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物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

キトラ古墳

2022-06-21 | 行った所

1972年の高松家古墳の壁画発見はセンセーショナルで、国内は興奮に包まれた。極彩色の人物像などの壁画はそれは見事なものだったが、この壁画の保存は失敗に帰した、と言わねばならない。現地保存というところに無理があったのだろうか、湿気やカビが壁画を襲った。
約十年後、従来から似た年代、形式と思われる南へ一キロ少々のところにある古墳であったキトラ古墳からも壁画が見つかったのである。この古墳の壁画は、高松塚の失敗に鑑み、絵が描かれた漆喰もろとも剥がして保存、という方法が取られる。高松塚の経験があったとはいえ、これもまた困難な作業ではあったろう。

池澤夏樹の「キトラボックス」は「アトミックボックス」に続く現代小説で、登場人物も重複があるが、話はいづれも独立している。海外、ウイグルへと話は広がるが、題名の通り、キトラ古墳の被葬者の謎が絡む。
キトラ古墳の被葬者の可能性のある人物としては、天武天皇の皇子が有力とされ、高市皇子、弓削皇子、忍壁皇子の名が挙がり、他には百済王昌成、阿部御主人などとされる。「キトラボックス」は阿部御主人を被葬者として話は展開する。呪術的な力も偶然調査することになった遺物が他と繋がっていくのも小説である限り気になることではない。
しかし、実際に被葬者探しをするならば、偶発的な発見を待つより良い方法がある。それは陵墓・陵墓参考地とされている古墳の発掘調査である。小説的な封印された紙文書の発見となると期待はできないが、例えば高松塚の北方数百メートルにある野口王墓古墳、天武持統合葬陵で盗掘され、幾分かの知見は世に出ているとはいえ、現代の知識を持って複数の研究者のチームが調査がなされればかなり変わるのではないだろうか。

 キトラ古墳の資料館 四神の館

 キトラ古墳 天球のような墳丘

 天文図

 白虎図 尻尾が後ろ足に巻き付く

 


奈良市 元興寺 (蘇我の寺)

2022-06-20 | 行った所

710年平城遷都。奈良盆地は盆地と言いながら、かなり広い平野部で南北に長い。平城京はその北端に位置する。飛鳥は南端だ。
平城遷都は藤原京からの引っ越しであるが、藤原京は飛鳥と離れてはいない。遷都時の大王元明天皇も「飛ぶ鳥の飛鳥の里を置きていなば 君の辺りは見えずかもあらむ」と飛鳥に未練たっぷりの歌を残している。

遷都に伴い、官人たちの移動は当然だが、寺もまた引っ越す。薬師寺もまた飛鳥から西の京へ引っ越した。興福寺は藤原氏の寺だからもともと奈良にあったかもしれないが大々的に整備されたのは遷都後だろう。
飛鳥寺は蘇我氏の寺だ。日本のもっとも古い仏教寺院だったという。だが飛鳥板葺きの宮、将に乙巳の変の現場にも近いこの寺は蘇我宗家滅亡後、維持も難しかったのではないか。

 

 飛鳥寺裏手にある五輪塔、時代は合わないが蘇我入鹿の墓と伝わる

蘇我家は傍流だった蘇我山田石川麻呂が力を持つが、彼も山田寺で自害を余儀なくされる。

 白鳳の優品 ウィキペディアより
山田寺にあったという仏像の頭部は興福寺にある。仏像が移動したのは中世に入ってのことのようだが、蘇我と藤原氏、権力の移動の象徴のようだ。
蘇我の飛鳥寺が平城京に移ったのが元興寺だ。興福寺の南にそれなりの伽藍を構えていたようだ。
今の境内は一部で近くに東塔の後がある。

 元興寺東門

 極楽坊

 極楽坊屋根の一部が古いもので行基瓦という

 境内

 元興寺を出て、少し奈良町界隈を歩くと東塔址がある

 礎石だけでなく基壇が残っている

 基壇の上

 猿沢の池の真南に位置した。

近くには御霊神社があった。祭神はお決まりの早良親王・井上内親王等。ただだいぶ新しい神社のようだ。

 

