唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

貞元三年 西暦787年 2

2020-03-21 10:02:40 | Weblog
閏月辛未,渾瑊及吐蕃盟於平涼,吐蕃違約、執殺會盟副使崔漢衡等。
德宗は宰相達を前に、「本日は吐蕃との和約が成立する目出度い日だ」と言い、
張延賞・馬燧は賛同したが、柳渾や李晟は不安を述べ、德宗は激怒した。
夕刻、現地より吐蕃が違約し、正使渾瑊等を捕らえようとし、瑊はかろうじて逃
れたが、多くが殺傷されたという報告入り、驚愕狼狽した德宗は京師を捨てて逃
げようとして諫止された。吐蕃の違約の原因はよくわからない。

六月丙戌,馬燧を司徒兼侍中とし罷副元帥節度使。
吐蕃との和約破綻の責任を取らされ軍權を解除された。

六月丙戌,陝虢觀察使李泌を宰相とする。
宰相張延賞の権威も失墜し、德宗は古くからの謀臣泌にたよるしかなくなった。
泌は功臣[晟や燧など]を猜疑するな、削減した地方官を復せ、屯田を始めろと
献策し認められた。これにより動揺が治まっていった。

七月壬申,宰相張延賞薨。
政策を否定され、対吐蕃策の失敗を恥じて憂死[自殺]した。

八月己丑,宰相柳渾を免ずる。
自尊心の強い德宗は、渾が失策や欠点をずけずけと批判するので嫌っていた。
卑官[王府長史]に左遷しようとしたが、泌に宰相を遇する道ではないと諫め
られ、散騎常侍に遷した。

八月、廃太子の議を李泌が諫める。
皇太子[後の順宗]の妻の母郜國大長公主[夫は名門貴族蕭升]は淫乱で、
多くの男を引き込んで乱行を重ねていると噂されていた。生真面目な德宗も
これを聞き激怒し、ついには皇太子をも疑い廃して、舒王を立てようとした。
泌は德宗の威嚇に関わらず、強諫して再調査させて太子の無罪を認めさせた。

八月、吐蕃寇青石嶺,九月寇汧陽。陷華亭及連雲堡。十月寇豐義。寇長武城。
吐蕃は外郭防衛線が崩壊した京師近郊まで深く侵攻を続けた。

九月、回紇合骨咄祿可汗屢求和親,且請婚。許以咸安公主妻可汗。
回紇と不和である現状では吐蕃防衛は困難であったが、德宗は前述のように
回紇を恨み、回紇も唐朝に対等の関係を求め、朱滔とともに侵攻するなど敵
対的な状況が続いていた。しかし李泌は德宗に和親の必要性を強く説き、回
紇も唐朝と対立していては財政的に困難であったので、親子関係で良いと妥
協が成立した。これにより吐蕃の侵攻を抑止することが可能になってきた。

十月壬辰,射生將韓欽緒[邠寧節度使游瓌の子]謀反,伏誅。
乱主は僧李軟奴であるが、身分としては欽緒が高いのでかく記載。背景はよ
くわからない。游瓌は功臣であり、功臣達の粛清が始まるのではないかと動
揺が広がり、李泌は深い追及をさせなかった。

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