スペイン語の勉強

2021-02-23 12:28:47 | 経済
始めました。

オルテガ・イ・ガセットの本を読むためです。

24年前から10年間は継続して勉強したので、なんとなく、文法や語彙をチェックしても、違和感がありません。

スペイン語は、世界で英語、中国語に次ぐ3番目の話者人口をもつ言語です。

教養としても勉強する価値はありそうです。


日本臨床政治学会 査読論文 2020年度

2021-02-19 13:04:36 | 経済
前期ロールズと後期ロールズとの断絶
             -----原初状態論と重合的合意論-----
      日本臨床政治研究所主席研究員    板橋亮平



1.問題の所在
筆者は、ロールズ研究を推し進めてきた。最近になって、筆者の考えが変わった。日本臨床政治学会の論文においても同じである。副題が示している通り、原初状態論と重合的合意論についてである。筆者は、この二論の連続性をもって斬新なロールズ論を展開したと豪語してきた。しかしながらこれは端的に無理である。原初状態論=前期ロールズ、重合的合意論=後期ロールズ、と読むのがやはり正当であって、この読みを読み手に問う方がはるかにわかりやすくロールズ理論を読んでもらえると思ったのだ。
 のちに詳しく述べるからここでは簡単に述べておくと、原初状態において自由かつ平等な人格者たちが、無知のヴェールをかぶり、相互関係が有利な状態や不利な状態にならないように公正な当初状態で「全員一致」において正義の原理を正当化することが政治理論のロールズに対するまなざしであったと述べた。また重合的合意において必ずしも自由かつ平等な人格でなくとも、ジョン・グレイが言うように、一時期不平等であっても、のちにそれが回収できれば、不利な人格も自由かつ平等な人格に復帰できるから、原初状態と重合的合意とは連続しているという説もある。
 しかしながら、この説には無理があった。原初状態は万人一致に至るまでいつまでたっても入ることはできないのである。ところが重合的合意論では、だれでもいつでも重なり合う状態に入ることができるのである。この決定的断絶は、筆者のこれまでの理論を覆すものである。この筆者の理論的誤りを率直に述べた上で、前期ロールズを代表する作品であるA Theory of Justice(1971 以下TJ 前期ロールズ 前期とも記す )と、後期ロールズを代表するPolitical Liberalism(1993 以下PL後期ロールズ 後期とも記す)を引用をしながら新しいロールズ像を浮き彫りにしたいと思うのである。
 また、そもそも、PLは、1997に版権を取っていながらいまだ翻訳が出ていない以上、精密・緻密に筆者の翻訳で論文を執筆していこうと思う。問題意識は以上のようなものであるが、筆者の以前の読みは、過度に「新しい」ロールズ像を浮き彫りにしたいという欲求が強く、基本のところで間違えていた。しかしながら、ここでようやく過ちをしっかりと見つめることができたことは、今までのロールズ解釈の提示よりもずっとよかったと自戒している。
 これからは、今回の日本臨床政治学会の論文は、「新・新ロールズ論」と名付けてもよい。以後の論理は、くどいほど述べることになるが、ロールズの新・新理論を述べるには、引用を多くしなければ、ロールズや読者にこんな失礼なことはないとの思考から、引用はかなり多めになっているので、容赦願いたいのである。その他の筆者の論理の構成の在り方がまだ遅々として進んでないというのであれば、ぜひ叱正していただきたい。これからの筆者の新・新ロールズ理論の発展に資するためにもお願いしたい。