 

 

 

 


鬼室神社(滋賀県蒲生郡日野町)

2022-06-20 | 行った所

鬼室福信という名には覚えがある。7世紀に百済は滅ぶ。唐と新羅に攻められたのである。将軍で王族でもあった福信は百済の再興を願い、日本に人質に来ていた百済の皇子余豊璋の帰国を要請する。当時の日本の政権を掌握していた中大兄皇子は快諾し、更に大軍を百済に送るが、白村江の海戦で唐新羅の水軍に壊滅的敗北を帰す。663年のことである。これ以前に鬼室福信は仲間割れからか殺されていた。皇子余豊璋は敗戦後行方知れず。百済滅亡後、たくさんの百済人が日本にやってくる。彼らは日本の発展に大いに寄与した。というのが大まかな理解だが、もちろんわからないことだらけである。

百済からの移民の中に鬼室集斯という学識者がいた。鬼室福信の近親者で息子かもしれないという。彼を含む何百人かが近江の蒲生に移住した。
どんなふうに住んだのだろう。大津市の博物館の前庭に発掘された住居址のオンドルが展示されていた。オンドル付きの家を立てただろうか。

 

鬼室神社は鬼室集斯の墓かもしれないところに造られたものだ。真贋は言えない。


ただ、現代日韓の友好に多少の貢献はしているようである。

近江商人で知られる日野町だが、この辺りは田畑が広がる。


あかね古墳公園 (東近江市)

2022-06-19 | 行った所

名神高速道路、蒲生スマート付近で道路南側に復元古墳らしいものが見える。何度かチラ見していたが、行ってみる。


滋賀県の代表的古墳群で、正確には木村古墳群というらしい。5基以上の古墳があったらしいが、名神高速の建設工事に伴い失われたものも多いようだ。
平成に入り二基の古墳のが本格的に調査され、古墳公園として整備されている。蒲生は記紀にも出てくる地名だ。ワカタケルの従弟イチベノオシハ殺しの舞台でもあり、大海人皇子と額田王との相聞の舞台ともなる。あかね古墳の名称はこの「あかねさすむらさきのゆきしめのゆき」に因むものだろうか。
古墳公園の駐車場に付近の文化財などの案内がある。山部赤人関係のものもあるようだ。

復元されている古墳は、久保田山古墳と雨乞山古墳である。久保田山は円墳・雨乞山は方墳である。サイズ的には雨乞山の方が大きいのであるが、葺石と埴輪列を復元した久保田山の方がよく目立つ。全面復元をしていない古墳の多くは樹々に覆われ、自然の山林と見分けがつかない状態が多いので、こういう復元がなされていると、古墳とは遠くから目立つことを目指して作られたのだろうということがよくわかる。久保田山は円墳ではあるのだが、南北に造り出しを持つ。
雨乞山の方は方墳で、これもだいたい南北に造り出しがある。どちらも特に造り出し状に特別な施設や遺物はなかったようだ。雨乞山にも葺石が認められたらしいが、全面を葺いていたかわからなかったのか、墳丘は芝を貼った復元になっている。

