ格差社会」の基本構造を、シカゴ交響楽団の演奏の中に聴いてみよう。
アメリカの主産業と言われた自動車産業が、危機に陥っている。 原因は、製品の不良・不具合が多く、次第にヨーロッパ車、日本車、韓国の製品に取って代わられようとしているからだ。技術的に高いものをもっていても、製品の品質に生かせないアメリカ。 彼らの物を生産する人間への概念・考え方、哲学の歪みが、製品に現れているのではないだろうか。 アメリカの工場では、お偉方と末端労働者は、食堂や休憩室からして別になっている。ふかふかの絨毯を敷いたお偉方の区画と、労働者用のみすぼらしい区画では、別世界だ。 アメリカは階級社会の国なのだ。
.筆者は、十年ほど前、シカゴのシンフォニーホールで、その階級社会の一端を、垣間見る機会があった。
シカゴシンフォニーホールの前で、天井桟敷席の切符($.35)を買う行列に並ぶと、席は空いているらしく、席選びでなかなか進まない。列の末尾に並んでいると、道行く市民が、次々に声をかけてくる。
「 Are you going to High Society ? 」 若いアフリカ系OLのお姉さんが、あんた、何考えてるのよ? という感じで諭すように、何度も聞いてくる。 「えっ?、上流階級ですって??」と、きょとんとしていると、中年のおっさんが、「せっかくアメリカに来たのだから、もっとくだけたのを聴いていけよ! 」 と気の毒そうに勧めてくる。 「シカゴ交響楽団は、そんなにコチコチの演奏をするのかい?」 と問うと、まあ聞けば分かるよと、肩をすぼめる。 「そんなもなあ~、ヨーロッパへ行って聞け。」という親爺もいた。。
さて、シカゴ市民たちの助言の真意を理解せぬまま、夕方、シンフォニーホールへ行くと、リムジンがたくさん到着している一角があった。記念にそこから入場を試みたが、中は、正装した人々がシャンデリアの下で、優雅に談笑している。 おお!、ここはよれよれの恰好で、来るところではない。 貴賓席客用ロビーだ。 つまみ出されないうちに、普通席用の簡素なロビーから、最上階の「外野席」に向かうと、な、なんと、客席に大きな動物がいた。でかい犬だ。 盲導犬かい?と聞くと、ペットだという。 日本人はみんな同じ事を聞くのよね。犬といっしょにクラシックを聞いていたら、犬も音楽好きになったという。 幸い私の席は、犬からやや離れていた。客の入りは七分。
さて、一曲目は、珍しい事に、金管楽器のアンサンブル。OBの追悼演奏だという。高校の時に音楽室にあった同交響楽団の金管アンサンブルのレコードに収録されているのと同じ曲だったが、往時の華やかさはない。
二曲目は、亡命ロシア人作曲家 カンチェリのバイオリン協奏曲。 バイオリン独奏は、マエストロ ギドン クレメルだ。本日のメインだ。 が、曲は全音符ばかり。 ありゃ! バイオリンソロは、ほとんどボーイングだ。旋律らしきものも無く、陰鬱な和音のpppから∬∬の弩級のクレシェンド<と、デクレシェンド>だけの珍作だ。 犬も腹を上に向けて寝てしまった。 演奏後、ベルギーから呼び出された作曲者本人が、壇上に上がり、拍手を受けている。 天井桟敷席では、ジューだ。ジュ-だと、拍手は希薄だが、貴賓席からは熱烈な拍手が送られている。
最後は、ブラームスの交響曲。が、なんと先ほどの曲の後奏曲のような味付けで、実にあっさりと無感動に演奏している。さすがの私もこんなブラームスは聞いたことがない。ひいきの作曲家の曲が引き立つように、名曲をわざと手抜きして弾いているのが、素人耳にも聞き取れた。
入場券を買う時の道行く市民の忠告の意味が、ようやく理解できた。歪んだ音楽会だ。指揮者の D バレンボイム も、天井桟敷席では不評だ。 「カラヤン気取りで、アンコールなしかよ。。。」などと不満そうに席を立って行った。市民の評も鑑みるに、アメリカの哀歌を聴いた思いだ。
シカゴでは、公共施設での催しさえ、ごく一部の富裕層の自己満足のために、歪められ、独占されている。 自分たちの民族の音楽は、感動的に演奏させ、他民族の音楽はやや手抜きさせ、引き立て役に設定している。 貧民席は、動物といっしょだ。。。。
おそらくは、アメリカの産業界も似たような構造で、製造現場を例にとれば、少数のエリートが、労働者の待遇をおとしめることで、相対的に優越感を味わう場所と位置付けているのではないだろうか? いわゆる、古い時代の階級社会そのものだ。
こんな構造で良い製品が出きるはずはないし、良い社会など実現は無理だ。当然、格差社会の登場となる。 日本も、小泉改革とやらで、アメリカ流の経営が導入されてから、社会の治安は崩れ、製造現場も荒廃しつつある。
まさかのビッグスリー倒産瀬戸際の哀歌だが、日本の花形企業の明日の姿かもしれない。
-ご参考-
・ D バレンボイム 「 音楽に生きる~バレンボイム自伝 」 1994年
・ ギドン クレーメル 「 琴線の触れ合い 」 1997年 音楽之友社刊.
短期的な儲けをねらった経営手法のツケが、極大に達しつつある.