二 原初状態(一)
 原初状態について突っ込んでロールズが紙面を割いているのは、TJのChapter3のThe Original Positionにおいてである。ロールズが紙面で割いている功利主義、平均功利主義や直感主義は、前期においても後期においても否定されているからここでは論じない。  「人々社会理論でよくわかっている手続きに従う。…原初状態では、エゴイズムは消去されるであろう。「…社会理論とは対照的に、狙いは、その結果がどのようなものになるにせよ選択される原理が道徳的視点からみて受け入れることができるように、初期状況を特徴づけることにある(邦訳 1979:93-94頁)。「連続説」を筆者がとったのは、この部分に共感を感じたからに他ならない。しかし、ロールズの原初状態を特徴づけける諸人格は「合理的」な人々でもあり「道理的」でもある。「公正としての正義は、内省的均衡での慎重な判断によって姿を現す道徳的心情なのである( 邦訳 1979:95頁)。
 ロールズのTJは、後期ロールズの人格の合理性を前面には出していない。むしろ、包括的教義としての道徳的社会理論を前面に押し出している。これは後期で見るように、PLでロールズは、道徳的理論であり政治的理論としては薄められていることを証明していてることになるであろうか。いや、違う。後期では、合理性を前面にだし、「重合的合意」を以って道徳的側面を剥いでいる。正義は反省的に樹立されて、合理的に、つまり重合的に樹立されるのである。
 後期では合理性機制の理論的展開を示しており、前期では道徳的規制の理論的展開を示している。これは通説に反する。前期と後期の一断面が垣間見られことになろう。あくまで、原初状態論では、前期は道徳政治論であり後期は合理的政治論である。まだ道のりは、日暮れて道遠しだが、重合的合意の正義の政治的構想について突っ込んだ議論をしようと思う。いまの段階では、前期と後期のアンビバレンスの存在可能性についてだけ述べておきたい。この文脈で「功利主義」が峻拒されて、前期ロールズは反功利主義者ともいえるであろうし、そして、原価所状態では功利主義は否定されることを垣間見るであろうことを筆者は自戒するのである。結局は、後期ロールズが前期ロールズとはつながっていないことを証明することとなるのである。どうしてロールズは、このような迷路に陥ったのか。そもそも研究者としては「倫理学」を長らく専攻していたのである。これが決定的である。ロールズが1971年TJを出版して世界の政治学は震撼したと当時は好意的に捉えられていたロールズの理論は、いまだ議論をやまないが、もう論点はつくしたろうという見方もアメリカではみられている。しかし政治理論として、道徳の関係性をきちんと整理されていないいまこそ、再度もう一度検証すべきである。これから、つぶさに見ていこうと思う。
                    
三 原初状態(二)
「公共性という条件の要点は、当事者をして、公認された十分に有効な社会生活の道                                                   
 徳的基本法として、正義の観念を評価させることにある(邦訳 1979:108頁)。公共性という観念は、ロールズの場合、道徳性と同じなのである。正義の道徳的要としての公共性は、道徳的要素としての「包括的教義」の一要素なのである。つまり、道徳が正義を評価するのである。そして原初状態では、孤立化したモナドとしての人々各人が社会生活を

するよりは、共同した方がいいのである。ロールズは、こうした論理を社会的協働として
のあり方として、つまり道徳的あり方として外挿するのである。「社会的協働は、すべての人々に、一人で努力して一人で生活するよりもいっそうよい生活をもたらすことができるから、利害の一致がある(邦訳 1979:99)。
 すなわち、道徳的な社会的協働を施行することにより、原初状態では、「万人一致」でかかる状態に参加するのである。原初状態では、どの人々にも有利性が働くと気づかせる道徳性が働くのである。前期ロールズでは、一貫して原初状態では道徳性を払しょくできていない。しかし、倫理学者・ロールズとしては、むしろこれでいいのである。決して『正義論』は『政治論』ではないのである。
「(正義の)正当化の問題は、次のようにして、可能な限りで解決される。つまり、広く、原理の選択に課すると考えられる諸条件を、もっともよく表現する初期条件の一つの解釈があればよい。その際、この解釈に従えば、同時に内省的均衡における慎重な判断を特徴づける概念に至るのである。この最も好都合な、あるいは標準的な解釈を原初状態と呼ぼう(邦訳 1979:95頁)。
 つまり前期ロールズにおける原初状態はこうだ。原初状態の当初状態において、ロールズにとって道徳的に好都合であると思われる「道徳的」な判断が反映するようなものを原初状態を基礎にして作り上げるのである。これは、ロールズの道徳判断論である。そして、ロールズはそれでよいのだと豪語する。前期ロールズは、ロールズ=道徳論なのである。主観的原初状態なのである。内省的判断はロールズの主観的判断と一致する(ロールズがそう思っている)客観的判断が相当するのである。これはよしあしの問題なのではないのである。原初状態論と名付けて、古典的社会契約論における自然状態論と名付けないのもロールズ独自自身が、こうしたユニークさを浮き彫りにしたいがためだと思われるのである。「慎重な」判断というが、その「慎重さ」は、いったいどういうように確保されるかは残念ながら曖昧である。たとえ、この難点をクリアーしたとしても、原初状態を正当化する材料は判断しかないので問題含みなのである。客観的正議論を構築するのであれば、判断の客観性をの確保の段取りの仕方を教授されたいものである。そこでようやく後期との連続性が担保される。まだまだ、原初状態についてつぶさに議論を向けようと思う。

