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物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

駿府(駿府城・静岡浅間神社・登呂)

2022-01-04 | 行った所

静岡市街地は駿府の府中だ。海道一の弓取りと言われた今川義元の居城だが、義元は桶狭間に信長に敗れ、駿府は徳川に転がり込んだ。みな家康で上書きされてしまったようだ。

 それでも発掘すれば今川のものも出てくるらしい。

 正面の山は賤機山だろうか?

 静岡浅間神社 東海東照宮と言われるそうだ

賤機山はこの後山かと思ったが登り口がわからず。


登呂遺跡

戦時中の軍事工場建設中に発見されたが、本格的に調査が行われたのは戦後である。戦後の食糧事情の悪い中、発掘作業に従事した若者の中から戦後の考古学をリードする研究者が育っていったと聞いている。

宮殿や墓などの特別な遺構やきらきらしい遺物ではなく、水田という生活址、生産址の調査保全は後への影響も大きかったろう。

富士のみならず、南アルプスが見えた。どの山かわからないが北岳、甲斐の白根もあの中にある。
平家物語の「海道下」で「北に遠ざかつて、雪白き山あり。問へば甲斐の白根と言ふ。その時三位中将落つる涙を抑へつつ、 惜しからぬ 命なれども 今日までに つれなき かひのしらねをも見つ」とあるのだが、以前手越近辺で北を見ても南アルプスは見えなかった。しかし、ここ登呂から手越は西へわずか4キロに過ぎない。安部川を西に渡ればすぐ手越だ。登呂から見える甲斐の白根なら手越からでも条件が合えば見えるのだろう。


浮島ヶ原

2022-01-04 | 行った所

平家物語第9巻「生ズキの沙汰」「宇治川のこと」鎌倉殿頼朝に従う東国の武士たちは平家ならぬ義仲追討のために征西する。平家物語によればその数6万騎。
頼朝の手元には名馬も集まっている。名高きイケヅキを梶原景季が乞うも断られ、二番手の馬としてスルスミを与えられる。イケヅキを与えられたのは佐々木高綱であった。
鎌倉を出た軍は箱根を越え、あるいは足柄を越え、浮島が原に集結し、また西を目指していく。

静岡県富士市中里に浮島ヶ原自然公園というものがある。駿河湾のなだらかな海岸線に沿ってJR東海道線が走る。その東田子の浦駅の北、国道1号線が走り、その北に沼川という川なのか用水路なのかが東西に流れているが、1号線と沼川の間あたりである。あたりは工場や運送会社の倉庫などが多いようで昔の面影を保っているとも思えないが、それでも自然公園は東西約 250 m,南北約 160 mの規模で、湿原の保全に努めているようだ。

 

おそらく浮島が原は富士山あるいは愛鷹山の裾野から海岸線にかけて、東は阿野荘、西は富士市街地近くまでの広大な湿地帯だったのではないか。湿地だから馬の通れるところは限られる。少し小高い所があれば遠くまで見晴らすことができる。

浮島が原の小高い所に立った景季、数千の馬が通るのを見ている。たくさんの軍馬の中に、俺が乗っているスルスミに敵う馬はない。非常に満足を覚えるも、一頭の馬に目が釘付けになる。あれはイケツキだ、間違いない。佐々木高綱の馬だと!なんということだ、あいつが鎌倉殿からあの馬をもらったというのか!高綱めと刺し違えて死んでやる!景季はそこまで思い詰める。
ところが高綱は、イケヅキが欲しかったのだが、鎌倉殿に行っても呉れそうになかったので盗んできたのだ、などと言う。景季もこれでは怒りようもない。笑ってしまうのだった。

この後の宇治川の先陣争いは有名だ。

ところでこの浮島が原でのイケヅキの描写は、名馬というよりただの馬鹿力の荒馬にしか見えない。「しらあわかませ、とねりあまたついたりけれども、なほひきもためずをどらせていできたり」本当にこんな馬が名馬と言われる馬だったのだろうか。思うに「平家物語」中最高の名馬は平知盛の井上黒だ。