今日は、「アメリカ格差社会」の基本構造を、シカゴ交響楽団の演奏の中に聴いてみよう。
アメリカの主産業と言われた自動車産業が、危機に陥っている。 原因は、製品の不良・不具合が多く、次第にヨーロッパ車、日本車、韓国の製品に取って代わられようとしているからだ。技術的に高いものをもっていても、製品の品質に生かせないアメリカ。 彼らの物を生産する人間への概念・考え方、哲学の歪みが、製品に現れているのではないだろうか。 アメリカの工場では、お偉方と末端労働者は、食堂や休憩室からして別になっている。ふかふかの絨毯を敷いたお偉方の区画と、労働者用のみすぼらしい区画では、別世界だ。 アメリカは階級社会の国なのだ。
.筆者は、十年ほど前、シカゴのシンフォニーホールで、その階級社会の一端を、垣間見る機会があった。
シカゴシンフォニーホールの前で、天井桟敷席の切符($.35)を買う行列に並ぶと、席は空いているらしく、席選びでなかなか進まない。列の末尾に並んでいると、道行く市民が、次々に声をかけてくる。
「 Are you going to High Society ? 」 若いアフリカ系OLのお姉さんが、あんた、何考えてるのよ? という感じで諭すように、何度も聞いてくる。 「えっ?、上流階級ですって??」と、きょとんとしていると、中年のおっさんが、「せっかくアメリカに来たのだから、もっとくだけたのを聴いていけよ! 」 と気の毒そうに勧めてくる。 「シカゴ交響楽団は、そんなにコチコチの演奏をするのかい?」 と問うと、まあ聞けば分かるよと、肩をすぼめる。 「そんなもなあ~、ヨーロッパへ行って聞け。」という親爺もいた。。
さて、シカゴ市民たちの助言の真意を理解せぬまま、夕方、シンフォニーホールへ行くと、リムジンがたくさん到着している一角があった。記念にそこから入場を試みたが、中は、正装した人々がシャンデリアの下で、優雅に談笑している。 おお!、ここはよれよれの恰好で、来るところではない。 貴賓席客用ロビーだ。 つまみ出されないうちに、普通席用の簡素なロビーから、最上階の「外野席」に向かうと、な、なんと、客席に大きな動物がいた。でかい犬だ。 盲導犬かい?と聞くと、ペットだという。 日本人はみんな同じ事を聞くのよね。犬といっしょにクラシックを聞いていたら、犬も音楽好きになったという。 幸い私の席は、犬からやや離れていた。客の入りは七分。
さて、一曲目は、珍しい事に、金管楽器のアンサンブル。OBの追悼演奏だという。高校の時に音楽室にあった同交響楽団の金管アンサンブルのレコードに収録されているのと同じ曲だったが、往時の華やかさはない。
二曲目は、亡命ロシア人作曲家 カンチェリのバイオリン協奏曲。 バイオリン独奏は、マエストロ ギドン クレメルだ。本日のメインだ。 が、曲は全音符ばかり。 ありゃ! バイオリンソロは、ほとんどボーイングだ。旋律らしきものも無く、陰鬱な和音のpppから∬∬の弩級のクレシェンド<と、デクレシェンド>だけの珍作だ。 犬も腹を上に向けて寝てしまった。 演奏後、ベルギーから呼び出された作曲者本人が、壇上に上がり、拍手を受けている。 天井桟敷席では、ジューだ。ジュ-だと、拍手は希薄だが、貴賓席からは熱烈な拍手が送られている。
最後は、ブラームスの交響曲。が、なんと先ほどの曲の後奏曲のような味付けで、実にあっさりと無感動に演奏している。さすがの私もこんなブラームスは聞いたことがない。ひいきの作曲家の曲が引き立つように、名曲をわざと手抜きして弾いているのが、素人耳にも聞き取れた。
入場券を買う時の道行く市民の忠告の意味が、ようやく理解できた。歪んだ音楽会だ。指揮者の D バレンボイム も、天井桟敷席では不評だ。 「カラヤン気取りで、アンコールなしかよ。。。」などと不満そうに席を立って行った。市民の評も鑑みるに、アメリカの哀歌を聴いた思いだ。
シカゴでは、公共施設での催しさえ、ごく一部の富裕層の自己満足のために、歪められ、独占されている。 自分たちの民族の音楽は、感動的に演奏させ、他民族の音楽はやや手抜きさせ、引き立て役に設定している。 貧民席は、動物といっしょだ。。。。
おそらくは、アメリカの産業界も似たような構造で、製造現場を例にとれば、少数のエリートが、労働者の待遇をおとしめることで、相対的に優越感を味わう場所と位置付けているのではないだろうか? いわゆる、古い時代の階級社会そのものだ。
こんな構造で良い製品が出きるはずはないし、良い社会など実現は無理だ。当然、格差社会の登場となる。 日本も、小泉改革とやらで、アメリカ流の経営が導入されてから、社会の治安は崩れ、製造現場も荒廃しつつある。
まさかのビッグスリー倒産瀬戸際の哀歌だが、日本の花形企業の明日の姿かもしれない。
-ご参考-
・ D バレンボイム 「 音楽に生きる~バレンボイム自伝 」 1994年
・ ギドン クレーメル 「 琴線の触れ合い 」 1997年 音楽之友社刊.