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物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

栃木峠

2020-05-27 | 行った所

476号線を走り、木の芽トンネルをくぐる。上は木の芽峠だ。


北陸線の北陸トンネルもこの辺りを走っている。長く日本最長の鉄道のトンネルとされた。1962(昭和37)年の完成だそうである。昭和39年の東京オリンピックを前に、新幹線と共に鉄道工事のエポックだったはずだ。その前はたくさんのトンネルとスイッチバック、複雑な線路だったそうだ。その頃の設備は旧北陸線鉄道遺跡として残っている。
トンネルを抜け、476号と365号の合流地点で365号に入り南下する。曲がりくねった道をしばらく行くと滋賀県との県境、即ち栃木峠だ。


古来道がなかったわけではなかろうが、街道として整備したのは柴田勝家だという。戦国時代も末期だ、軍隊の通れる道が必要だったのだろう。大きな木が枯れているのを見たが、あれは栃の木だろうか。木の芽峠を通らず越前―近江の通行が可となったが、北陸道の難所であることには変わりない。特に冬場は大変だ。有名なのは幕末の福井藩の医者笠原白翁、種痘普及のため子供二人を連れて雪の栃木峠越えを敢行した。

古いだけでなくよくわからない地図だと思ったら北が下に書いてある。365スキー場へ出て365号線へ出れるルートらしい。15.5kmとあるので行ってみる。尾根伝いの道のようだ。
カーブと急こう配、まあ山道だから仕方がない。ベニウツギが花盛りだ。ひとっこ一人通らない、というほどの道ではなく、たま―に対向車がある。


木の芽峠に出た。峠の茶屋は廃業して久しいらしい。

この辺りには山城がいくつか連なっていたらしい。上に何かあるようだが登る道にはロープが引かれ登れないようになっている。

さすが木嶺の眺望である。

下りにかかり分かれ道があった。スキー場の方へ行く。この季節だ、誰もいない。
ほどなく365号線に出、北上し今庄だ。


瓜生保墓

2020-05-27 | 行った所

敦賀から栃木峠方面を目指すと途中のナビに瓜生保墓が出てきた。誰だっけ?行ってみるか。


476号線樫曲から少し入った新幹線樫曲トンネル工事現場の近くである。工事現場は高速道路と交差し高速道路から見える地点である。
トンネルや高架工事の現場などめったに近づくこともないからそっちの方も面白かった。工事のため新しく作った道かコンクリート舗装はされているが大変な急坂を登りきると墓はあった。


瓜生保は越前南条郡飽和村出身の南北朝時代の武将。新田義貞につく。一時足利尊氏に騙され離れたこともあったようだが、結局戻り、義貞が敗れた金ヶ崎の戦いで死んだようだ。

本来関東の新田氏と瓜生氏は縁がなかったのだろうが、どこでつながったか。南北朝の騒乱は全国的広がりを見せ、地方豪族もそれぞれに旗幟を選ば地にはいられなかったのだろう。


墓の裏には明治34年末裔が謹立したとあった。


Whale Watching?

2020-05-27 | 行った所

美浜の菅浜にクジラが漂着したという。見に行くことにする。
何しろ10mを越えるクジラの漂着は滅多にないということだ。


菅浜の海岸に出るが、さっぱりわからない。


釣り人からおすそ分けをもらっている猫がいた。


集落の南に回ってみるが分からない。アリーナがあり県外ナンバーの車が数台ある。レジャーボートを持っていて遊びに来るのだろう。
晴れて気温が上がってきているが雲も多く25度止まりだと思うが、海水浴をしている人がいて吃驚。


結局地元の人に教えてもらい、菅浜の集落よりはかなり北側へ。海岸沿いの道路にずらりと車が10台くらい並んでいる。こっちもそうだが皆、物見高いなあ。
クジラは腹を上に浮かんでいる、というより座礁だろうか、岸からはかなり近い。腹ははじめは白かったそうだ。赤黒く変色してきた。腐敗が進んでいるのだろう、風向きにより異な臭い。腹から筒状のものが突き出しているように見える。折れ曲がっているがペニスだろうか。あんなに突き出して泳いでいるとも思えないのだが。何やら哀れを催す。


