伝説の歌番組・夜のヒットスタジオを語る

伝説の音楽番組「夜のヒットスタジオ」の22年間の足跡を通じて、日本の歌謡界が最も輝いていた時代を振り返ります。

【改訂版】歌謡曲黄金時代と夜のヒットスタジオ-曲目リスト(56-2) 1978年1~2月②

2008-08-01 | 夜ヒット/曲目(改訂・増補版) 77~78年

<1978年1月30日(第482回)>
■沢田研二による番組史上に残る名シーン、「『サムライ』・畳バージョン」放送。
キャンディ 原田真二
 詞:松本 隆 曲:原田真二 R:77/11/25 HC:10位 BT:5位
◆年間チャート(78年)48位(26.4万枚)
◆TBS系「ザ・ベストテン」年間ランキング(78年)48位
・沈丁花 石川さゆり
 詞:東海林良 曲:大野克夫 R:78/01/01 HC:19位
サムライ 沢田研二
 詞:阿久 悠 曲:大野克夫 R:78/01/21 
 HC:2位 BT:1位(78/02/23-03/16)
◆年間チャート(78年)13位(52.2万枚)
◆TBS系「ザ・ベストテン」年間ランキング(78年)4位
<楽曲について>
10thアルバム「思い切り気障な人生」(77年11月リリース)からのシングルカット。尚、同アルバムに収録された楽曲はすべて阿久・大野・船山基紀のトリオが詞・曲・編曲を担当している。
②シングル発売当初は、ハーケンクロイツ(右卍マーク、戦前・戦中にかけてナチスドイツの紋章として使用されており、現在でもドイツ国内では戦争犯罪の反省の観点から公の場での使用を禁止している)の腕章を皮のジャケットの上に身につけて(衣装自体もナチス親衛隊員が着用していた戦闘服をモチーフとしたものといわれている)テレビの歌番組では同曲を披露していたが、その後、このマークの使用を巡り物議を醸したことから、途中から腕章のマークは×印に変更された。
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(■この回のヒットスタジオでの同曲の歌唱シーンについては、「夜ヒット・名シーン/沢田研二『サムライ』」(07年1月6日更新分)を参照の事。)
酒と泪と男と女 河島英五
 詞・曲:河島英五 R:76/06/25 HC:9位
<楽曲について>
76年、河島が当時活動拠点としていた京都の大手酒造メーカー「黄桜酒造」のCMソングに採用されたのをきっかけにヒット。翌77年には、萩原健一もシングル「前略おふくろ」のB面曲としてこの曲のカバーバージョンを吹き込んだほか、ちあきなおみ、八代亜紀らも自身のアルバムで同曲をカバーしている。
②河島が逝去した2001年のNHK紅白歌合戦では、長年の親友でもあった堀内孝雄が、生前の河島本人の歌唱映像との「デュエット」でこの曲を涙ながらに熱唱、このシーンは「天国との共演」とも称され、近年の紅白の中でも屈指の名シーンとして高い評価を得ている。
<河島英五>
①1952年、大阪府出身。高校時代より、当時所属していたバスケット部の仲間たちと共に4人組のフォークグループ「河島英五とホモ・サピエンス」を結成し、アマチュアミュージシャンとして音楽活動を開始。1975年、シングル「何かいいことないかな」、アルバム「人類」で同グループはレコードデビューしたものの、76年、セカンドアルバム「運命」を発売した直後にて解散。その後ソロミュージシャンとして京都を拠点として活動を開始し、同年、酒造メーカーのCFソングとして採用された「酒と泪と男と女」が息の長いヒットとなり、河島の名を全国区に押し上げた
②その後も、全国各地のライブハウス・コンサートホールでのライブを中心に精力的な活動を展開。また、インド・ペルー・ネパールなどへ単身で長期の放浪の旅に出かけ、各地で受けた音楽的影響の集大成として、80年には10~12月にかけてアルバム「文明」3部作を立て続けに発表85年には「野風増」(橋幸夫がこの年にカバー版をシングルとして発表している)、翌86年には「時代おくれ」を発表、歌詞内容から主に中高年世代の愛唱歌として親しまれ、「酒と泪と―」と並ぶ河島の代名詞的作品となった。また、国内のコンサートでは、都市部よりも地方部・山間部を重視したツアーを敢行。四国お遍路参りの旅を兼ねたツアーや、オードバイによるツーリング旅行を兼ねたツアーなど、意表を付いたライブツアーを展開、この地域密着型のライブ形態は彼の根強い人気の下地を築く礎となった。
③その後も、95年からは阪神大震災復興チャリティーコンサート「復興の詩」の総合プロデュースを担当したり、朝の連続テレビ小説「ふたりっ子」「ぴあの」(ともにNHK総合)などで俳優としても活躍、在阪ラジオ局でもパーソナリティーを務めるなど、マルチな活動を展開していたが、長年患っていた肝臓病が悪化、2001年、愛娘の結婚を見届けて、48歳の若さで逝去した。

<1978年2月6日(第483回)>
・帰って来たよ 新沼謙治
 詞:山口あかり 曲:平尾昌晃 R:78/02/10
・港の忘れ草 内山田洋とクールファイブ 
 詞:山田孝雄 曲:浜 圭介 R:77/12/05 HC:76位
・面影平野 藤 圭子
 詞:阿木燿子 曲:宇崎竜童 R:77/11/05 HC:78位
・いとしのロビン・フッドさま 榊原郁恵
 詞:藤公之介 曲:馬飼野康二 R:78/01/01 HC:18位
・い・に・し・え 日暮し
 詞・曲:武田清一 R:77/11/25 HC:14位
日本テレビ系ドラマ「恋歌」主題歌
<日暮し>
 73年、山田パンダの仲介により、RCサクセションの前身バンドである「THE REMAINDERS OF RHE CLOVERS」の一員であった武田清一を中心に結成された、男性2人、女性1人編成のフォークグループ。79年に解散した後、ボーカルであった榊原尚美は「杉村尚美」と改名して、81年春にソロ歌手として「サンセット・メモリー」をヒットさせている。


