今日、友達と話していたら、なんだかとても、おもしろかった。
爆笑、爆笑。
その友人MORY(仮)とは高校時代からの付き合いで、当時から二人の間でやっている遊び「テーマ文通」というのがある。
ルールは二つ、
1、テーマに沿ったものを書く
2、夜中に書く
ということ。2に関しては、やっぱり夜書くと、クサくなるから、楽しいっていうことで。
高校の時に始めた動機は、「受験の小論文対策を楽しくやるため」っていう、すごく真面目な話だったんだけど、
路線を踏み外しすぎて基本的に役立たなかった、みたい。
途中お互い忙しかったりでやっていない時期もあったのだけど、
この二年ぐらいはコンスタントに隔週~月一くらいでやりとりをしている。
さぁ次回のテーマはどうしましょうかっていう話から、
そういえば去年は年の初めに何テーマだっただろうっていうので、お互いの手紙を読み返したりしていたんだけど、
その、おもしろいこと!!
「今後10年間にやりたい10の事」
「指定図書の主人公に相手を置き換えて、手紙を書く」
「ヒマラヤの頂上に登った時の気持ちで、頂上からの手紙を書く」
「あの人はいま」
「高校時代のあなたへ」
「私の友人紹介します」
「自己紹介」
とか。もう、出会って10数年経とうとしているのに、今更自己紹介!!
同い年なのに、生まれ年とかまで書いてる。笑。
私、登山とか大嫌い(超インドア)なのに、山頂からの手紙をリアルに書いてたり、
内容が濃すぎて、もしそれが外部に出るような事があったら生きていけない!というようなものまで。
他にも、高校時代の私たちに宛てた手紙とかも、すごいおもしろかった。
手紙っていいなぁと思った。
メールでは、やっぱりこういうことが出来ない。
形として残って、大事に出来て、後で読み返して笑える、泣ける。
お互い、言葉にはしてこなかったけれどもすごく大事にしている思い出とかもあって、
「あの時本当は、こう思ってたんだ」とか言われて新しい側面に気付いてへぇ~ってなったり感動したり。
MORYとは、すごく濃密な時間を過ごせたんだなと、心から思った。
私は子どもの頃から、結構わいわいと騒いでふざけてっていうのが好きな子どもだったのだけれども(基本、今も変わらず)、
それが仇となってというか、本当に感じていることっていうのを人に伝えたり、
素直に表現するっていうことが、苦手だった(基本、今も苦手)。
高校卒業間近、MORYと夜ガストでしんみり話をしたことが一回だけあって(MORYは基本夜間等に外出したりはしない)、
マジな感じになってきたなーと少し私は、無意識ながら、警戒してた。その時、彼女は真剣に、
「なんでいつもそういう風に、シャッター閉めちゃうわけ?
少しでも、内側に入ろうとすると、突然シャッターを閉める。
私は、いつもそういう風にされる度に、傷ついてたよ。
そこに人が挟まってても、おもっきり閉めてるんだよ。それは、すごく怖い」
と、言った。
その光景って、私の中でも原風景的に残っていて、
ガストの壁紙まで思い出せる。
自分が他人に対してシャッターを閉める、その瞬間っていうのを如実に感じた瞬間だった。
あぁ、私はこんなにも人を恐れていたんだ、と感じた瞬間だった。
その時に、「自分」と「他者」っていうのは、
断絶されたものではなく、本来繋がっているものなんだ、ということを知った。
ずっと、同じときを、一緒に過ごしていたんだな、と。
NPOに関わりだして、RCSNKで性暴力についての活動とかもして、
その中でHIV+の人たちの支援をしているぷれいす東京っていうNPOがやっているLivingTogether計画っていうのに出会った時、
あぁ、あれと一緒だ、と思った。
共生を望むのではなくて、既に共に生きているんだって。
性暴力被害者に向けた活動をしたり、性教育に携わったりすることっていうのは、
社会的な取り組みの一つなのかもしれないけど、
それを通して「社会起業家」だとか、社会問題への「活動家」として捉えるのがどうもしっくり来ないのは、そこだと思う。
私たちは、共に生きているこの時間の中で、
生きる事を遂行しているだけなんだ。
性暴力被害にあうということは、何も被害者に落ち度のあることじゃない。
それを伝え、助けを求める為には、そこに“安心できる環境”が必要だ。受け入れてくれる人が必要だ。
受け入れてくれると思えるっていうのは、自分が「大事にされている」って実感できていることでもあって、
どんな自分でも、否定されることはないっていう安心感だ。
自分を、許せているということだとも思う。
