唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

淮南節度使史5

2020-11-28 09:20:57 | Weblog
永貞元年[805]
◎.3月 順宗の即位により鍔は検校司空に昇格した。

元和二年[807]
◎.10月 浙西鎭海軍節度使李錡は姑息な德宗時代に長期に渡って浙西觀察使として君臨し、諸道鹽鐵転運使を兼ねることで莫大な資産を蓄積してきた。ところが憲宗皇帝の時代になると中央への利権の回収が始まり諸道鹽鐵転運使が解任され、代わりに鎭海軍節度使への昇格ということになった。錡は極めて不満であり、德宗時代の姑息な人事が忘れられず、辞任するとごねてみた。するとたちまち認められ、名誉職の左僕射への昇進という通告を受け反乱を起こしてしまった。

◎. 淮南節度使王鍔が充諸道行營招討使,内官薛尚衍為監軍,率汴、徐、鄂、淮南、宣歙之師,取宣州路進討。軍人であり南方戦線では実績のある鍔は功績を上げるチャンスとばかり張り切った。しかし李錡の無謀な反乱についていけない、鎭海将張子良、李奉遷達が蜂起し錡を捕らえてしまった。

◆.元和2.淮南節度罷領楚州.尋復領楚州
◇.升壽州団練使為都団練使領壽泗楚三州治泗州.尋廃都団練使.復壽州団練使.泗州隷武寧.楚州隷淮南

◎.鍔は学才はないが極めて吏治に通じており莫大な資産を築き上げた。

元和三年[808]
◎.9月 王鍔は入朝し盛んに贈賄して宰相への昇進をはかった。しかし諌官達が反対したためなれず、一時名誉職の左僕射となり、すぐ檢校司徒河中尹河中晉絳慈隰節度使に転じた。
◎.代わって名門貴族出身の宰相李吉甫[字弘憲]が檢校兵部尚書兼中書侍郎平章事揚州大都督府長史淮南節度使となった。憲宗の信任はあったがその治政方針が同輩とはあわず外された。但し信任の印として現役宰相格である中書侍郎は継続している[西川節度の武元衡の門下侍郎と同様]
◎. 在任中吉甫は治水開田に努めた。

元和五年[810]
◎.12月 諸道鹽鐵轉運使刑部尚書李鄘[字建侯]が檢校吏部尚書兼揚府長史充淮南節度使となった。

元和六年[811]
◎.正月 宦官や吉甫と対立していた宰相李藩や裴垍が去り、吉甫は宰相に復帰した。

◎. 鄘は硬骨な能吏で、兵略にも通じ淮西征討を妨害しようとする淄青李師道を牽制し、収斂せず軍費を貢献した。
◎. 憲宗皇帝の信任厚い吐突承璀[宦官]は一時淮南監軍に失脚していたが、中央復帰後に鄘の厳正さを評価し宰相への任用を推薦した。

元和十二年[817]
◎.10月 檢校左僕射淮南節度使李鄘は宰相となった。鄘は宦官の推薦により相となることを喜ばず、辞退し続け、13年3月に罷され戸部尚書となった。
◎. 尚書左丞衛次公が後任の檢校工部尚書兼揚州大都督府長史御史大夫淮南節度使となる。次公は憲宗皇帝の信任が厚く次期宰相と言われていたが、淮西征討には反対していた。ところが李愬が淮西を制圧したことから失脚し出された。

元和十三年[]
◎.7月 宰相李夷簡が檢校左僕射同平章事揚州大都督府長史淮南節度使となった。宰相に任用されたがその才がないと自覚し外任を求めていた。
◎.10月 前任の衛次公は歸朝の途次卒した。贈太子少保,年六十六,謚曰敬。

長慶二年[822]
◎.3月 李夷簡は辞退を求め右僕射となったが受けず、檢校左僕射兼太子少師分司となった。
◎. 守司空河東節度使裴度は河北の兵乱に際して兵権を解かれて守司徒平章事充東都留守判東都尚書省事都畿汝防御使太微宮等使となったが、その姑息さを諌官に糾弾された宰相達はあわてて、揚州大都督府長史充淮南節度使に転任させた。しかしさらに糾弾されたため宰相にもどすことになった。
◎. 財政通であるが軍國の経綸のない宰相王播が檢校右僕射兼揚州大都督府長史充淮南節度使兼諸道鹽鐵轉運使としてでることになった。
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