唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

大暦九~十年 西暦774~5年

2020-04-14 10:00:18 | Weblog
九月、幽州節度使朱泚入朝,庚子,至京師,対吐蕃防衛に就く。
泚は幽州の精兵五千を引き連れ入京、河北の藩鎭の入朝は最初であり代宗は感激して優遇した


[關東の諸鎭情勢]
・幽州 朱泚の入朝後は滔が代理、親唐朝姿勢だが遠隔地。北邊防禦の常に強い軍事態勢をしいていた。また蕃夷・朝鮮との貿易が盛んでありそれなりに豊かであった。
・成德 李寶臣が旧同僚とともに経営。蕃夷を中心とした騎兵が充実し、財政的にも安定していた。
・魏博 田承嗣は安史の仲間には基盤が弱く、そのため厳しい徴兵を行い、強力な歩兵中心の牙軍を形成した。そのため財政的には苦しかった。
・相衛 薛蕚が継承したが統制はとれず不安定であった。
・淄青 李正己の統治が徹底してきて安定していた。
・汴宋 田神功が亡くなり、弟神玉が留後として継承したが不安定であった。
・澤潞 李抱眞が留後として弓隊を中心に軍備を充実させていた。
・河東 薛兼訓が統治していたが顕著な情報は無い。

大暦十年 西暦775年 1
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正月丁酉,昭義兵馬使裴志清逐留後薛萼,帥其衆歸承嗣。
財政難で兵力過剰な魏博田承嗣は相衛節度を併合しようとして、旧知の志清を唆して反乱を起こさせた。無能な蕚は鎭を棄てて遁走した。
たちまち承嗣は相衛磁洺四州を取った。

正月乙卯,西川節度使崔寧奏破吐蕃數萬于西山,斬首萬級,捕虜數千人。
崔寧が有能な所をみせたわけである。実際の所は不明だが、劍南への吐蕃侵攻が阻止されるようになったのは確かである。

二月、河陽三城で軍乱、逐使常休明
休明が軍士に配慮しなかったことから起こった軍乱で、監軍が慰撫した。当然承嗣の指嗾はある。河陽三城は小鎭であるが黄河の渡河点に置かれた要地である。

三月甲午朔,陝州軍亂,奔觀察使李國清。
國清は対処できず、ひたすら將士に媚びて逃亡した。ところがちょうど淮西節度使李忠臣が兵を率いて入朝の途次にあり、その威力を懼れて將士は乱を収めた。

四月乙未,河東、成德、幽州、淄青、淮西、永平、汴宋、河陽、澤潞諸道發兵、魏博を討つ。
唐朝の態勢はガタガタだったが、撤兵せよとの命令を承嗣が無視したことから、やむをえず討伐することになった。魏博周囲の諸鎭はこぞって討伐に参加することになった。

五月乙未,承嗣將霍榮國以磁州降。
丁未,李正己攻德州,拔之。
李忠臣統永平、河陽、懷、澤步騎四萬進攻衛州。
承嗣は孤立するとは思っておらず、周囲全面からの攻撃には麾下が動揺した。取ったばかりの磁州、淄青に近い德州が失われ、淮西から李忠臣が北上してきた。

六月辛未,田承嗣遣其將裴志清等攻冀州,志清以其衆降李寶臣。
甲戌,承嗣自將圍冀州,敗北して而遁。
北方成德方面でも魏博軍は不振だった。

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