 久保田山全景

 南側造り出し部分から

 円筒埴輪の列

 墳丘上の円筒埴輪 発掘される埴輪は割れて破片となり、表面が風化しているものが多いが、こんなに赤みを帯びていたのか、葺石相まりよく目立つ

 北側造り出し 奥の山の向こうが琵琶湖だ

 久保田山から雨乞い山を望む

 竪穴式石室 久保田山の方は主体部不明、一部石材のみだ。盗掘されたか

 雨乞山から北西方向

この辺りはかなり広い平野だ。
息長氏やそれに続くような豪族が掌握したのだろうか


東大寺転害門

2022-06-07 | 行った所

天平の狂気の一つの東大寺。
治承4年の年の暮れ、平清盛は四男重衡に、以仁王の挙兵に味方した南都を攻めることを命じる。攻め寄せる平家軍は般若寺でくい止めようとする南都勢を蹴散らす。東大寺に火が罹ったのは故意か偶発か。ともあれ寺に逃げ込んだ民衆もろとも大仏は焼け落ちた。大仏殿だけでなく、南大門・戒壇院などを含む堂宇も焼失したが、転害門は焼けなかった。東大寺境内の北東にあるこの門は焼けた堂宇からそれなりの距離があったのだろうか。転害門の前の道をまっすぐ北上すると般若寺がある。般若寺で戦った平家軍はこの道を南下し東大寺に至ったのではないのか。転害門から押し入ろうとはしなかったのだろうか。そう思うと焼失を免れたのは奇跡に思える。大勧進重源を中心に東大寺は再建されるが、戦国時代、三好・筒井・松永勢が大和で相争い、東大寺は再び火炎に包まれる。この時も転害門は焼けなかった。南大門も焼失を免れた。
大仏殿を含む堂宇は江戸時代のものが多いが、南大門は鎌倉、転害門は8世紀後半、奈良時代のものが残っている。

 門西側から。ちょっとした公園になっている

南大門ほどでかくはない。しかしなかなかに均整の取れた門ではないか。

 門北側

 門南側

 境内内から(東側)

 謡曲の題材は鎌倉時代、重源の大仏復興なっての開眼供養、頼朝が臨席した時のものだろう。悪七兵衛景清所縁の地はあちこちにあるが、実態はどうだろう。

戦国時代の合戦の矢跡が残っているというが、門にははいれないのでわからなかった。

この門からなら戒壇院が近いかと思ったが、意外に距離があり、しかも工事中だった。

 


文殊山へ登る

2022-06-06 | 行った所

越前五山は越知山・白山・文殊山・吉野ヶ岳・日野山をいうそうで、いずれも泰澄大師の伝承を持つ。中では白山が飛びぬけた規模の山になる。
文殊山は福井市の南、鯖江市の北に位置する標高355メートルの山である。西に向かうと山一つ越えた谷が一乗谷となる。極めて里近い山である。麓の集落のそれぞれから登山ルートがある。


ざっと調べたところ、大村集落からのルートが一番緩やかで初心者向けで誰でも登れる、とあったのでチョイス。
登り口には楞厳寺(りょうごんじ)という寺がある。山の東側から登る、ということである。


楞厳寺脇の観音堂内に、西行の歌があった。

「越に来て、富士とや云わん角原の 文殊ヶ嶽の 雪の曙」角原は文殊山の西側にある集落だ。角原ルートもある。その西を北陸道が南北に走っていたはずで、西行が来て文殊山を望んだとしたら不自然はない。しかし、西行がいつ来たのやら、よくわからない。

楞厳寺脇に駐車場があり、地元の人が誘導してくれる。三々五々、前後の人が見え隠れする程度ににぎわっている。これなら熊は大丈夫だろう。


よく整備された気持ちのいい道、傾斜の緩いルートとはいえ、山は山、30分登ってベンチがあったので一休み、ツチノコ坂休憩所とある。この辺で半分か。


なんとか登って行く。二上からのルートと合流する。さらに登って小文殊。

 大杉と阿弥陀堂
そこからしばらくは下り道、それから展望台へ登っている。結構な急坂だ。

展望台から南を見るとすぐ下が南井(なおい)の集落だ。

  この集落は斎藤実盛の生誕地ということになっている。実盛が植えたというヒイラギや供養塔もある。

 南井の斎藤家の供養塔、実盛山の扁額を掛けた祠や碑がある。


南井からのルートはだいぶきつそうだ。
日野山も見える

北には福井平野が広がる。

 

文殊山の北側は糞置遺跡がある。縄文・弥生と続いてきた遺跡だが、特に知られているのは奈良時代東大寺の荘園が置かれていたことで、絵図面がある。その絵図と付近の景観が一致することで有名だ。

