今日は仕事で神戸から東京に日帰り出張だった。
のぞみの車窓から眺めるともなしに景色を眺めながら、「この辺はまだ大丈夫なのだな」と思った。
もちろん、静岡県の茶葉でさえ放射性物質が検出されているのだから、ちっとも大丈夫ではないのだが、このあたりの人々は、故郷が汚されてしまったとはあまり感じていないだろう。
実は我々は皆、すでにヒバクシャなのだが。
この夏、仙台と郡山に行った。
「美しい景色でしょう。美しいだけに哀しくなるんです」と東北の人は言った。
放射性物質は目に見えないけれど、確実にあの山々に降り積もっていた。
そこに生まれ育ち、そこしか故郷と呼べる場所がない人々の、何かかけがえのないものが踏みにじられて、汚されたのだ。
東北の方々とふれあう
汚れちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる
1年間に100ミリシーベルト未満の放射線を浴びても人体に影響があるという証拠はないから、大丈夫だということにして、それ以下の地域は除染しなくていい、と言い出す人がいる。
証拠がないということと、人体に影響がないということとは全く違う。
さらに、原発推進派は、放射線管理は経済学の問題だというのだ。
違う。
放射線被曝の問題は、人の命と幸せの問題だ。
東日本大震災から半年 本当の復興とは被災者の幸福追求権を保障すること
汚れちまった悲しみに
たとえば狐の皮衣
汚れちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる
そもそも、100ミリシーベルト被曝すると、0・5%ガンになる確率が上がるなどという、ICRPの基準が全くでたらめなのは、このブログで何度も何度も取り上げてきた。
その基準は近距離被爆者と遠距離被爆者を比較したABCC→放射線影響研究所の疫学調査を元にしていて、この調査は非曝露対照群の設定に誤りがあり、被曝した人同士を比べてしまっている。
それでは何十年追跡調査しても、なかなか差が出ないのは当たり前だ。だから、当然、放射線の影響を過小評価してしまっている。それで、チェルノブイリで最も深刻な健康被害はストレスだったと言い出す始末だ。
むしろ、放射線の影響を矮小化するための調査だったのではないかとさえ思われる。
子どもの日 内部被曝の恐怖25 近畿原爆症集団認定訴訟 大阪高裁判決文よりICRP基準の問題点
原発推進派からは、挙げ句の果てに、微量の放射線は身体にいいかも?などという話まで出てくる始末だ。このブログでも散々笑いものにしてきた低線量放射線治療法を本気で取り上げる人がいるのだ。
人の命を軽く考える人たちの論理もまたあまりにも軽い。
出口が見えない放射能汚染土壌の除染問題 けれども安易な「解決」より問題を真摯に考え続ける誠実さを
汚れちまった悲しみは
なにのぞむなくねがうなく
汚れちまった悲しみは
倦怠のうちに死を夢む
他方で、福島は放射線管理区域だから、放射性物質を測定しない限り、法律通り、そこから物を持ち出しても、人が出てもいけないなどという人がいる。
そこが本当に例えば研究室、例えば原発で、放射線管理区域に指定されているのなら法律上はそうだ。しかし、放射線管理区域と同じレベルの放射線があるのにそこで暮らせという文部科学省も無茶苦茶だが、放射線管理区域自体ではないのに、そこに現に暮らしている人々に原発作業員と同じ規制に従えと言うのは滅茶苦茶すぎる。
学校庭放射線量基準 年間20ミリ 文科省撤回要請行動「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」
平泉大文字送り火:被災家屋の木材使用 京都五山の送り火は陸前高田の薪使用中止
そういう感覚だから、陸前高田の薪を京都五山の送り火で使うと危険だとか、室内にあった花火を打ち上げても危険だとか言う話になってしまうのだ。
薪を送り火で燃やして今以上に被曝するわけもないが(京都の人だってもうヒバクシャなのだ)、気になるなら皮を削れば良かった。
外に置いていたら湿気てしまう花火を稲わらのように屋外に出しているわけがなかろうとか(事実そうだった)、花火を打ち上げても、原爆じゃあるまいし、下に居る人が被曝するわけがないだとか、冷静になれば普通はこうだろう、というような感覚が、脱原発派も麻痺し始めている。
まるで伝染病患者を隔離するのと同じ感覚で語っていることに気づかないのだろうか。もともと正しい指摘をしていた人たちの一部が知らず知らずにいわれなき差別を始めている。大多数の脱原発派の足を引っ張っている。
除染まで時間がかかるのに、そんなことを言っていたら福島の人々は人として生きていけない。被害者をさらに苦しめる。
本当に「心の復興」が必要なのは被災者ではないのかもしれないです
汚れちまった悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる
中原中也
心と体と故郷を汚されてしまった人々の悲しみに、我々はどうやったら寄り添えるのだろうか。 |
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だから、この核放射性物質を核燃料サイクルのエネルギー利用は、悪魔の仕業なのでして、所詮は物質の一種だから、悪魔の強欲が人間の心の中にあるのです。
よって、これは、人の意識の中にある欲望を、如何にコントロールできるかに、未来の人類の存在が係っている。
1965年頃から、日本でも本格的に原子力・核エネルギー利用を、アメリカ政府の原発開発大号令に合せて、強引に導入し始めて、約50年、すなわち半世紀の後に、このような悪魔の顔が表面化したのでした。
この問題は、”悪魔と日本人との共存”が、可能か否かという問題なのです。
すなわち、目の前のフクシマ原発事故爆発・核燃料溶融のメルトダウン現象として、「現実を直視できるかどうか、の意識革命、ないし精神改革の重大なテーマ」です。
どうする?
