唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

淮南節度使史6

2020-11-29 09:20:57 | Weblog
◎. 播は赴任すると淮南が旱天で飢饉にあるにも係わらず聚斂に努めた。

長慶四年[824]
◎.4月 播は宦官達と結び諸道鹽鐵転運使として収斂し、宦官王守澄達に盛んに贈賄していたが、穆宗が崩御し敬宗が即位すると、銀青光祿大夫、檢校司空を与えられたが、御史大夫王涯に鹽鐵の權を奪われた。

◎.12月 王播は宦官や權貴に働きかけ、鹽鐵使を復することを求めた。しかし諌官は強く反対した。

宝暦元年[825]
◎.正月 清廉であった敬宗皇帝の幼稚さに呆れて宰相牛僧孺が去り、王播は兼諸道鹽鐵轉運使に復した。

◎.7月 不良少年であった敬宗皇帝は盛んに王播に賄賂をねだり、競走用のボート二十隻を莫大な金を使って作らせた。
◎. 播は収斂するだけではなく鹽鐵使として揚州の水運の整備には尽力した。

宝暦二年[826]
◎. 文宗が即位し檢校司徒に昇格した。

太和元年[827]
◎.6月 淮南節度副大使知節度事管内營田觀察處置臨海監牧等使兼諸道鹽鐵轉運等使銀青光祿大夫、檢校司徒揚州大都督府長史上柱國太原縣開國伯食邑七百戸王播が宰相兼諸道鹽鐵転運使に復帰した。
代わって元宰相の御史大夫鄒平郡公段文昌[字墨卿]が檢校尚書右僕射揚州大都督府長史同平章事淮南節度使となった。

太和四年[830]
◎.3月 文昌は檢校尚書左僕射同中書門下平章事兼江陵尹充荊南節度使に移った。
前太子賓客崔從[字子乂]が檢校右僕射揚州大都督府長史淮南節度使となった。從は牛李之党争では裴度・李徳裕派に属し、東都留守から戸部尚書となったが、牛派の宰相李宗閔に逐われて罪無くして賓客分司となるが、その人事への批判が強く、淮南節度として遇されたわけである。

◎. 從は清廉であったので雑付加税を省き、属吏の給与を公平化した。

大和六年[832]
◎.11月 崔從は鎭に卒した。年七十二歳。贈司空,諡曰貞。人望があった。

◎.12月 宰相牛僧孺が檢校右僕射同平章事揚州大都督府長史充淮南節度副大使知節度事となった。このころ文宗皇帝は李派に傾き、対吐蕃政策を巡って糾弾された僧孺は不利をさとって退避した。

開成二年[837]
◎.5月 冷遇されていた浙西觀察使李德裕が復権して檢校戸部尚書兼揚州大都督府長史充淮南節度副大使知節度使事となり、淮南節度使牛僧孺は辞して檢校司空東都留守となった。

◎. 德裕は赴任するとさっそく僧孺の吏僚を糾弾したが、文宗は取り上げなかった。

開成五年[840]
◎.9月 武宗皇帝が即位し、淮南節度使檢校尚書左僕射李德裕が宰相として任用され、李派の全盛期となった。同じく李派の宣武軍節度使檢校吏部尚書汴州刺史李紳が代わって淮南節度使となった。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 淮南節度使史5 | トップ | 淮南節度使史7 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事