それは、受け入れる側にとっても同じで。
被害にあった人を孤立させない、という最大限の予防策は、
受け入れる姿勢。
「気をつけて」ということでもなく「そんな格好してるから」と注意することでもない。
ただ、受け入れる姿勢。
そして、二次被害を生まないために、知識、スキルが必要になる。
孤立しない、させないための予防策を打つためには、「自分を大切にする」という、精神構造上の問題が必要になる。
セルフエスティーム、自尊感情っていうやつ、だね。
自分を愛してあげる、ということ。
これは、性暴力に限らず、性教育全体としてそういうことだと思う。
性についての教育っていうのはイコールして性行為のスキルじゃない。
安全な性行動っていうのは、自分を大切にして、
その上で他者との繋がりを理解し、責任を知り、大切にしようとするっていう、
生きる力の教育なんだと私は思う。
自分を愛するという前提なしにして、
他者を大事にしよう、愛をもって、なんて言っても、通じるはずがない。
性教育っていうのは、そこにコミットすることの出来る、
すごく大切なものだと思う。
性教育=コンドームの付け方、妊娠の構造、STDについて、ではない。
MORYの言う「シャッター」というものを、意識するようになった時、
開けっ放しにするのがいい事だとは思わないけれども、
そこに想いをもって入ってこようとしている人がいるなら、その人の事を、もう傷つけたくはないな、と思った。
現実的な暴力行為に及ばなくても、
やはり自分の内在化された暴力性が人を傷つけている事を知った。
世の中のあらゆる問題、暴力は、
まず自分から手放さなければならないものなんだと知った。
これは、実はすごく難しいことで、
知ったからってすぐ実行できるものでもないと思う。
でも、せっかく知る事が出来たのだから、そうありますようにと、今、それを実行に移したいと思っている。
これは、永遠のテーマじゃないかと思う。
爆笑、爆笑。
その友人MORY(仮)とは高校時代からの付き合いで、当時から二人の間でやっている遊び「テーマ文通」というのがある。
ルールは二つ、
1、テーマに沿ったものを書く
2、夜中に書く
ということ。2に関しては、やっぱり夜書くと、クサくなるから、楽しいっていうことで。
高校の時に始めた動機は、「受験の小論文対策を楽しくやるため」っていう、すごく真面目な話だったんだけど、
路線を踏み外しすぎて基本的に役立たなかった、みたい。
途中お互い忙しかったりでやっていない時期もあったのだけど、
この二年ぐらいはコンスタントに隔週~月一くらいでやりとりをしている。
さぁ次回のテーマはどうしましょうかっていう話から、
そういえば去年は年の初めに何テーマだっただろうっていうので、お互いの手紙を読み返したりしていたんだけど、
その、おもしろいこと!!
「今後10年間にやりたい10の事」
「指定図書の主人公に相手を置き換えて、手紙を書く」
「ヒマラヤの頂上に登った時の気持ちで、頂上からの手紙を書く」
「あの人はいま」
「高校時代のあなたへ」
「私の友人紹介します」
「自己紹介」
とか。もう、出会って10数年経とうとしているのに、今更自己紹介!!
同い年なのに、生まれ年とかまで書いてる。笑。
私、登山とか大嫌い(超インドア)なのに、山頂からの手紙をリアルに書いてたり、
内容が濃すぎて、もしそれが外部に出るような事があったら生きていけない!というようなものまで。
他にも、高校時代の私たちに宛てた手紙とかも、すごいおもしろかった。
手紙っていいなぁと思った。
メールでは、やっぱりこういうことが出来ない。
形として残って、大事に出来て、後で読み返して笑える、泣ける。
お互い、言葉にはしてこなかったけれどもすごく大事にしている思い出とかもあって、
「あの時本当は、こう思ってたんだ」とか言われて新しい側面に気付いてへぇ~ってなったり感動したり。
MORYとは、すごく濃密な時間を過ごせたんだなと、心から思った。
私は子どもの頃から、結構わいわいと騒いでふざけてっていうのが好きな子どもだったのだけれども(基本、今も変わらず)、
それが仇となってというか、本当に感じていることっていうのを人に伝えたり、
素直に表現するっていうことが、苦手だった(基本、今も苦手)。
高校卒業間近、MORYと夜ガストでしんみり話をしたことが一回だけあって(MORYは基本夜間等に外出したりはしない)、
マジな感じになってきたなーと少し私は、無意識ながら、警戒してた。その時、彼女は真剣に、
「なんでいつもそういう風に、シャッター閉めちゃうわけ?
