唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

淮南節度使史4

2020-11-27 09:47:34 | Weblog
◎12月. 庚辰,刑部侍郎杜亞[字次公]が兼御史大夫揚州州大都督府長史淮南節度使に補された。淮南人は少游の聚斂の後、果断で能吏な亞の赴任を歓迎したが、宰相になれず不満な亞は遊興にふけった。

◆.貞元4.復領壽廬濠三州.復置壽州団練使

貞元五年[789]
◎.10月 戶部侍郎竇覦[昭成皇后の一族.8月に同州刺史より戸部侍郎]が新任の宰相竇参の推薦で揚州大都督府長史御史大夫充淮南節度副大使知節度事となる。才学はないが吏治計数に明るいとされていたが、赴任して数日で卒した。暴卒,贈禮部尚書。

◎.12月 宰相竇参は、亞が宰相に任用されることを懼れて亞を東都留守畿汝州都防御使に遷した。

◎.12月 尚書右丞杜佑/祐[字君卿]が檢校禮部尚書兼揚州長史淮南節度使となった。佑は名門貴族で嶺南節度で能政で聞こえていた。彼は母喪により辞退したが許されなかった。

◎.貞元年間、奉天の変によりすっかり自信を失った德宗皇帝は、ひたすら姑息な人事を行い安寧を求めた。そのため各節度使は長期在任し、卒したときも事前に就任していた次席の行軍司馬が昇進するという安全策をとっていた。佑は検校刑部尚書、検校右僕射と昇格していった。

貞元十六年[800]
◎.5月 巨大な淄青節度から漕運の経路を防衛し、睨みをきかしていた徐泗濠節度使張建封が卒した。名目上虔王諒を大使とし、後任に文官の行軍司馬韋夏卿を副大使知節度事に任じたが、牙軍は建封の子愔を擁立した。そこで唐朝は淮南節度使杜佑に平章事を加え徐泗濠節度使事を兼任させ愔を討とうとした。

◎. ところが淮南將孟准は敗北し、泗州刺史張伾軍も大敗したため、弱気になった唐朝は、愔を起復驍衛將軍兼徐州刺史御史中丞本州團練使知徐州留後として認め、泗濠観察使を置いて佑に兼任させることとした。愔は自立に成功したが泗濠二州を切り離されたため財政的に困難となった。

◆.貞元16 廃徐泗濠三州節度使.未幾置泗濠二州観察使隷淮南.徐州領本州留後

◎.佑は名門貴族の出身であり、治政は幕僚達に任せていたため、内部抗争は激しく德宗にすらその状況が知られるようになっていた。

◆.貞元16.置舒廬滁和四州都団練使隷淮南

貞元十八年[802]
◎.10月 杜佑は中央に復帰しようとして盛んに贈賄し交代を求めた。刑部尚書王鍔[字昆吾]がそれに応じて格下の淮南副節度副使兼行軍司馬への赴任を希望した。王鍔は軍人上がりだが極めて能吏であり、富裕な淮南節度を熱望していた。

貞元十九年[803]
◎.3月 莫大な富を携えた杜佑は入朝し、皇帝以下にばらまいて檢校司空同中書門下平章事兼太清宮使として念願の宰相となった。王鍔もまた昇進し檢校尚書右僕射兼揚州大都督府長史淮南節度使となった。

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