⒋ justificationは如何にされるのか
原初状態に存在する人々は、自分が善を欲しているということはわかっていても、特定の欲求対象たる善の内容までは知らない。「私は、全体を通じて、原初状態にある人々は合理的であると仮定してきた。だが、また、彼らは自分の善の概念を知らないとも仮定してきた」(邦訳 1979:110頁)とロールズは述べる。つまりこの記述を以って合理的選択理論ととらえてはならないのである。「知識一般として」人格は「誰でも」「一位善」(権利やや人権など)を欲するから、そこでは、争いをシャットアウトするために、自己の欲求の内容をシャットアウトして、特定の人々に偏らないように「無知のヴェール」をかぶらせて、羨望という性向を無害化して公正な状態にするのである。かかる公正な原初状態では、諸人格はみな同じ状態であるから道徳的に平等である。決して道徳理論を逸脱していないのである。

したがって、原初状態は正当化されるのである。羨望がないという意味で自由であるし、善を平等に欲しているという意味で公正であるし、原初状態は正当化されるのである。したがって、こういう状態では「万人が全員一致で」原初状態に退室せず入室する動機が存在するのである。
したがって、原初状態に対して相互に無関心であり安定的であるという仮定が設定できる。万人平等・万人一致・万人平等の下では、原初状態は正当化されるのである。この状態は、極度に道徳的であるということができる。前期ロールズは、原初状態という道徳的状態を以って開始されるのである。そして、以後、原初状態では、コントロバーシャルな議論もなく、人々の平等性をもとにして一位善の獲得をおこなうために、全員にかかる善が配分されるのである。そのさい、正義の原理がまず導出されるのである。原理であるから普遍性であり、かつ不偏性でなくてはならない(邦訳 1979:112頁)。
この正義の原理こそ正義の二原理である。辞書的順位付けというオーダーの条件のもとに、第一原理>第二原理という順序で選択されるのである。第一原理は、立憲民主体制の下で選択される万人に対する平等な自由の配分の保障を徹底すること。第二原理は、機会均等の原理により、機会の平等を徹底するべきことを周知させることと格差原理によって不平等を解消する限りにおいて所得をより多く入手できること。この二つの原理によって社会連合が設定されるということが、公共性が担保されるということになるのである。いずれの原理も、きわめて公共性でありかつ道徳的である。原初状態では、徹底して道徳性が社会の正義を保守するために二原理が設定されそれが順守されるということを要請されるのである。
正義にかなう合意=内省的合意(邦訳 1979:109頁)は、前期の段階では「万人一致」の状態に下で選択される(邦訳 1979:109頁)。 のちに詳しく述べるが、この点が前期と後期の「合意」にかんする見方が違うのである。後期においては前期ほどリゴリスティックではないのである。「重なり合う」と「全員一致」とではかなり程度が異なるのである。
「平等な原初状態において、ただ一度限りで正義の概念を選択しなければならないのが(人格者)なのである」(邦訳 1979:142頁)。社会の基本構造をつくるにあたって、このことをまともに遵守して平等な形で相手に羨望の感覚を生まない限り、かかる構造は正義の社会といえるであろうし、また、社会の基本構造をつくろうとする動機は自然と形成されるに違いないのである。こうした社会は、きわめて道徳的社会である。カール・シュミットではないが、友と敵の関係性に政治社会の根幹を見据える政治理論とはかけ離れている。ロールズの政治理論においては、道徳に基礎づけられた社会が政治社会なのである。
友愛の精神を政治社会に外挿するその手法は、コミュニタリアンのアミタイ・エチオーニなどの、この種の理論に参戦している社会学者にもみられるのである。付け加えると、道徳社会を構想するコミュニタリアンをはじめとした人々は、ロールズをこっぱ微塵にやっつけている。渡辺幹雄氏はそれを空中展開として退けているが、筆者も思う。同じ土壌にロールズやコミュニタリアンはいると思うが、なぜサンデルが論難するのかが理解できないでいる。もう少し生産的な議論ができないものか。筆者も過去に誤った理論に、この議論をベースにして参加したことがあったが過ちであった。