少しでも、内側に入ろうとすると、突然シャッターを閉める。
私は、いつもそういう風にされる度に、傷ついてたよ。
そこに人が挟まってても、おもっきり閉めてるんだよ。それは、すごく怖い」
と、言った。
その光景って、私の中でも原風景的に残っていて、
ガストの壁紙まで思い出せる。
自分が他人に対してシャッターを閉める、その瞬間っていうのを如実に感じた瞬間だった。
あぁ、私はこんなにも人を恐れていたんだ、と感じた瞬間だった。
その時に、「自分」と「他者」っていうのは、
断絶されたものではなく、本来繋がっているものなんだ、ということを知った。
ずっと、同じときを、一緒に過ごしていたんだな、と。
NPOに関わりだして、RCSNKで性暴力についての活動とかもして、
その中でHIV+の人たちの支援をしているぷれいす東京っていうNPOがやっているLivingTogether計画っていうのに出会った時、
あぁ、あれと一緒だ、と思った。
共生を望むのではなくて、既に共に生きているんだって。
性暴力被害者に向けた活動をしたり、性教育に携わったりすることっていうのは、
社会的な取り組みの一つなのかもしれないけど、
それを通して「社会起業家」だとか、社会問題への「活動家」として捉えるのがどうもしっくり来ないのは、そこだと思う。
私たちは、共に生きているこの時間の中で、
生きる事を遂行しているだけなんだ。
性暴力被害にあうということは、何も被害者に落ち度のあることじゃない。
それを伝え、助けを求める為には、そこに“安心できる環境”が必要だ。受け入れてくれる人が必要だ。
受け入れてくれると思えるっていうのは、自分が「大事にされている」って実感できていることでもあって、
どんな自分でも、否定されることはないっていう安心感だ。
自分を、許せているということだとも思う。
それは、受け入れる側にとっても同じで。
被害にあった人を孤立させない、という最大限の予防策は、
受け入れる姿勢。
「気をつけて」ということでもなく「そんな格好してるから」と注意することでもない。
ただ、受け入れる姿勢。
そして、二次被害を生まないために、知識、スキルが必要になる。
孤立しない、させないための予防策を打つためには、「自分を大切にする」という、精神構造上の問題が必要になる。
セルフエスティーム、自尊感情っていうやつ、だね。
自分を愛してあげる、ということ。
これは、性暴力に限らず、性教育全体としてそういうことだと思う。
性についての教育っていうのはイコールして性行為のスキルじゃない。
安全な性行動っていうのは、自分を大切にして、
その上で他者との繋がりを理解し、責任を知り、大切にしようとするっていう、
生きる力の教育なんだと私は思う。
自分を愛するという前提なしにして、
他者を大事にしよう、愛をもって、なんて言っても、通じるはずがない。
性教育っていうのは、そこにコミットすることの出来る、
すごく大切なものだと思う。
性教育=コンドームの付け方、妊娠の構造、STDについて、ではない。
MORYの言う「シャッター」というものを、意識するようになった時、
開けっ放しにするのがいい事だとは思わないけれども、
そこに想いをもって入ってこようとしている人がいるなら、その人の事を、もう傷つけたくはないな、と思った。
現実的な暴力行為に及ばなくても、
やはり自分の内在化された暴力性が人を傷つけている事を知った。
世の中のあらゆる問題、暴力は、
まず自分から手放さなければならないものなんだと知った。
これは、実はすごく難しいことで、
知ったからってすぐ実行できるものでもないと思う。
でも、せっかく知る事が出来たのだから、そうありますようにと、今、それを実行に移したいと思っている。
これは、永遠のテーマじゃないかと思う。