物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

20200815 若狭

2020-08-19 | 行った所

若狭上中ICで舞若道を降り、北へ。田烏(たがらす)トンネルを抜けるとすぐ田烏の海だ。


田烏で鯖を食べる。

田烏から一つ西の漁村、矢代へ向かう。


矢代でクルージングだ。と云っても6人乗りのモーターボート、屋根も何もない。出た時には曇っていたのに、今では雲一つないカンカン照り、直射日光が肌に痛いほどだ。船はワンクルーズ1万円、船頭一人に客は5人まで乗れるが、一人でも二人でも船は出る。時間も乗りたい人がいたら出す、とフレキシブルだ。

若狭湾は越前岬から丹後半島までの非常に大きな湾口だが、その中に敦賀半島、常神半島など大小様々な半島が入り組み、複雑な地形を形成している。矢代湾は黒崎半島と内外海半島に抱かれる湾だが、その中に更に岬と湾があり、田烏・矢代・志積などそれぞれ港になっている。


沖の石は矢代湾の入口近く、かなり大きな岩礁で、潮干に見えね、とは言いながら海上に姿を見せている。ただ、季節天候により現われ方は違うようだ。釣り人を乗せてくることもあるそうだが、客がどうしてもというならともかく地元の人は勧めないそうだ。海が少し荒れても波をかぶり危険だそうだ。ここまで矢代港から飛ばしてきた船で約20分。
この石は航行する船にとっても危険だ。夜など気が付きにくいだろう。だからここで難破する船は多かったそうで、「わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾く間もなし」は二条院の讃岐「姫」がここで船が沈んだ人たちを悼んで作った歌だと船頭は言うのだ。確か「石に寄する恋」という題詠だったと思うから絶対違うと思うけれど、そんな解釈もあるのかと驚いた。
田烏の南の山に山城があり、それも頼政の城だという。ほとんど怪しい。本当に山城があるとしたらたぶん戦国の山城だ。頼政にはここで合戦の用意をする必要もなかったはずだ。しかし、ここには頼政への敬意と親しみがある。鵺退治の物語も矢代の名に掛けた話に変じ、今も伝わる。この辺近くに頼政が所領を持っていたことだけは確かだが。

 玖須夜岳、右に小さく岩が見える。老人礁と云って漁業権の境の目印だそうだ。

 沖の石の向こうに常神半島が見える。

 田烏方面

沖の石橋と棚田が見える


矢代を出て宮川へ向かう。矢代と背中合わせの南側のはずなのだが、道がないのだ。そんなはずは・・と思うが、少なくとも車の走れる道は、本当にないのだ。


田烏から南へ大きく迂回していく。小浜市宮川地区、旧宮川村だ。平家物語第4巻「鵺」の終わりに頼政は丹波の五ケの荘、若狭の宮川の東を知行したとある。宮川村の集落の中で東に当たる大谷、新保辺りが候補だろうか。

大谷を通り矢代へ行く道標はあったのだが・・


頼政の館跡があるという。大谷集落への入口辺りの田圃の中の道端だ。

ただここには館跡を示すものはない。「源三位建法沢山頼円神儀」とある碑がある。建法沢山頼円というのは頼政の戒名だ。側面には、「治承4年5月26日」とある。これは頼政の死んだ日だ。ということはこれは墓ではなかろうか。頼政の墓は宇治平等院内にあるのだけれども。

大谷集落の北のはずれまで行ってみる。舞若道をくぐる。

杉田玄白ゆかりの滝があるようだが、道は途絶える。

柵をした道の前に矢代への道標がある。先日矢代で見た宮川大谷への道標に対応するものだろう。車で行く道はなくなっているのである。

 左矢代

竹長の神社や賀茂神社にも寄ってみる。

 竹長風景

 賀茂神社

 

花の里みやがわ、向日葵が花盛りだった。


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