物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

海道下 (平家物語)

2020-08-13 | まとめ書き

平家物語第10巻「海道下」は道行だ。

一の谷で捕らえられた平重衡が梶原景時に連れられ京から鎌倉へ下っていく。


馬を射られ、頼みの乳母子後藤盛長に見捨てられ、死ねもせず捕まった平家の公達が連行される。

盲目ながら多くの旅をしてきたであろう琵琶法師がこの道行を語るとき、耳傾ける人々はどんな風に聞いたのだろう。

重衡は牡丹に例えられる貴公子だったという。立てば芍薬、座れば牡丹、という男子は想像しがたいが、「千手前」の最期にある。同時代史料としては重衡従兄弟の資盛の恋人建礼門院右京太夫が女房達に面白い話をして笑わせる重衡を描いている。華やかな人だったのだろう。今を時めく清盛正室時子の数ある息子達の中でも気に入りの愛息、嫌でも人は寄ってこよう。しかも重衡は兄宗盛・従兄弟の維盛とは違い武将としての素質もあったらしい。墨俣・室山と知盛とともに戦果を挙げている。治承4年(1180)暮れの南都への出陣も戦いとみれば重衡は確かに勝ったのだ。以仁王の挙兵に呼応しようとした南都を放置はできなかった。焼けるのなら焼けて仕方がない。焼けてしまったものは仕方がないというのが清盛・重衡の認識だったのではないか。重衡が事の重要さに気付くのはもっと後だ。清盛は治承5年2月に病死し、南都焼亡の責は重衡が担う。

さて重衡は京都を出でて山科に向かうのであるが、どういう経路をたどったのだろうか。海道下は山科の四ノ宮から始まるが、出発地点は京都のはずである。
京都へ出入りする道は京都七口というが、定まったのは近世、秀吉以降の事のようだ。当時、西へ向かう道として考えられるのは、三条口から粟田口を行くルートで江戸時代の東海道・中山道の出発地点となっている、もう一つは五条からのルートでほぼ1号線に重なるが渋谷街道と呼ばれる道だ。鹿ケ谷からの山越えも行って行けないことはなかろうが旅のルートとしては考え難い。
さて、重衡の鎌倉連行の前に「土肥次郎実平が手より、まず九郎御曹司の宿所へわたし奉る。」とある。ここから梶原景時に具せられ鎌倉下り、となるわけだ。土肥実平がどこにいたのかはわからないが、九郎御曹司、義経の宿所はわかる。六条堀川に源氏累代の館と呼ばれるものがあったという。保元の乱では為義たちが、平治の乱では義朝が拠点とし、土佐房による義経襲撃の場所もここだったというから、九郎御曹司の宿所は六条堀川とみて間違いないだろう。
(堀川五条を少し下がり、西本願寺の附属建物の駐車場北辺付近の歩道脇の草むらの中、源氏邸の井戸で後年茶の湯でもつかわれる)

だとすれば三条廻は不自然だ、五条から渋谷街道を通ったと考えるのがいいだろう。
現1号線より少し南側、京都女子大の脇から東へ向かう。
小松谷、と言われ重盛の館のあったところだ。重盛の家は小松家と呼ばれるが、そのまま京都東南の押えであったわけだ。灯篭の大臣ともいわれた重盛は「四十八間に精舎をたて、一間に一つづつ、四十八の灯篭を懸けられたりければ」と蓮華押院三十三間堂をしのぐ長大な堂宇を建て華々しい法会を行った。重衡もきっと見たであろう。重盛すでの亡く、平家は都落ちに際し皆邸に火をかけた。栄華の夢跡がある中を進んだのだろう。この辺りに正林寺という寺がある。一応小松邸はこの辺りとなっている。幼稚園併設の大きな寺だ。

(小松谷正林寺門)

渋谷街道は清閑寺町辺りで1号線と合流するが、まもなく一号線は南下していってしまう。渋谷街道はほぼ真直ぐ東へ進む。山科の街中である。五条別れで三条から山科へ向かっていた道と合流する。更に四ノ宮を過ぎたあたりで1号線は再び北上してほぼ一緒になる。京都東ICもあり高速道路・一号線並行して逢坂山へ向かう。

