「性暴力被害者の魂は殺されているのよ!」
一人のフェミニストが繰り返し私の隣で喚いていた。
私はとても暗い気持ちになった。
「その、魂殺されたらしい人があなたの隣で仕事してますよ」
そんなこと彼女は考えもせず、もう一言加えた。
「傷ついた心は戻らないのだから」。
いい加減にしてほしいと思った。
私は魂も殺されていて、
傷ついたまま戻らない心を持っていると言うのだろうか。
「私の魂は殺された」そう言った人の気持ちは痛いほどに分かる。
性暴力はその人に対する魂レベルでの攻撃だったのだから。
しかし、私たちの魂は死ななかった。
それどころか、生き延びるために、強くなった。
強く、賢く、生き抜くための心を、身体を持ち堪えさせてくれていた。
回復しない、というイメージを植え付けるべきではない。
私たちは思う。
あんな悪夢を二度と繰り返したくはないと。
私たちは思う。
二度と嫌だと。
どれほどの苦痛であったかを記すための言葉が足りない。
加害者を貶める言葉が浮かんでは消えながら、
私は、自分の苦痛を、時として「死」というワードで記したくなる。
だけれども、本当はそうではないということを知っている。
私は悪くないのだから。
私は何も失ってなどいない。
私が欠けているのではなく、欠けているとしたら加害者なのだ。
だけれども、
私の脳裏に浮かぶ「私が悪い」「私は欠けている」という声に同調する声が聞こえる。
「あなたの魂は死んでいる」と。
性暴力は魂の殺人です。と、自信満々に語る人たち。
あなた方の本当の仕事は、
「性暴力被害にあったからと言って、あなたの魂は死んでいない。それほどに辛い経験を、あなたがたは生き抜いた、本当にパワーのある人たちなんだ」
ということを伝えることではないのですか。
魂(という概念がしっくりくる人ばかりとは限らないけど)すら攻撃の対象となる。
それだけのインパクトを、性暴力の加害は生涯に渡り多くのサバイバーに与える。
魂を殺された、と、今も思いながらいる人がいるならば私は伝えたい。
そう思っているあなたの魂はそこにいて、いまこの時を、あなたと共に生き抜いているということを。
私達は、今、生きているのだということを。
一人のフェミニストが繰り返し私の隣で喚いていた。
私はとても暗い気持ちになった。
「その、魂殺されたらしい人があなたの隣で仕事してますよ」
そんなこと彼女は考えもせず、もう一言加えた。
「傷ついた心は戻らないのだから」。
いい加減にしてほしいと思った。
私は魂も殺されていて、
傷ついたまま戻らない心を持っていると言うのだろうか。
「私の魂は殺された」そう言った人の気持ちは痛いほどに分かる。
性暴力はその人に対する魂レベルでの攻撃だったのだから。
しかし、私たちの魂は死ななかった。
それどころか、生き延びるために、強くなった。
強く、賢く、生き抜くための心を、身体を持ち堪えさせてくれていた。
回復しない、というイメージを植え付けるべきではない。
私たちは思う。
あんな悪夢を二度と繰り返したくはないと。
私たちは思う。
二度と嫌だと。
どれほどの苦痛であったかを記すための言葉が足りない。
加害者を貶める言葉が浮かんでは消えながら、
私は、自分の苦痛を、時として「死」というワードで記したくなる。
だけれども、本当はそうではないということを知っている。
私は悪くないのだから。
私は何も失ってなどいない。
私が欠けているのではなく、欠けているとしたら加害者なのだ。
だけれども、
私の脳裏に浮かぶ「私が悪い」「私は欠けている」という声に同調する声が聞こえる。
「あなたの魂は死んでいる」と。
性暴力は魂の殺人です。と、自信満々に語る人たち。
あなた方の本当の仕事は、
「性暴力被害にあったからと言って、あなたの魂は死んでいない。それほどに辛い経験を、あなたがたは生き抜いた、本当にパワーのある人たちなんだ」
ということを伝えることではないのですか。
魂(という概念がしっくりくる人ばかりとは限らないけど)すら攻撃の対象となる。
それだけのインパクトを、性暴力の加害は生涯に渡り多くのサバイバーに与える。
魂を殺された、と、今も思いながらいる人がいるならば私は伝えたい。
そう思っているあなたの魂はそこにいて、いまこの時を、あなたと共に生き抜いているということを。
私達は、今、生きているのだということを。