唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

貞觀十八~十九年 西暦644~45

2020-05-15 10:01:27 | Weblog
貞觀十八年 西暦644
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七月甲午,營州都督張儉率幽、營兵及契丹、奚以伐高麗。
十一月甲午,張亮,李世勣、馬周,率十六總管兵以伐高麗。
鬱屈した太宗は高句麗征討を試み始めた。親征は諫止され諸将を派遣してみました。

八月壬子,安酉都護郭孝恪為西州道行軍總管,以伐焉耆。
九月,辛卯,郭孝恪及焉耆戰,敗之。
西域では唐朝は旧高昌国に安西都護府を置き、貿易を管理しようとしたが、西突厥は焉耆国と結んで主導権をとろうとしたため、焉耆を討ちました。

十二月戊午,李思摩叛。
唐朝が支援した突厥俟利苾可汗は、薛延陀と争っていたが力量がなく、麾下の部族が反乱を起こし、可汗は唐朝に亡命しました。

貞觀十九年 西暦645
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二月庚戌,如洛陽宮,以伐高麗。
諸将の高句麗征討は進展せず、しびれを切らした太宗は親征に乗り出しました。

四月癸亥,李世勣克高麗蓋牟城。
五月己巳,平壤道行軍總管程名振克沙卑城。甲申,克遼東城。
六月丁酉,克白岩城。
已未,大敗高麗于安市城東南山,左武衛將軍王君愕死之。
勝利の連続に見えるが、実際は難戦が続き多数の犠牲者を出し成果はあがりませんでした。

九月癸未,班師。
冬季が迫り、補給も続かず、形勢不利なまま太宗は病となり撤退となりました。高句麗は唐朝軍を撃退することに成功した。当然占領地も放棄して奪回されたわけです。

九月壬申,薛延陀真珠可汗卒。
薛延陀に北邊の覇権をもたらした真珠が死に、長男[庶子]と嫡男との間で紛争が起き、長男が勝ち多彌可汗と称しました。

十一月癸未,平壤道行軍總管張文幹有罪,伏誅。
丁亥,貶楊師道為工部尚書。
十二月庚申,殺宰相劉洎。
軍事には自信があった太宗も、隋煬帝と同様の敗戦に苛立ち、腹いせとして諸臣が処罰されました。洎は太宗に謁見し、その窶れようを嘆いただけで反意ありとされました。

十二月、薛延陀侵攻夏州。
自立した多彌可汗は、太宗の高麗遠征の隙をついたつもりで侵攻しましたが、突厥中心の唐朝軍が防衛しており撃退されました。


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