<1978年2月13日(第484回)>
・のれん 都はるみ
 詞:遠藤幸三 曲:四方章人 R:78/02/01
花しぐれ 高田みづえ
 詞:松本 隆 曲:都倉俊一 R:78/03/05 HC:10位 BT:8位
◆TBS系「ザ・ベストテン」年間ランキング(78年)47位
◆第29回(78年)NHK紅白歌合戦出場曲(2回)
あんたのバラード 世良公則&ツイスト
 詞・曲:世良公則 R:77/11/25 HC:6位 BT:6位
◆年間チャート(78年)25位(43.5万枚)
◆TBS系「ザ・ベストテン」年間ランキング(78年)37位
◆第6回(77年)世界歌謡祭グランプリ受賞曲
◆第14回(77年下期)ヤマハポピュラーソングコンテスト グランプリ受賞曲
◆第29回NHK紅白歌合戦出場曲(初)
<世良公則&ツイスト(ツイスト)>
①ボーカルの世良公則と、ドラムスのふとがね金太を中心として77年に結成。同年、世良が詞・曲を手掛けた「あんたのバラード」がヤマハ・ポプコン、そして世界歌謡祭でグランプリを受賞し、同曲でレコードデビュー。洋楽の影響を強く受けたフォーク音楽が人気を博していたこの当時の時代にあって、世良の迫力のあるドスの利いたボーカルが人々に衝撃を与え、同曲はデビューシングルながら、オリコン週間チャート最高6位、年間チャートでは総合25位にランクインする大ヒットを記録し、一躍人気バンドの仲間入りを果たす。その後も、「銃爪(ひきがね)」「燃えろいい女」などが立て続けに大ヒット、同時期にデビューしたChar、原田真二と共に「ニューミュージック御三家」の一角を成し、それまで日本の歌謡界では「不良の音楽」として敬遠されがちであったロックミュージックの大衆化に強い影響力を発揮した(この点から、同バンドを「日本のロックをメジャーにした先駆者」と評する向きもある)。
②80年、独立事務所を設立して以降はメンバー間の音楽性の相違などが表面化、人気にも翳りが生じるようになり、翌81年末、ラストシングル「SET ME FREE」をリリースして、約4年に及ぶ活動に終止符を打った。その後、ボーカルであった世良は、ソロのミュージシャンとしての活動の傍ら、後に人気刑事ドラマ「太陽にほえろ!」での熱演ぶりを契機に俳優業にも進出、映画「極道の妻たち」(東映)、「Wの悲劇」(角川春樹事務所)、NHK朝の連続テレビ小説「チョッちゃん」などの話題作にも数多く出演し、役者としても一定の評価を確立してゆく。
・哀しみ通せんぼ 大塚博堂
 詞:るい 曲:大塚博堂 R:78/02/05
<大塚博堂>
①1944年、大分県出身。東洋音楽大学中退後、地元に戻り、音楽喫茶やナイトクラブでジャズシンガーとして活動していたところを、渡辺プロがスカウトし、72年に「大塚たけし」の芸名で、シングル「自由に生きてほしい」でデビュー。この旧芸名時代にはこの「自由に―」を含め、シングル2枚をリリースするも何れも不発。仕事もほとんどゼロに近い状態となり、再びナイトクラブ等での弾き語りの仕事を中心に生計を立てる不遇の日々を過ごす。
②しかし、地道な下積みが功を奏し、76年、32歳のときにシングル「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」で再レコードデビューを果たす。その後はライブ活動を中心に展開(この当時、大塚は年間100本以上ものコンサート日程を毎年消化していたという)、抜群の歌唱力、広範な音域で悲恋をテーマとした作品を歌い上げるその姿は「愛を歌う吟遊詩人」との異名を取り、彼のコンサートには毎回、彼の音楽センスに魅了された女性ファンが数多く詰め掛けた。
③他方、「めぐり逢い紡いで」「哀しみ通せんぼ」などといった自身のオリジナル作を藤公之介、るい(※当時、大塚のマネージャーを務めていた小坂洋二が作詞時に使用していたペンネーム)らとのコンビで製作する傍ら、彼の高い実力が業界内でも評判を集め、布施明・ペギー葉山・小野寺昭・桃井かおりら他の歌手にも作品を提供する機会に恵まれるなど、意欲的な創作活動を展開。更なる活躍を期待されていた矢先の81年5月、脳内出血のため37歳の若さで急死した。彼の没後、往時のファンや関係者が中心となって、故郷・大分を初め、名古屋・東京・札幌など全国各地で追悼イベントが催され、その早すぎる死を悼んだ。

【司会】 芳村真理・井上 順

(参考)この頃の主な出来事
・02/04 東京大学宇宙航空研究所、オーロラ観測衛星「きよつごう」の打ち上げに成功。
・02/11 「建国記念の日」を記念して、総理府(現・内閣府)後援により初めての「奉祝式典」が催される。社会党・共産党ら反対派は全国各地でこの式典に対する抗議集会を開催。