唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

李忠臣の諫言

2006-07-01 21:05:50 | Weblog
湖南観察使辛京杲の横領事件は悪質でしかも規模の大きいものであった。
皇帝は激怒し死刑にする決意を固めていた。

ある朝、武将仲間で宰相の李忠臣が特に拝謁を求めてきた。

皇帝は忠臣が京杲の父と親しかったことを知っているので、さては命乞いにきたなと察し「いかに宰相の願いでも許せるものではない」と身構えて待っていた。

忠臣はいかにも武臣らしく訥々と挨拶をはじめいくらたっても京杲の事など持ち出す様子はなかった。
皇帝のほうがじれて「京杲は許し難い」と先制した。

忠臣は「京杲は当然死刑です。早く刑を執行すべきでしょう」と言い放った。
これには皇帝は二の句が継げなかった。

さらに忠臣は「京杲の父は安史の乱に国に忠誠をつくしました。兄弟達も国事に死にました。名誉ある辛家の中ではあいつだけが生き残り、いまも恥をさらしています。はやく奴を処刑して辛家を絶やしてしまうべきです」

皇帝は黙然とし、やがて言った「京杲は殺さず、左遷することにしよう」。

それを聞いて忠臣は深く拝して退出していった。
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郭子儀と魚朝恩

2006-07-01 20:58:12 | Weblog
大暦年間、外軍を握る郭子儀と、親衛軍を握る宦官の魚朝恩、宰相の元載は互いに牽制しあっていた。

「宦官ずれが信用できるものですか、お行きになるのは・・・」
「少なくとも200騎はお連れください、そして予備として・・・」
 子儀の屋敷では家臣達が口々に諫めていた。

ある時、子儀は朝恩宅を訪問することになった、
載は二者の結託を懼れ、「朝恩が子儀を謀殺しようとしている」という噂を広く流させた。

しかし子儀は「皇帝の命がないのに私を殺そうとするような朝恩ではない」と言い出かけていった。

朝恩はこのような騒動を予期していなかったため、「内乱になるかもしれない、そうなったら・・・」と狼狽してなにも手がつかないほとだった。

「子儀様がおこしになると先触れがありました」

おそるおそる朝恩が門に出迎えると、数人の平服の供をつれただけの子儀が馬上でにこにこと笑っていた。

「悪い噂が流れていましたのでおいでくださるかと・・・」と朝恩
「お互い皇帝陛下を支えるものどうしですからな」と子儀
朝恩は感激し、協力を約した。
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崔寧と妾

2006-07-01 10:08:04 | Weblog
大暦年間の剣南西川節度使(現在の四川省西部)崔寧は、もともと反乱して自立した武将だが、弱気の朝廷から追認されたあとは一応忠誠を誓っていた。

大暦3年には入朝していたが、その隙に元の武将仲間の楊子琳が決起して治所である成都府を奪ってしまった。

留守役の弟はなんとか奪回を図るが、子琳は強く、四ケ月たっても成都府を回復できなかった。

それをみていた寧の妾の任氏は「あんたがけちけちしているから、兵士達が本気にならないんだよ、金はこんな時に使うもんだよ」と言い、家財を総ざらえにして強兵を募集し、それを率いて、一気に成都府を回復した。

その後寧は外敵の吐蕃の侵攻を防ぎ、長く西川に君臨することになった。
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郭子儀と墓荒らし

2006-07-01 08:29:41 | Weblog
大暦時代、副元帥郭子儀は京西で大軍を掌握していた。

ある時、子儀の父の墓が曝かれる事件が発生したため、子儀は急遽入京してきた。

世間では仲の悪い宦官の魚朝恩のしわざという噂が流れていたため、皇帝以下諸臣は子儀の怒りを懼れていた。

「もし子儀が、朝恩の罷免を要求したら」
「京師を見捨ててかえってしまったら、誰が吐蕃よりここを守る」
「父親の事だから、あの温厚な子儀様でもただではすまないな」

しかし皇帝に謁見した子儀は
「私は軍隊の掌握が十分にできず。今まで兵達は諸家の墓を暴いてきました。今回の我が家の変事はその報いでしょう」

と言って泣き、墓を収復しただけで戻っていった。

皇帝以下はほっと安堵した。

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