太田町に案内板が立っている

  

 案内板辺りから文殊山方向

来た道を戻る。下りで楽と思ったが、結構膝へくるようだ。

だいぶ降りて、楞厳寺裏手の墓地へ出れる分かれ道がある。

 右の道を一気に下って楞厳寺裏へ。松平忠直の隠し墓とか。

 

 

 

 


槙山城址 福井市東郷

2022-05-23 | 行った所

JR越美北線、福井から大野へ向かうと一乗谷駅の一つ手前が東郷駅だ。地形から言えば山一つ後ろが一乗谷の朝倉氏の本拠というわけだ。
朝倉氏は南北朝期、足利方の有力大名斯波氏の家臣団として越前に入った。もともとは但馬にいたらしい。織田氏は元は越前の織田の出だという。斯波氏の家臣化し尾張へ移った。
朝倉は同じ斯波氏の家臣であった甲斐氏と争い、斯波氏の守護代となり、一向一揆とも争い、事実上越前を支配するようになる。
応仁の乱で際立った働きを見せる朝倉孝景(英林)は一乗谷を本拠とし、家臣団を一乗谷に住まいを移させ、分国法(朝倉孝景条々)を定め戦国大名としての地歩を築く。ただあまりに早い例であり、分国法は孝景末子宗滴教景とする人もいる。宗滴は家督こそ継がなかったが、戦の先頭に立ち、外交を主導した。宗滴が家中に重きをなした時代こそが朝倉氏の全盛期であった。宗滴は天文24年(1555)に死ぬ。宗滴は織田信長に注目していたらしい。死に際し、信長の行く末を見届けたかったと語ったらしい。口にこそ出さね、朝倉最後の当主となった義景の器量は見定めていただろう。

一乗谷は狭い谷間で、谷の東側の一乗城山があり、谷に館を構え、いざとなれば山城に籠るはずであったろうが、朝倉最後の合戦にこの山城は機能しなかった。谷は灰燼に帰し、義景は大野へ逃げ、そこで自害すことになる。

一乗谷の西側が東郷、槙山城で朝倉の支城だった。

東郷駅前に案内板がある。

 

東郷駅から南へ1キロほど行くと槙山城址への登り口がある。

山頂付近に駐車場があり、そこから天守跡と千畳敷へ行ける。尾根伝いに朝倉まで行けるようだ。

 天守跡付近

 長谷川秀一碑

 栃泉側登り口にあった案内板


旧北陸道 加越国境

2022-05-06 | 行った所

旧北陸道越前最北端の宿は細呂木( ほそろぎ)だ。

  関もあった。
 細呂木関跡からすぐ北、観音寺川を渡る。西に北潟湖、川は北潟湖に注ぐ。北潟湖畔の風車が見える

道は登り坂になる。しばらく行くと別れ道、右は北陸道、左が蓮如道。

分かれ道にはのこぎり坂案内板等碑がある。

 

 

 別れ道から右北陸道を行くと太陽光発電のパネルの立ち並ぶ所に出る。

ここは樹木が伐採されているので北潟の風車が見える

 太陽光発電所から少し登ると舗道が尽き、北陸道の案内板がある。

 

 
ここから歩くが車が入れなくもない道である。それなりに整備されているので、作業用の車は出入りしているのだろう。
アップダウンはあるが、傾斜は急ではない。


林間の木漏れ日の気持ちのいい道だが、樹木に遮られ眺望はきかない。
 往来安全の名号塔 細呂木茶屋跡とか

 夫婦石とか、碑文は何かよくわからない

 国境名号塔
国境は峠で、見晴らしが効く場所かと思ったが、そうはいかなかった。ただここからは緩く降りになるようだ。
更に行くと右手、東側が大きく開ける。梨畑が開ける。白山も見える。


西側はゴルフ場の筈だが、見えない。
 国境一里塚碑 この辺り福井県と石川県の県境になる。

 加賀南端の宿は橘の宿だ。

 

