アオクジラ-Bluepain-

日々徒然に思ったことを書き記します。ワッショイ!

バベル

2007年05月24日 01時31分51秒 | 映画
モロッコ、メキシコ、日本を舞台に展開する
「コミュニケーションの困難さ」をテーマにした作品。

映画の上映が終わったあと
「難しかった」という声がいたるところで聞こえて
この映画と観客の間にも横たわるそれに
皮肉めいたものを感じました。

理解して欲しいという独り善がりな願望
理解することの放棄、或いは拒絶
文化の壁、言葉の壁、
あらゆる場面でもどかしさが付きまとい
それらのほとんどが望まない方向へ向かいます。

そこへ窮地に陥った時の人の愚かさが上乗せされる。
それぞれがそれぞれの望みのためだけの
理解を望みその結果それぞれが引き裂かれる。

罪を犯した少年の助かりたいという望み
妻を失いそうな男の助けたいという望み
自らの危険に不安を覚える人々の望み
誰にも理解されない痛みを抱えた少女の望み

そのどれもが一方的でもどかしい。

リチャードが「愛してる」と言うまでに
必要なあまりに多すぎる出来事や
ユセフが「助けて」と手を上げるまでに
必要なあまりに大きな犠牲や
チエコが「手紙」を渡すまでに
傷つけてきた自分自身や

コミュニケーションには代償や痛みが伴う
というそれぞれのエピソード

印象的だったのは
ストリートでメッセージソングを歌う若者の歌の
何一つチエコには届かないというシーン。

監督はどれくらい意図的にあのシーンを撮ったのだろう。

それから、冒頭の
「努力しろよ」
「努力してないと思ってるの?」
というリチャード夫妻の会話が
ありふれた日常でおこる
コミュニケーションの摩擦として描かれてて良かった。


全編通して救いのほとんどない作品の中ですが
何箇所かさりげなく救いがあって
それは言葉など必要としない
「手を繋ぐ」というコミュニケーション。

冒頭、バスに乗るリチャード夫妻が無意識に繋ぐ手。
そして同じように手を繋ぐシーンで結ばれるラスト。

言葉で繋がるには困難な心を
文字通り手を繋ぐだけで繋ぐことも出来る。
それが示されて作品が終わったことに
少し胸を撫で下ろしました。



余談、この作品が三つの物語で繋がれている理由。

それは救いで終わるシーンの少し手前。
とある刑事がとある居酒屋で焼酎を飲んでいるところで
テレビに映されるほんの小さなニュース。

とある国で起こったとある事件。
それがどんなものであったかなど
ボク達はどれほども理解してはいない。


イエモンの「JAM」が瞬間的に
脳裏をよぎりました。
深読みのし過ぎかも知れませんが。

深読みついでに
この作品の示すコミュニケーションへの姿勢は
決して知り得ないこと、知ろうとしないことを
全否定するものではなくて
それによって保たれているバランスも
多分にあるというある種、ある部分では
肯定にもとれました。

全ての痛みを請け負っていたら
人は生きていかれない。
それはそれで事実だと感じました。