五 後期ロールズの要約
 前期ロールズから後期ロールズに至るにつれて、reasonable(理性的)からrational(合理的)いう用語が多用されるに至った。この点を以って多くのロールズ研究者が、「ロールズは変節した」という不連続説を唱えるようになった。たしかに、PLを読んでいると、いたるところあまた、「合理的」という用語がちりばめられている。社会における合理的な代表者は、善の観念を形成し、かつ、改定する能力をもっている(PL 1993:p.305)という。あるいは原初状態の合理的な人々は、よき社会秩序a well-orderedにおいては、理性的かつ合理的な量概念を包括するような社会であり、かかる社会の住んでいるのである(PL 1993:p.306)。reasonableは正義の感覚を発揮しようという観念に結合しており、rationalは自己の善を促進しようという観念と結合しているのである。
 合理性が重要な観念としてロールズが力説してくるにおいて、一位善の獲得、さまざまに考えられた物事のリストの枚挙の重要性が考えられる(PL 1993:p.307)という。人々は、合理的であり計画を入念に行うrationalな主体として存在している。PLは、こうしたrationalよりもreasonableを辞書的順位付けにおいて下位に位置づけるのは誤謬だといいたいのである。端的に言えば、道徳政治理論を捨象して合理的選択理論としての政治理論がPLでは重要だとロールズは言いたいのである。
 秩序ある社会は、合理的な人格者たちが集まる合理的な社会である。言い過ぎかもしれないが、ロールズの良しとする社会は、ロールズ自身が峻拒する「功利主義的社会」かもしれない。そのために前期ロールズを捨ててしまうのである。渡辺幹雄氏が主張するように、前期のロールズは端的に誤った政治理論であったことを、ロールズは認めるべきである。そもそも「道徳政治理論」ということを標榜した著作は、いささかロールズがいきょするカントにもないのである。カントの場合は徹底してrationalな道徳理性であり、したがって、『純粋理性批判』が倫理学者に読まれるのである。ロールズの理論的転向は政治理論の発展として、むしろ読まれれるべきなのである。「カント=倫理学」、「ロールズ=政治学」とまとめて読めば、慧眼な読者からもわかりにくさが取れて溶解してしまうのである。
 ロールズの著作を研究している人々の多くは、左からの陣営が多い。しかし後期ロールズの代表的著作は、Political Liberalismなのである。政治的自由主義を標榜する合理的選択理論は、むしろロールズの根著作に長らく馴染んだ人々にとって、受容されやすいのである。というべきか、政治哲学という分野は、道徳や倫理をその基礎付けに外挿するとなると、理論的に矛盾が生じてしまうのである。筆者は、これまで前期-後期ロールズ連続説を無理に説の提示として豪語してきたが、端的に誤ったことをお詫びしたい。まだ、前期ロールズと後期ロールズが合理選択の観点から断絶していることを述べていくことになるが、政治哲学は宗教哲学ではない。しかしながら、ある宗教とある主教の和解はできるのである。かかる和解を可能なのは、話し合うとともに、全員一致ではなく、重なりあう合意の範囲でのみ一致し了解するである。そしてさらにこのことが可能なので「寛容」なのである。リベラリズムの位置を確固たるするには、相互了解に基づく寛容なのである。これができない人々は、独善的であり合理的一位善を確保するのも無理なのである。我々に残された道は、相手に対する思いやりである。その背景には合理性が残されていてもそれはお互いさまreciprocityなのである。
                  
