鎌倉街道は、崖上や尾根を通っていることが多いので、あり得るとすれば、市川用水が流れている北側、崖上、南武線が通っているあたりだろうか。今となっては、よくわからない。少なくとも、明治時代初め頃ごろの地図によると、江戸時代には、南北に伸びる鎌倉街道は、甲州街道までは、残っていて、すでに、いまの、分梅駐在所交差点から、府中までの枝道は、あったようだ。さらに言えば、江戸時代、甲州街道の整備により、府中は府中宿、宿場町として、再び、地域の中心となったらしい。
(2013年12月記)
(2013年12月記)