世界を一変させた!?神が作りし伝説の古代兵器6選!
https://www.youtube.com/watch?v=gsIOqVjwsVk&list=RDCMUCXM7fTTMOpJCJ5B_Z5jtVTg&index=3
アメリカを正しく認識する 建国までの歴史概略-4 黒人奴隷制の確立
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/f1b23e4328380344826c0481be66dded
からの続き
チェサピーク湾地域における信仰の自由
メリーランドは、同じチェサピーク湾に建設された大土地所有制に基づく奴隷制タバコ植民地として、経済史的にはヴァージニアと一括して通常論られるのが一般的です。
しかし、政治史的には特筆すべきものがあります。 この植民地は、1632年、チェサピーク湾沿岸のポトマック川以北の地域に、カトリック教徒の若き二代目ボルティモア卿セシリウス・カルヴァートに特別許可された領主植民地として建設されました。
当時、すでにカトリック教徒はイギリス国教会の支配体制下で少数派の立場にあったので、彼らのための安住の地となることが期待されていました。
しかし、カトリック教徒領主の支配下にあっても住民の圧倒的多数はプロテスタントだったので、新教徒諸派も早くから信仰の自由を享受しました。
また18世紀に入ると、ペンシルヴェニアを経由して、長老派のスコッチ・アイリッシュやドイツ系移住者が南下し、メリーランドからさらにヴァージニア奥地にまで達しました。
その結果、独立革命前夜までにはチェサピーク沿岸植民地域全体の白人人口の民族文化的構成が多元化しました。
この人口の多元化が、王領植民地ヴァージニアにおける『英国国教会』の支配力を低下させることになります。
1730年代から1740年代にかけての『第一次覚醒運動』にも触発されて、『長老派』や『洗礼派』の影響が力が強まり、本国から派遣された英国教会牧師』の俸給のための『課税』に対する反対闘争が激化しました。
当時、英国教会の牧師職自体がしばしば利権として政治的闘争の的になっていました。 特権階級化した英国教会牧師たちは、広大な領域に散在して住んでいる住民の一人一人の魂の救いのための努力を怠っていました。
こうして、最も戦闘的な繁栄闘争の闘士、スコッチ・アイリッシュのパトリック・ヘンリー、熱烈な信教の自由の擁護者、トーマス・ジェファーソンやジェームス・マディソンが独立革命中、この植民地から登場することになります。
(関連情報)
・アメリカを正しく新式する 建国までの歴史概略-1 女王陛下の植民運動とヴァージニアの建設https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/9477875a78a94afcd5f08158083492c9
・アメリカを正しく認識する 建国までの歴史概略ー2 イギリス植民者の食糧涸渇と餓死
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/9477875a78a94afcd5f08158083492c9
・アメリカを正しく認識する 建国までの歴史概略-3 貧しい白人・年季奉公人とインディアン
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/876574644b25092fa9be15eb65af9d96
・アメリカを正しく認識する 建国までの歴史概略-4 黒人奴隷制の確立https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/f1b23e4328380344826c0481be66dded
アメリカを正しく認識する 建国までの歴史概略-3 貧しい白人・年季奉公人とインディアン
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/876574644b25092fa9be15eb65af9d96
からの続き
黒人奴隷制の確立
ベーコンの反乱に見られたインディアンからの土地収奪の要求は、人口増加と社会階級の固定化がもたらす白人間の社会問題を緩和する可能性を示しました。
しかし、これは土地集積を拡大しつつあった大土地所有者たtにとては、新たな労働力供給減を必要とすることになります。
ところが、王政復古後の1660年頃から、本国からの移住が急速に減少しました。代わって、黒人奴隷人口の流入が始まります。 1640年、ヴァージニアの黒人人口はわずか150人に過ぎず、しかも彼らのすべてが奴隷だった訳ではありません。
また奴隷の法制上の規定も確立しておらず、一定期間とはいえ強制労働の義務を背負っていた白人奉公人との社会的身分上の違いも、必ずしも明瞭ではありませんでした。
しかし、1661年には奴隷制を確認する法律が生まれ、英本国商人のアフリカ奴隷貿易参入が活発化し、ヴァージニアの黒人、人口は1680年には3000人に増加し、1704年には白人人口7万5600人に達しました。
翌1705年のヴァージニア奴隷法は、この植民地における奴隷法の集大成とまなされており、ここに黒人奴隷制南部社会の原型が確立されます。
その後、黒人人口は増え続け、独立直後1790年の第一回国税調査によれば、合衆国総人口393万人のうち70万人が黒人でした。
そのうち30万人がヴァージニア州に住んでおり、メリーランド、ノースカロライナ、サウスカロライナにそれぞれ約10万人づつ住んでいました。
しかし、長い間辺境のちとみなされ、1733年五なって公式に植民地として建設されたジョージアには、まだこの時点では3万人弱の奴隷しかいませんでした。
(関連情報)
・アメリカを正しく新式する 建国までの歴史概略-1 女王陛下の植民運動とヴァージニアの建設https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/9477875a78a94afcd5f08158083492c9
・アメリカを正しく認識する 建国までの歴史概略ー2 イギリス植民者の食糧涸渇と餓死
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/9477875a78a94afcd5f08158083492c9
・アメリカを正しく認識する 建国までの歴史概略-3 貧しい白人・年季奉公人とインディアン
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/876574644b25092fa9be15eb65af9d96