浮島が原自然公園から西へ5キロほど行くと田子の浦港だ。

 田子の浦の歌碑と富士


阿野全成の墓

2022-01-04 | 行った所

平治の乱の時、今若は7才だったらしい。弟乙若は4・5歳か、その下の牛若はまだ乳飲み子だ。今若は父の記憶がある。源氏の棟梁の息子としてちやほやされた記憶もある。それが一転、雪の中を母と彷徨い歩いた記憶もある。乙若の手を引き、牛若を懐に抱いた母の前を歩きながら、母と弟たちを守らなければならないと思った健気な自分も記憶にあるかもしれない。平家の面前に引き出され、恐怖におののいた記憶もある。何が起こったのかを理解することもできた。
常盤が清盛に身を任せたかどうかは定かではないが、一条長成に再嫁したのは間違いなく、乙若・牛若はそこから寺に入っているが、今若が醍醐寺に入ったのはそれ以前だろう。牛若が鞍馬に上ったのは11歳というから、今若が母の手元にいたのは兄弟の中で一番短かったかもしれない。
今若は出家し全成と名乗るが、悪禅師とあだ名されるほどの荒法師となる。
以仁王の挙兵と敗死を機に寺を抜け出し、頼朝のもとへ向かう。吾妻鏡には兄弟の涙の対面が書かれているそうだ。全成は北条政子の妹を娶り、頼朝の配下となるが、目立った動きはしていない。その後やってきた義円(乙若)、義経(牛若)と会ったはずだが、互いにどう思ったのか。義円は墨俣の合戦で死ぬが、活躍する義経を見て何と思っていたのか。僧形ながら悪禅師と呼ばれた男、合戦の指揮に憧憬はなかったか。没落し死んだ義経に何を思ったのか。義経とは違い頼朝に忠実だった範頼さえ殺されたときに何を思ったのか。
頼朝に駿河国阿野荘を与えられそこに住まった。ただ一人生き残った頼朝の兄弟。
しかし無事にはすまなかった。甥の頼家に殺された。若く専横な頼家を抑えようとした北条氏の謀反に加担したから、という。

 阿野全成の館跡及び墓のある大泉寺の入口(静岡県沼津市東井出)

 


興国寺城跡

2022-01-04 | 行った所

北条早雲(当人はそう名乗ったことはないというが)こと伊勢新九郎が初めて城を持ったのは、ここ興国寺城だという。正確には今川氏より預かった城だ。ここを足掛かりに伊豆の韮山、さらに相模の小田原、北条氏は5代に渡り戦国の世の南関東の覇者となった。

 掘割

 天守付近から南を見下ろす

 


沼津千本松原・六代松の碑

2022-01-04 | 行った所

千本というが万本でも追いつかない。

 長大な松原である。日本三大松原は、三保の松原・気比の松原・虹の松原だという。佐賀の虹の松原は見たことがないが、気比の松原(敦賀市)三保の松原(静岡県清水)より沼津のここは砂浜に沿って大きく長く伸びる。
防風林なのだろう、海岸は大変な風だ。飛砂が痛い、目を開けるのが辛い。太平洋の波風を受けて和らげる松原だ。

 伊豆半島が見える

平家物語は平維盛の息子六代にかなりの紙数を費やす。平家物語第12巻「六代」「長谷六代」「六代斬られ」と3章ある。伊勢平家の代数を正盛から数え、二代忠盛・三代清盛・四代重盛・五代維盛・六代、というわけだが、四代重盛あたりからかなり怪しい。清盛より前に死んでしまっているし、清盛を継ぐ人材だったかどうか。宗盛よりはましだったろうとは思うが。重盛の子の維盛も宗盛よりましだったとも思えない。青海波を舞い、光源氏にもたとえられた御曹司、しかし武者の棟梁は無理だろう。その子六代こと高清の母である新大納言局は藤原成親の娘である。しつこく清盛にたてつき、鹿ケ谷の陰謀事件の主犯級ともされる人物の血を引く。鹿ケ谷の陰謀事件そのものが清盛側の陰謀だったとしても藤原成親は平家から見て好まれない人物だ。ここに重盛の、小松家の苦境があったのだが、六代はそれを象徴するような子だったろう。

