唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

弑逆

2006-07-19 19:59:52 | Weblog
「しょうのねえガキだ」
「あんな奴に従っていたら、身体がもたねえ」
「わがままで、気まぐれで」

敬宗皇帝は昼はポロや角力に熱中し、夜は宮中を徘徊してキツネ狩りをする毎日だった。

しばしば若手宦官やポロ選手・力士達とバクチをしながら酒宴を重ねていた。

「もっとやれ、もっと激しくばかりだからな」
「そのくせ、ケガをしたらしらんふり」
「自分が負けたら泣きわめく、処罰する」

最初は喜んでいた宦官や選手もうんざりしていた。

数日前には夜遊びの随行をことわった宦官達が降格された。

昨日はちょっとしたことで十数人がむち打ちとなった。

「もうがまんできんぞ」
「あのガキ、やってしまうか」

もともと気の荒い単純な連中である。

そこへ
「帝にも困ったものだ、他の諸王は真面目な方々ばかりなのに」
「特に絳王はスポーツ好きだし寛容な方だ」

と王守澄等の実権派宦官達がそそのかす。

寶暦二年十二月のある夜、帝が酒宴の途中で便所に行くと、灯りが消えた。

数人の宦官や若者がよってたかって絞め殺した。

その後、若手宦官達は絳王を擁立しようと働いたが

老獪な幹部達はとっくに江王(文宗)を立てる段取りをしていた。
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避難

2006-07-19 19:32:02 | Weblog
牛僧孺は宰相であることがほとほといやになっていた。

あの皇帝ではどうしょうもない。

政務などまったくとらず、女遊びに狂い取り巻きの連中と遊び歩く。

いたるところで問題を起こし、ただひたすらあと始末の毎日だ。

そのくせ帝は僧孺のことを気に入っている。

諫言すると「そうかわかった」とはいってくれるが、なにも守らない。

この調子では自分の評判も地に墜ちそうだ。

李徳裕等の反対派は俺をあざ笑っているだろう。

そうだ、この苦労を奴らにも味あわせてやろう。

このままでは牛派はダメだという評価が定着してしまう。

鄂州に新たに武昌軍を置き、自らを節度使に任命した。

そして帝が遊びに出かける前を選んで上奏した。

ちょっと意外そうな顔をしたが、気がせいているのか

「わかった。残念だな」で許可がでた。

寶暦元年正月、帝が殺される二年前のことだった。
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