唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

貞觀十二~十四年 西暦638~40

2020-05-13 10:03:04 | Weblog
貞觀十二年 西暦638
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二月癸亥,如河北縣,觀底柱。
太宗は平和が続き退屈になったのか河北の巡幸にでかけました。

八月壬寅,吐蕃寇松州,侯君集為當彌道行軍大總管,率三總管兵以伐之。
九月辛亥,闊水道行軍總管牛進達及吐蕃戰於松州,敗之。
おとなしくしていた吐蕃が、唐朝麾下の吐谷渾を攻撃したため討つことになりました。

北邊では突厥が滅亡したあと、薛延陀が勢力を増し、唐朝は警戒態勢に入りました。

貞觀十三年 西暦639
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二月庚子,停世封刺史。
世襲刺史制度はうまくいかず廃止することになりました。

四月甲申,中郎將阿史那結社率反,伏誅。
歸附していた突厥達の不満は増し、一部は反乱し太宗の行幸先を襲撃しました。いままでの突厥同化策を再検討する必要がでてきました。

七月庚戌,阿史那/李思摩為乙彌泥孰俟利苾可汗。
対薛延陀対策と、突厥の帰民のため、思摩を可汗として突厥の再結集を謀りました。結果的には失敗でした。

十二月壬申,侯君集為交河道行軍大總管,以伐高昌。
西域の高昌国は唐朝の力量を低く見て、どうせ遠隔地の高昌への遠征はないとみて、貿易の利を独占しようと図りました。

貞觀十四年 西暦640
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正月甲寅,幸魏王泰第。
武德九年に立太子した承乾は、正史にあるより有能で治政能力も高く、無為な太子生活に倦怠していました。弟の魏王泰はその隙を狙い太宗に取り入り、太子周辺の誣告を重ねました。自分も簒奪した太宗は不安を感じずにはいられませんでした。

八月癸酉,侯君集克高昌。
君集は長駆高昌に遠征してこれを滅ぼしました。太宗はいつもの習性で、君集の非をほじくり出し弾劾し、結果的に赦すという猿芝居をまた演じました。ただ李靖と違い君集はそれを深く恨みました。

閏十月丙辰,吐蕃贊普遣祿東贊、以請婚。上許以文成公主妻之。
吐蕃は公主の降嫁を得て、吐谷渾と同格の地位を得ました。

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