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物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

鎌倉まで

2020-05-22 | 行った所

5月14日朝、出発
高速を浜松インターで降り、磐田市池田熊野(ゆや)へ向かうも藤はとっくに終わっていた。

下道で小夜の中山を目指す。東海道は中山道に比べ平坦だろうとは思うのだが、東に箱根有り、西に鈴鹿有り、またここに小夜の中山、宇津峠あり、というわけだ。
1号線を離れ、道標に従い狭い道を登る。両脇の斜面に茶畑が続く。手入れのよい整った茶の緑がまぶしい。

茶は平安期から中国から入ったが、鎌倉期まではほとんど薬扱いだったようだ。室町を経て戦国時代に爆発的に広がる。つまり平家物語の時代ここを通った人々も目に映ったのは全く別の光景だっただろう。

しかし、峠の見晴らしのいいところに出れば、新緑の山中は輝いていただろう。

*西行碑がある

海道下の「小夜の中山にかかり給ふにも、また越ゆべしとも思えねば、いとど哀れの数添ひて、袂ぞいたく濡れ増さる。」は西行の「年長けてまた超ゆべしと思いきや 命なりけり小夜の中山」を踏まえているのだが、重衡がここを通った時にはまだこの歌は詠まれていない。
重衡の南都攻めで焼亡した東大寺大仏復原のため西行は砂金を求めて奥州平泉の藤原秀衡を訪ねる。その往還に西行もここを通り、帰り道にこの歌を詠んだ。

小夜の中山の西からの登りは車ではさほどとも思われなかったが、東への下りは驚くような急坂であった。
どこをどう出たのかよくわからないが、菊川市内のコンビニで昼食を調達し、高速に乗る。

結果的に伊勢物語を借りた「宇津の山べの蔦の道、心細くも打ち越えて、」を飛ばし飛ばし、静岡ICへ。富士山が見える。少し西へ引き返し、安部川を渡る。
手越の少将井神社に行く。街中だがひどく分かりにくい狭い道である。

千寿前は平家物語では手越の長者の娘で頼朝に遣わされて、重衡をもてなす。

手越から安部川を渡る。見えるのは富士だ。分からないのは「甲斐の白根」

「手越を過ぎて行けば、北に遠ざかつて、雪白き山あり。問へば甲斐の白根と言ふ。その時三位中将落つる涙を抑へつつ、 惜しからぬ 命なれども 今日までに つれなき かひのしらねをも見つ」
ワイド版岩波文庫の註には「山梨県の白根山。赤石山脈中の北岳、間の岳、農鳥山がその最高峰」とあるのだが、手越のあたりから南アルプスが見えるのか。富士が目に入ると他の山を意識することがなくなってしまう。次に富士の裾野云々と書いてあるので甲斐の白根と富士を混同しているとも思えない。註によれば「海道記」を踏まえるとある。

次は清見が関。頼朝の側近として鎌倉に重きをなした梶原景時だが、頼朝急死後、御家人の連判によって追い落とされる。連判人は実に66人に及んだ。翌正治2年(1200)梶原一族は相模一宮から京へ上る途中、襲撃され討ち取られたという。

清見寺は徳川家康が好んだところだったとか。
門のすぐ後ろを鉄道が走る。何やらおかしなことになっている。小浜の常高寺がそうなのだが、常高寺しか知らなかった時にはめったにないものと思っていたが、腰越の満福寺がそうだったし、案外あるのかもしれない。

清見と隣接する興津は江戸時代に宿場町として栄えたようだ。


海道下を離れ、三保の松原へ行く。



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