敦賀警察が車列の移動を促しに来た。

岬のように突き出た岩影の向こうが丹生、美浜原発になる。


鎌倉・相模 大庭 懐島

2020-05-27 | 行った所

朝から雨になっている。鎌倉経由で藤沢市大庭を目指す。

鎌倉権五郎こと景正、後三年の役で義家に従い従軍、片目を射られながらも自ら矢を引き抜いたという猛者である。大庭、梶原共にその子孫というか一族だという。系図には不明なところが多いらしいが。

どこを走っているのかどうもよくわからない。俣野という地名をちらりと見た。
平家物語に俣野景久という人物が出てくる。大庭景親の弟で平家方である。曽我物語ではヒールである。

武士たちの名はそれぞれ氏はあろうが、領した土地の名を名乗りとすることが多いようだ。ところで範頼が晩年頼朝に詫びの起請文を書き、源範頼と署名したところ、頼朝は僭越である、と怒ったそうである。範頼もれっきとした源義朝の子であり、源氏を名乗るに支障はなさそうなのだが。範頼の子孫は御家人として吉見氏を名乗っている。埼玉の吉見百穴の吉見である。吉見範頼とでも名乗っていれば頼朝は満足だったのだろうか。ひょっとしたら、住み処の地名を取って名乗りとするのは総領家を憚ってのことかもしれない。

大庭城趾は小高い山だがよく公園として整備されている。ここに城塞が構えられていたのはいつごろからかはよくわからないようである。


大庭の御厨はこの辺り一帯だったのだろうか。よく開けている。少なくとも鎌倉より広々とした地形だ。

大庭から懐島へ向かう。茅ヶ崎市である。神明神社になっているが大庭景義の屋敷跡だという。



大庭は義朝の郎党として保元・平治を戦う。特に大庭景義は保元の乱で為朝の矢を脚に受ける。為朝は殺せなかったので、この為朝の矢を受けながら冥加な奴だと云ったとか。景義はその後懐島に逼塞して暮らし、家督は弟の景親がとる。平治物語にも彼の名がある。その後平家の有力家人となる。平家物語では第5巻「早馬の事」相模の十人大庭三郎景親、福原へ早馬をもって申しけるは、と頼朝の挙兵を知らせている。景親は大軍をもって石橋山の頼朝を破る。景親弟俣野景久は頼朝方の佐奈田与一との死闘を制した。しかし頼朝は安房を回り下総・上総の軍勢を率いて戻ってくる。甲斐源氏武田勢も南下してくる。景親はなすすべもなく降伏するが処刑される。
逼塞していた景義は頼朝の下に行き優遇される。兄弟仲はわからないが少なくとも景義は弟景親の助命は願っていない。
奥州の藤原泰衡を攻めるとき、頼朝はなかなか後白河の院宣を得られなかった。景義は奥州藤原氏はもともと源氏の家来であるので家来を討つのに朝廷の許可はいらないと主張した。さぞ頼朝の意にかなったことだろう。
景義は建久4年(1992)富士も巻狩りの直後に出家、曽我の仇討事件と絡めて考える人もいるらしい。

懐島の神明神社の本殿裏手に屋敷跡の碑と供養塔があった。他に景義らしい像があったが暗すぎた。

神明神社向かいに小さな末社懐島権現があり、ボケ封じを謳っている。ちょいと拝む。


相模一宮寒川神社へ行く。大きな立派なお宮さんだがどうもぴんと来ない。

調べ直すと一之宮という町名が別にある、そこの天満神社が梶原景時最後の居館があったところらしい。寒川神社より2km近くも南だ。
引き返す。

分かりにくいというか車を入れにくいところにあった。


調査もされているらしい。
驚いたのは浩宮御成記念の梶の木があったこと。寒川神社ならともかくこんな所へ来ていたとは、何か興味があったのだろうか。