平家物語第12巻「六代」北条時政が京都で平家の子供を探す。訴える者があって六代は見つけられる。「遍照寺奥の大覚寺の北菖蒲谷」に隠れていたのだ。遍照寺は広沢の池の南にある。1キロほど西北に行くと大沢の池で、大覚寺がある。ここから北へ行くとすぐ山で東に高雄パークウエイが走る。パークウエイに接して菖蒲谷池がある。ファミリー向けの遊園地だ。バーベキューや舟遊びができるらしい。

  このあたりだろうか。うっそうたる山の中だったことだろう。なるほど北へ登れば神護寺がある。


六代にどこまでも付き従う斎藤五・六という兄弟、斎藤実盛の子とされるが名前はわからないのかと思っていたが、延慶本には名が出てくるらしい。
「高倉天皇滝口の宗貞・宗光については、延慶本『平家物語』に、平家の都落ちの際、維盛の侍たる斎藤五宗貞・斎藤六宗光の兄弟がどこまでもお供をしたいと申し出る場面があって、両名は中世軍記物で著名な斎藤別当実盛の子供という設定である。実盛も越前斎藤氏の一族で、武蔵国長井(埼玉県妻沼町長井周辺)に住したので長井斎藤別当と称した。二人は実盛の猶子という形で維盛家に奉仕したのであろう。」(福井県史第1章第1節2在地諸勢力)

六代の乳母が高雄の文覚にすがる。文覚は北条のもとへ行くが、時宗は維盛の子のことは特に頼朝からも命ぜられている、という。六代この頃12歳。平家に捕まった頼朝の歳とかけ離れたものではない。
文覚は20日で頼朝の許可をもらうから待てといって鎌倉へ向かう。
この怪僧が六代の命運を握っていく。
20日経っても文覚は戻らず、時政は六代を連れて京を立つ。すぐ殺してもいいが、途中で文覚に会えばよし、といったところだ。斎藤五・六は、徒で付き従う。六代は輿だ。
四宮河原 逢坂山 大津 粟津 何事もなく駿河千本松原まで来たが、時政はここで六代を殺す決意をする。鎌倉への聞こえもある。ここまで待てば文覚への義理も立つ。


この長大な松原のどこだったのか、刑場のような場所は決まっていたのだろうか、文覚が頼朝からもらった書状を持って駆け付けた僧はどうやって六大たちの居た場所を見つけたのか。
あまりにもドラマチックな平家物語の場面である。


千本松原より少し北側に六代松の碑があった。

平家物語ではこの後、頼朝の死後、文覚は後鳥羽天皇を嫌い高倉天皇第2皇子守貞親王を天皇にとクーデターを企てたと佐渡へ流される。それに連座しすでに僧になり30歳の六代も鎌倉に連行されて殺される。厨子に立派な墓がある。

 逗子市の六代の墓

正直言って頼朝より頼家・実朝より墓は立派なのではないか。また六代の首はこの松原に埋められたという話もあるようだ。
しかしながら、六代が刑死したという話は平家物語以外の史料を持たず、六代こと平高清は僧妙覚としてその生を全うした可能性もある。

 


対面八幡神社(静岡県清水町)

2022-01-03 | 行った所

三島大社から西南西に3キロばかりのところに対面八幡神社という大きくはない神社がある。あと数百メートル西へ行けば黄瀬川が流れている、といえば誰と誰との対面かは知れてこよう。