分かれ道を左の蓮如道は舗装されてはいないが車は通れる。この道は吉崎の交差点にでる。


 途中に一字一石墳という物がある。


 

吉崎にでる手前に案内板がある。

 


横浜 馬の博物館他

2022-04-22 | 行った所

幕末から明治期に日本にやってきた欧米人は高台が好きだったらしい。横浜でも神戸でも、西洋館・異人館と呼ばれるものはたいてい高台にある。西洋式馬術・競馬などが行われた横浜市の根岸も高台だ。あちこちにあったであろう馬場は気に入らなかったか。
競馬場の跡地は広大な公園になっている。その一角に馬の博物館がある。
明治以降の資料しかないのかと思ったらそんなことはなく、種としての馬の進化、ヒトとの関わり、馬具についてなども多彩だった。馬の骨格標本も多数集められており在来馬も数種あった。

日本で馬が広がるのは5世紀だ。それ以来馬の有用性が疑われたことはなかったはずだ。馬は身近でどこにでもいる存在になった。ただ馬車はなかった。道路事情はあったろうが、荷車や牛車はあったのだ。何故馬に引かせる車が使われなかったのかはわからない。もっぱら騎馬、馬借などの運搬、農耕に使われる。その馬が、特に日本古来種、在来種、和種馬が少ない事情をここで知った。明治以降、主に軍用馬にするため体の大きな輸入馬を種馬とし、在来種のオスの断種を行っていった。なんと1954年まで行われていたのだ。家畜に品種改良は付き物ではある。サラブレットなどは人工で作られた馬の典型だろう。それにしてもわずかに残った在来種の馬のなんと可愛く愛らしいことか。

馬車道は馬車が通行していたのだろう。
 *馬車道の牛馬飲水場
 *馬の博物館展示から
映画「れいわ一揆」の中で馬を連れたやすとみ歩は、東京駅前、明治神宮駐車場などで追い出されている。馬車道でも同じだったろうな。

横浜には古い風格ある建物が目立つ。

神奈川県立歴史博物館は昔の横浜正金銀行の建物だ。
  

この博物館は如何にも古くからの博物館らしい展示で、通史だが、鎌倉時代中心の相模の武士団・後北条氏・横浜開港などが特に詳しい。一部を除いて写真撮影OKだし好きなところだ。

  横浜市開港記念館 修理改修中で休館だった

 神奈川県庁 昭和に入ってからの建物のようだ。

 花盛りの山下公園からベイブリッジを望む

 噴水と氷川丸

 中華街


甲斐あちこち

2022-04-21 | 行った所

桃源郷笛吹市は古代の甲斐の中心だったらしい。

国分寺跡は、広い敷地の向こうに桃畑。花桃ではなく果樹の桃は花が少ないようだが、華やかで可愛い。ひな祭りは桃の節句とはよく言ったものだ。


 *国分寺の塔の心礎

 


 *国衙跡は住宅地の一隅に碑があっただけだった。

甲斐一宮も笛吹市だ。甲斐一宮は浅間神社、祭神はコノハナサクヤヒメだそうだ。浅間はせんげんではなくあさまと読む。
 *甲斐一宮浅間神社
 *拝殿

 

 笛吹川 広い河川敷だ。

甲州は意外に洪水の多い土地だったらしい。釜無川と笛吹川が合流し富士川となって太平洋にそそぐ。富士川は急流だ、その急流を水運に利用していたという。

山梨県立博物館は、床下を展示履利用していたり、ビジュアルがよく工夫された博物館だと思う。武田信玄のことばかりかと思っていたらそこは違った。交通・運輸関係も面白かった。ただ、展示全部写真撮影禁止ってケチすぎないか

 

 甲府城は戦国の武田の居城ではなく、徳川の城だ。

 富士山が見えた

 本丸跡に何故かオベリスク。何やら明治の元勲たちの名前がある碑文があった