六 重合的合意論序説
PLにおいて、「重合的合意の観念」がpp.133-172までボリュームのあるページが割かれている。これを解明するのでもかなりの努力と忍耐を要するが、力を注ぎたい。
 さて、ここからが「後期ロールズ」を示す論文となる。いままで筆者は、前期ロールズと後期ロールズとを連続してとらえてきたのである。しかし、やはりそこには無理がある。原初状態論が万人一致でないと正義の原理(構想)を是認できないでいる。これはあまりにリゴリスティックである。重合的合意論では「重なり合えば」すべての事項について一致する必要ない。「…政治的リベラリズムは次のようなことを仮定している。善の構想と一致する多くの抗争する…包括的教義が存在するということである。そしてそれぞれは…人格の完全な合理性と一致するということである」(PL 1993:p135)。
 ここでロールズは、善、教義、合理性など、道徳論を峻拒した。政治的理論への政治哲学の移行を示すようになったのである。公共性は完全性ではない。「政治的力は、究極的には公共的なるものの力である」(PL 1993:p.136)。公共性は、政治的力学の範囲の中で重なり合えば、最小限の政治的抗争が樹立できれば、それでよいのである。これは、功利主義的政治理論のなにものでもない。Constitutional liberal political liberalismの観念をよく示唆しているのである。道徳的教義の重なり合う合意でよい。それが政治というものである。原初状態というような歴史を超越した仮設でいつまでも政治が行えない状況はアブノーマルである。「…公共的文化の永遠なる特徴としての民主主義的社会に見いだされる…道徳的教義の多様性diversity」(PL 1993:p.136)を我々はみるのである。この自由社会は、正義の原理(前期)の硬い万人一致などに縛られてはならないのである。「…立憲体制においては(自由の価値を奉戴して)政治的なるものの領域」(PL 1993:p.137)にて自由にかつ一位善を獲得する市民なのである。唐突かもしれないがカール・シュミットのいうようにthe political(政治的なるもの)においてこそ、友と敵の自由な政治的活動が行えるのである。「立憲的諸事項と基本的な政治的構想は政治的価値」…に訴えて行われるのである」(PL 1993:p138)。
ロールズにおいては自由・立憲体制・政治的権力なとが集合して秩序ある社会が形成され保守されるのである。ロールズは言っている。「政治的権力は…強制的権力である」(PL 1993:p.139)。ロールズの政治観は、TJから確実に変わった。盛山和夫氏がいうように、ロールズには権力観がないというが、それは間違っているのである。ロールズの政治観は、重合的合意を達成し自由な政治活動を行うために、政治的価値に基づいた政治的構想を外挿してくるのである。ロールズは一変した。民主主義者から政治主義者へと、変貌したのである。それがいいのか悪いのか、価値判断はどうでもいいし、忌避すべき問題である。重要な問題は、ここで前期ロールズをあっさり捨てしまったのである。筆者の見解は端的に間違っていた。通説が正しいのである。民主主義を維持するために政治的権力が必要かどうかはいろいろ論争があるが、少なくとも最小限の権力は必要であろう。ロールズもこの政治鉄則に従うようになったのである。そこで政治的価値を丹念に掘り起こし、それらを結合して重合的合意論なるものを構想したのである。ここで重合的合意論は終わらない。まだ、オリジナル・テキストは続いているのである。それに即して執筆するのであるが、ロールズの筆致がリアリスティックになっていく様子が垣間見られることとなろう。そしてそれは立憲民主主義体制論にそぐう思考法であることを記しておく。
                 
七 重合的合意論(二)
先にも述べたがロールズのリベラリズムには、権力論がある。「…政治的権力は一体となった自由かつ平等な市民の強制的権力なのである」(PL 1993:p.139)。この強制的権力は公正としての正義であり「公正としての正義は、安定性stabilityと関係している」(PL 1993:p.140)のである。ロールズにおいては「安定性」は「秩序ある社会」を保守する権力性である。そしてかかる権力は、公正としての正義と等置されるかかる正義は、重合的合意の焦点focusなりうるものである」(PL 1993:p.143)。まとめよう。公正としての正義においては包括的教義の多元性が忌避できない。最小限度の子う性としての正義を中心として、かかる教義は重なり合う。この事態は、前期ロールズの時のように万人一致をもくろむものでもないのである。であるからこそ、PLにおいては、「重なり合う」範囲が平和であるように、政治的権力が行使されるのである。
 これが現代の公共的政治文化とロールズが言うものなのである。そしていくつもある正義の政治的「構想」は、包括的教義から独立しているのである(PL 1993:p.144)。包括的教義から独立した正義の政治的諸構想が広がれば広がるほど、笠名なりあう広さが拡大し、リベラリズムは拡大するのである。「重合江的合意は暫定協約ではない」(PL 1993:p.145)。暫定協約は、リベラリズムがしぼんでしまうような政治体制である。ロールズの場合は、平和を拡大してリベラリズムを拡大するのである。
 以前筆者が誤ったのは、リベラリズムは正義の政治的構想の外挿によってリベラリズムを拡大することをもって、重合的合意が定立されると考えたことであった。それは端的に言ってロールズの正義の政治的構想を経由してリベラリズムを構築するという目論見とは真逆だったのである。カントもミルも重合的合意をつくるときの条件として「包括性」を捨て去るのである。そしてリベラリズムは成立・定立するのである。カトリックもプロテスタントもかかる歴史的経緯に即して重合的合意にたどり着いたのである。ちょうどこの時期は、スカ用の精神が目覚め芽生えた時期なのである。16世紀から重合的合意論は始まっていたといってよいのである。それが社会の秩序に貢献したのである。くどいようだが引用しよう。「…政治的構想にかんする重合的合意は、ある種の社会的安定性と安定性にとって必要不可欠なのである(PL 1993:p.149)。前期のような全員一致を強制するようでは、リベラリズムは進まないのである。ロールズがpolitical LIBERALISMに変貌したのはまことに画期的なことだったのである。ここにおいて前期ロールズと後期ロールズの一断面が存在するのである。
 ロールズがときとして「平和主義者」と呼ばれるのはこのような脈絡においてであるのである。広島・長崎のアメリカ原爆投下を論難し、戦後謝罪を声高にするアメリカの政治哲学者がリベラリストであっても全く不思議ではないのである。リベラリズムはパシフィストによってこそ唱導されるべきものである。
 重合的合意において他者の自由を認めてもらうことこそ、自己の自由を認めてもらうことにつながら、たくましきりべリズムがここにおいて満面開花するのである。このことを横からの制約として活躍するものこそ、立憲民主主義体制なのである。本論は政治論なので立憲論と重合的合意論の関係を探求することは避けなければならないが、かかることは付記しておきたい。