すみませんでした。最近覗かせて頂いていますので継続が判らずそこのところを指摘されると
は思っていましたが・・。失礼しました。
>>薪と花火の話。
よごれちまった悲しみにで、すべてに及んでいると理解していました。すみませんでした。
これからも読ましていただきます。
cafeさん、ばじめまして。
福島の農か漁業の男性年配者が「国を信じられなくなったらお終いだから」と。戦中国家教育ですり込まれなでつけられて対峙できないのです。少し無政府主義にふれて非協力運動ぐらいできるようになれれば変わるんですが。
そういえば野球のワールド大会でも米国がハゲタカファンド的にやろうとしています。
では。
誰魔か、助けて!
どじょうは、土の中に住むから、泥水の中に潜っていれば、いいのかも、、、でも人間様にはできない野田ヨ。日本中を、放射性物質のどじょうの住処にするな”野田泥鰌首相ヨ!
ふくろうさん、凄い出会いでしたね。これからもよろしくお願いします。
カフェさん、管政権に主たる責任があるわけではないですよ。
単純な者さん、私が後半で書いたのは薪と花火の話。
「行政国家が何故「閉じ込め」ずに全国に更に放射性物質を運び出し拡散させようとするのか」
とはなんの関係もありません。
前から書いている、無意味で過剰な穢れ意識が、被害者を「二度殺す」話を書いたのです。
わざと論理飛躍してはいけません。
中原中也、久しぶりに読ましていただきました。様々解釈はあるとは思いますが一種無政府主義という見解もあります。日本人は相当強く国家に絡め取られがちの面が強く、無政府主義か不当に否定されてきた歴史があります。その点を理解して今回の貴論説は読まなければ習いなのだろうと思いました。
低線量被爆に対しては正しい評価をしていながら、全国に運び出してまき散らし更に被害を拡大させる行為については如何かというのは矛盾だと思います。いきなり論理が飛びすぎているのにはびっくりします。
本来発生元の(福島にではありませんよ、東電福島第一原発にですよ)「東電福島第一原発」敷地内あるいはその周辺の強く汚染された土地を東電が購入して代金を払い汚染貯蔵施設にしてそこに「戻す」ということを可能な限り(どだい既に無理な話ではありますが)努力すべきだあるということを提案する為にひとつの理由として放射線管理区域の例を挙げていると私は理解しています。
ロジックとして放射線管理区域という例を挙げているのでそれを主題にしているわけではない事は理解されているはずです。
福島県に同情する気持ちを利用して全国で放射性物質を引き受けさせようとする動きには反対したいと思います。
1番の核心は行政国家が何故「閉じ込め」ずに全国に更に放射性物質を運び出し拡散させようとするのかについてどう認識するのかですね。何故なんでしょう?
国家にもたれ合う日本人には判りにくいのですが国家と宗教と自分との関係を内蔵している欧米人には判るらしいのです。
今後の訴訟をイメージすれば弁護士にも判りやすいと思います。
バスビー博士という人が「高放射能汚染されたがれきを全国で燃やす裏には、癌の患者を全国に広めて、政府が提訴されたときに福島の発癌率を他の地域と比較できないようにするのが目的ではないか」と推察しているそうです。
私はその鋭い思考感覚に思わずのけぞって感心してしまいました。少なくとも彼の「その他に全国に放射能汚染を広める理由があったら知りたい」という問題提起に何かアイデアを持っていて欲しいものです。
さて、こういう行政が意図的に放射能汚染を広めようとすることに不信感をいだく人民が花火であろうとそれを許そうとしないで反対の意志を示すことには正当性があると思うのです。
何が真理かを主張するよりも、街のスーパーで家族のためによりリーズナブルでより安全でより栄養効果があってより美味しい食材を真剣に選択するお母さんのまなざしこそが真理を追究していると考えたいものです。これは人類史や女性史や家族史やヘーゲルの精神への考察等々をごちゃ混ぜにしていますが、一般的に男性の論はこういう観点の方面で弱点があります。
今回の薪や花火の持ち込みを拒否するのも根底にはそのことがあるからなのだと考えています。
今こそ日本人民は無政府主義に目を開かなければいけないと・・しかし今貴論説にロジックとしても一貫性が読み取れないのです。情勢分析(敵は誰か)の観点が必要なのではないでしょうか。
ご一考を。では。
ニーチェの「神は死んだ」と言った時、ヨーロッパ・中東の「キリスト教の神が死んだ」、という意味だったが、日本の死んだ神は、「原発守護の神の死であって欲しい。」
しかし、実際には、何れ数年、数十年先に、日本の子供達、児童生徒、学生、青年らの若者達が、Fukushima放射線の洗礼を受け、甲状腺カン、白血病のガン、その他のガンを発病して、死亡するに違いない!諸外国の原子力事故でも、そうだったからフクシマだけ、例外にはならないのが当たり前ではないか、、、政府、地方公共団体の公権力が、嘘を言っているのには、腹が立つ!」
菅直人前首相の政治信条は、「最低不幸社会」だったが、この意味するところが、「最低の国民が不幸に住む社会の市民」を意味した。
美しい日本の風土と心を、取り戻すためには、どうする?
東電は責任逃れ。議会制は機能不全。マスメディアは大本営発表。裁判所は不当判決。怒りが湧きます。怒りをエネルギー源に、「さかのぼって考える勉強」をします。
ご教示ありがとうございました。
http://www.asahi.com/national/update/0905/TKY201109050151.html
除染とか汚染処理とか言っても、本質は移染であり、消毒や中和ではない。放射性物質は溜って行く。
取り返しのつかないものを取り返すために、電力が足りようが不足しようが、核発電は無くさないといけない。無くしたところで人類は滅びはしない。