「四宮河原になりぬれば此処は昔延喜第四王子蝉丸の関の嵐に心を澄まし琵琶を弾き給ひしに博雅三位といつし人風の吹く日も吹かぬ日も雨の降る夜も降らぬ夜も三年が間歩みを運び立ち聞きてかの三曲を伝へけん藁屋の床の古も思ひやられて哀れなり」

四宮河原は京都市山科区四ノ宮辺りで、逢坂山の入口というけれど(ワイド版岩波文庫「平家物語の註、以下同じ)山科から京都に入る道は車で通過するだけだから逢坂山もそれと思って通ったことはない。

京阪京津線四ノ宮駅がある。四ノ宮川という川が流れているようだ。四宮河原というのはこの川の河原だろうか。蝉丸を醍醐天皇の第四皇子という伝承があるそうで四ノ宮とはそのことらしい。

(逢坂山トンネル碑とその付近から下を見る)

京阪京津線の大谷駅のすぐ北側から東へ500mにも満たない距離で旧東海道が残っている。東端に逢坂の関の説明板などが立っている。車だとこちら側からしか入れない。関の位置は正確には不明らしいが。

 うなぎ屋のある通りだ。

 蝉丸神社、下から鰻を焼くにおいが上ってくる。蝉丸は盲目の琵琶法師、重衡も琵琶の名手であったことが、「千手前」に出てくる。

「逢坂山うち越えて、勢田の唐橋駒も轟と踏み鳴らし」

逢坂山を越え大津に入る。
現在琵琶湖には近江大橋・琵琶湖大橋をはじめ、1号線の橋、高速道路の橋、鉄道各線の鉄橋などいろいろ架かって入るが、平安末にあったのは勢田の唐橋ただ一つ、俵藤太のムカデ退治の伝説の舞台にもなれば、今井兼平が粟津で義仲と再会する前、必死と守っていたのが勢田だった。勢田の唐橋は京阪石山坂本線唐崎前駅のすぐ東にある。駒も轟と踏み鳴らしが交通量が多い事を言うのならば今もそうだ。。

「雲雀揚がれる野路の里」草津市に野路という地名は確かにある。

「志賀浦波春かけて、霞に曇る鏡山」

志賀は大津市内となっていいるけれど(岩波ワイド文庫註)、むしろ琵琶湖そのものではなかろうか。雲雀が上がり琵琶湖は春の陽光を受けさざ波がきらめく。「行く春を近江の人と惜しみけり」芭蕉が誰と春を惜しんだのか知らないが、彼が好きだった義仲ではないだろう。義仲は近江で死にはしたが、あくまで木曽の人であったろう。霞にの煙る山々、鏡の里の道の駅がある。義経元服の地だとして大きな看板が出ている。

(鏡神社本殿)

判らないのは三上山が出てこないこと。見ながら来たはずなのである。近江富士とも呼ばれる端正なこの山が出てこないのは残念である。

(兵主神社付近から見た三上山)

 

近江には春がよく似合う。

長閑に街道を行くイメージだが、野路から鏡への途中の大篠原は、約一年後、宗盛父子が斬られるところとなる。

重衡もまたこの道を引き返す。南都の僧たちに引き渡されるために。

「比良の高根を北にして伊吹の岳も近づきぬ」

比良は琵琶湖西岸になる、遠望したのだろうか。因みに近江八景は「三井晩鐘,粟津晴嵐,瀬 (勢) 田夕照,石山秋月,唐崎夜雨,堅田落雁,比良暮雪,矢橋帰帆」だそうだ。ほとんどが琵琶湖の西岸である。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~komichan/oumi8K/oumi8kei.html から画像拝借


伊吹は畿内と東山道の間の目印だ。北陸道からも目印になる。

 (JR北陸線車窓から)

平治の乱に敗れた義朝一行は雪の伊吹山麓を踏み進む。13歳の頼朝は一人はぐれ捕らえられる。その頼朝は今、勝者として鎌倉で重衡を待つ。

「心を留むとしなけれども荒れて中々優しきは不破の関屋の板廂」
元歌は「人住まぬ不破の関屋の板庇あれにしのちはただ秋の風」壬申の乱の後造られたこの関は名は高くとも平安後期には既に廃止されて久しい。


