唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

僕固懐恩の涙

2006-07-02 11:37:44 | Weblog
僕固懐恩は、蛮族である鉄勒の酋長の末であり朔方軍の將として勇名をとどろかせてきた。

安史の乱には郭子儀に従い功績が多く、郭子儀が宦官に疑われて排斥されると、代わりとして副元帥となり援軍のウイグルとともに史朝義を討滅した。

しかし乱の終了とともにやはり宦官から猜疑され反乱に追い込まれてしまった。
懐恩は慰留に来た宰相裴遵慶に泣いて訴えた。

「この戦いで一門を46人もを戦死させてしまいました。しかも敗走してきた我が子を軍律のため自ら斬りました。援軍を得るために娘をウイグルにさしだし、苦しい戦いを重ねること数年、やっと乱を鎮めたのに、功を賞せられることなく、かえって叛逆者扱いをされるのはなぜですか、私が蛮族だからそのような扱いをうけるのですか」

遵慶はひたすらなぐさめ入朝をすすめたが、納得させるような方策を示すことができなかった。

しかし結局、反乱者とみなされることになり憤然として北辺に去った。

翌永泰元年に懐恩は吐蕃・ウイグルなど蛮族二十万を率い来寇したが途次に病死した。

威嚇と贈賄

2006-07-02 08:36:04 | Weblog
大暦3年幽州盧龍軍節度使[現在の北京付近]李懐仙は横暴であったため、部下の朱希彩らに殺された。
懐仙はもともと反将史朝義の部下であったが、最後に裏切って降り幽州を与えられていた。

朝廷は幽州を回復しようとして宰相王縉を節度使に任命した。

しかし縉が赴任すると、希彩らは途中の道に大軍を配置し威嚇させた。
文官の縉はただ恐懼して狼狽していたが、逃げ帰ることだけはさけなんとか幽州に入城した。

やがて諸将の謁見がおこなわれ、希彩らは極めて恭謙な態度で、多量の金帛を献上した。

縉はこれが潮時と感じて、数日後に希彩を留後[節度使代理]に任命し、献上物をさらえて立ち去った。