もっともらしい対面石などがある。

治承4年(1180)山木館襲撃で反平家の狼煙を上げた頼朝だが、石橋山の戦いは勝負にならない負け戦。ここで死ななかったのが頼朝の強運、安房に逃れ、房総半島を北上、三浦・千葉・上総等らの一党を味方に、さらに武蔵・相模の武者が加わり、鎌倉に入る。平維盛を頭とする平家軍は甲斐源氏に蹴散らされ、大軍と聞いた頼朝軍と対峙する前にほぼ崩壊した。頼朝は黄瀬川東岸に陣を敷いたが、戦わずして勝利を手にした。
そこへ駆けつけた一人の若武者、末弟義経と知り涙の対面となったわけだが、感激のあまり手を取り涙を流さんばかり、というのは頼朝のお家芸だったらしい。北条は言うに及ばず、三浦や土肥・佐々木などにも手を取り、おぬしだけが頼りじゃ、と言い言いしていたらしい。千葉常胤には父と思う、とまで言ったらしい。きっと範頼や全成、義円、義経より前に現れた弟たちにも涙を流して見せたのだろう。
例外は上総広常だ。石橋山に惨敗し安房へ渡って再起を期す頼朝は三浦・千葉を従え北上する時、広常は2万の大軍を率いて現れる。この広常が敵に回ったら頼朝もこれまでというところだ。その広常を協力が遅いとしかりつけ、広常は感じ入って頼朝の旗下に入る。この話が本当なら、傲岸な広常の態度に、下手に出るのはまずいとの判断だったのだろうか。しっかり相手を見て臨機応変に態度を変えれる。頼朝の才能のひとつかもしれない。
しかし、相手によって態度を変える上司は部下から信頼されるものだろうか。身近にいればそれなりにわかるだろう。「そなただけが頼り」の「だけ」は自分だけではないことを。それもまた鎌倉殿としての権威を身に着けるまでのことであったか。
上総広常の傲岸さは余程不快であったのか、結局殺してしまうのだけれど。
頼朝・義経兄弟の行く末は、誰もがよく知ってる通りだ。


三島(伊豆国分寺・三島大社・楽寿園)

2022-01-02 | 行った所

・伊豆国分寺跡

伊豆は下国だ。律令制で下国とされるのは和泉国・伊賀国・志摩国・伊豆国・飛騨国・隠岐国・壱岐国・対馬国だが、大半は島か半島、伊豆は半島だ、下国とされて不思議はない。畿内から見て遠国ではなく中国だが東隣の相模は遠国だから、伊豆もまた流刑地にもなったのだろう。源為朝が流された伊豆大島なら文字通り島流しだ。
しかし、駿河湾に面した三島の地は伊豆で最も豊かな地だったのだろう。そして国府が置かれた。立派な国分寺も造られた。ほとんど聖武天皇の妄想から生まれたのではないかと思われるような鎮護国家のための仏教寺院群は、本当に造られたのだ。

 伊豆国分寺塔跡

 礎石

 

 現国分寺 国分寺塔礎石はこの中の奥にあった


・三島大社

国分寺跡から東へ行くと鎌倉古道という道がある。と言って変哲もない町中の道なのであるが。

東で大きめの道に突き当たり、三島大社だったが、正門の鳥居へ行くためには少し南に回る。大社の南を走る道が旧東海道になるのだろう。


一遍上人絵伝に三島大社を詣でる一遍の絵がある。

 大社は何度か焼亡しているので違うところもあるが、鳥居をくぐり、橋を渡りまっすぐ本殿に向かう構造は変わっていないのだろう。

 安達藤九郎盛長が三島大社に詣でる頼朝を警護した案内板がある。安達盛長は頼朝の乳母比企の尼の娘婿で流人時代から頼朝を支えた一人だ。


頼朝は治承4年(1180)8月、平家の目代山木兼隆の館を襲撃することで反平家の狼煙を上げる。襲撃の夜は三島大社の祭礼であったという。山木の手勢が祭礼に行っての留守を突いての決起だという。韮山の館と三島は離れている気がするが、同一地域なのだったか。

 

 せせらぎの小道

三島は水の町、というより湧水の町というべきだろうか。


その台地のメカニズムを解き明かした図版等は、実は恐怖の対象のような気がする。今プレートが動いたら、富士が噴火したらいったいどうなるのだ?そんな危うい大地がもたらしたものを恵みと受け取るべきか。ここに住まい時を刻んできた史がある。

 

