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利休の茶室日記

侘び寂びを求めて、何を思う

心に訴える

2007-12-07 | 高齢社会
野球五輪予選で星野ジャパンが優勝した。
当たり前のように思うが一つひとつの試合の流れをみると
過去に日本で活躍した人が率いる韓国、台湾チーム
決して勝って当然という相手ではない。

今日のTBSラジオのパーソナリティの星野監督評によれば
「心に訴える男・星野」ということらしい。
それを支える緻密な計算と計画

同感である。

職場の日常の中でも
正当化するあまり相手の心を蔑ますことが多い。
自分は満足するが、相手には不満がつのる。

同じチームで同じ目的に向かうとき、それは致命傷となる。
恐怖政治で上から押し付けるやり方が通じる時代ではなくなった。
もちろんそれを拒絶してきた自分自身のトラウマも存在している。

「心に訴える」という熱い想い
聞く人に「ウザイ」と思わせない緻密な理論
相手を思いやる心
そして謙虚で感謝の心

ラジオが伝える情報は脳を刺激する


今年の話題

2007-12-02 | 高齢社会
12月に入り、「今年流行ったもの」、「今年売れたもの」などという話題が流れてくる。いつも同じことを言うが時間の流れをはやく感じる。

私の今年の話題は?


謝り方

2007-11-30 | 高齢社会
ニュースでは毎日のように謝罪報道がある

永六輔さんもラジオで「謝り方」の是非を問う
その話を聞きながら思う

謝罪の前にある「言い訳」
その後、矛盾を指摘され、「言い訳」が通らなくなり
やっと謝罪に至る感じがする

謝罪する時には、自分自身を正当化しないこと
そうしようと思うとき、「言い訳」がでる

真に過ちを受容していないからこそ出る「言い訳」

難しいことである

手紙と電話

2007-11-16 | 高齢社会
遠くの老人ホームで暮らす方へ手紙を書いた

インターネットのメールではコミュニケーションがとれない時の手紙
しっかりと伝えなければならないときの手紙
思いを包み込んで送りたいときの手紙

めずらしく万年筆を使い、その書き心地を確認しながら筆を走らせた
走馬灯のように、遠くの老人ホームでともに暮らした日々がよみがえってくる
その記憶を手紙に書き記す、
封筒にゆっくりと宛名を書き封入、そして時々買い集めている切手を貼り投函

手紙の返信は電話
筋肉の力が弱り、筆を持つこともままならない
だから電話
その時、ゆるやかに時間の流れがかわる
電話の向こうで一言一言ゆっくりと話されている
たぶん、その電話も大変な体力を有する作業だろう
「ありがとうございます」
「お体は大丈夫でしょうか」と
いつも感謝と心遣いをいただく

私が元気づけようと思っているのに、逆に元気をいただくのだ

与えることよりも、与えられること
人と人との関わり方の真髄なのかもしれない

今、どう判断するか?

2007-11-07 | 高齢社会
制度とニーズのはざまで悩む

ニーズに向き合うことが大切なことであることは分かっているが
制度に反するとき、どう判断するか

何をするべきか

ちょっと先を見据えること
今日は多くの人に批判されるけど、明日になればわかってくれる
福祉はその繰り返しだった
そこに普遍の真理が存在し、私のミッションにすることができるならば
信じて進む勇気を持ちたい

道標
外山先生だったらどうしただろう

相談相手、議論する仲間の存在
客観的な視点

アイデンティティ


何をするべきか

2007-11-06 | 高齢社会
遠くの友人から、
共通の知人である高齢の方が「この冬を越せるか」と言い出したと連絡をいただいた
友人は寄り添うことで自分の行動を示したいという

さて私は何をするべきか
あまり時間がないかもしれない
一人の人生を敬うために
私自身が後悔しないように精一杯向き合いたいと思う


目線

2007-10-31 | 高齢社会
目線を合わせる
目線は下から
などとよく言われる

実はその方法は奥が深いと思って日々過ごしている
目線は姿勢も変えるし、言葉遣いも変える
そして相手へ与える印象に大きく影響している
ただし一番大切なことは自分自身の「心」が変わることだ


高齢者と接するときは謙虚になれる
子どもと接するときは優しくなれる

だから元気な人と接するときも
目線は水平から下

私の自分との約束事

ガラスの心

2007-10-18 | 高齢社会
ボクシング反則行為で制裁を受けた亀田大毅
朝青竜と同じように、貝のように口を閉ざした

試合前の言動、パフォーマンスの姿とのギャップに戸惑う
本物の悪役ではなく、まだまだガラスの心の子どもだったのかもしれない

謝罪の仕方を知らない親とのかかわりの中で、他人を思いやる心が育っていないように思える

あえて「ガラスの心」という表現をしたが、これも「脳」の問題なのだ
しかし「ガラスの脳」ではぴんとこない

言葉という文化


再会

2007-10-17 | 高齢社会
古い友人が訪ねてきてくれた
「何年ぶりだろうね、3年?」
「そんなに経ったかな?」

たまにメールで情報交換しているせいか、久しぶりなのにそんな気がしてこない
付き合いとは会うことだけではないと思う
しかしその反面、会わなければ分からないこともたくさんあった
「お互い歳をとったね」
しかしそう感じるのも、最初の一瞬
友人は、古い友人となる

「じゃあ、また」

おそらくそう言ってまた3年の月日が流れるかもしれない
そういう友人も大切だと思う