八 重合的合意論(三)
重合的合意にあたって、正義の政治的構想が保守されれば、相互の包括的教義をなるべく認容するのである(PL 1993:p.150)。拠り所としての重合の「広さ」と「深み」は、原初状態のように全員一致ではなくもその時々で異なることは言うまでもない。この点が後期ロールズの利点であり画期的なことなのである。正義の政治的構想を確定するにあたり、包括的教義の相互関係を認証しなければならないのである(PL 1993:p.152)。その際に重要なキーワードは、「寛容」なのである。包括的教義のそれぞれがどの程度自己の教義内容を控えることが出きるのか、換言すれば、寛容さをどの程度取り入れることができるかを思考・討議することで、重合的合意が合理的に作り上げられるのである。
 我々が、市民社会においてこの寛容さをもって自己の奉戴する教義を子変えることがどこまでできるのか、これこそ「反省的同意」となりえるのである。政治的合意は、「政治的」であって「道徳的」ではないというロールズの言説は、一見するとトートロジーのように思えるのである。しかし、政治的なるものが、敵と友の関係性を指示しているシュミットの用語を借りれば、ロールズの場合は友と友の関係性が「政治的なるもの」ということができないだろうか。「政治的なるもの」を狭義の意味で捉えたいひとからすれば、この考え方は受容できないだろうが、政治学理論一般としてみればあながち無理はないであろう。民主的政治体制における「正義の政治的構想」は、リベラル=友愛なのである。この規範的構想は、無理なものではない。自己と他者の教義の関係性・割合を熟慮しながら、寛容ささをもって事に対処すれば、リベラルな構想は難儀ではないであろう。
 「立憲的体制を可能にする政治的協働のもろもろの徳は、とてつもなく偉大な徳なのである」(PL 1993:p.157)なのである。かかる政治的徳とは「寛容」などのリベラルな政治的価値のことを指示している。ここでは詳細には触れられないが、重合的合意は、立憲や民主体制がしっかりとしていなければ不可能ということをロールズは述べている。ここでは、政治哲学について述べるためかかる件についてはこれ以上述べないが、かかる記述は、そうした背景があってこそ述べているものである。
 「重合意的合意の深さは、政治的原理と政治的理想が公正としての正義によって描かれた社会と人格の基本的観念を利用する正義の政治的構想に基づいている」(PL 1993:p.164)のである。つまり順位は次のようである。正義の政治的構想が政治的原理や政治的理想を決定する。後者は、寛容によって得られた政治的原理であり、かかる寛容はどのようにして作動するかといえば、繰り返しになるが正義の政治的構想なのである。正義の政治的構想が徹頭徹尾循環しているのである。
 このような思考法がロールズの政治哲学におけるリベラリズムなのである。これをもってして、ロールズの転向にエールを送ったのがリチャード・ローティーなのである。夢想の政治哲学からリアリスティックな政治哲学に鞍替えしたロールズを絶賛したのがローティーなわけである。社会学者ユルゲン・ハーバーマスも一定程度評価しているし、ロールズの後期は、やはり前期と違い、熟議や熟慮を使うため、重合的合意論において一定程度評価されていいのではないか。前期ロールズを評価するのは、道徳哲学者や宗教哲学者だけになってしまい、閑古鳥になってしまったというのが実態なのではなかろうか。そのような評価は間違っていないように思われる。
                  
