唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

貞觀十五~十七年 西暦641~43

2020-05-14 10:04:48 | Weblog
貞觀十五年 西暦641
-------------------------------------
正月辛巳,如洛陽宮,次溫湯。衛士崔卿、刁文懿謀反,伏誅。
唐朝の兵士[衛士]の待遇は悲惨なもので、太宗の遊幸の警備時、忍耐できず矢を射かけただけです。

四月辛卯,詔以來歲二月有事于泰山。
六月丙辰,停封泰山,避正殿,減膳。
太宗は気楽なもので封禪を企画したが、諫言されて中止しました。

十一月癸酉,薛延陀寇邊,李世勣,李大亮,李襲譽,以伐之。
十二月甲辰,李世勣及薛延陀戰于諾真水,敗之。
突厥後北邊で勢力を拡大していた薛延陀真珠可汗が子を派遣して突厥残部を攻撃しました。唐朝軍は突厥残部とこれを撃退しました。

貞觀十六年 西暦642
-------------------------------------
西突厥で内乱が起こり、安西の唐朝軍が干渉して弱体化を図りました。

狩猟に明け暮れる武断派の太子承乾と違い、魏王泰は「括地志」を修すなど、太宗の好文に媚び、太子を事ごとに誣告しました。太宗も太子に不満で廃することも考えるようになりました。

十一月丁巳,高麗東部大人泉蓋蘇文弒其王武。
高麗=高句麗の実権者蓋蘇文が、従わない王を弑殺しました。唐朝は隋煬帝の敗戦に学び、高麗とは付かず離れずの関係を築いていましたが、太宗はつけ込む余地があると考えるようになりました。


貞觀十七年 西暦643
-------------------------------------
三月丙辰,齊王祐反,李世勣討之。乙丑,齊王祐伏誅。
斉王は太宗の五男、母は隋將陰世師[唐の長安侵攻に抗戦して敗死]の子。齊州都督となった。性輕躁であった。長史となった權萬紀は札付きの諫言屋で、李靖を誣告したこともあり、祐の行動をことごとく諫め、太宗に密告した。祐は処罰を懼れて萬紀を殺して反した。唐朝軍も都督府の乱程度を鎮定するのは簡単でした。

四月乙酉,廢皇太子為庶人,漢王元昌、侯君集等伏誅丙。
丙戌,立晉王治為皇太子。
皇太子にも側近団が形成され、魏王を推す集団と激しく対立していました。太宗は魏王の策略に乗り太子を廃しました。しかし途中で魏王の策略に乗せられていることに気づき、魏王をも廃しました。そこで太宗は吳王恪[母は隋煬帝女]を太子としようとしましたが、外戚の地位を失う長孫無忌は凡庸な晉王治[太子、泰、治の三人が長孫皇后の子である]を強硬に推しました。晉王の能力を疑いながらも気弱になった太宗は無忌の強請を押し切ることができませんでした。
太宗の遣り口に不満だった君集は太子派[謀叛には武力の背景が必要ということで設定]になっていたので誅殺されました。
実際は謀叛はでっち上げで、太宗が迷走しただけだったようで、承乾も泰も殺される事はありませんでした。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 貞觀十二~十四年 西暦638~40 | トップ | 貞觀十八~十九年 西暦644~45 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事