・楽寿園

楽寿園は明治の頃の皇族の別邸だが、三島市の公園として、小体の動物園、遊園地も備えた庭園だ。郷土資料館もある。

 馬がいた。与那国馬だそうだ、小田原で見た馬よりよほど小さい。

資料館は、一般的な歴史資料、地質学的なもの・三島大社・頼朝・三島の宿関係などが展示品の主なものだが、目を引いたのはコンビナート反対運動。説明パネルには珍しい成功例、とあったが昭和30年代末、高度成長期をひた走るこの時代、誘致を止めた住民運動があったのか。

だがまた逆にここの人たちは漁業で、観光で食えていたのだ、とも思う。昭和30年代から40年代にかけて原発を受け入れた人々は、もうとても食えなかったのだ。受け入れ、そして依存した。丹後の久美浜の原発計画は撤回されたけれど、これは計画自体の発表が昭和50年(1975)と後発だ。それでも撤回が表明されたのは2016年、30年かかった。


山中城址(箱根街道)

2022-01-02 | 行った所

小田原から西へ1号線で箱根を越える。

箱根の道路網は何やら複雑でよくわからないが、三島への道路標示を頼りに進む。山越えしてもう少し下ると三島だというところで、山中城址への案内を見つけた。いくらか戻るかっこうで山道をたどると駐車場がある。そこから箱根道に入る。

山中城は箱根街道を挟んで造築された街道の押さえだったのだ。
戦国時代、北条氏の時代にはこんなに整備された道ではなかったのだろうが。

山中城は北の足柄城、南の韮山城と並ぶ小田原を守る西の要だ。

山中城が一番新しく、それだけに堅固な山城だったらしい。しかし大軍をもってした秀吉軍の猛攻には耐えきれなかった。

 山中城堀跡 ここをたどって西の丸へ

 

 

 箱根街道と山中城出丸への入口

 出丸からは見事な富士が見えた

 目を転ずると海も見える。

出丸で扮装をして写真を撮っている人たちがいた。

 一枚撮らせてもらう。


流鏑馬(小田原)

2022-01-02 | 行った所

流鏑馬(やぶさめ)は馬に乗り走りながら弓を射り的に当てるものだ。現在神事として行う神社がいくつかある。かつては武者であれば当たり前にできたかもしれない騎射だが、かなり難しそうだ。矢を射ることだけなら、たいていの人は少し練習すればできるだろう。弓道の射法八節の2番目は「胴作り」だ。腕力任せで弓弦を引き絞り、矢を放てばいいわけではない。下半身がぐらぐらでは矢は射れない。だからまず「足踏み」で射位を決め、「胴造り」で下肢を引き締め、腰を決める。「弓構え」「打起し」「引分け」「会」「離れ」「残身」と八節の最後まで胴構えは崩さない。それが馬に乗るとどうなるのだろう。鞍ごと馬体を腿で締め上げて自分の体を固定するのだというが、ともかく手放しで乗馬できるようになっていないと話にならないだろう。馬にも手綱なしでいうことを聞かせなければならない。相当馬に親しむことが肝心だ。

古墳時代後期、馬具の埋葬品が急激に増える。鏃も大量に出る。騎射はこのころから当然のようにあったあったのだろう。

小田原城へ入ったら、二の丸広場で流鏑馬をやっていた。

神事ではない、競技会のようなものだった。様々の和風の装束の騎手と馬が3組一


さらに注目すべきは馬が和種だ。サラブレット系の馬を目にすることはあっても、和種は珍しい。木曽馬だろうか、確かに小ぶりで背は高くないが、がっちりして足が太い。とてもたくましい感じがする。速く走ることだけに特化した脚ではない。和種の馬といってもそれぞれのようだ。大きめのも小さめのもいる。
馬市に行った武者は自分の懐具合も気にしながら、馬の見定めに必死になる。武者にとって馬の必要性は、地方に住む者にとっての乗用車に似ている。価格の感覚も似ているのではないか、中古の軽からフェラーリ・ポルシェの類まで。ただ武者にとってバスやタクシーという代替えはない。

