“Self-Portrait with Bandaged Ear,” 1889, by Vincent Van GoghPrivate Collection/Bridgeman Images
ヴァンゴッホの耳 その1の続き。
彼女はアーヴィング・ストーンの史料のありかを、カリフォルニア大学バークレー校のバンクロフト図書館へと辿り、公文書保管者のデイヴィッド・ケスラーに問題の文書を検索してもらうよう電子メールでやりとりをした。その小さな図は二つに折り畳まれていたので、(見逃されがちだろうと検討をつけていた)彼女はそれがとうとう見つけられるまでに、5回も、「もう一度見てください」、としつこく頼まなければならなかった。しかし、この極めて重大な発見をした後でさえ、昨夏(2015年夏)ヴァンゴッホ博物館でそのスケッチを発表するまで、我慢強くその立証を強化しつつ、静かに沈黙を守った。
「それに何か価値があることは分かっていましたが、誰も私が誰であるか知らないことを知っていました。私がそれ(図)がどういうものかを証明しようとするなれば、議論の余地がないほどしっかりと証明するために、あらゆる角度でそれを論証する準備をしなければなりませんでした。」と彼女は言う。「人々はいつも別説を信じてきたので、真実の話がどこでどう間違ってしまったのか、を知る必要があったのです。」
マーフィーは(事件後に描かれた)ヴァン・ゴッホの自己肖像画を手掛かりに研究していった。地元の救急医務室医師に相談したところ、(肖像画での画家の)絆創膏の下の詰め物の分厚さから、切断された耳たぶからだけよりも多くの出血を示していると言うことだった。マーフィーが、もう一度読み返したヴァンゴッホの書簡によれば、抗生物質がない時代ひどい外傷を負うことにつきものだった感染と発熱のあったことが書かれており、入院してから二週間後に退院したことは、回復が複雑な道を辿り、また多量の失血をしていたことを示していた。
1888年の事件直後にヴァンゴッホを訪ねた友人の画家、ポール・シニャックによる目撃談の、ヴァンゴッホは、ただ耳たぶだけを切り取ったというのが、根強い確信の由来であった。 1921年の手紙で、ポール・シニャックはヴァンゴッホが「耳全体ではなく耳たぶを切り取っている」と回想している。
「私はフランス語を読みますが、(シニャックの)手紙のほんの些細な抜粋を除いて、そのすべてが、全く出版されてはいません。」とマーフィーは言う。 「彼の完全な手紙には、彼が最後にヴァンゴッホを見た折に、頭に包帯を巻き、その上に毛皮の帽子を被り、いつものような服装だった、と言っています。彼(ヴァンゴッホ)は『ビンゴ(ゲーム)に行ってきた』と言い、頭に巻かれていた包帯のせいで、実際にヴァンゴッホの耳を完全に(シニャック)は見てはいませんでした。」
彼女は、他の記述や談話を鑑みても、ヴァンゴッホは、いつも耳を覆っていたということであったので、シニャックの言い回しが、あたかも福音のように固定観念として根付いたのだろうと観ている。
「おそらく、ポール・シニャックは少し残っていたのが耳たぶだったので、少々ヴァンゴッホ(の真の状態)を誤解したようだ」と彼女は言う。 「私は、彼(シニャック)が包帯に覆われていない状態を一度も見ていなかったと理解してからは、話は、(ヴァンゴッホが)大量失血した、ということで、停滞したのです」と語った。
ヴァン・ゴッホがその夜、切り落とされた耳を、いつも単に 「レイチェル」と呼んでいた売春宿の女性に持っていったのだが、その女性が何者なのかもわかっておらず、これまた大きな質問の一つだった。マーフィーは当時の国勢調査記録を捜し出し、そこに「レイチェル」という娼婦を見つけようとしたが、どこにもその名はなかった。しかし同時に彼女は新しく見つけた報道されていた報告のひとつに、この女性が「ギャビー(Gaby)」と名づけられていることに気付いたのだった。そして、確かに、彼女はガブリエル(ギャビーはガブリエルの短い名前)が国勢調査に載っているのを発見した。
彼女はアルルで少数の人に電話をかけて、その女性ギャビーの子孫を追跡することに成功した。子孫らは素性を明らかにされたくはなかったが、ガブリエルは狂犬病の犬にかまれて、1888年1月にルイ・パスツールがその頃ちょうど狂犬病ワクチンを発見したばかりのパリに送られてきたのだった、と語った。ガブリエルがアルルに戻った時、彼女は売春婦ではなく、売春宿で女中として仕事を始め、(狂犬病治療の)医療費を支払う助けにしたのだった。
マーフィーは彼女(ガブリエル)の医療記録を発見し、ヴァンゴッホの書簡を再検討したところ、パスツール研究所に狂犬病を疾病した女性達が住んでいたという下りを見つけたのだった。この偶然が、マーフィーに、ヴァンゴッホとガブリエルは、パリで初めて出会い、画家は1888年2月にアルルへと引き払ったのだ、という説を思いつかさせた。
しかし、マーフィーによる彼の耳についての発見とは異なり、この物語の第1章に成るべく章は、単なる推論に過ぎない。
「世界中のあらゆる場所の中から、なぜ、ヴィンセントはアルルに行ったのか、誰も知り得ないのです。論理に叶う場所はマルセイユ(パリでヴァンゴッホと出会ったかもしれないポール・セザンヌのような印象派画家に影響を与えた都市)でした。 多分彼は印象派の人々にパリで会ったことは会ったかもしれませんが。」とマーフィーは言う。 「それは証明できるものではなく、単なる可能性です。」
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“Van Gogh’s Ear, The True Story” 著者バーナデット・マーフィ女史とその著書日本語版