九 重合的合意論(⒋)
 ところで重合的合意の広さはどのように決定・規定されるのであろうか。ロールズは、立憲的合意を含む権利、自由、手続きを入手した範囲によって決定・規定されるのであると考えている(PL 1993:p.166)。権利・自由・手続きが優先priorityされて、重合的合意ができあがるのである。権利は、包括的教義の教義の権利ではなく、それから独立した市民としての権利のことを指しているのである。同じく自由は、包括的自由(ミル・カント)の教説の自由ではないのである。手続きは、あくまで政治的手続きであり、公正で立憲制に基づいたものであることは言うまでもない。ロールズの理論が手続き主義といわれるのはこのためである。手続き主義に即していれば、重合的合意の深さと広さは無限に拡大されるのである。
 権利とは政治的権利であり法によって基礎づけられた権利のことを指示しているのである。つまり権利は法的権利のことを示しているのである。自由は責任によって基礎づけられた政治的責任のことを指示しているのである。手続きは、法にのっとった、法に則した原則・原理のことを指示しているのである。これらは自然状態natural condition, the state of natureに基礎づけられた政治的、法的権能のある側面を指示している。この側面が、寛容によって浮き彫りにされない限り重合的合意の始まりもなければ、深みも広さも何もないのである。
 手続きが正統に正当化され、立憲民主体制に基礎づけられてはじめて、重合的合意がつくられるのである。政治的合意と法的合意は「寛容」によって促進される。寛容は討議と議論によって定立・成立される。このことが生まれるためには、それぞれの包括的教義の有する「全体主義」的側面を峻拒しなければならない。自由主義、権利主義、手続き主義は、全体主義と真っ向から衝突するのである。ハンナー・アーレントが全体主義を唱道するのはもっともなことなのである。政治と法と手続きが、相互に結合し、重合的合意を正当化するならば、それを以って、かかる合意は、次第に深さと広さを強めてゆくのである。
 重合的合意の「広さ」は、教義が包括性を捨象し重なり合う部分を広げていくことによって強められてゆくのである。また、重合的合意の「深さ」は、相互の「信頼」が進化すればするほど深くなるのである。リベラリズムは、こうした経路を強め、相互関係性を深めてゆくことに存在価値を広めるのである。重合的合意は、ユートピアではありえないとロールズが述べるのは、妥当性を有している。リベラリズムの利点は、反懐疑主義を政治的信条にしているところにある。信頼、相互性、寛容などがリベラリズムの政治的価値としたら、重合的合意はこれらを駆使して成立・確立するのでああることは言うまでもないのである。ロールズの重合的合意論が、現実的政治主義を標榜ひしてもよいと思われるのは、このような政治的価値に手続き的信頼性があるからである。
 包括性という全体性を峻拒してゆくことこそ、「リベラルな」包括的教義の喫緊の課題なのである。それは、重合的合意を拡大してゆくことに結合してゆくからである。繰り返しになるが、もしこれをしないと、平和としての重なり合いは、結局挫折するのである。