 和式馬術の試技もやっていた。

 小田原城は後北条氏の本拠、北条早雲(当人はそう名乗ったことはないというが)から5代、ここに覇を唱えたが、秀吉の全国制覇の最後の仕上げとして攻められ落城した。

 


大磯の虎ほか

2021-12-28 | 行った所

平家物語の第10巻「海道下」は平重衡が京から鎌倉に連行されて行く話だが、道行になっている。ただこの辺りはよくわからない。
「足柄の山打ち越えて、小余綾の磯、丸子川、小磯、大磯の浦々」とあるのである。
足柄山を打ち越えてきたのだからルートはともかく箱根は越えた。小田原辺に出たはずである。「小余綾の磯」は小田原から大磯のかけてのことだそうだから、重複を気にしなければ、小磯・大磯はいい。問題は「丸子川」丸子宿あたりを流れている丸子川だとすると、箱根よりずっと西になってしまう。「海道下」でいえば「宇津の山べの蔦の道、心細くも打ち越えて、」の次くらいに出てこなければならない。しかし宇津の次は手越、清見が原と続いて足柄山だ。小田原から西に目立つ河川は酒匂川、金目川・相模川といったところだ。少し調べて酒匂川の古名が丸子川らしいと知る。

それはともかく、大磯といえば「虎」だ。
虎女とも虎御前いうが、大磯の遊女にして曽我十郎祐成の恋人ということになっている。曽我の梅林あたりから大磯までは10キロ以上はあるだろう。夜な夜な通うには遠いようだが、馬を使えば大したことはないか。遊郭通いは人の集まるところで憎い仇の動静でも探る意図があったものか。この場合歌舞伎の曾我物「助六」の話につながっていくようだ。ただしこちらの主人公は弟の曽我五郎時宗で恋人は揚巻となる。「曽我の対面」では虎と化粧坂少将という二人の遊女が出てくるが、工藤祐経の祝いの場に呼ばれただけだから色っぽい話は出てこない。虎は立女形、化粧坂少将は若女形の役だそうである。富士の裾野の巻狩りの最終夜、宿所に兄弟が討ち入った時には、遊女が何人もいて悲鳴を上げる。祐経は酔いつぶれて寝ており、そこを討ち取られたという。工藤祐経は切れ者で頼朝も気に入っていたというが、酔いつぶれていて殺されるなど敵役としても大した人物には見えない。
兄弟の死後、虎は出家し菩提を弔い、善光寺へ赴いたことになっている。
曽我兄弟敵討ちの物語は江戸時代に大変な人気を得たようである。歌舞伎・浮世絵の題材となって大流行する。
討ち入りの日は旧暦5月28日、梅雨の最中で雨、この日は曽我十郎祐成の命日ともなった。悲しみの虎が流す涙雨、ということでこのころの雨を「虎が雨」という。

化粧坂から西へしばらくの道は松並木に東海道の面影を残す街道だ。江戸時代に整備されたのだろうが、鎌倉初期に目立つ宿場として遊郭を構えていたというなら、それ以前から街道沿いの宿として栄えていたのだろう。

 

化粧坂から西へ3キロほど行ったところに、大磯城山公園がある。明治の政財界の大物たちは挙って大磯に別邸を構えたものらしい。この公園は三井家と吉田茂の別邸をもとにし、作られた公園だ。

 建築資材は奈良の古寺から持ってきたとか、どうしてそんなことが許されたのやら。

 展望台へ上がると、登ってきた人たちがみな一様に声を上げる。富士だ。

こういう眺望案内はくすんだり、まるで読めなくなってしまっているものも少なくないが、ここのは立派なものだ。 

向きを変えれば海も見える。

ここには大磯の資料館もある。

政財界の大物だけではなく、島崎藤村も晩年を大磯で暮らしたという。すべて山の中、と書いた木曾に生まれた藤村だが、文豪として名を成した後は、温暖で目の前が大磯港で新鮮な魚介の得られるこの地を住処としたのか。

 大磯港