それでも天皇の代替わりの度に閉じたというから関屋はあったのか。形式に過ぎない関は厳めしくなくたださびしい板庇。ただそこを通る都人には畿内から出る感慨はあったのだろう。

「いかに鳴海の潮干潟涙に袖は萎れつつかの在原の某の唐衣きつつなれにしと眺めけん」
不破の関を越え、垂井・青墓(赤坂)から美濃路と呼ばれる道を尾張へ歩む。墨俣も通ったはずだ。重衡は行家・義円を撃破したことを思ったであろうか。

平家物語の道行きは墨俣も熱田も飛ばし鳴海に出る。潮干潟とはあるけれど現代の鳴海は名古屋市緑区鳴海で全くの市街地であり、宿場を思わせるものもない。鳴海潟というくらいだから伊勢湾が近くまで入り込んでいたのか。江戸時代までけっこうな宿だったはずである。

「三河国八橋にもなりぬれば蜘蛛手に物をと哀れなり」

三河国八橋は知立市内。蜘蛛手は蜘蛛が足を八方に出す様で水の流れが縦横に交錯していることを形容しているとのことである。この辺りで大きな川は矢作川のようだ。湿地帯だったのだろうか。そのまま伊勢物語を借り、昔男の業平の話をそっくりイメージさせる語りだったのだろう。業平と重衡、二人の貴公子が交錯する。湿地となればかきつばたも似合い、唐衣の歌も言葉遊び以上の物に見える。

「浜名の橋を渡り給へば松の梢に風冴えて入江に騒ぐ波の音さらでも旅は物憂きに心を尽くす夕間暮れ」

云うまでもなく浜名湖なのだが、橋があったのか・・と驚く。現代の1号線の浜名大橋は200メートルを超えている。江戸時代は渡しのようなのであるが。

「池田の宿にも着き給ひぬ、かの宿の長者熊野が娘侍従が許にその夜は宿せられけり。侍従、三位中将殿を見奉て、「日来ろは伝手にだに思し召しより給はぬ人の、けふはかかるところへ入らせ給ふことの不思議さよ」とて、一首の歌を奉る。
旅の空 埴生の小屋の いぶせさに ふるさといかに 恋しかるらむ
中将の返事に、ふるさとも 恋しくもなし 旅の空 都もつひの 住みかならねば
ややあつて、中将、梶原を召して、「さても只今の歌の主は、いかなる者ぞ。優しうも仕たる者かな」とのたまへば、景時畏まつて申しけるは、「君はいまだ知ろし召され候はずや。あれこそ屋島の大臣殿の、いまだ当国の守にて渡らせ給ひし時、召され参らせて、御最愛候ひしに、老母をこれに留め置き、常は暇を申ししかども、賜はらざりければ、頃は弥生の初めにてもや候ひけん、いかにせむ 都の春も 惜しけれど 馴れしあづまの 花や散るらむ
 と言ふ名歌仕り、暇を賜つて罷り下り候ひし、海道一の名人にて候ふ」とぞ申しける。」
天竜川を渡り、池田の宿へ。池田宿は平家物語に因縁深い。この段の宗盛の愛人の話然り、源義朝はこの宿の遊女に範頼を産ませた。青墓の宿の例を見れば、遊女とはいってもそれなりのステータスはあったのではないか。それなら長者熊野(ゆや)と何らかの関係があったのではないか、と想像する。

平家物語が流布した頃には範頼の事も世に知られていただろう。ここでもたぶん範頼との物語の二重写しがあっただろう。

熊野の長藤は咲いた時期に見たいものである。

 

「都を出でて日数経れば、弥生も半ば過ぎ、春もすでに暮れなんとす。遠山の花は残んの雪かと見えて、浦々島々霞渡り、越し方行く末の事どもを思ひ続け給ふにも、「こはさればいかなる宿業のうたてさぞ」とのたまひて、ただ尽きせぬものは涙なり。御子の一人もおはせぬことを、母の二位殿も嘆き、北の方大納言の佐殿も、本意なきことにし給ひて、万の神仏に懸けて祈り申されけれども、その験なし。「賢うぞなかりける。子だにもあらましかば、いかばかり思ふことあらむ」とのたまひけるこそ責めての事なれ。」