十.重合的合意論(五)
他方で重合的合意の成り立ちは、利益の重なり合いでもある。しかしだからといって、平和的な重合的合意を壊すようなことはしないのである(PL 1993:167)。これも包括的教義の間における安定性を得て可能となるのである。自己に関する「広い」教義や利益は、できるだけ重合的合意の確立・定立の時は、差し控えるのである。かえってそれによって、重合的合意の成立が可能になり、利益や包括的教義から得られる利益を入手できるのである。原初状態においては自己が同意できない限り入出せず退出して、いつまでたっても全員一致が得られないのである。
 その意味で重合的合意論のほうが原初状態論よりも柔軟的な論理を兼ね備えており、正義の政治的構想を得られる確率は、はるかに高いのである。この点、重合的合意論は功利主義的政治理論に限りなく近いのである。ロールズは、前期から後期に功利主義に変貌したのである。ロールズ自身がこの事態に気づいていたかどうかは疑わしいし、知っていたとしても、PLの価値が棄損されることは一向にないと思われるのである。ロールズの政治理論が功利主義に変化をとげて、筆者は進歩と評価したいのである。ロールズは、功利主義は、全体の幸福のために一人の権利を棄損するからよろしくないと述べていた。しかし事態はそうではなかったのである。
 全体の福祉=福利を最大化して、一人の受け取る権利のパイを拡大するという方向に位置を転換したのである。このような状態が功利主義といわずして何といえようか。もともとロールズの政治理論には、功利主義の機制が内在していたことがわかるのである。原初状態論では、権利が棄損している状態から万人平等の権利が保守される状態まで絶対原初状態に人々は入室しないのである。これでは立憲民主主義の思想・哲学の要請するところであるが、実際のところ、原初状態論によって、政治が執り行われていることはほとんどないのである。
 もっと柔軟に政治を執り行うためには、ある一定期間、権利の相互交換、包括的教義の包括性の相互交換、利益の相互交換を行うことによって、自己の功利と相手の功利は、質や量は違うことを容認する寛容が必要なのである。そして寛容はリベラリズムの重要な政治的価値であったのである。こうして、重合的合意論の柔軟性とそれに基づく功利主義の政治の施行がとりおこなわれることを後期ロールズのなかに見出すのである。前期ロールズから後期ロールズへの転向がさかさまに転倒したことは、実は、ロールズのPLの津用を強化するのである。柔軟性、寛容、無理のない合意など後期ロールズには政治理論・哲学においてとても重要な要素がちりばめられている。
 重合的合意は、原初状態にはない政治理論上の利点がたくさん存在する。こうしたロールズは、リアリズムに傾いたといってもよいのである。トランスツェンデンタールな哲学上の要素をすべて捨て去ったことは、まことによろしかったのである。ロールズ自身はこのことにひょっとしたら自身気づいていたのではなかろうか。だからこそ、「重合的合意はユートピアではない」と断じていることから以上のようなことがうかがえるのである。つまり逆にロールズはTJは、ユートピアであったことを自戒していたという論理が帰結するのである。そして道徳的正義論から政治的正義論への変貌を良しとしないという風潮はあまり諸著作ではみられないのである。

十一.最大多数の最大幸福-----おわりに-----
 ロールズの重合的合意論における転向説は、功利主義への転換と結合していることが分かったのである。カントばりの権利基底的なリゴリスティックな原理・原則を趣旨とする原初状態論よりは、重合的合意論のほうがリアリスティックであることも述べた。功利主義は最大多数の最大幸福を目指すものであるが、これは全体の福祉が増大すれば、個人の効用も増えると考えるものである。多くの読者は、原初状態のほうが重合的合意よりも下位に置くことは、以上の状態を考えれば、想定されることなのである。幸福論としてもロールズの正義論は、失格の烙印を押しても間違いはないであろう。
 前期ロールズにシンパシーを感じる人は、「平等な」権利を保障してくれる政府が存在するからであろう。しかし、幸福が増大する見込みが拡大すれば、権利の平等性よりは幸福論のほうに魅力を感じるであろう。最大幸福は、かかる幸福を「平等に」分配する政治理論である。これを公益主義と呼ぶ人もいる。功利主義は、ロールズが考えているよりも公共性が強いのである。公共哲学としてのPLは、功利主義一色でありながら人々の幸福の最大化を目指すのである。最大多数の効用が増大すれば、一人当たりの平均効用も拡大する。この考え方がいわゆる平均功利主義である。この考え方は、全体の福祉のために個人の権利を棄損してもいいとは考えないのである。
 かかる平均功利主義ならば、一定程度認めてもよいようなロールズの記述は前期ロールズにはあるが曖昧である。やはり後期ロールズになってから、平均功利主義を認めたといってよいのである。原初状態論と重合的合意をこれまで比較してみてきたが、幸福なる転向説として重合的合意論への変化はみなされるべきであり、通説もぐっとわかりやすいものと思うのである。重合的合意の重なり合う部分が(最大多数の)最大幸福となることが所望されるのである。改めて最後に、ありうべき誤謬はすべて筆者の責任である。ご叱正を賜りたい。

スミスとロールズ

2021-02-17 06:30:35 | 経済
果たして異なる論者でしょうか。

わたくしは、公正というタームによって示される通り、二人は正義論を展開していると思います。

『道徳情操論』をあらためて読んでそう思いました。

またロールズは功利主義者と考えてよいと思いました。

最近の論文でもそのことについて触れています。

音声を聞きながらの英文暗唱

2021-02-09 17:59:21 | 経済
NHKラジオ「英会話」の大西先生の英会話指導は、すぐれたものがあります。

イメージで、英語を話せるようになるように、講座が構成されています。

基本文を暗記して、あとは応用として、基本文の部分に英単語を外挿すればいいような文章をたくさん提示されています。

先生の講座を聞いてはや2年。

力はついてきています。

フローをつくる力、台本暗記で着実に身についています。