重衡は子供がいないとあるけれど、正妻佐の局に居なかっただけで、モテ男重衡には子がある。鎌倉の鶴岡八幡宮、箱根で僧侶となった子らがいたらしい。

「小夜の中山にかかり給ふにも、また越ゆべしとも思えねば、いとど哀れの数添ひて、袂ぞいたく濡れ増さる。」

 西行歌碑

重衡の南都攻めで焼亡した東大寺大仏復元の勧進で、奥州平泉の藤原秀衡を訪ねる生涯二度目の陸奥への旅に赴いた西行はこう詠んだ「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」つまり重衡が通ったこの時にはこの歌はまだ詠まれていない。重衡はこの道を引き返してくるのだから、またこの峠を越えたはずだが、西から東へと越えるのはこれが最初で最後となる。
西行は平家物語の完全な同時代人だが、物語に直接は登場してこない。ただこんな風に現れるのだ。
今、中山は一面の茶畑となっている。茶は平安期から中国から入ったが、鎌倉期まではほとんど薬扱いだったようだ。室町を経て戦国時代に爆発的に広がる。つまり重衡も西行も目に映ったのは全く別の光景だっただろう。しかし、峠の見晴らしのいいところに出れば、新緑の山中は輝いていただろう。

「宇津の山べの蔦の道、心細くも打ち越えて、」

これはまた「伊勢物語」だ。「宇津の山に至りて、わが入らんとする道はいと暗う細きに、蔦、かへではしたがかり、もの心細く・・・・・駿河なる宇津の山辺のうつつにも 夢にもひとにあはぬなりけり」

「手越を過ぎて行けば、」

手越の宿だ。静岡市の安部川西岸の区域となる。富士川までは20kmと少々か。「海道下」の次の章「千手前」鎌倉で重衡を接待する千手前は手越の宿の長者の娘だ。「みめ形、心ざま、優にわりなき者」と云われる美女だったが重衡の斬首を聞いて出家する。

 手越の少将井神社

手越宿は富士川の合戦の平家敗走に前後して火事があったらしい。

重衡は従兄弟維盛のあまりにもふがいない敗戦に苦い思いをいだいたろう。

「北に遠ざかつて、雪白き山あり。問へば甲斐の白根と言ふ。その時三位中将落つる涙を抑へつつ、 
惜しからぬ 命なれども 今日までに つれなき かひのしらねをも見つ」

手越から見えるのは富士だ。分からないのは「甲斐の白根」 ワイド版岩波文庫の註には「山梨県の白根山。赤石山脈中の北岳、間の岳、農鳥山がその最高峰」とあるのだが、手越のあたりから南アルプスが見えるのか。富士が目に入ると他の山を意識することがなくなってしまう。次に富士の裾野云々と書いてあるので甲斐の白根と富士を混同しているとも思えない。註によれば「海道記」を踏まえるとある。

(2022年補注:登呂遺跡から「甲斐の白根」が見えた。手越からも条件が良ければ見える可能性が高いのだろう)

 手越付近からの富士

「清見が関打ち越えて、富士の裾野になりぬれば、北には青山峨々として、松吹く風索々たり。南には蒼海漫々として、岸打つ波も茫々たり。「恋せば痩せぬべし、恋せずもありけり」と、明神の詠うたひ始め給ひけん、」

静岡市清水区の清見が関址は清見寺前にある。重衡が通った頃には、不破の関同様、関としての機能はほとんど失われていただろう。

清見寺は徳川家康の気に入りの寺だったそうだ。江戸時代には興津という宿場町として栄えたようだ。三保の松原も近い。確かに富士の裾野だ。
(清見寺:せいけんじ)
重衡を連行してきた梶原景時は、頼朝の側近として鎌倉に重きをなしたが、頼朝急死後、御家人の連判によって追い落とされる。連判人は実に66人に及んだ。翌正治2年(1200)梶原一族は相模一宮から京へ上る途中、清見が関辺りで襲撃され討ち取られたという。ここは梶原一族の終焉の地でもあるのだ。
 三保の松原 富士


「足柄の山打ち越えて、小余綾の磯、丸子川、小磯、大磯の浦々、八的、砥上が原、御輿が崎をも打ち過ぎて、急がぬ旅とは思へども、日数やうやう重なれば、鎌倉へこそ入り給へ。」

コメント